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コラム倉庫 2009〜10年分(平成21〜22年)


◆一気読みコーナーはここをクリック◆
来年は (2010.12) 師走の候となりました。本年も当サイトをご覧頂き、誠に有り難うございました。いよいよ来年は、浄土宗...
戒名のこと―「麗峰院」 (2010.11) ある日のこと。電話が鳴りました。「仏教情報センターから紹介され、連絡しました。K市に住んでいます...
異聞 蜘蛛の糸(後) (2010.10) ―承前―「カンダタさん、カンダタさん」カンダタは、耳もとに自分の名を呼ぶかすかな声を聴きました。...
異聞 蜘蛛の糸(前) (2010.09) ある日の事でございます。お釈迦さまは、極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶらお歩きになっていらっしゃ...
夏の終わりに (2010.08) お寺にとって夏は多忙な季節。お盆やお施餓鬼などの行事が目白押しとなるからです。お盆のお参りに檀信...
私と仏教 (2010.07) 誰しも人生を生きていれば、途方に暮れてしまうような経験を一度か二度はするでしょう。これは以前、私...
柿公窯訪問 (2010.06) 今月はやや趣向を変えて、写真を幾つか掲載したいと思います。5月10日に茨城県高萩市の柿公窯(しこ...
津末玄夫氏のこと (2010.05) 去る4月12日、北里大学で長く教鞭をとられた津末玄夫氏が79歳で逝去されました。氏は私の母の従兄...
浄土宗の開宗 (2010.04) 浄土宗をお開きになった経緯について、法然上人が語られたお言葉が残っています。以下にご紹介するのは...
苦しみについての教え(後) (2010.03) (先月よりつづく)

「そして…この話には続きがあるんだ。」和尚さんは、また話し始めました。...
苦しみについての教え(前) (2010.02) 仏教を学びたい、という若者が和尚さんのところにやって来ました。「ほう、それは感心だね。で、今日は...
年頭にあたって (2010.01) 新たな年を迎えました。本年も、林海庵ならびに当サイトを宜しくお願いいたします。『法然上人行状絵図...
三つの死 (2009.12) ある男が、この世の長い間のつとめを終えて、彼岸の世界へと旅立ちました。長い間、と言いましたが、振...
母を送る (2009.11) 私ごとですが、10月6日に母が浄土に旅立ちました。母は一人暮らしで頑張っておりましたが、今年の初...
あるご相談より (2009.10) 先日頂いたメールです。「今年の夏に、夫を亡くしました。仏壇のことについて悩むうちに、こちらのHP...
「仏事には疎(うと)くて…」 (2009.09) と、おっしゃる方々―心配ご無用です。林海庵の檀信徒は、ほとんどがそういう皆さんです。ここは新しい...
お施餓鬼とお盆─施しの心 (2009.08) その方の職業はそば屋さんです。「ときどきボランティアで、老人ホームに行きます。皆さんの目の前でそ...
恵心僧都(えしんそうず)念仏法語 (2009.07) つい先日のこと、たまたまお会いした天台宗のご住職に教えて頂きました。あわてて筆記したものですが、...
千の風―返歌 (2009.06) 私の誕生を祝わないで下さい私はいま生まれたのではありません母のお腹の中で夢を見ていたのですその前...
崇敬の心 (2009.05) 自分より高い存在に礼拝する─これが宗教の基本です。礼拝する対象が自分よりはるかに高い存在である、...
映画を見ました (2009.04) 映画「おくりびと」─評判通りの優れた作品で、感動しました。僧侶の立場で観ますと、余計に臨場感とい...
法然上人の物語 (下) (2009.03) 法然上人の胸の内にあった唯一の希望─それは、阿弥陀仏の極楽浄土に救いを求める、という教えでした。...
法然上人の物語 (上) (2009.02) 比叡山に登った法然上人の胸の内には、いつも二つの問題が巡っておりました。それは他でもありません、...
年頭にあたって (2009.01) 新たな年を迎えました。本年も林海庵ならびに当サイトを宜しくお願いいたします。元旦の修正会では、法...



 一気読みコーナー 
※時間の逆順になっています(新しいものほど上)

2010.12来年は

師走の候となりました。
本年も当サイトをご覧頂き、誠に有り難うございました。
いよいよ来年は、浄土宗を開かれた法然上人の800年忌(大遠忌)を迎えます。

法然上人は長承二年(1133年)美作の国、現在の岡山県に生まれました。
9歳にして父を亡くし、父の遺言に従って出家します。のち13歳で比叡山に登り、非凡なる学才を示しますが、それに飽き足らず、隠遁してさらなる求道を続けられました。
43歳の時に、阿弥陀如来本願の真実をさとり、浄土宗を開かれます。以来亡くなられるまで、もっぱらお念仏による救いの道を広められました。
建暦二年(1212年)1月25日、弟子らの見守る中、80年のご生涯を閉じられました。お顔色は鮮やかで、微笑むようであった、と伝えられます。

不世出の大宗教家─その800年忌という大きな節目です。その時に出会えることの貴重さは喩えようもありません。
林海庵の属する東京教区では、五重相伝会(浄土宗の教えを、五段階の学びを通してお伝えする)、別時念仏会(木魚に合わせて長時間お念仏を称える)の推進や、法然上人のお像の製作、念仏行脚といった事業・行事が進められています。(当庵の御忌法要は左記の通りです)

記念すべき年を迎えるまで、もうあとわずかです。■


2010.11戒名のこと―「麗峰院」

ある日のこと。電話が鳴りました。
「仏教情報センターから紹介され、連絡しました。K市に住んでいます。
家内の病が重く、あまり長くないと思われます。何かのときには、葬儀をお願いできますか。」
Tさんと名乗られました。
「…はい、分かりました。ご心配なく。お大事にどうぞ。」
それからはいつでも電話に出られるように、夜は枕元に電話の子機を置いて休みました。携帯電話を持っていなかったので、外出したときは寺に頻繁に電話を入れます。(今から9年前のことでした。)
当時私は、浄土宗の開教使としての活動を始めるために都下稲城市に転居し、すでに半年が過ぎていました。最初の拠点としたのは、仏間を作れる間取り、ということで選んだ公団のマンション。表札に「林海庵」と出してはいましたが、外見は集合住宅の一室そのままです。
引っ越して半年間、開教の準備はしていたものの、実績はほとんどありません。勤務先であった港区の心光院に通勤し、合間のボランティア活動など、以前と変わらぬ生活でした。宗務庁も、開教使の制度作りの真っ最中で、施策が実質的に動いてゆくのはまだまだこれから、という状態でした。
「この地域には浄土宗のお寺が少ないので、宗門の施策で新しいお寺を開くことになりました。お寺としてはまだ整っておりませんで…」
と、現状をそのままTさんに話します。それでも宜しければ、有り難くお受けさせて頂きます─と。Tさんは理解して下さいました。私が在家から僧侶になったということも、高く評価して下さいます。
奥様はいっとき小康もありましたが、願いかなわず、ついに旅立たれることとなりました。行年56歳。
夫婦の絆や家族の間の思いやりは、ご夫婦ご家族にそれぞれ固有のものです。あたりまえのことです。しかし、Tさんの奥様に対するお気持ちには、実に心打たれるものがありました。何と申したらよいか分かりませんが、呆然とされているそのご様子は…まったく私も言葉を失いました。
透き通るような、実に美しい死に顔でした。奥様もTさんも、二人のご子息も、できることすべてを尽くされたに相違ありません。
私にあるのは、林海庵で初めての葬儀を勤める、という大役でした。
通夜式(または枕経)のなかでは、「授戒」といって故人に正式の仏弟子におなり頂く儀式を勤めます。そして、まことの仏弟子となられた証(あか)しとして、仏弟子としてのお名前=戒名をお授けします。故人にまず仏弟子におなり頂き(授戒)、故人を仏弟子として阿弥陀さまのみ手にお預けする(引導)─これが葬儀における導師のつとめです。
どのようなお戒名をお授けしたらよいだろうか…。奥様と対面したときに浮かんだのは「麗」という字でした。またTさんのお話によると、奥様とは同じ大学のワンダーフォーゲル部で知り合われたとのこと。

「夫婦の契り、一世の縁にあらざるの理(ことわり)。輪廻の果てまでも、手を取りてあい往かん」

「麗」。瞑目すると、2頭の鹿が連れ立って山奥に分け入ってゆく後ろ姿が、はっきりと見えた─ように思いました。

お授けした院号は「麗峰(れいほう)」。
12月5日に9回目のご命日を迎えます。

願わくは、阿弥陀如来の御もとにありて、仏道を増進されんことを。■


2010.10異聞 蜘蛛の糸(後)

―承前―
「カンダタさん、カンダタさん」カンダタは、耳もとに自分の名を呼ぶかすかな声を聴きました。
ハッとして視線をそちらに向けると、薄明かりの中に、小さな小さな金色の蜘蛛が一匹浮かんでいます。
「カンダタさん。私の言うことをよく聞いて下さい。」
どうやら、その蜘蛛が話しているようです。
「私はその昔、あなたに命を助けて頂いた蜘蛛です。何とか恩返しをしたいと思っていたのですが、その機会がありませんでした。かの尊いお方、お釈迦さまが私の心を汲み取って下さり、この糸を垂らして下さったのです。でも、もうじきこの糸は切れてしまいます。あんなに沢山の人たちの重みを支えることはできません。しかし、あなた一人でしたら大丈夫です。私の糸はこの糸よりも、もっともっと細いものですが、あなた一人だけでしたら、極楽へ運ぶことができるはずです。だから、私の身体をしっかりとつかんで下さい。」
カンダタは、しばらく考えました。
「そうか。そいつは有り難い。でも、お前の身体をつかんだら、お前は死んでしまうではないか。」
「いえ、いいのです。もとはといえば、この状況は私が作ったものです。私が余計な思いを起こしたばっかりに、カンダタさんにいらぬ希望と、苦しみを与えてしまいました。あの人たちについても同じです。だから、私のことは心配しないで下さい。さあ、早く。この糸は切れてしまいます。」
まさにそのときでございます。今まで何ともなかった初めの糸が、急にカンダタのぶら下がっている所から、プツリと音を立てて切れました。ですからカンダタもたまりません。あっと云う間も なく風を切って、独楽(こま)のようにくるくるま わりながら、見る見るうちに暗闇の底へ、まっさかさまに落ちてゆきます。
さきほどの金色の蜘蛛は、必死になって自分の糸を伸ばします。落ちてゆくカンダタのそばに身体を寄せ、声を振り絞りました。
「カンダタさん、早く。早く私の身体をつかんで下さい。」
カンダタは言いました。
「いや、これもきっと俺の運命なのだろう。それだけの悪いことをしてきたからな。この上、お前の命を奪うわけにはいかないよ。俺はこの運命を受け入れよう。」
カンダタはくるくると回りながら暗闇の底に吸い込まれて行き、だんだんと意識も遠のいてゆきました。

やがて、ぼんやりとカンダタの意識が戻って参りました。そばに池があります。「そうだ、俺は血の池に戻ってきたのだ。またあの繰り返しが続くのか。」
しかし、少し様子が変です。血の匂いにむせるどころか、たいそう好い香りが漂っています。池を見ると、誠に透き通った水晶のような水で、真っ白い大輪の蓮の花がそこかしこに咲いています。カンダタは身体を起こし、池の中を覗いてみました。蓮の葉の間から底の方を覗いてみるとその暗い部分は蠢いていて、さらによく見るとそこに血の池やら針の山やら地獄の様子が鮮やかに見て取れました。
「すると…ここは地獄ではないのか」
カンダタはハッと顔を上げました。そばに人の気配を感じたからです。
見ると、背の高い、いかにも高貴な様子の方が歩いておられます。
「あなたは…」
その御方は、歩みを止め、カンダタの方をご覧になりました。その瞳の色にはこの上も無く深みがあり、天も地も、すべてを包み込むかのようでした。その途方も無い御目で、しばらくカンダタの方を見ると、視線を前に戻し、また歩み始め、やがて行ってしまわれました。 蓮池の蓮の葉には、金色の小さな小さな蜘蛛が巣を張り巡らしているところでした。真っ白な蓮の花の真ん中にある金色の蕊(ずい)からは、何とも云えない好い匂いが、絶え間なくあたりへ溢(あふ)れて居ります。極楽ももう午(ひる)に近くなったのでございましょう。■


2010.09異聞 蜘蛛の糸(前)

ある日の事でございます。お釈迦さまは、極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶらお歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂いが、絶え間なくあたりへ溢れて居ります。
極楽は丁度、朝なのでございましょう。
やがてお釈迦さまは、その池のふちにお佇みになって、水の面をおおっている蓮の葉の間から、ふと下の様子をご覧になりました。この極楽の蓮池の下は、ちょうど地獄の底に当たって居りますから、水晶のような水を透きとおして、三途の河や、針の山の景色が、丁度のぞき眼鏡を見るように、はっきりと見えるのでございます。
するとその地獄の底に、カンダタと云う男が一人、ほかの罪人と一緒にうごめいている姿が、お眼に止まりました。このカンダタと云う男は、人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大泥坊でございますが、それでもたった一つ、善い事を致した覚えがございます。と申しますのは、ある時この男が深い林の中を通りますと、小さな蜘蛛が一匹、路ばたを這って行くのが見えました。そこでカンダタは早速足を挙げて、踏み殺そうと致しましたが、「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命をむやみに取ると云う事は、いくら何でも可哀そうだ。」と、こう急に思い返して、とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやったからでございます。
お釈迦さまは地獄の様子を御覧になりながら、このカンダタには蜘蛛を助けた事があるのをお思い出しになりました。そうしてそれだけの善い事をした報いには、 出来るなら、この男を地獄から救い出してやろうとお考えになりました。幸い、そばを見ますと、翡翠のような色をした蓮の葉の上に、極楽の蜘蛛が一匹、美しい銀色の糸をかけて居ります。お釈迦さまはその蜘蛛の糸をそっと御手にお取りになって、玉のよう白蓮の間から、遥か下にある地獄の底へ、まっすぐにそれを御おろしなさいました。

こちらは地獄の底の血の池で、ほかの罪人と一緒に、浮いたり沈んだりしていたカンダタでございます。何しろどちらを見ても、まっ暗で、たまにその暗闇からぼんやり浮き上っているものがあると思いますと、それは恐ろしい針の山の針が光るのですから、その心細さと云ったらございません。その上、あたりは墓の中のようにしんと静まり返って、たまに聞えるものと云っては、ただ罪人がつくかすかなため息ばかりでございます。これは、ここへ落ちて来るほどの人間は、もうさまざまな地獄の責め苦に疲れはてて、泣き声を出す力さえなくなっているのでございましょう。ですからさすが大泥坊のカンダタも、やはり血の池の血に咽びながら、まるで死にかかった蛙のように、ただもがいてばかり居りました。
ところがある時の事でございます。何気なくカンダタが頭を挙げて、血の池の空を眺めますと、そのひっそりとした暗闇の中を、遠い遠い天上から、銀色の蜘蛛の糸が、まるで人目にかかるのを恐れるように、一すじ細く光りながら、するすると自分の上へ垂れて参るではございませんか。カンダタはこれを見ると、思わず手を打って喜びました。この糸に縋りついて、どこまでものぼって行けば、きっと地獄からぬけ出せるのに相違ございません。いや、うまく行くと、極楽へはいる事さえも出来ましょう。そうすれば、もう針の山へ追い上げられる事もなくなれば、血の池に沈められる事もある筈はございません。
こう思いましたからは、 早速その蜘蛛の糸を両手でしっかりとつかみながら、一生懸命に上へ上へとたぐりのぼり始めました。元より大泥坊の事でございますから、こう云う事には昔から、慣れ切っているのでございます。
しかし地獄と極楽との間は、何万里となくございますから、いくら焦ってみた所で、容易に上へは出られません。ややしばらく昇るうちに、 とうとうカンダタもくたびれて、もう一たぐりも上の方へは昇れなくなってしまいました。そこで仕方がございませんから、まず一休み休むつもりで、糸の中途にぶら下がりながら、遥かに目の下を見おろしました。
すると、一生懸命にのぼった甲斐があって、さっきまで自分がいた血の池は、今ではもう暗闇の底にいつの間にかかくれて居ります。それからあのぼんやり光っている恐ろしい針の山も、足の下になってしまいました。この分でのぼって行けば、地獄からぬけ出すのも、存外わけがないかも知れません。カンダタは両手を蜘蛛の糸にからめながら、ここへ来てから何年も出した事のない声で、「しめた。しめた。」と笑いました。ところがふと気がつきますと、蜘蛛の糸の下の方には、数限りもない罪人たちが、自分ののぼった後をつけて、まるで蟻の行列のように、やはり上へ上へ一心によじのぼって来るではございませんか。カンダタはこれを見ると、驚いたのと恐ろしいのとで、しばらくはただ、莫迦のように大きな口をあいたまま、眼ばかり動かして居りました。自分一人でさえ切れそうな、この細い蜘蛛の糸が、どうしてあれだけの人数の重みに堪える事が出来ましょう。もし万一途中で切れたと致しましたら、折角ここまでのぼって来たこの肝腎な自分までも、元の地獄へ逆落としに落ちてしまわなければなりません。そんな事があったら大変でございます。が、そう云ううちにも、罪人たちは何百となく何千となく、まっ暗な血の池の底から、うようよと這い上がって、細く光っている蜘蛛の糸を、一列になりながら、せっせとのぼって参ります。今のうちにどうにかしなければ、糸はまん中から二つに切れて、落ちてしまうに違いありません。
そこでカンダタは大きな声を出して、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は俺のものだぞ。お前たちは一体誰にきいて、のぼって来た。下りろ。下りろ。そんなに重みをかけたら、糸が切れてしまうではないか。」と喚きました。「おい、お前たち。俺の声が聞こえないのか。昇ってくるんじゃない。」
そのときです。
「カンダタさん、カンダタさん」カンダタは、耳もとに自分の名を呼ぶかすかな声を聴きました。

―つづく―■


2010.08夏の終わりに

お寺にとって夏は多忙な季節。お盆やお施餓鬼などの行事が目白押しとなるからです。
お盆のお参りに檀信徒のお宅を回っておりますと、色々なことが起こります。

あるお宅では、お子さんお孫さんが勢揃い。お経が終わってお茶をご馳走になっていると、子供たちから質問が飛び出します。
「そこのところ(と言いながら、私の袖を指差す)は何というのですか。」
「袖のこと? 袂(たもと)とも言うけど。」
「そこって何を入れても良いのですか。」
「ええと…例えば?」
「筆箱とか。」
「(この子はどういう筆箱を使っているのだろうか。とりあえず)うん。構わないよ。」
せっかく質問をしてくれたので、少しおまけをつけます。
「これはインドに由来すると思うけどね。右手を清らか、左手を不浄、という考え方があるんだ。だから、右の袂には不浄なもの、例えばハンカチ等を入れる。左手で出し入れするわけだからね。左の袂には清浄なものを入れるんだ。」
このあたりになりますと、大人たちも感心した顔つきで聞いてくれます。
「そういえば、仕事でスリランカに行ったことがあるのですが、現地の人は食事を右手でしていましたね。」
さて、次の質問。
「木魚とおりんは、どう使い分けるのですか?」
うーむ。慣れ過ぎて、半ば無意識に使い分けていたことに気づきます。
ひと呼吸置いて、答えることができました。
「おりんは、主に短いお経に使うんだ。短いお経の節目節目に入れる。どこで打つかが細かく決まっていてね。木魚の方は、長いお経のときに使う。大勢のお坊さんが長いお経を読む時は、木魚のリズムで声を合わせるんだ。お念仏を長く称えるときもそうだね。木魚に合わせる。そうすると、大勢で称えても声がずれてこないだろう。」
そして、おまけ。
「浄土宗の木魚の使い方は独特でね。合間打ちというんだ。先ほどのお経のとき気がついたかな。こんな具合だよ。(と叩いてみせる)。」
「へえー」
と感心してくれる子供たち。丸い目の可愛いこと。
別のお宅では、高校生からの鋭い質問がありました。
「それ(私の持っている朱扇<しゅせん>=扇子の一種で、朱色の骨に白い面を張ってある=を指差す)って、何に使うんですか。」
うーむ。確かに見慣れない人にとっては気になるだろう。当たり前のように持ち歩いているが、自分は何に使っているのだろう。
「暑い日にこうやって扇ぐためかな。(と広げて扇いでみせる)」
いや、それはたくさんある用途の一部に過ぎません。扇ぎながら考えます。
「大事なものを運ぶときや受け渡しするときにも使う。小さなお盆の代わりだね。また、畳に直接置いてはならないものーお数珠や袈裟、経本を畳に置かざるを得ないときに、この朱扇を下敷きにするんだよ。」
「儀式の中で使うこともあるし、置き場所にもこういう場合はこう置く、と決まりがある。それに、何といっても朱扇があると手の納まりが良い。両手が遊んでふらふらしている、ということがなくなるんだ。朱扇を持っているということが一つの修行、と言えるかも知れないね。」
と話しながら、ああ、本当にそうだな、と気づきます。

あるお宅では、ご高齢の未亡人がこう言われました。
「お盆のお経を頂いて、主人もさぞかし悦んでいることでしょう。いくら心に想っていても、(こうして)形に表さなければ、何も伝わりません。それは何もしないのと同じですから。」
お身体は少し不自由のご様子でしたが、品格にあふれた老婦人のお言葉は、胸に深く残りました。■


2010.07私と仏教

誰しも人生を生きていれば、途方に暮れてしまうような経験を一度か二度はするでしょう。
これは以前、私自身に起こったことです。
大学3年の終わりの頃でした。当時、卒業後の進路に迷い、精神的に相当混乱していました。大学に入った頃はマスコミに進もうと決めており、自分なりに準備をしておりました。2年間ほどは大学の授業にもほとんど出ず、テレビやラジオの番組構成のお手伝いをしていました。それなりに充実した日々でしたが、やはりプロがしのぎを削る世界、いわば生き馬の目を抜くような世界ですから、学生である私にとっては誠に厳しい世界に映りました。この世界で将来も自分はやってゆけるのだろうか... ただのアルバイト、という気持ちでやってきたわけではなく、将来をこの世界にかけよう、という意気込みで取り組んでいたので、自信が揺らぎ、やがてそれを失ってゆく、というのは当時の私にとって大変な苦痛でした。
とにかく苦しい。精神的に苦しいだけでなく、実際に呼吸が息苦しい訳です。ゆったりとした、深い呼吸ができない。こんなにつらいのだったら、もう生きてゆけない、そこまで思いました。それで、あるとき自分の中でこう考えたのです。
今、自分は進路のことで苦しい思いをしている。だけど、この「自分」って一体何だ? 身体の真ん中に居座っているようなこの「自分」って一体何だろう。「自分」でいることがこんなにつらいのなら、いっそのこと「自分」でいることをやめてしまったらどうだろう。
身体を傷つけようというようなことは思いませんでしたが、精神的に自分というものをすべて放り出してしまったらどうなるだろう...。
これは、ある日の朝方のことでした。椅子に坐り、背もたれに上半身を預け、目を閉じました。心の中で、どんどん下の方に落ちてゆく自分自身がいます。高い崖の上から、下の方に、吸い込まれるように、どんどん落ちてゆく。頭の方から真っ逆さまです。どうなるのだろう、ああ、自分はこのまま死んでしまうのだろうか。そのとき、地べたに手のひらが触れました。というか、触れた感じがしたのです。へえ、心の中にも底があるのか。次の瞬間には身体が地べたに激突するのだろうなあ...これらは、すべて白昼夢のように起こっていることなのですが...。
しかし、身体が地べたにぶつかることはありませんでした。反対に、上の方に向かって吹き上げる水の激流に巻き込まれたようになりました。次にハッとしたときには、自分ははるか上の方、空に向かって高く突き出た岩の上に坐っています。身体は何ともありません。心も平安そのもので、深く満たされている。先ほどのまでの出来事がまるで嘘のようです。一体何がどうなったのか分かりませんでしたが、とにかくつい先ほどまであったつらさ、息苦しさ、落ち込んだ感じはきれいサッパリなくなっています。そして、このような気づきが湧き上がってきたのです。
「自分は今まで、色々なことを学び、自分自身のものの見方考え方を作り上げてきた。そして自分に向いた進路を選び定めようとしていた。いや、そのように思い込んできた。だが、ちょっと待て。自分自身のものなんて、一つもないじゃないか。他人様の価値観、他人様が『これが良い』『これが正しい』と言ったことや、他人が『人生かく生きるべし』と言ったことを、疑いもせずに自分自身の考え方だと思い込んできた。ただそれだけのことじゃないか。」
とこう気づいたわけです。あまりの愚かさに、笑いがこみ上げてきました。頭の周りに、むくむくと明るい輝きが広がってきました。
「何だ、馬鹿馬鹿しい。何も問題なんかないではないか。最初から何も問題がないところに、自分で勝手に問題を作り出していただけだ。」
そして周りを見渡すと、何か様子が変です。部屋の中にあるありふれたものが、以前と違っているのです。椅子、机、壁、ごみ箱... すべてのものが、生き生きと輝いて見えます。本当にまるで生き物であるように感じられるのです。
「いやこれは大変なことになってしまった。気づいてはいけないようなことに気づいてしまったのではないだろうか。開けてはいけない扉を開いてしまったのではないだろうか」と思いました。
それからしばらくは、言葉がうまく出なくなりました。本当に無口になり、何か言葉を言うと、言った端からそれが嘘に聴こえてしまうのです。「僕は...」と言いかけると、(今、僕、という言葉が聴こえたけど、「僕」って何だ? 「僕」と言うことに意味があるのか?)という思いがすぐに追っかけて起こる、という具合です。「明日は大学に行く」と言っても、何か自分とは関係のない、人ごとのように聴こえる。「明日」という言葉も「大学」も「行く」というのも、何と遠く虚ろに響くことか。たった今、自分の口から出た言葉なのに。
このような状態が3ヶ月くらい続きました。自分で話すことが難しいくらいですから、勉強なんてさっぱりダメです。特に困ったのは、「自分の考えを述べよ」というような問いかけです。「そんなものありません」と書く訳にはいきませんから。
一方、音楽を聴いたり、映画を観たりというのは大丈夫でした。自分では、これは病気ではない、と思っていましたが、まったく普通ではない。
その頃から、仏教の本を読み始めます。
そうすると、どんどん自分の中に仏教の言葉が入ってくる。理解できるような気がするわけです。たとえば重々無尽縁起、という説がありまして、すべてのものごとはお互いに重なり合って、相互に尽きることなく関わり合っている、という考えです。それはわざわざ言うまでもなく当たり前のことだなあ、とスッと理解できる。諸行無常、諸法無我、といえば、そうだなあ、すべてはお互いに複雑に関わり合いながら、大きな河のように流れてゆくなあ、そこには自分なんて本当には無いんだなあ。ああ全くその通りだ、と理解できる。「色即是空」ああ、その通りだ。
これは、自分の状態は「覚り」というのとは違うが(怒りや欲望がまったく消えてしまった訳ではありませんでした)、仏教の世界をチラリと垣間みた、というふうには少なくとも言えそうだ。自分を導いてくれる世界、頼りにできる世界観がここにはある...これが21歳のときです。
そのときにこう思いました。
「たまたま日本という国に生まれ、平和な時代を生きている。書物を通して仏教の教えに触れることができた。何と幸せなことか。もし仏教に触れることがなければ、多分、自分はあのときの奇妙な体験に閉じ込められて、出口が見つからなかったかも知れない。全く使いものにならない、そんな人間になっていたかも知れない。仏教に触れることができて何と有り難いことか。」
と、このように思ったわけです。
学生時代にこういうことがありまして、仏教との確かな出会いを経験しました。その後就職しますが、仏門に身を置きたい、という思いは底流のように続いておりまして、30歳を過ぎてから結局、この世界に入れて頂くことになりました。
既にそれからも大分月日が経ち、人様に偉そうなことを申し上げるようにもなりましたが、私の仏教体験の原点は、あの21歳のときのできごと、正に言葉を失ってしまうような、あの体験にあります。■


2010.06柿公窯訪問

今月はやや趣向を変えて、写真を幾つか掲載したいと思います。
5月10日に茨城県高萩市の柿公窯(しこうがま)を訪ねました。

◇窯の全景(穴窯)
◇燃料となる赤松の山
◇作品たち
◇焼かれるのを待つ
主の島崎[*]猛氏は住職の旧友です。4年前、林海庵に花器を寄贈して下さいました。(このときの経緯については、以前、>開山落慶の後のコラムに書きました)
◇林海庵の花器
この花器は、今現在玄関にあって、毎日来客を迎え、見送ってくれています。
◇島崎 猛 氏
◇(おまけ)飼い犬の「天」

柿公窯(しこうがま) 茨城県高萩市横川1052-1 電話 (0293) 28-0066

[*] 「崎」のツクリの上部は「立」


2010.05津末玄夫氏のこと

去る4月12日、北里大学で長く教鞭をとられた津末玄夫氏が79歳で逝去されました。
氏は私の母の従兄にあたります。高校生の頃から20年以上、私はたまたま氏のご自宅の隣に住んでおり、親しくお付き合いさせて頂きました。人の好き嫌いがはっきりしている方でしたが、私のことをかわいがって下さいました。
氏はご専門である生物学(生化学)の他に、仏教や哲学に深く関心を寄せておられました。お宅に伺うと決まって仏教の話になります。(氏は宮沢賢治をこよなく愛され、法華経の信仰をお持ちでした。)いつもニコニコと、ときには思索深い表情を見せながら私の相手をして下さいました。
賢治の『ビジテリアン大祭』を知ったのも、氏の奨めによるものです。どういう話の流れだったか菜食の話題になり、「あの本に菜食についての議論は尽くされていると思う」と言われ、私も後日手に取ることになりました。また、
「人には、生まれつき縁のある教え(経典)がある。」
よくこのように言われました。氏にとっての法華経がそれです。氏のご尊父は浄土真宗の信仰をお持ちでした。またお母さまは古くから禅宗に帰依し、般若心経を読誦されていました。お母さまのご葬儀のときは三田龍源寺の松原哲明師が導師を勤められました。ご家族それぞれが自立した信仰者であられ、お互いにそれを認め、周囲の方々も受け容れる、そのようなご家族でした。
私が浄土門に入る道を選んだときは、
「『一子出家すれば九族天に生ず』と言ってね、これは先祖や親族にとっても非常に良いことなんだ。」
と言ってたいそう悦んで下さいました。(他の親族たちは、心配だが見守るしかない、という風でしたが。)
また氏は、瞑想家として知られる山田孝男氏と親交があり、山田氏の話をよくされました。瞑想会に参加して驚くような体験をしたり、また大学の研究室に山田氏を招いて学生たちに話をしてもらったりしたこともあるそうです。「山田さんに、『あなたは2011年までは生きられないだろう』と言われた。」と笑いながら話されたこともあります。

今年の一月が、生前お目にかかった最後でした。そのときは、お身体も弱りご不自由そうでしたが、お顔だけは驚くほど澄んでいて、なんとも言えない輝きを放っておられました。■


2010.04浄土宗の開宗

浄土宗をお開きになった経緯について、法然上人が語られたお言葉が残っています。
以下にご紹介するのは、私が現代語にとらえ直したものです。皆さまのご理解の一助となれば幸いです。

「私(法然上人)は、この迷いの世界を離れ出たいという志がきわめて深かったので、さまざまな仏教の教えを学び、修行をしてきました。
仏教には多くの教えがありますが、せんじ詰めるとそれらはすべて、三つの修行におさまります。それは、まず戒律を守って清らかな暮らしをすること、次に清らかな暮らしの中で心を静める修行をすること、そして静まった心の奥底から、煩悩を断つ智慧を得ること、この三つの修行です。
しかしながら、このわが身を振り返ってみますと、戒律の一つも正しく守ることができず、心を静めることもままなりません。
ある先生が言われるには、
『戒を守り、その身を清らかに保たなければ、仏にまみえる境地など得られるものではない』
とのことです。
ところがこの私の心はどうでしょう。あたかも猿が、樹の枝の間を落ち着きなく跳び回っているようなものです。まことに静まりがたく、このようなありさまでは、静かな心から智慧を得て、悪業や煩悩のきずなを断つことなどどうしてできましょう。 
ああ、何という悲しいこと…一体どうすれば良いのでしょうか。
私ごときは、さきほどの三つの修行などとても全うできる器ではありません。
この修行のほかに、私にふさわしい教えや修行があるのだろうか─そう思って、いろいろな賢者や学者の方々のところを訪ね歩いたのですが、私に道を示してくれる先生も、助言してくれる仲間もおりません。
深く歎きつつも、私は経典を保管してある蔵にこもって、悲しみの中でお経を丁寧に読んでいました。すると、どうでしょう。あるとき、中国の善導大師がこう書かれた文章に出会ったのです。
『一心に専ら、弥陀の名号を念じ、行住坐臥に、時節の久近(くごん)を問わず、念々に捨てざるもの、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるが故に』
(こころを一つにして、もっぱら阿弥陀さまのお名前を称えなさい。常に─歩いているときも、立ち止まっているときも、また坐っているときも、横になっているときも─時間の長い短いに関わらず、いつもお念仏とともにありなさい。これを阿弥陀さまが正しく選ばれた行、かならず私たちを救いとって下さる行、そのように名付けよう。なぜなら、このお念仏こそ、阿弥陀さまのお約束にかなった行だからである)
この文に出会った私は、たいへんな衝撃を受けました。
(これだ。これこそ私が求めていたものだ。阿弥陀さまの願いに応える、このお念仏の道だけをただ進んでゆけば良いのだ。)
次の瞬間、阿弥陀さまのみ光が全身を貫くのを感じたのです。私の顔色も、以前の重く沈んだ表情から、突然明るく輝き出したに違いありません。
それ以来、私のような無智のものは、ひとえにこの善導大師の文をとうとび、この道理をたのみとしよう。常にお念仏とともにあって、極楽往生に備えよう─このように思い定めました。
それはただ、善導大師の遺された教えを信じるというばかりではありません。お念仏こそ、阿弥陀さまの大いなるお誓いにかなっているから、という道理がはっきりと理解できたからでした。
この善導大師の文は、私の魂の奥深くにまで染みわたり、心のなかにしっかりと動かぬ場所を得ることになったのです。■


2010.03苦しみについての教え(後)

(先月よりつづく)

「そして…この話には続きがあるんだ。」
和尚さんは、また話し始めました。

「人々がそれぞれ、自分の風呂敷包みの中身をもって行くと、境内は大分すいてきた。ふと気がつくと、たいそう大きな風呂敷包みを樹の枝から下ろしている人がいる。高齢のおじいさんで、汗びっしょり─とても苦労している様子だった。さきほどの二人の男たちがそれに気づいて、手を貸すことになった。
『いやいやおじいさん、随分とでかい包みだね。ずっしりと重たいや。長い人生、さぞかしご苦労が多かったんだろうねえ。』
おじいさんは返事をせずに、大切そうに荷物を下ろすと、地面に置いた。そして今度は杖をつきながら、スタスタどこかへ行ってしまった。
『まあ、お年寄りを大切にするのは当たり前のことだけど、礼くらい言ってもよさそうなもんだが。』
『うん、そうだな。』
『さて、どうしたものだろう、この荷物。あのおじいさん、帰ってくるまでこれを見張っとけ、っていうことかな。』
そこへ寺の人が通りかかったので、特大の風呂敷包みを指差しながら、聞いてみた。
『この持ち主のおじいさんのこと、知っているかい。』
『ああ、もちろん。この寺のご本尊の仏さまだよ。』
『ええっ。』
二人は仰天した。
『まあ、気がつかないのも無理はないさ。本堂では、金箔の仏具に囲まれて、一番奥の方に坐っておられるので、お顔もよく見えないからね。』
『ちょっと待ってくれ。仏さまともなれば、煩悩も何もないだろうに。一体どうしてあんなにたくさんの苦しみを背負っているのかい。』
『うん。じゃあ、ちょっとこっちに来てご覧。』
寺の人に案内されて歩いてゆくと、さきほどのおじいさんが樹に残っている別の風呂敷をほどいているところだった。
『ご本尊さまは、ああやって取り残された包みをほどいて、その中身をご自分で背負っておられるのさ。だからご自分の風呂敷があんなに大きいんだ。
これだけ人が集まってくると、中には自分の苦しみをかかえきれなくて、そっと置いて行く人も出てくる。だけど、その苦しみにはその人の人生が詰まっている。だから、粗末にはできない。ご本尊さまはそれでああやって、ひとつずつ人々の苦しみを集めて回っているのさ。』
そう言われても、ちょっと見ただけではとても仏さまには見えない。ごく普通のおじいさんが、残った風呂敷包みを集めているようにしか見えなかった。だがよく見ると、その包みをとても丁寧に扱っている。しばらく外側からじっくり観察して、それからゆっくりゆっくり、結び目をほどいて樹から下ろす。包みが揺れたり、樹の枝にぶつかったりしないように…まるで中に鶏の卵がたくさん入っているような慎重さだ。
男たちはぼうっとして、しばらくの間見つめていた。言葉には出さなかったが、めいめいにこう思っていた。
『俺は今まで、自分の人生のことしか頭になかった。だがああやって、見ず知らずの他人様の人生や苦しみを、大切に思っている方もおられるんだなあ。…』
思わず目が潤み、自然に手が合わさってきたんだそうな。

さあて、今日のお話はこれでおしまい。
君も、本堂に上がって仏さまにお参りして行くかね。」■

―了― 


2010.02苦しみについての教え(前)

仏教を学びたい、という若者が和尚さんのところにやって来ました。
「ほう、それは感心だね。で、今日はどういうことを聞きたいのかな。」
利発そうな顔をした若者は、和尚さんの言葉に安心して、早速こう尋ねました。
「お釈迦さまは、覚りを開かれた後、苦しみについての教えから説き起こされた、と伝えられています。これはどういうことでしょうか。人生は四苦八苦、苦しみに満ちている、と説かれたそうですが。」
和尚さんはニッコリすると、しばらくのあいだ遠くの方を眺め、そして話し始めました。
「そうだな。われわれ人間は、誰もが幸せになろうとしている。人によって、求める幸せの程度は違うだろうが、できるだけ不幸を避けて、幸せであることを皆が願っている。さて、君もそう思うかね。」
「ええ。その点ではどの人も皆、同じではないでしょうか。」
「うむ。だが、仏教ではそう考えないのだ。実際のところ、人々は幸せを求めるよりも、苦しみを握りしめている方を選ぶ。こう考える。」
「ええっ、まさか。一体どうしてそんなことが言えるのですか。幸せではなくて、わざわざ不幸の方を選ぶなんて…」
「そう、これにはちと説明がいるかも知れぬな。
君に、ひとつ物語を聞かせよう。」
こうして、和尚さんのお話が始まりました。

「あるところに、よく知られた大きなお寺があった。
境内には楓の樹がたくさん生えている。
お参りにきて、お寺の人に頼むと、木綿の風呂敷を貸してくれることになっていた。利休色の風呂敷で、大中小と三種類の大きさがある。
お参りに来た人々は、自分の苦しみをこの風呂敷に包んで、楓の樹の枝にくくりつけるのだ。苦しみや不幸の大きさによって、風呂敷の大きさを3種類から選ぶことができる、というわけだ。
しばしの間、肩の荷を下ろして、身も心も軽やかになって本堂にお参りできる。お参りが済んだら、また風呂敷をほどいて、不幸と苦しみを持って帰らなくてはならない。
だが、しばらくの間だけでも明るい気分になって仏さまに手を合わせられる、というので、この寺はいつもたいそうにぎわっていたそうな。

ある日のこと、本堂の横に大きな張り紙が出ていた。そこには、こう書いてある。
『本日は、特別な法要が勤められる。法要が終わったら、参拝の者は楓の樹から各々風呂敷包みをはずして、中のものを持ち帰るべし。但し、本日に限り、どの風呂敷包みでも自由に選んで持ち帰ることができる。』
張り紙の前は、黒山の人だかりだ。口々に、こう言い合っている。
『おい、見たか。帰りはどの風呂敷包みでもいいんだってさ。俺はいつも中くらいの大きさだが、今日は小さいやつを持って帰ってもいいってことだな。』
中には、こんなことを言っている人もいる。
『誰がどの包みを持って帰ったか分からないんだから、いっそのこと手ぶらで帰っちまったらどうだろう。ああ、苦しみがこれっぽっちもない人生か…こいつは夢のようだなあ』
さて、法要が始まった。お経が上がっている間、参拝の人々の顔はいずれも神妙な表情だったが、内心は決して落ち着いていなかった。法要が終わると人々は、われ先に、と本堂を飛び出して行った。
そして…どうなったと思うかね。」
「大混乱になったのではないでしょうか。だって、誰もが小さい風呂敷を取りたがるでしょう。」
「そうだ。大混乱になった。皆、われ先にと楓の樹に突進した。だが、混乱は初めのいっときだけだった。」
「といいますと?」
「みんな、自分が括りつけた風呂敷を取ろうとしたのだ。他人のものを取ろうとする者は一人もいなかった。」
「えっ、そんな馬鹿な…」
「お寺の境内では、こんな声が聞こえてきた。
『あれ、お前さんはさっき、小さい包みを取ってやろう、と言っていた人だね。』
『ああ。でもよくよく考えてみると、それはうまくないってことが分かったのさ。だって、どんなに小さな風呂敷包みだって、そこには誰のものとも知れない不幸や苦しみが入っている。それを持って帰って、慣れない苦しみに出くわすくらいなら、俺が長年つきあってきた苦しみの方が、ずっとましだ。何たって慣れているからね。どうにかこうにか、一緒にやって行けるのさ。お経を聞いている間にそれに気づいた、というわけだ。
だけど、そういうあんただってさっきは、手ぶらで帰っちまおう、とか何とか言っていたじゃないか。』
『そうなんだ。さっきはそう思っていたんだが、お経を聞きながら考えた。俺が樹にくくりつけた不幸っていうのは、俺の人生と分ち難く結びついているってことにさ。ちょっと想像してみたんだが、苦しみや不幸のない人生なんて、全く考えられない。ただ途方に暮れるだけだろう。だから、多少の不幸はあっても、今までの生き方の方がいいんじゃないか。そう思い直したってわけだ。』
『なんだ。だったら、俺と変わらないや。』
というわけで、誰もが自分が括りつけた風呂敷包みを取ろうとしていたのだ。
慣れ親しんだ苦しみや不幸…それはもはや人生の一部になってしまっていて、手放したくない、皆がそう思った。周りの人も自分と同じだ、と気づいてからは、混乱はすぐにおさまった。自分の風呂敷包みが誰かに持って行かれる…その心配がなくなったわけだからね。」

若者は考え込んでしまいました。
「そうか…そうすると、さっき和尚さんが言ったように、『人々は幸せを求めるよりも、苦しみを握りしめている方を選ぶ』ということになるのかな。」

和尚さんはじっと若者の顔をみつめたあと、こう言いました。
「自分では、幸せでいたいと思っているつもりかもしれんが、少し奥を探ってみると、不幸や苦しみを握っていて手放さない。人間にはそんな奇妙なところがあるんだよ。」

「そして…この話には続きがあるんだ――」■

来月につづく)


2010.01年頭にあたって

新たな年を迎えました。
本年も、林海庵ならびに当サイトを宜しくお願いいたします。

『法然上人行状絵図』の第19巻に、こうあります。
「尼聖如房は、深く上人の化導に帰し、ひとえに念仏を修す…」
この「聖如房(しょうにょぼう)」という方が、式子内親王のことである、ということが先年(といっても昭和30年ですが)明らかになりました。
式子内親王は、後白河天皇の第三皇女で、『新古今和歌集』の代表的女流歌人として知られ、多くの優れた和歌を残しています。
「玉の緒よ たえなばたえね 長らへば 忍ぶることのよわりもぞする」
(この命よ、もう絶えるというのなら、絶えてしまっておくれ。これ以上生き長らえたとしても、あなたを密かにお慕いし、苦悩を耐え忍ぶ力が衰えてくるだけでしょうから。)
この忍ぶ恋の相手ははっきりしません。藤原定家ともいわれてきましたが、聖如房=式子内親王、ということが判ってからは、この恋の相手が16歳年上の法然上人ではないか、という説が出ています。(石丸晶子氏『式子内親王伝―面影びとは法然』

式子内親王は50歳過ぎで亡くなりました。
肩のあたりに熱がある~乳の腫れがひかない、風邪気味、足が腫れた、という症状が書き記されており、石丸晶子氏は、ご病気は乳がん、それが肺にも転移、また脚気、というふうに推測しています。
いよいよ病が重くなったときに、式子は法然上人と是非ともお会いしたい、という希望を上人に伝えました。法然上人はちょうど別時念仏の最中でした。
お念仏の合間に認められたであろう、法然上人のご返事(抜粋)です。

「聖如房よ、ご病気の重いことを伺い、ただただ驚いております。
ご自分が最後までお念仏できるのだろうか、と気がかりにお思いでしょうに、
ご自身のことよりもまず私のことをお心にかけて下さり、もったいなく、また心苦しく思っております。
別時の念仏を中止してでも、お見舞いに伺うべきかとも存じます。
しかし思えば、この世での対面は所詮どうでもよいことです。お目にかかることにより、しかばねに執着する心の迷いにもなりましょう。誰とても、この世に生き続けたままではいられません。ただ後に残るか先立つかの違いがあるだけです。
ただきっと、同じ仏の国にともに往き、彼の国の蓮の上で、この世の憂さや、過去の因縁をも語り合って、お互いに将来の仏道を助け合うことこそ、大事なことです。これは、お目にかかった当初から申し上げていたことです。
かえすがえすも、仏の本願を深くお受け取りになられて、一瞬も疑うことのなきように。一声でも南無阿弥陀仏と申せば、いかに罪深い人でも仏の願力によって必ず往生できると思し召して、ただ一筋にお念仏をなさって下さい。
また、あなたの浄土往生は難しい、というようなことを言う人々が周りにおられるとのこと。たいへん残念で、心苦しく思います。いかなる智者、また身分の高い人がおっしゃろうとも、仏道の理解や修行方法が異なる人の言うことは、往生のためにはかえって悪影響です。ひとすじに、阿弥陀仏のお誓いをお頼みなさるように。
あなたはこれまで、よくよく往生についての教えを受けてこられ、私も申し上げて参りました。つね日頃お念仏を称えて、その功徳がすでに積もっているではありませんか。たとえ臨終に導いてくれる人が枕辺にいなくても、浄土往生は疑いのないことです。
私がこのように引きこもって別時念仏をしようと思い立ったのも、元よりわが身一つのためのことではございません。おりしもご病気のことを承ったからには、今からは一念も残さず、ことごとくあなたの往生の助けになるようにと、ご回向させて頂きましょう。必ずや、お心の通りに往生を遂げて頂くのだ、と深く念じております。
私が申し上げた一言をお心に留めておられるということも、この世ばかりでなく、前世からのご縁なのでありましょう。そう思えば、このたびあなたが先立たれるにしても、私の方が先立つことになっても、ついには同じ阿弥陀仏の浄土で再びお会いできるのは疑いなきことです。
夢まぼろしのこの世で、もう一度お会いしたい、などと思ったことは、ほんとうはどうでも良いことだったのでしょう。
そんな思いはどうぞきっぱりとお捨てになり、ただ往生を願う心を深め、お念仏にお励みになって、浄土において私のことを待とう、とお考えになって下さい。
よほど弱られているようでしたら、この手紙は長過ぎます。そのときはお使いの方が要点をお伝えになって下さい。」

法然上人のおられた庵から式子内親王の邸宅までは、わずかな距離でした。法然上人は一瞬、「見舞いに行こう」と思われたようですが、踏みとどまり、長い長い手紙を書いて、会いに行かない理由を説明しています。このようにしかできない、上人にしか分からない深い思いがあったのです。

この話をご紹介しようと思ったのは、昨年十月に私の母が旅立つ直前、この法然上人が式子内親王に宛てたお手紙のことが思い起されたからなのです。
母が亡くなる数日前のこと、林海庵の本堂でお念仏を勤めておりました。
その日も病院に見舞いに行く予定でした。ところが、本堂に坐ってお勤めをしているときに、
「こうして自分が本堂でお念仏しているときに、臨終を迎えてくれると良いのだが」
という考えが浮かんできたのです。
つまり、病院のベッドに横たわる母の身体の近くに私がいて、その死を看取るよりも、阿弥陀さまの近くに私がいて、母の往生を願って念仏する方が、はるかに母を助けることになる─そのように思われたのです。

そのときに思い起こされたのが、上にご紹介した法然上人のお手紙です。法然上人は、深い絆を感じている相手、式子のもとに駆けつけるよりも、別時念仏を続けて、その一念一念を式子のために回向することを選びました。
法然上人は、
「しかし思えば、この世での対面は所詮どうでもよいことです。お目にかかることにより、しかばねに執着する心の迷いにもなりましょう。」
と書き、式子の願いを拒んでおられます。それは、法然上人ご自身の執着心を断ち切るため、という意味ではなく、式子の執着がこの世に残ることが彼女の往生のために良くない、と思われてのことでありましょう。
死に臨んでいる人が「自分に会いたい」と言ってきたときに、これを拒むことは、並大抵のことではありません。家族であれ、親戚友人であれ、宗教上の師弟関係であっても同じです。まずは駆けつけて、本人を少しでも安心させてやりたい、と思うのが人情でありましょう。
しかし、法然上人は違いました。
式子の浄土往生、という宗教上の最高目的をかなえるために、臨終の面会という二度と還らぬひとときを犠牲にする。否、本当に犠牲にしてよいのか? そのぎりぎりのところで法然上人は迷い、迷いながら結果として長文の手紙─「これで良いのだ」とご自身を納得させるために語っておられるかのような、長いお手紙を出されたのだと思います。

法然上人のご心境は、もとより私の推量の及ぶところではありません。が、母のためにお念仏をしているときに、ふと「どうして法然上人は、式子の枕元に駆けつけて、そのお念仏をお助けになられなかったのか」という疑問の答えが浮かんだような気がしたので、このことを書かせて頂きました。

式子が亡くなったのは、建仁元年1月25日。
法然上人が遷化(せんげ)されたのは、それから11年後の、同じ1月25日でした。■


2009.12三つの死

ある男が、この世の長い間のつとめを終えて、彼岸の世界へと旅立ちました。
長い間、と言いましたが、振り返ってみると、あっという間に過ぎ去ったようにも思えます。
男が道を進んでゆくと、あちら側の世界が近づいてくるのが何となく分かりました。
「一体どのようなところに行くのだろう。」
男の胸の内は、不安とそして期待が相半ばしていました。

さて、入り口らしきところにたどり着きました。
ふと見ると、門番のような人がいます。
どう挨拶して良いか分かりませんでしたが、
とりあえず「こんにちは」と言いました。
「こんにちは。」
挨拶が返ってきます。
「あなたは、これから死後の世界に入ってゆきます。」
門番は続いて言いました。
「あなたは、どのような死に方をしたのですか。」
「どのような、と言われても…年を取って、病気になって、入院して…何も特別な死に方をしたわけではありませんが。」
「私がお尋ねしたのは、そういうことではありません。」
門番の話が始まりました。

「さまざまな生き方があるのと同じように、
さまざまな逝き方、つまり死に方があります。
話を分かりやすくするために、3種類の死に方、3人の人の死についてお話ししましょう。

第一番目は、人生についての深い理解に達した人の死です。
彼の人は、人生を充分に生ききりました。生命のエッセンスに触れ、そこから得られる深い経験を存分に味わいました。もはや、何の悔いもありません。
再び生まれ変わってきて、今度はこういう人生を生きてやろう、という望みもありません。
心はすでにこちらの世界、あちらから言えば『彼岸の世界』に向いています。
『この人生で経験すべきことはすでに経験した。苦しいこともあったが、たくさんの出会いと悦び、深い学びを得ることができた。それは素晴らしい人生だった。これから先には、どのような素晴らしい世界が待っているのだろうか。』
彼の人は、穏やかな態度で彼岸の世界に心を寄せます。
彼の人にとって、肉体はもはや重要なものではありません。
それはこれまで、充分に働いてくれましたが、今や重荷となっています。肉体が衰え、自然な死を迎えることは、重荷から解き放たれることを意味します。それが、彼の人にとっての『死』なのです。」

「第二番目の死に方は…人生に翻弄され続けてきた人の死です。彼にとっては、人生は暗闇のようであり、また闘いの連続でした。目の前のことを追いかけ続けてきたので、ゆっくりと自分のことを考えたり、人生の貴重さについて思いを廻らせたりする暇など、持つことはありませんでした。
彼が考えていたのは、
いかにして欲しいものを手に入れるか。
いかにして嫌なことから逃げるか。
それがすべてでした。こうしたことはみな、自分の身体が元気であることが前提でしたので、その身体が働きを止める、というのが自分にとって一体どういうことなのか、それをどう考えたら良いのか、まったく分かりません。理解を超えた巨大な暗闇が、自分に襲いかかってくる─それが彼にとっての『死』でした。」

「さて、第三番目の人です。
この人は、仏さまに触れています。ときどきお寺に足を運んで、仏さまに手を合わせます。
といっても、第一番目の人のように、人生についての深い理解に達して、肉体の死でさえも歓迎する、というところまではいきません。なかなかそこまでは達観できません。
また、第二番目の人が思うように、死は『真っ暗で恐ろしいもの』というほどでもないかも知れない、と感じています。
そのときがくれば、そのときのこと。『お念仏を称えていれば、光り輝く仏の世界に導いて頂ける』という教えを聞くと、『そんなものかしら』と思って、勧められるままにお念仏を称えます。
難しい理屈はよく分かりませんが、
『あまり欲を出さず、足ることを知りなさい』
という教えを聞けば、『ああ、その通りだなあ』と思い、
『人さまを傷つけたり、嫌な思いをさせないように』
と言われれば、素直に『でき得れば、そうありたいものだ』
と願います。
死のことはよく分かりませんが、お念仏をお勤めすると気持ちが開けて、良い感じがします。
このような人が迎えるのが、三番目の死です。」

「さて、もう一度尋ねましょう。
あなたは、どのような死に方をしたのですか。」

男は考えました。
「自分は一番目の人のように悟りを開いているわけではないし…。
かといって、二番目の人のようでもないなあ。そりゃあ、若いときには日々の暮らしのことで精一杯だったけど、年を取ってからは少し気持ちにゆとりもできたし、お念仏も多少は称えたし…。三番目の人が近いかなあ。」

そして、こう答えました。
「はい。三番目の人が私に近いように思います。でもよく考えると、私にもずるいところや、計算高いところがあるので、三番目の人ほど素直じゃありません。また、傷つけると分かっているのに、人にひどい言葉を言ったこともあります。」

門番は少し考えてから、こう言いました。
「宜しい。あなたは正直です。正直に自分を振り返ることができる人は、仏の世界に招待されます。仏の世界では、あなたに新しい道が開けています。あなたは歓びと愛をもって、その道を歩んでゆくのです。さあ、進みなさい。」

そして、門番は男の名前を呼びました。
「えっ」
男は思わず門番の方を振り返ります。
その名前は、彼の本名ではなく、彼が幼いときに特別に仲が良かった友達がつけた呼び名だったのです。それは、二人しか知らない名前でした。

「君はもしや…?」
帽子のつばの奥を覗き込むと、そこにはニッコリとした笑顔がありました。それは、あの友達ではありませんでした。

帽子の奥にある門番の顔─それは、彼自身だったのです。■


2009.11母を送る

私ごとですが、10月6日に母が浄土に旅立ちました。

母は一人暮らしで頑張っておりましたが、今年の初夏に体調を崩し、しだいに弱ってきました。
これは放っておけない、というので、9月に入ってから家内と母宅に同居し、介護を始めました。
食欲が出てきて、一時はずいぶん元気になったのですが、9月中旬になって容態が悪化、入院となりました。

一ヶ月ちょっと、という短い期間でしたが、その間、多くの時を一緒に過ごすことができました。

私にとっても重要な経験がいくつかありました。
その一つは、臨終間近の母の耳もとに「大丈夫だよ」と言ってあげられたことです。
浄土の教えがベースにあればこそ、このように言えました。
しかし、二人で(母が入院してからも)お念仏のお勤めを重ねていなかったら、そうは自然に言えなかったでしょう。

浄土宗では「ふだんのお念仏がいちばん大切だ」と言われますが、まったくそのとおりでした。

そして、これは今、思うことですが、まさに死の床にある人が「大丈夫」ならば…
現に生きている人は、「完全に大丈夫」に決まっています。

そうではありませんか?■


2009.10あるご相談より

先日頂いたメールです。

「今年の夏に、夫を亡くしました。
仏壇のことについて悩むうちに、こちらのHPにたどり着きました。
ご意見をいただければ幸いです。

結婚当初から夫の両親と同居し、子供にも恵まれ、平穏な暮らしを送ってまいりました。
義父は20年近く前に他界し、その際仏壇を、両親の寝室であった部屋に置くことになりました。
現在も、義母はその部屋で寝起きしております。
四十九日、新盆が終わり、夫の位牌が仏壇に入りました。
別室に精霊棚を設けてあった時のように、自由に手を合わせることができなくなってしまいました。
申し訳ないことですが、義父が亡くなった時にはこんな思いにはならなかったのです。
でも、位牌に手を合わせ夫に語りかけたい、という思いに駆られ、たまらなく悲しくなります。
今は、毎日のお仏壇のお給仕の時に手を合わせるくらいになってしまいました。
義母は、『部屋には自由に入ってくれていいよ』といいますが、
義母は床につくのが早いのです。
夜、私の家事が終わって一息ついた時に
『拝ませて欲しい』というのも気がひけます。
義母としては、夫と息子に囲まれ、安心して眠りについているのでしょう。
一度『仏壇を別の部屋に移したい』と言った時は、頭ごなしに拒否されました。
私自身、夫の位牌にこんなに執着するとは思ってもみませんでした。
私にとってはかけがえのない、大切な大切な人でした。
たくさんの良い思い出を作ってくれました。
これから母を看取り、家を守ってゆかなければならない私には、夫の位牌が心のよりどころなのです。
仏壇を、いつでも手を合わせることができる部屋に移すのは、いけないことなのでしょうか。
義母には、どのように話をしたら分かってもらえるでしょうか。」

「A様
初めまして。林海庵住職の笠原です。
このたびはサイトを通じてメールを頂き、どうも有難うございました。

お仏壇の件、お心に沿わない状況のご様子で、ご心痛お察しいたします。
少し考えてみましたが、お義母様を説得できる名案は思いつきません。

お仏壇に手を合わせることは、もちろん大切です。
そしてもう一つ、より個人的・内面的な供養のしかたがあります。
それは、ご自身のお身体の一部に、ご主人の御霊を感じてみる、という方法です。

たとえば右肩の辺り。これは一つの例ですが、自分の身体の(あるいは周囲の)どの辺りから、ご主人は見守ってくれているのだろう、と身体に尋ねてみます。

これは、その部分に『実感』が湧いてくることが大切であり、(私を含めて)他人がどうこう言えることではありません。
あなたさまとご主人と、お二人の間だけのことです。

気が向かれたら、どうぞ試してごらんになって下さい。」

「笠原様
早速のご回答ありがとうございます。
義父母との同居生活において、夫はいつも、私の側に立っていてくれました。
裏返せば、義母にとっては、結婚してからの夫は良い息子ではなかったのかもしれません。
やっと昔のように、息子が自分のところに戻ってきた、ということなのでしょうか。

私も、義母のそんな心を察しているからこそ、張り合うような気持で
仏壇や位牌に固執しているのかもしれません。

笠原様のおっしゃるように、夫を感じてみました。
後ろから両肩に手を添えてくれているような気がしました。
涙があふれてきました。
今は、辛かった闘病生活から離れて、
穏やかに過ごしていることを願いつつ、
お念仏を称えてみました。

私も義母も、かけがえのない人をなくして3か月。
お互いを思いやる余裕がないのかもしれません。
仏壇の移動も、あきらめずに時間をかけて、ゆっくり
義母に納得してもらえれば、と思います。

お話を聞いていただき、心がたいへん楽になりました。
そしてよいアドバイスをいただきありがとうございました。」

「A様
ご丁寧なご返事を頂き、まことに有難うございました。
拝読しながら、涙がにじみました。

もしお差し支えなければ、このメールのやり取りを、後日サイトに載せさせて頂きたく思うのですが、如何でしょうか。
A様の文面に胸を打たれる人も多いでしょう。また、同じような切実な悩みをお持ちの方にも、役立つと思います。」

「笠原様
ご返信ありがとうございます。

サイトに掲載していただくとのこと、
私は一向に構いません。
私の話がどなたかのお役にたてるのであれば
喜んで承諾いたします。

亡くなった人を自分の身体に感じる供養、という笠原様のアドバイスで、
きっとたくさんの方が心の安らぎを得ることができるのではないでしょうか。

私の悩みに親身にお答えくださり、本当にありがとうございました。
文章にすることで、私の心にも整理がついたように思います。
これからは、私なりに夫の供養をしてゆけたら、と思っています。」■


2009.09「仏事には疎(うと)くて…」

と、おっしゃる方々―
心配ご無用です。林海庵の檀信徒は、ほとんどがそういう皆さんです。

ここは新しいお寺ですので、
「両親や祖父母から、仏事について大体のことは教わっています」
という方はあまりみえません。そのように仏事になじみ深い方々には、すでに代々お付き合いのある菩提寺さまがあるからです。

「仏事は初めてです」「なにぶん不馴れなもので…」
という皆さんと、それぞれのお宅に合ったご供養の形を一緒に考えてゆく、というのがこの開教活動の大きな要素です。
伝統的な形を大切にしつつも、時代や家族形態の変化に対応してゆかなければなりません。檀信徒との相談の中で、私の方が「なるほど!」と気づきを頂くことも多いのです。

先日ご相談にみえた方は、
「新しく仏壇を求めるが、それをどこに置いたらよいか」
というお話でした。
その方は、ご自宅の間取り図をお持ちになったのです。
「仏壇をここに置いてはどうでしょうか」「いや、ちょっと待って下さい。」
二人で間取り図をはさんで頭を付き合わせ、しばし話し合います。
「リビングに置くとしたら…」「その場合は、キッチンのすぐ近くは良くないと思います」、
「そこはいい場所ですが、雨戸の戸袋のそばなので、毎日うるさいし…」、
「そこには、ピアノが置いてあります」、
「日常の生活スペースとは別の場所が良いのでは…」、
等々、ああでもない、こうでもない…
まるで私がそのお宅に上がりこんで、「ここはどうだろう」「あそこはどうだろう」と、ご家族と一緒に考えている感じでした。

話がまとまり、後日お仏壇が納まります。
四十九日のときに初めてご自宅に伺い、開眼式をつとめました。
お伺いするのは初めてであるのにもかかわらず、「このお宅には以前伺ったことがある」…かのように思え、そしてご家族と一緒にひと仕事終えたような、そんな満足感を感じました。
お仏壇を置く場所を決める、ということで、こういう「感じ」を経験したのは私にとっても初めてのことでした。■


2009.08お施餓鬼とお盆─施しの心

その方の職業はそば屋さんです。
「ときどきボランティアで、老人ホームに行きます。皆さんの目の前でそばを打って食べてもらうんですよ。いや、よろこばれるよ、ほんとに。」
私「はああ、立派ですねえ。」
「いやそんな、別に立派ってわけじゃない。人間なんて自分中心な生き物だからね。私だって同じですよ。70~80%、いや90%は自分のことしか考えてないんだ。だからね、10%くらいはね。できることをやってみよう、と、こういうわけですよ。何も特別なことじゃない。そばなんて、いつも作ってるんだからね。」

ずいぶん前の会話ですが、とても印象に残っています。

別の方です。
つい先月、そのお宅にお盆のお経に伺ったときのこと。
「今朝、ベランダにクワガタ虫がいたんですよ、ほら!」
紙袋の中に、立派なクワガタが一匹入っています。
「こんなこと、初めてで。(亡くなった)お父さんが、帰ってきてくれたのかなって思って…。
しばらく家にいて欲しいから、こうして砂糖水を上げてるんです。」

大切な方を迎え、もてなす…お盆とはまさにこういうことか、と感心しながら、隣室に立派に飾られた精霊棚の前で、奥様とお盆のお勤めをいたしました。■


2009.07恵心僧都(えしんそうず)念仏法語

つい先日のこと、たまたまお会いした天台宗のご住職に教えて頂きました。あわてて筆記したものですが、おおむね正確です。
主旨は以下の通り。

「人間として生きてゆくのは、苦しいことが多いものだ。
だが、虫や動物に生まれたり、亡霊として飢え渇きの世界をさまよったり、
罪人として凄惨な罰を受け続けることを考えれば、
人間として生まれたことを悦ばなければならない。
苦しみもまた、仏の世界に憧れるきっかけとなるのだから。

たとえ阿弥陀仏を信仰する心が浅くても、阿弥陀仏の慈悲心と救いの力はまことに深い。これに任せれば、必ず極楽世界に導いて頂ける。
自分は一生、妄念にとらわれた凡夫に過ぎないかもしれない。
だが、妄念の中から生まれた念仏は、泥から生まれた美しい蓮華のようであり、
それによって必ず極楽世界に生まれることができるのだ。
妄念が湧いてくるのを嫌わず、信心が浅いのをなげきつつも、
志を深く持って、常に念仏を称えるようにしなさい。」
* * * * * * * *
以下、原文です。
* * * * * * * *
「それ一切衆生、三悪道をのがれて人間に生まるること、大いなるよろこびなり。
身はいやしくとも、畜生に劣らんや。
家貧しくとも、餓鬼にはまさるべし。
心に思うことかなわずとも、地獄の苦しみには比ぶべからず。
世の住み憂きは、厭うたよりなり。
人かずならぬ身のいやしきは、菩提を願うしるべなり
この故に、人間に生まるることをよろこぶべし。

信心浅くとも、本願深きが故に、頼めば必ず往生す。
念仏、もの憂けれども、唱うれば定めて来迎にあずかる。功徳莫大なり。
この故に本願にあうことをよろこぶべし。
また妄念はもとより凡夫の地體(じたい)なり。妄念の外に別の心もなきなり。臨終のときまでは一向に妄念の凡夫にてあるべきぞと心得て念仏すれば、来迎にあずかりて、蓮台にのるときこそ、妄念をひるがえして悟りの心とはなれ。
妄念のうちより申しいだしたる念仏は、濁りに染(し)まぬ蓮(はちす)の如くにして決定(けつじょう)往生疑いあるべからず。
妄念をいとわずして、信心の浅きを歎き、こころざしを深くして、常に名号を唱うべし。」

天台宗ご住職のお話によれば、
「坐禅もこれに同じ。妄念を断たずして、しかも数息(呼吸の数をゆっくり数えること)から離れぬことが肝要である。『心を空にせよ』と坐禅指導するのは、よく分かっていない僧侶である」
との事。■


2009.06千の風―返歌

私の誕生を祝わないで下さい
私はいま生まれたのではありません
母のお腹の中で夢を見ていたのです
その前は千の風として
千の風として
この大地の上を吹き抜けていたのです

あるときは乾いた砂漠の土の上を
緑あふれる樹々の間を
荒れ狂った大海原を
あるときは人々でごった返す市場の路地を
秘めやかな夜のしじまを
吹き抜けていたのです

千の風は今、ひとつの身体に結晶しました
大きな満月の光に照らされて、
手足を伸ばそうとしています
千の風だった私が
あの月まで往けるのかどうか
今はまだ分かりません

だから、私の誕生を祝わないで下さい
これが祝福なのかどうか、まだ分からないのです
千の風だった私が
千の風だった私が
今度こそあの月の光とひとつになれるまで
じっと見守っていて下さい■


2009.05崇敬の心

自分より高い存在に礼拝する─
これが宗教の基本です。
礼拝する対象が自分よりはるかに高い存在である、
と知ること─
これは理屈ではありません。
そうである、としか言いようがなく、
理由も証明も必要ありません。
ただ、そうである、事実である、とあなたの中心が知っています。

それは恋愛のように、「ただ、起こること」
です。本人自身が、「それは起こった」とただ知っているのです。
親から子に伝えられるものではありません。
もしひとたびそれが起こったなら、
これ以上素晴らしいことはありません。

仏教における崇敬=信仰は、
恋愛の狭隘な熱っぽさよりもむしろ、
清澄で、広がりと深みのあるものです。
しかし、そこには何らかの共通点があります。

理屈では言えないが、
それが現実に起こったことを知っている。
誰よりも自分の中心が知っている─そこが共通点です。

崇敬の心はまた、愛する人との別離の彼方に現れてくるものでもあります。
生と死の境を超えた存在に対する、崇敬の、祈りの心─。

もし崇敬の心、信仰の心が伝承のものであれば、
それは時代とともに変化し、伝承が絶えることもありましょう。
しかし、いくら時代が移っても決して変わらないもの、
生き生きとした何かが、そこにはあるのです。■


2009.04映画を見ました

映画「おくりびと」─
評判通りの優れた作品で、感動しました。

僧侶の立場で観ますと、余計に臨場感といいますか、生々しく感じられるものがあります。

独り帰る道で、初めて葬儀の導師を勤めたときのことを想い出しました。
今から16年前のことです。
そのときは私の体調がひどく悪く、通夜ではほとんど声が出ませんでした。
お父さんが亡くなられ、一人娘さんが喪主でした。
「昨日は声が出なくて申し訳ありませんでした。」
と、翌日の葬儀のときに申しましたら、
「いいえ。一所懸命読経して頂いて、父も喜んでいると思います。」
というふうに言って下さいました。
その後─確か一周忌のときでした。私が、
「葬儀のとき、声が出なかったのを覚えています。
それと、一つ気になったことがありまして─。
あのときにあなたはとても落ち着いておられて、
こう言っては何ですが、晴れやかなお顔をしているようにさえ
お見受けした…そのような記憶があるのですが。」
と申しました。
お嬢さんはしばらく考えたあと、ニッコリ笑われて、
「そうですか。ええ、そうだったかも知れません。
実は、病院で父を看取ったのですが、
父が亡くなった瞬間、父の魂が、ベッドの脇にいる私の胸にスッと飛び込んできたのです。
何かそういう感じがして…。
それ以来、ずっと一緒にいるような感じがしていて、
葬儀の時もあまり悲しくなかったのでしょう。」
このようにおっしゃられたのです。

僧侶にならなければ伺えないお話で、
有り難く感じたのを覚えています。

さて、「おくりびと」を観た晩のこと。夢を見ました。
(10年前に亡くなった)友人の棺を、火葬炉の中におさめている、
そこに私が立ち会って、炉の中を見ている、という夢でした。

映画は(私には)少し刺激が強すぎたのかも知れません。■


2009.03法然上人の物語 (下)

法然上人の胸の内にあった唯一の希望─それは、阿弥陀仏の極楽浄土に救いを求める、という教えでした。170年ほど昔、源信という名の高僧が浄土の教えを広めていました。しかし、源信の説いた天台宗の浄土教は、法然上人を満足させるものではありませんでした。なぜかというと、源信は念仏も説きましたが、その教えの重点は、坐禅を組んで心を集中し、阿弥陀仏のお姿や極楽浄土の光景を思い描く、という修行だったからです。
「源信の教えは確かに素晴らしい。だがこれでは、心の集中力が優れた人しか救われないことになる。わたしが求めているのは、一部の優れた人々が先導する教えではない。一部のエリートと、取り残された一般の大衆─その垣根を私は取り払いたいのだ。
世の中には、優れた修行者もいれば、そうでない人もいる。
仏教の学問に明るい人もいれば、暗い人もいる。
善人と、そして罪深い人がいる。
裕福であって、寺院に多額の寄進をできる人と、貧しくて功徳を積もうにもそれがかなわない人がいる。
さらに言えば、
生きている人と、すでに亡くなってしまった人がいる。
─こうした区別を吹き飛ばして、すべての人々を救いに導くような、素晴らしい教えはないものだろうか…。もしそのような教えがあれば、故郷の母も救われる。亡き父上も救われる。私も、そして乱世で苦しんでいる多くの人たちも救われるのだが…。」
これが法然上人の探求でした。
阿弥陀仏の極楽浄土に救いを求める─天台宗の先輩である源信が説いた教えをヒントにして、求道を続ける法然上人でした。
そしてとうとう、答えを見つけたのです。それは、中国の善導大師という方が500年も前に書かれた文でした。
「一心にひたすら阿弥陀仏のお名前を称え、これをいつも続けるならば、必ず極楽浄土へ救いとって頂ける。なぜなら、これこそが阿弥陀仏のお約束なのだから。」
この文に出会った法然上人は、はたとひらめきました。それまでは、
「能力の劣った人には、お念仏という方法もある。」
という見方が一般的だったわけですが、そうではなく、
「お念仏こそが、最高の修行なのだ。それは、数ある修行のなかから阿弥陀仏が選ばれた、そしてお釈迦さまが、もろもろの仏たちが選ばれた、最高の行なのだ。」
というふうに見るべきではないのか。法然上人はこのように考えたのです。
そして、この考えに立って、改めて阿弥陀仏や極楽浄土について説かれたお経を読み直してみました。先達の書かれた論書にも、新たな視点で再び目を通してみます。そして、ご自身の考えにますます確信をもたれたのでした。
「そうだ。この教えによれば、亡き父上も救われる。念仏を称え、回向することによって父上の魂が阿弥陀仏の光明に照らされるのだ。
故郷にいる母も、この教えで救われる。仏教の学問などまったく知らない者でも、心をこめて念仏を称えれば、必ず極楽浄土に導いて頂けるのだから。
この私も同じだ。いくら学問を積んでいても、今の私はお釈迦さまのお覚りからはほど遠いところにいる。そんな私でも、阿弥陀仏は必ず導いて下さるのだ。
この念仏の教えをたよりとすれば、父母ともやがて極楽浄土で再会することができるであろう。かの世界で、阿弥陀仏や菩薩さま方のお導きのもと、他の清らかな修行者たちと共に、われらも仏の道を歩むのだ。」
時に、法然上人43歳。もっぱらお念仏を称えて、阿弥陀仏に極楽浄土にお導き頂く、という新しい仏教が誕生したのです。

「よいか。そなたは出家して、わが菩提をとむらうのだ。そして、そなた自らも解脱を求めなさい。」
亡き父の遺言を解決した法然上人は、同時に、仏教の流れを大きく変えたのでした。インドに生まれ、中国で育った仏教は、ここに至ってあらゆる人に開かれた教えへと成長を遂げ、究極の完成を見ることになりました。(この項終わり)


2009.02法然上人の物語 (上)

比叡山に登った法然上人の胸の内には、いつも二つの問題が巡っておりました。それは他でもありません、亡き父の遺言でした。
「父上は、私が9才のときに、不慮の死を遂げられた。あの晩のことは今でもはっきりと覚えている。突然襲ってきた軍勢に囲まれ、父上は私の目の前で大きな痛手を負った。臨終の床で父上はこう言われた。
『息子よ。父を襲った者を恨むではないぞ。そなたがこの仇を討ったならば、今度はそなたが恨まれる番だ。お互いに仇討ちが続いて、血で血を洗う闘いはいつまでも終わることがないであろう。
よいか。そなたは出家して、わが菩提をとむらうのだ。そして、そなた自らも解脱を求めなさい。』
そう言って父上は亡くなられた。私はあまりのショックに、涙も出なかった。
その後こうして仏教を学んできたが、最高の学問所であるここ比叡山に来ても、あのときの父上の言葉を思わない日は一日もなかった。なぜなら、あの父の言葉が、私の日々の学問の根底にあるからなのだ。
父上はこう言われた。
『わが菩提をとむらうのだ。』
さて、父の菩提をとむらう、とはどういうことなのだろうか。すでに亡くなった人を覚りに導く方法というのはあるのだろうか。これが第一の問題だ。
父上は、こうも言われた。
『そなた自らも解脱を求めなさい。』
これが第二の問題だ。確かに仏典を学んでいくと、覚りに至る様々な道が説かれている。お釈迦さまのみ教えの深さには、目を見張るばかりだ。
だが、しかし…実際にお経に説かれたとおりに修行し、覚りをひらいた人を私は知らない。そのような人がはたして、今、この時代にいるのだろうか。
お経について詳しく学んだ人はいる。私自身も、誰にも負けぬくらい勉強してきた。仏教について何か尋ねられれば、大抵のことには答えられるだろう。だが、私は未だ解脱しているわけではない。
また、何かの能力に特に優れた人や、知識や経験が人並みはずれて豊かな人はいる。だが、覚りとは、解脱とは、そうしたこととはまったく別のものではないのか。このまま学問を続けて、覚りにいたることなどできるのだろうか。」
これが、若き法然上人の悩みでした。亡き父の遺言─それを果たすために仏教という道を選んだのですが、一向に答えが見つからないのです。法然上人の苦悩は、それはそれは深いものでした。このままでは、父の魂も救われず、自分も救われません。父の死は、このまま無駄になってしまうのでしょうか。そして、故郷岡山に残してきた母のこと。母はもちろん、仏教について学んだことはありません。解脱や覚りのことなど思いもよらず、ただただ亡き父のために、そして私のために心から手を合わせる日々を送っているに違いありません。出家した身となっては、母に会って世間並の親孝行ができるはずもない。自分自身が救いの道を見いだすことだけが、唯一の母親孝行となるに違いありません。しかし、もしそれが─救いの道が見つからないとしたならば…そう考えるとあまりにも恐ろしく、胸が押しつぶされるような気持ちになるのでした。
法然上人は、まるで時間と競争するように、激しく探求を重ねました。

そんな法然上人の胸の内に、一つだけヒントがありました。(続く)■


2009.01年頭にあたって

新たな年を迎えました。
本年も林海庵ならびに当サイトを宜しくお願いいたします。

元旦の修正会では、法要の中で次のような文を読み上げました。

「謹み敬って、ご本尊阿弥陀如来の宝前に伏し、恭しく観音菩薩、勢至菩薩等十方三世の諸仏諸菩薩を拝し、白して言さく。
われら、今ここに平成二十一年の元旦を迎える。本堂を荘厳し、香を焚き華(はな)を献じ、身も心も清らかにして、仏法僧三宝に帰依したてまつる。
思うにわれら、智慧のともしびから遥かに遠ざかり、長く覚りを得ることなし。その痛み言葉を以て言うこと能わず。
しかるに何の幸いぞや、受けがたき人の身を受け、大悲の本願にあいて往生浄土の素懐を遂げんとす。しかればすなわち、年改まるごとに覚りが近づくことを歓び、歳月代るごとに益々念仏の修行に励む。ここにおいて現前の衆生一同、一心にたなごころを合わせ、阿弥陀如来の宝号を称えて共に歓びの心を表わす。
請い願わくは、この功徳をもって天地ことごとく如来大悲の慈光を頂き、国豊かに民安くして四海とこしなえに平和ならしめ給わんことを。また願わくは我らを哀れみ護り給いて念仏修行に障りなきように。更に願わくは、有縁の現存者ことごとく楽を得て福寿無量ならんことを、また三界にある一切の諸精霊、苦を離れ浄土に往生して菩提増上せんことを。謹んで疏す。」

年改まるごとに、浄土往生が近づくことを歓ぶ─老いを嫌い、死を遠ざけんとする今日の風潮にあっては、なかなか理解しがたいことかも知れません。
この言葉の背景にあるのは、輪廻転生の苦しみからの解脱を理想とする、仏教の原点となる考え方です。

「生存に対する妄執を断ち、心の静まった修行僧は、生の輪廻を超える。かれは再び生存を受けることがない。」(『スッタニパータ』)

「(聖なる四つの真理を知った者は)心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。かれらは輪廻を終わらしめることができる。かれらは生と老とを受けることがない。」(同)

しかし、ここに示されるように自ら執着を断ち、智慧をきわめて輪廻の絆から抜け出るのは容易なことではありません。
一方、阿弥陀如来のお導きに任せて、お念仏に励むことでしたら私たちにも充分可能です。

「衆生の生死を離るる道は、仏の御教え様々に候うといえども、 このごろの人の、三界をいで生死を離るる道は、 ただ往生極楽ばかりなり。」(法然上人)

「このたび生死を離るる道、浄土に生まるるに過ぎたるはなし。 浄土に生まるる行い、念仏に過ぎたるはなし。」(同)

本年も悦びの心をもって、共にお念仏の道を歩んで参りましょう。■