コラム倉庫 2013〜14年分(平成25〜26年)


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煩悩 (2014.12) 除夜の鐘の108という数は、人間の煩悩の数を表わすと言われています。ある経文には、「1人1日のう...
宇宙のちり (2014.11) 浄土宗には「凡夫(ぼんぶ、と読みます)」という概念があります。これはたいへん興味深い考え方です。...
ご質問を頂きました (2014.10) 「悪い行ないをした人は罰せられるべきです。浄土宗のように、罪人でも『南無阿弥陀仏』と称えれば極楽...
感覚と言葉 (2014.09) 「お寺にお参りすると、そのときは心が清められた感じがするのですが、すぐに日常の心に戻ってしまいま...
平和について (2014.07) 武力によって平和がもたらされることはありません。お釈迦さまが説かれた通りです。先の戦争で平和がも...
「不在」ということ (2014.06) 身近な人が亡くなると、いわば胸にポッカリと穴が空きます。ポッカリ穴が空く、というのは一般的な表現...
念仏しましょう (2014.05) 私が浄土宗僧侶になった理由は、法然上人を尊崇する心と、「お念仏」という誰でもできる修行の場の中で...
葬儀のこと (2014.03) 赤ちゃんがオギャーと生まれるとき、お母さんは「…!」と踏ん張ります。同じように、人がこの世を去る...
生きた宗教は花の如し (2014.02) 寺にはたくさんの仕事があります。お花を活けるのもその一つ。林海庵では信徒さんの助けを借りながら、...
いま、浄土宗に制するところは (2014.01) 「いま、浄土宗に制するところは不喜足大欲の貪(とん)煩悩なり」浄土宗で戒めるべきは、足りることを...
年頭にあたって (2014.01) 謹んで新年のお慶びを申し上げます。皆さまの上に、み仏の変わらぬお護りがありますように祈念いたしま...
お墓と仏壇 (2013.11) このところ「お墓は不要、樹木葬にしたい」「仏壇はいらない」という話をよく聞きます。跡を継ぐ方がお...
死の恐怖 (2013.10) 私たちは死を恐れます。なぜでしょうか。生まれたばかりの赤ちゃんは死を恐れません。「死」ということ...
待つこと (2013.09) 宗教とは本質的に、「待つ」―いかに待機するか、という教えです。ジャズ・スタンダードにもなった「い...
法然上人のお言葉 (4) (2013.08) 毎月の行事「お念仏の会」では、おりにふれて法然上人のご法語を拝読しています。皆さんとご一緒に大き...
法然上人夢譚(むたん)(8)... 三人の独白 (2013.07) ―― 若い頃ずっと、私は賀茂神社に仕えるという特別の任務を負っていました。務めはできる限り果たし...
三学(サンガク)ヲ超エテ (2013.06) 4月(前々回)に「三学ノススメ」について書きました。三学とは、戒(かい=清らかな生活)、定(じょ...
故堀部上人のこと (2013.05) 佛教大学(京都)入学時以来の畏友、堀部博海上人が極楽浄土へと旅立たれました。過日、親しい方々とと...
三学(サンガク)ノススメ (2013.04) 「三学(さんがく)」は、仏教の基本です。浄土宗を開かれた法然上人は...
法然上人夢譚(むたん)(7)... 三人の独白 (2013.03) ―― 私は弘法大師を心から尊敬しています。大師の著作は難解ですが、繰り返し読んでいると「自分は大...
調和ということ (2013.02) この国は調和―大いなる和を大切にしてきた、といわれます。自然との調和、そして他者との調和。私たち...
謹賀新年 (2013.01) つつしんで新春のお慶びを申し上げます。門松は 往生路の一里塚 こころめでたし 南無阿弥陀仏本年も...



 一気読みコーナー 
※時間の逆順になっています(新しいものほど上)

2014.12煩悩

除夜の鐘の108という数は、人間の煩悩の数を表わすと言われています。
ある経文には、
「1人1日のうちに8億4千の念あり。念々のうちの所作、皆これ三途の業なり」
とあるそうです。
1日に8億4千とはまた法外な数字ですが、無数の思いが次から次へとわきおこってくるのが私たちの生きざま。その中でやることなすことすべて、三悪道の業である、というのです。なかなか厳しい話ですね。

それはさておき、次のような思いをお持ちの方はおられるでしょうか。

  • このことだけは誰にも言えない。(あるいは言いたくない。)棺桶まで持って行くつもりだ。
  • あのときの事を思い出すと、胸が苦しくなる。(痛む、はりさけそうだ…等々)いつまでたってもこの思いは消えない。消えるどころか強くなるようだ。
  • あのときの恨みは決して忘れることができない。できるものなら忘れたいところだが。
  • 人生の選択を間違えたのかもしれない。やり直しがきかないのは分かっているが、「道を間違えたのでは」という思いが消えることはない。
  • どうして自分はこのようなつらい境遇に生まれたのだろうか。周りの人が皆、幸せそうに見える。自分だけが暗い穴の底に落ち込んでいるようだ。
  • 自分のしでかしたことは、絶対に取り返しがつかない。
浄土宗では「煩悩具足の凡夫が往生する」と言います。これはすなわち、「これらのどうにもならない思いを抱えたまま、極楽世界に往くことができる」ということに外なりません。普通であれば、これらの思いは業となってさらなる悪しき連鎖を呼ぶわけですが、念仏によってこれらの煩悩を抱えたまま極楽という仏国土に往くことができる。かの世界でやっとこれらの思いから自由になることができる。ここが肝心なところです。
ここのところをよく考えて頂ければ、浄土往生を願う、という心情をご理解頂けるのではないでしょうか。一歩進めて「極楽に往生する主体は、これら諸々の煩悩である」と言ってもいいかもしれません。いわゆる悪人正機=悪人こそが救われる、というのも理解できましょう。

さあ、愛しき煩悩たちの往生を願って、お念仏を称えましょう。除夜の鐘を聞きながら…。◆

2014.11宇宙のちり

浄土宗には「凡夫(ぼんぶ、と読みます)」という概念があります。
これはたいへん興味深い考え方です。
私たちはただの凡夫に過ぎない。簡単に言えば、たいした存在ではないということです。神に選ばれた特別な人でもなく、仏教に深い理解をもつ優れた人でもない。たいした智慧もなく、知識と言えば聞きかじりの借りものばかり。周りの人の言葉や態度に振り回されて一喜一憂、考え方に一貫性もない。人を傷つけ人に傷つけられ、わーわー言いながらあっという間に一生が終わってしまう。
というと何だか気分が落ち込んでしまうかもしれませんが、それが私たちの真の姿です。万物の霊長? いえいえ、宇宙のちりみたいなものです。
しかし一方、自分が「宇宙のちり」に過ぎないと本当に気づきはじめると、そこに大きな空間が開けてきます。所詮「ちり」ですから、他の「ちり」と自分を比較してもしょうがありません。隣人がいかに立派に見えても、それは一見立派に見える「ちり」に過ぎません。自分とは関係ない。巨大な宇宙空間の中で、自分がどこにゆくのか、どこ向かって流れてゆくのかだけを考えれば良いのです。
そこで私たちが出会うのが、「ちり」を導いてくれる光明です。この光明に私たちは吸い寄せられ、身を任せてゆく。これが浄土の教えです。
自分はただの「ちり」に過ぎない、という自覚が出発点となります。そこに先人(浄土宗では釈尊、善導大師、法然上人といった方々)の導きとの出会いがあり、阿弥陀仏への帰依へとつながってゆきます。

われ浄土宗を立つる意趣は、凡夫の往生を示さんがためなり

(法然上人)

浄土宗の信徒の方でなくとも、この「凡夫」という見方は重要です。「自分は非凡な存在である」と思うこと自体はいけないことだとは思いませんが、自分の価値観や自分の美学、過去の経験、マイワールドに閉じ込められて外に出られなくなっている人が多いのも事実です。「凡夫」という見方を学ぶことによって少し肩の力が抜け、ホッと息をつけるのではないでしょうか。

「宇宙のちり」に過ぎない自分。でもたったひとかけらしかない、かけがえのない「ちり」。
そのくらいがちょうど良いかも知れませんね。◆

2014.10ご質問を頂きました

「悪い行ないをした人は罰せられるべきです。浄土宗のように、罪人でも『南無阿弥陀仏』と称えれば極楽浄土に生まれるというのはおかしいのではないでしょうか。憎しみが昂じて人を殺したとしても、後で「南無阿弥陀仏」と称えれば極楽浄土に生まれることができるのでしょうか。
また私は統合失調症で働くことができません。こんな人生なら『南無阿弥陀仏』と称えて自死の道を選んでも良いのでしょうか?」――

阿弥陀仏の本願力を信じてお念仏を称えれば、誰でも往生できます。
では、それを頼みとして悪を行なったときでも救われるのか?
法然上人は、
「罪人なりとても(往生を)疑うべからず。」
と仰る一方で、
「罪は十悪五逆の者も生まると信じて少罪をも犯さじと思うべし(どんな極悪人でも往生できると信じつつ、小さな罪でも犯さぬようにしなさい)」
と言われています。
えっ、結論は一体どちらですか? 悪を行なってもよいのかだめなのか。

さて、ここで「お念仏を称えたから悪を行なっても大丈夫」という人の最期の時が来たとしましょう。そのとき阿弥陀さまはどうおっしゃるでしょうか。
「やむにやまれず悪を行なってしまい、心底悔い改めて往生を願うのであれば救いとろう。しかし、初めから悪の悦びと極楽浄土の両方を手に入れようという態度は間違っている。そなたには極楽浄土はふさわしくない。」
と言われるかもしれません。
あるいは、
「そなたは何という愚か者か。だが、わが名を呼ぶのも仏縁である。極楽浄土で修行に励むがよい。」
と言って下さるかもしれません。
私にはそのときの仏さまの御心は分かりません。しかし、今はこのようなリスク(悪と往生を共に望む)は取らないことです。あとで大きな後悔が待っているかも知れないからです。もし他人の命を縮めるようなことになれば、生きている間だけでも大きな苦しみを受けることは間違いありません。

これは第二のご質問への答えでもあります。

「また私は統合失調症で働く事ができません。こんな人生なら『南無阿弥陀仏』と称えて自死の道を選んでも良いのでしょうか?」

阿弥陀仏の本願力を信じてお念仏を称えれば、誰でも往生できます。
従って、どのような亡くなり方をするかを問いません。
しかし…仏さまの言葉を逆手に取って、仏さまを試すようなことをすれば、どうなるかは保証できません。
「自死を奨めるために本願を立てたわけではない。」
阿弥陀さまはこのように言われるかもしれませんね。
往生できない、とは申しません(私には分かりません)が、やはり大きなリスクが伴うでしょう。

「阿弥陀仏と 心は西にうつせみの もぬけはてたる声ぞすずしき」

(法然上人)

もうこの世への執着がほとんどなくなり、心があたかも西方浄土にあるかのようであれば、肉体の命がどのように終わるかは関係ないでしょう。
しかし、
「もし健康であれば、もう一度人生をやり直してみたい。」
「もしもっと容姿が良ければ…、もしもっとお金があればもう一度人生を生き直してみたい。」
「もし…なら」
「もし○○なら」
という思いが強い人は、往生(=輪廻転生からの卒業)を本当に望んでいるわけではない、ということです。

あなたの場合は如何でしょうか。

何れにしても今生は限られた時間です…あなたにとっても私にとっても。思いを残さず精一杯生きてみては如何でしょうか。あなたなりの精一杯があるでしょう。
そして南無阿弥陀仏、あとはすべて仏さまの御手に委ねることです。◆

2014.09感覚と言葉

「お寺にお参りすると、そのときは心が清められた感じがするのですが、すぐに日常の心に戻ってしまいます」――

宗教は感じるものです。それは言葉ではなく、説明でもありません。自分の身体の中心で感じるものです。
「神仏の光に照らされている」「人知を超えた智慧を感じる」「たとえようのない慈悲の心に包まれている」
これらは皆、頭の中ではなく自分の身体の中心で感じて初めて理解できるものです。
そこまでの強い感覚でなくとも、単にお寺や神社に足を運ぶだけで「気持ちがよい」「すがすがしい」「ありがたい」…このような感覚を味わうことができるでしょう。それは、特別な場所で私たちが「神仏の光」の少なくとも一筋に触れることができるからです。

このように、感覚から宗教をとらえることはとても大切です。同時にまた、言葉による教えも大切です。なぜなら、感覚で体験するだけで終わってしまうと、それは時の経過とともに弱まってゆくからです。また体験が強烈である場合、その記憶は変質してゆくかもしれません。そこにエゴによる判断・操作が入り込むからです。「あれは本物であった」「自分は正しいものに出会った」。そこに本もの-偽もの、正しいもの-正しくないもの、正しいものを知っている私-それを知らない他人、という区別の心が入り込んできます。そのときそれはエゴを強めます。私たちの心は不純となり、純粋な宗教感覚は失われます。

そこで大切になるのは言葉による教えです。仏典のことばや聖賢の教えを学び、現在の自分の姿や自分の心に照らし合わせます。そのことによって私たちは再び謙虚になり、新しい感覚を保つことができるのです。
私たち僧侶は何十年にもわたって同じお経を読み続けます。毎日何気なく唱えていた(読み過ごしていた)一つの言葉が、あるとき大きな意味を帯びて自分の前に立ち上がってくる、というようなことがしばしばあります。

必ずしも難しい経文に通じる必要はありませんが、やはり読書を通じて聖賢の言葉にふれることはとても大切です。またできれば声に出して音読するのが良いでしょう。

宗教的感覚、宗教的感動が第一。さらに言葉に表わされた教えに触れることで、その感動を新たにすることができるのです。◆


2014.07平和について

武力によって平和がもたらされることはありません。
お釈迦さまが説かれた通りです。
先の戦争で平和がもたらされたでしょうか。日本人の戦死者は200万人以上といわれています。このうち原爆で亡くなられた方は20万人以上。他の国でも多くの命が失われました。
戦後の日本は平和の内に経済繁栄を謳歌してきたように見えます。しかしそれは表面の話です。私たち日本人の心には深い傷がうずいています。
仏教は心を見ます。自分の心を見つめます。そこには敗戦の悲しみと多くの命を失った痛みが深く刻まれています。
戦争を知らない世代、戦後に生まれた世代であっても、この悲しみと痛みをもっています。それは親から子へ、世代から世代へと引き継がれるのです。
心の深みに傷をかかえていると、それは何かの拍子に怒りに転化します。怒りは暴力性へと展開してゆきます。
しかし実際に暴力的な行為(行動のみならず発言も含みます)を行なえば、相手が個人であろうと他国であろうと、新たな傷を生むだけです。

武力によって平和がもたらされることはありません。

私たちはまず自分の心の底にある悲しみと痛みに気づき、沈黙の内に祈ることが必要なのではないでしょうか。
そして、耳を澄ますのです。
戦争で亡くなられた無数の方々…どういう声が聞こえてきますか。
「痛い」
「苦しい」
「無念だ」
「どうして」
こういう声でしょうか。あるいは、
「今度こそ戦争に負けない国をつくって欲しい」
こんな声でしょうか。
それとも、
「戦争のない世界、軍隊のいらない世界をつくって欲しい」
このような声でしょうか。

私たちは耳を澄ませなければなりません。
本当のところ、私たちは何を託されているのでしょうか。今の有権者の声ばかりでなく、先人の「声なき声」に耳を傾けてこそ、本当の自由主義、真の民主主義と言えるのではないでしょうか。◆


2014.06「不在」ということ

身近な人が亡くなると、いわば胸にポッカリと穴が空きます。
ポッカリ穴が空く、というのは一般的な表現でして、人によってそれぞれの実感、また(言葉にできる場合は)それぞれの実感表現があることでしょう。ここではそれらをまとめてポッカリ穴=「不在」と現代的に表現してみましょう。
ある家族の中の一人が亡くなったとします。家族のメンバーは、それぞれ心の中で故人の「不在」を感じます。家族の各々が、各々の刻々と動く心の中に「不在」を感じます。その「不在」像は家族のメンバー皆に共通する部分もあれば、また各々で異なっている部分もあることでしょう。感じられる「不在」の形や大きさは、家族の成員によって微妙に異なるはずです。
特定の場を設けて、家族(親族や友人知人)が集まり各々の「不在」を持ちよります。それが追善法要という宗教空間です。
「不在」は戒名という呼び名を得ることによって、また位牌という形式をもつことによって「実在」へと変容します。戒名を受けて「不在」は「実在」となり、垂直の次元を昇ってゆくことが可能になるのです。仏弟子となり仏に導かれる、とは、「不在」が「実在」となって高みに昇ってゆくことを意味します。

私たちは日常の世界に生きています。この日常空間では「身体」の存在が前提ですので、衣・食・住の確保が第一の関心事になります。しかし、私たちが身体を失ったあとも何らかの自己意識が続いてゆくとすれば、その自己意識、自己感覚の関心事は衣食住ではあり得ません。なぜなら身体が存在しない今となっては、衣食住も、また財産も意味を失うからです。性別も意味を失います。国籍も、国境も意味を失います。そこでは愛に触れること、無私の愛に満たされることが第一の関心事になるでしょう。
そのような「他者への愛」に生きる実在と私たちがつながりをもつためには、私たちの心のうちにある「不在」をもちよる場を設け、個々人の胸のうちにある不在を集めてそこに「実在」性をもたせ、さらにその実在に聖性を与えなければなりません。
仏事を営むことの意味はそこにあります。死=不在を実在に変容させ、その実在に聖性を与えてさらに高く聖化してゆく営み…それがいわゆる仏事です。
仏教離れということが言われますが、私の見るところでは、僧侶の読経を中心に営まれる仏事以外に、この「不在」を実在化させ、さらに聖化させてゆく有効な手段はないと思います。お別れの会、偲ぶ会を開けば「不在」の共有まではできるでしょうが…。
読むお経は同じでも、葬儀や法事は一件一件まったく別のもの…私たち僧侶は皆そのように感じています。それはなぜか。この「不在」が故人特有のもの、そのご家族特有のものだからです。
「不在」―それは悲しみという高貴な感情を伴います。そしてその「不在」が「実在」となって聖なる高みに昇ってゆくとき、私たちもその実在に導かれ、聖なる世界を垣間みることができるのです。

「不在」とどう向き合うか―それは亡き方を心に抱きながらどう生きてゆくか、すなわち亡き方とともにどう生きてゆくか、ということに他なりません。◆


2014.05念仏しましょう

私が浄土宗僧侶になった理由は、法然上人を尊崇する心と、「お念仏」という誰でもできる修行の場の中で人々と関わりたいという気持ちをもったからです。
数えているわけではないので正確には分かりませんが、これまで10万人以上の方とご一緒にお念仏を称えました。それは職業として僧侶の道に進むことができたおかげです。そして「浄土宗」という伝統仏教の組織や檀信徒のつながりの中に身を置くことができたおかげ。一般人として「法然上人の教えは素晴らしい」と思うだけであれば、こうはゆかなかったことでしょう。

さて、皆さんとお念仏を称えるときには、このように声をおかけします。
「ここで、しばらくの間ご一緒にお念仏をお勤めしましょう。心をこめてご唱和下さい。」
あるいは、お念仏について説明を加えます。
「私たちはなぜ『なむあみだぶつ』と称えるのでしょうか。お念仏は、阿弥陀さまの呼びかけ―『わたしの名を呼びなさい。南無阿弥陀仏と称えなさい。そうすれば、必ず極楽世界に救いとってあげよう』という呼びかけに応えて称えるものなのです。『わたしの名を呼びなさい』『はい、分かりました。なむあみだぶつ』というわけです。さあ、ご一緒に称えましょう。」
4月のお念仏の会で、阿弥陀仏の「必ず救う」というお約束についてやや詳しくお話をしました。この約束、お誓いのことを本願といいます。(京都に本願寺という浄土真宗の大きなお寺がありますね。)
法然上人のご法語の中にこの本願をご説明されているところがありまして、そのお言葉をご紹介しました。ところがそのご法語には、たくさんの方が登場するのです。

  1. 世自在王(せじざいおう)如来
  2. 法蔵(ほうぞう)菩薩
  3. 阿弥陀如来
  4. お釈迦さま
  5. 善導大師
  6. 法然上人
お話はこうです。
かつて「1. 世自在王如来」という仏が世に現れ、この仏の弟子となった一人の修行者がいた。その修行者の名前は「2. 法蔵菩薩」。法蔵菩薩は48の誓願をたてた。そのうちの18番目はこのようなもの。
「わたしが仏となったあかつきには、誰でも十念する者は必ずそこへ入れるような仏国土を構えよう。もしそれが叶わないのであれば、わたしは仏になるまい。」
やがて法蔵菩薩は修行を積んで仏となる。その仏の名を「3. 阿弥陀如来」という。
以上のように「4. お釈迦さま」は説かれた。(『無量寿経』)
このお釈迦さまのみ教えに出てくる法蔵菩薩のことば「十念」を、中国は唐の時代、「5. 善導大師」という偉いお坊さまが「十念とは、南無阿弥陀仏と十回称えること」と解釈された。そして「法蔵菩薩の誓いは(仏となられた時点で)すでに実現している。念仏を称えれば必ず極楽世界に入れるのだ」と説かれた。
だから「念仏しなさい」と私「6. 法然上人」は説くのです。

このようなお話になります。6人のお名前が出てきます。法蔵菩薩はのちに阿弥陀如来になられるので同一のお方。それを考慮に入れても短いお話の中に5人の方々が登場します。ああ、ややこしい。

この法蔵菩薩の物語と善導大師の解釈は、浄土宗や浄土真宗の僧侶であれば誰でもよく知っている基本です。ところが、皆さんに言葉で説明するとなるとややこしくなります。「まあ理屈はいいですから、心を込めてご唱和しましょう。法然上人もそう教えておられます」となるわけです。

ここで述べたお話の先に、さらに教義と解釈の森が広がっています。私どももいっときはこうした「理屈」を学びますが、やはり第一の本質はお念仏の声、南無阿弥陀仏と称える声の中にあるのです。

皆さんもぜひ、林海庵のお念仏の会や写経会にご参加下さい。
大きな声でご一緒にお念仏いたしましょう。◆

2014.03葬儀のこと

赤ちゃんがオギャーと生まれるとき、お母さんは「…!」と踏ん張ります。同じように、人がこの世を去るときには縁者の方々と共に私ども僧侶が足を踏ん張って「エイヤッ!」と送り出さなければなりません。簡単に言うとそれが葬儀式です。儀式というと「形式ばったことは嫌いです」という方もいるかもしれません。しかし、面倒くさいからと言ってこの「エイヤッ!」を省略してしまうと、安らかにあの世に生まれることは叶わない。私はそう思うのです。
では葬儀の中でお坊さんは何をやっているのでしょう。訳の分からない(ように聞こえる)読経は、それぞれ意味があることなのです。ただのBGMだと思っていては大間違い。一般の方がそう思うのならまだしも、葬儀社の職員の中にもそう思っている人がいるのは誠に残念なことです。
ここで、浄土宗の葬儀を順を追ってご説明しましょう。地方や寺院によって多少の違いがありますので、私がいつも勤めている内容を例としてご紹介します。

  1. 枕経(まくらぎょう)
    亡くなられてから初めて枕元でお勤めするお経です。故人をお導き下さる仏さまがたをお迎えし、故人をお守り頂きます。さらに、お旅立ちに際し故人に「まことの仏弟子」となって頂く儀式(の一部)を勤めます。
    読経の後は、ご家族から故人についての様々なお話を伺います。初めて伺うお宅であれば、お仏壇をよく拝見してご先祖のお戒名を書写し、戒名作成の資料とします。

  2. お通夜
    読経の前半部分で、故人に仏弟子とおなり頂く一連の儀式をつとめ終え、仏弟子としての証し―お戒名をお授けします。お戒名には、次のような字(語句)を盛り込みます。
    • 仏教の教えにちなんだ字
    • これからこのように仏道を歩んで欲しい、という僧侶としての願いを込めた字
    • 故人のお人柄を表す字
    お名前(俗名)の字は、入れる場合と入れない場合があります。
    漢字の構成や音読の響きなどを考慮しながら、総合的に決めてゆきます。

    お戒名をお授けしたあとは、仏さま=阿弥陀如来と極楽浄土をたたえるお経(節がついているので、歌のように聞こえます)、そして阿弥陀如来のまことのお姿を観る方法を故人にお伝えするお経を上げます。さらに、ご参列の方々とお念仏を唱和して安らかなお旅立ちのためにその功徳を捧げます。
    読経後の法話では、お念仏を称えて故人をお送りすることの意味や、どうしてこのお戒名をお授けしたかについての説明などをお話しします。(枕経に伺えなかったときは、お通夜のお経の中に枕経のお経を繰り入れます。)
    こうしてお旅立ちの支度を整え、最後の夜を過ごします。

  3. 葬儀式/告別式
    葬儀式では引導が中心となります。引導とは、故人に教えの中心をお伝えして極楽浄土へとお送りする作法。いわば葬儀の頂点と言えるもので、冒頭に述べた「エイヤッ!」の部分にあたります。
    続く告別式では、ご遺族ご親族はじめ会葬の皆さんに、お別れのご焼香をして頂きます。回数は「一回、ゆっくりと、丁寧に心を込めて」と覚えて頂ければ良いでしょう。
    故人に対してはむろん皆さんさまざまな思いがあるでしょうが、ここでは故人に対して「感謝」と「ねぎらい」の心で手を合わせて頂くのが良いと思います。

  4. 初七日
    故人を極楽浄土へお送りした後、かの国で仏道を前へと進まれるように願って勤める法要です。四十九日法要以降も基本的には同じ主旨のおつとめになります。
以上が葬儀の大体の流れです。(火葬場でのお経は省略しました。)
浄土宗はお念仏を中心とする宗派です。私ども僧侶は上述のように故人に対していろいろとお伝えすることがあるのですが、皆さまは「お念仏をもってお送りする」、これを要点と心得て頂ければ良いと思います。不慣れなことで戸惑いも多いでしょうが、故人をしっかりお送りすることを第一にして下さい。ご会葬の方々に礼を尽くすのは二の次で結構、またそれが許される場でもあります。

ついでながら、東京近辺では「直葬」という送り方(といえるのでしょうか)が増えています。「火葬炉の前で少し読経して下さい」と言われることもたまにあるのですが、その場で取れる時間はせいぜい10分程度。上述の読経の大半を省略する、ということになってしまいます。(ご自宅にご遺体が帰られていれば、火葬前に伺って枕経をつとめることもできますが…)

大切な方をお送りするときは、やはり心を尽くして大切に送りたい。その気持ちは私ども僧侶も同じなのです。
「直葬で良いのか!」
と私は言いたい。
葬儀社さんはある意味で需要に応えるのがお仕事。やはり喪主、遺族となる皆さま方自身に、よくよく考えて頂きたいと思います。◆

2014.02生きた宗教は花の如し

寺にはたくさんの仕事があります。
お花を活けるのもその一つ。林海庵では信徒さんの助けを借りながら、本堂はじめ数カ所にお花を飾っています。
花の命は短くて―数日のはかない色ではありますが、一方では大きな力をもっています。花弁を広げて芳香を放ち、色彩を輝かせます。ながめる人の心にその存在を映します。はるかに離れたところから虫たちを引き寄せ、やがては種を宿して次の生命を広げ、この地球に美を添えてゆきます。
鋼(はがね)の花ばさみは古い花を一瞬にして切り取りますが、花の持つ力は具えておりません。
生きた宗教もまた花の如し。その香り、その輝き、その力は忘れ去られることはありません。古い歴史をもつ宗教も、今日この時に新鮮な香りを放ち得るのです。
もし皆さんが生きた宗教に触れることができたなら、それはこの上ない体験となるでしょう。

無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭い遇うこと難し

無上―この上なく、甚だ深く微妙であるとは、経文の難解さを言っているのではありません。
生きた宗教、生きた仏教の心とは、鮮やかなる花の如く貴し、という意味でありましょう。◆


2014.01いま、浄土宗に制するところは

「いま、浄土宗に制するところは不喜足大欲の貪(とん)煩悩なり」
浄土宗で戒めるべきは、足りることを知らずに飽くなき欲望を追い続けることであり、少々の欲は問題ありません―これも法然上人の教えです。

欲望、怒り、無知を仏教では「三毒」といいます。
私たちは自分のエゴを自明のものと考えます。そしてまずエゴの周りに線を引いて(無知)、気に入った人やものをその線の内側に取り込もうとします(欲望)。気に入らない人やものを線の外側に退けようとします(怒り)。
この三毒を滅するのが覚りへの道。これが仏教の基本ですが、実際はどうか。
欲や怒りはいけないと分かっていても、自分を制する事ができない。あれが欲しいとなると、そのことばかり考えて我を見失ってしまう。あのひとが憎いと思えば、その人のことを考える必要がないときでもわざわざ考えをめぐらせ怒りに捕われてしまう。これが私たちの真の姿です。
浄土宗では「喜足小欲の貪(とん)は苦しからず」「少々の痴は往生の障りにはならず」、つまり三毒とはいっても多少のことは構いません、と言います。なぜかと言えば、阿弥陀仏の本願力が私たちを助けてくれるからです。
仏道を歩む上で、私たちが自力で進める距離はわずかなものです。他力、つまり阿弥陀仏の導きがなければ、私たちはすぐに道に迷ってしまいます。三毒を払い輪廻転生の絆を断ち切ることは到底できません。ゆえに阿弥陀仏の導きを頼りとして念仏を称えましょう―これが浄土宗の理解です。

実人生では自分の努力が欠かせませんね。他人さま任せではいずれやってゆけなくなるでしょう。しかし仏道となると話は違ってきます。
三毒を抑えつつも、念仏の生活を送る。「西方極楽浄土」というと一見非現実的な世界に思われるかもしれませんが、仏道という点では優れて現実的な道なのです。◆


2014.01年頭にあたって

謹んで新年のお慶びを申し上げます。
皆さまの上に、み仏の変わらぬお護りがありますように祈念いたします。

人の世は 鏡の中の役どころ
胸のうちには 真実の声

心と心の真実がふれ合う…そのような時を大切に今年も過ごして参りたいと思います。

本年もどうぞ宜しくお願いいたします。◆

2013.11お墓と仏壇

このところ「お墓は不要、樹木葬にしたい」「仏壇はいらない」という話をよく聞きます。
跡を継ぐ方がおられないならともかく、そうではない場合でもこういう人がいます。どうしてお墓や仏壇がいらないと思うのですか、と尋ねると、
「お墓を建てても子どもが守ってくれないと思う」
「子どもに負担を残したくない」
というお答え。
なるほど、少子化のこの時代、ご先祖を守るのも昔のようにはいかないかも知れない…しかし、ちょっと待って下さい。
林海庵には境内墓地がありません。寺に見える方は、ほぼ100%が霊園にお墓をお持ちです。もしくはまだお墓がまだ決まっていない方です。
霊園にお墓を持つのであれば、お金がかかるのは最初だけです。(管理費用やお花代お線香代は別として。)「お墓を守るのは大変」ということはありません。
お仏壇はどうでしょう。仏壇を守るのは大変でしょうか。朝晩お線香を点してお参りするのは負担でしょうか。もし自分の親の位牌がそこに祀られているならば、負担とは思わないでしょう。亡きお父さんやお母さんと心を通い合わせることのできる大切なひとときです。
ここで申し上げますが、私たちがお墓や仏壇を守るのではありません。お墓や仏壇が私たちを守ってくれるのです。お墓や仏壇が子どもたち、孫たちを守って下さるのです。
そのように考えて下さい。「お墓や仏壇を残さない」ということは、子どもや孫の祈りの場を奪う事になります。厳しい時代を生きていく上で、祈りのひとときがいかに私たちの心を支えてくれるか、子どもや孫を支えてくれるか―そこのところをよくよくお考え頂きたいのです。
後を継ぐ方がいない、家族がいないという人も同様です。仏壇をたたむときは状況に応じて何とでもなります。命ある間、日々の祈りの場を持つことはとても大切なのです。お仏壇に守られて生きることがいかに力になるか…。
一人一仏壇。
―お勧めいたします。◆


2013.10死の恐怖

私たちは死を恐れます。
なぜでしょうか。

生まれたばかりの赤ちゃんは死を恐れません。「死」ということが何を意味するのか分かりません。だから恐れようがないのです。私たちが死を恐れるのは、成長の過程で「死=怖いもの、苦しいもの、避けたいもの」と思うようになったからです。

おそらく、死を厭う心を親や周囲の人から受け継いだのでしょう。また、実際に近しい人が亡くなって辛い思いをしたり、あるいは病気で苦しい経験をして「死ぬときは、これよりももっとつらいだろう」と思ったのかもしれません。未知の経験であるがゆえの恐れもあるでしょう。
一度自問してみて下さい。「私はなぜ死を恐れるのか。」この思いを曖昧なまま皆が共有しているというのは、不思議なことかもしれません。

いずれにしても、成長する過程で私たちは「死は恐いもの、避けたいもの」と思うようになりました。

この観念は、わたしたちの生活の隅々にまで及んでいます。
死から逃げるために、私たちは安全の城を築こうとします。私たちは家を持ちます。動物であれば雨風をしのげればそれで十分でしょうが、私たちはそれだけでは不安です。土地を所有し、建物を所有しようとします。「所有」によって安全の城を築くのです。財産を所有し、社会的立場を得てこの城を守ろうとします。

もし「死」がなければ私たちの人生はどうなるでしょうか。
空腹になっても死なないのであれば、私たちは働かなくなるかもしれませんね。家を持とうともしなくなるでしょう。家族ももたないかもしれません。放っておいても子どもたちが自然に育つと分かっているのですから。

こう考えてゆきますと、私たちの人生はことごとく「死」あるいは「死を避けたい」という観念の上に築かれていると言えないでしょうか。

仏教は、この土台に切り込みます。
「そもそも『私』が虚構なのだから、『私の死』もない。」
「『世界』も『私』も夢のようなもの。生も死もかくの如し。」
「生も死も一つである。区別を設けるな。」
「今ここに徹して生きれば、生もなく死もない。」
「死は終わりではない。長い長い輪廻の旅の一コマに過ぎぬ。」
「『私はいない』は真実であるが、これを体感するのは難しい。生死を仏に委ねひたすら念仏せよ。」
―これらの教えは「死」と真正面から取り組みます。

このごろ「終活」という奇妙な響きの言葉を耳にしますが、仏道の学びがあって初めて、そのときへの準備が整うのではないでしょうか。葬儀のときにこの音楽を流して欲しいとか、棺にはこれを入れて欲しい、などと書き残すことに何の意味がありましょうか。

法然上人のお言葉にこうあります。
「法王、罪人に問うて曰く、『汝、仏法流布の世に生まれて、何ぞ修行せずしていたずらに帰り来たるや』と。そのときには我ら、いかが答えんとする。」

―われわれの来世の行き先を決める閻魔大王が、死後のわれわれにこのように問うであろう。『お前は仏教が流布している世に生まれながら、どうして修行もせずに虚しくまた戻って来たのか』と。そのときにわれわれはどう答えたらよいというのか。

「ゆえに、今こそ輪廻から解放される道をしっかりと求めよ。」
ここが出発点です。◆


2013.09待つこと

宗教とは本質的に、「待つ」―いかに待機するか、という教えです。
ジャズ・スタンダードにもなった「いつか王子さまが」という歌があります。王子さまを待つ白雪姫の心境こそ、宗教の心である…こう言ったら驚かれるでしょうか。
そして浄土教こそ、まさしく「待つ」宗教です。
そのときを待つ。その瞬間は、肉体の命脈が尽きると同時に起こる―こう説かれます。
「舎利弗よ。阿弥陀仏についての教えを聞き、もし1日ないし7日、念仏を称えること一心不乱であったならば、その人の命が尽きるとき、阿弥陀仏は聖者たちとともにその姿を現わす。それを見た人はこころ動揺することなく、真直ぐに阿弥陀仏の覚りの世界へと導かれるのである。(『阿弥陀経』より)
釈尊のお言葉です。これは本当なのでしょうか。本当に私たちの臨終のときにそれが起こるのでしょうか。経験のないことなので、正直なところ何とも申せません。
ここで、私たちはこの教えの正しさにいわば「賭ける」ことになります。
ではなぜそうした賭け(言葉が良くないですが)が可能になるのでしょうか。
それには二つの理由があります。
第一の理由は、覚りを得ることの難しさです。この難しさは、数学の難問を解くというような難しさとは異なります。また、困難な登山に成功するということとも違います。むしろ、宝くじの一等にあたる、ということに近いのではないか―これも不謹慎な表現ですが、私はそのように思っています。
つまり、誰でも覚りを得る可能性を持っているが、実際に覚る人は極めて少ない。また覚りを得るというのも、当人の才能、能力や血のにじむような努力によるよりも、むしろ運によるところが大きい、ということです。あたかも宝くじは誰でも買えるが、一等にあたる人は極めて少ない、それも当選するのは才能や努力によるのではなく運による、というのと似ています。
覚りを得る「運」には良き師との出会い、良き教えとの出会い、ということも含まれます。しかし、いかによき教えと出会っても、それが個人的な宗教体験と結びつかなければ、覚りの世界に近づくことはできません。このタイミングはほとんど奇跡的偶然による(つまり説明不能)と言ってもよいと思います。
お釈迦さまは出家されてのち苦行6年、35歳で覚りを開いたと伝えられています。
自分もお釈迦さまと同じような修行を積んだとしよう、果たして6年間で覚りが開けるのか…いにしえの仏教徒たちもこの疑問を持ったに違いありません。ゆえに「いや、お釈迦さまは特別なお方だ。なぜなら前生にこのような徳を積まれたのだから」という物語がたくさん生まれました。特別なお方だったからこそわずか6年間の修行、35歳で覚りを開くことが可能だったのだ、自分たちと比べるなんてとんでもない、という説明です。そうした説明が必要とされるほど、類いまれなることがお釈迦さまに起こったわけです。
また、お釈迦さまは覚りを開かれたあと「このまま沈黙を保とう」と思われた、と伝えられています。神々の奨めがあったからこそ、沈黙を破って法輪を転ずる決心をなさいました。人々を教え導くことをいっとき躊躇されたのはなぜか。「起こるべからざること(覚り)が偶然に起こった」とお考えであったからではないか。ゆえに、人々を導くことの難しさ、無益さを感じられたのではないか。そのように想像するのです。
個人的才能や努力をはるかに超えた次元で「それ」が起こる。とするならば、この次元、私たちの日常的次元でいくら努力をしても覚りには遠く及びません。私たちができることは、覚りをつかもうと立ち上がって出かけて行くのではなく、今いる場所で自分の用意を整えて待つ、ということです。ゆえに「待つ」という選択に賭ける―それが浄土教です。
このように、覚りを得ることが極めて稀であるがゆえに、浄土の教えに賭ける。
さらにもう一つの理由は、いにしえの聖賢たちがこの道を支持しているからです。私どもに身近なところでは、わが国の法然上人。上人のお言葉や書簡として伝えられるものを読むと、このお方がただの人ではないということがよく分かります。感じられます。

月かげの いたらぬ里はなけれども
ながむる人の 心にぞすむ (法然上人)

「月かげ(月の光)」とは阿弥陀仏の光明のこと。このお歌は浄土宗の宗歌となっている有名なものです。法然上人は、阿弥陀仏の光明をご自身のみ心に直に感じ取っておられたに違いありません。仏の光明が法然上人のみ心を照らし、その光が上人の周囲の人々をも明るく照らす。そのような光景が思い浮かぶのです。
尊い教えは数多くありますが、今は法然上人のお導きに賭けます。すなわち「念仏する者を必ず導く」という仏のお言葉を第一として念仏を称えながら、そのときを待て。
「そのとき」とは、決して虚無的な「死」ではありません。阿弥陀仏の覚りの世界に真直ぐに飛翔してゆく「そのとき」です。そのとき私たちは、初めて見る光―法然上人が「月かげ」と読んだ―まばゆいばかりの光明に包まれることになるでしょう。

千とせふる 小松のもとをすみかにて
無量寿仏の 迎えをぞ待つ (法然上人)◆


2013.08法然上人のお言葉 (4)

毎月の行事「お念仏の会」では、おりにふれて法然上人のご法語を拝読しています。皆さんとご一緒に大きな声で唱和し、解説を加えながらさらに二たび、三たびと音読します。
目で文章を追い、声に出して唱え、その声がまた耳から入ってくる。身体で読む─この繰り返しが大切です。
今月のコラムではご法語の第四を取り上げましょう。

念仏往生の誓願は、平等の慈悲に住しておこしたまいたる事なれば、人を嫌う事は候わぬなり。仏のみ心は、慈悲をもて体(たい)とする事にて候うなり。されば『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』には、「仏心というは、大慈悲これなり」と説かれて候。
善導和尚(ぜんどうかしょう)、この文を受けて、「この平等の慈悲をもては、普(あまね)く一切を摂す」と釈したまえり。「一切」の言(ごん)、広くして漏るる人候うべからず。されば念仏往生の願は、これ弥陀如来の本地(ほんじ)の誓願なり。余(よ)の種々の行は、本地の誓いにあらず。
釈迦も世に出でたまう事は、弥陀の本願を説かんとおぼしめすみ心にて候えども、衆生の機縁に随いたまう日は、余の種々の行をも説きたまうは、これ随機の法なり。仏の自らのみ心の底には候わず。
されば念仏は、弥陀にも利生(りしょう)の本願、釈迦にも出世の本懐なり。余の種々の行には似ず候うなり。

(私訳)
阿弥陀仏の誓願―「わが名を呼べ、そうすれば必ずわが極楽世界に救いとろう」という約束は、誰に対しても変わらぬ慈悲心から出たものだ。だから、この人は救うがあの人は除く、という事はない。仏のみ心とは、慈悲そのものである。『観無量寿経』に「仏心とは大慈悲これなり」と説かれている通りだ。
中国の善導和尚はこの経文について、
「阿弥陀仏は、この平等の慈悲心をもって、あまねく一切の人びとを救いとる」
と解説している。「一切」という言葉はまことに広い意味であって、この救いにもれる人のいようはずがない。この念仏往生の誓願は、阿弥陀仏が未だ仏になられる前、菩薩であったころの誓いであって、その他の瞑想や礼拝などの修行は、当時の誓いではない。
釈尊がこの世に出られたのも、阿弥陀仏の念仏往生の願を説こうと思うお心からだ。人びとの能力や状況に合わせては、念仏以外のさまざまな修行も説かれた。だがこれはあくまで人びとの能力に応じて説かれた教えであり、釈尊ご自身の本心ではない。
ゆえに念仏は、阿弥陀仏にとっては人びとを救う約束、釈尊にとっては世に出られた本懐である。他の様々な修行とは違うのである。


念仏往生とは、阿弥陀仏と釈尊がわたしたちを相等しく救う為に切り開いて下さった道―このことが重ねて説かれます。
「この道を進めば仏の世界にたどり着くであろう」という教えは種々ありますが、浄土宗の場合は私が自力で険しい道を登って行くのではなく、「阿弥陀仏みずから私を迎えに来て下さる」―ゆえに、「仏心とは大慈悲これなり」です。

法然上人は、ご自身のお念仏の合間にこうした教えを説かれました。そのことを思い起し、お念仏の合間にご法語を味わうのが良いでしょう。
理屈よりもまずは実践です。

極楽に 往くと決まりしこの身には 苦楽あれども楽のうちなり◆


2013.07法然上人夢譚(むたん)(8)... 三人の独白

―― 若い頃ずっと、私は賀茂神社に仕えるという特別の任務を負っていました。務めはできる限り果たしたと思います。しかし、私の人生には何かが欠けていました。
法然さまに初めてお目にかかった時、私に欠けている何かをこのお方は溢れるほど持っている、とすぐに分かりました。私がそう思ったことを法然さまも気づいておられたと思います。
あるとき私は重い病にかかりました。法然さまにひと目お目にかかりたい―と痛切に思いました。使いの者を出して私の気持ちをお伝えしましたが、法然さまはお見えになりませんでした。その代わり、長い長いお手紙を下さったのです。
見舞いに来て下さらぬことに落胆していた私には、そのお手紙は長い言い訳にしか読めませんでした。
しかし、それは間違っていました。法然さまは、真の意味で私のことを大切にして下さったのです。そして、こう気づきました。私は法然さまのお姿ばかりでなく、法然さまの背後に輝くみ光に目を向けるべきだった、と。
それが分かったのは、ずいぶんあとのことでした。

◇ ◆ ◇

―― あるとき上人は招きを受けて、勝林院での仏法談義に赴かれました。議論のやりとりは一昼夜に及んだそうです。
上人は帰ってから、こう言われました。
「自力で覚りを求めようとする法門と、念仏による救いを説く浄土門のどちらが勝れているか。法門の優劣は互角であったが、当世の人々にはどちらがふさわしいか、という点では、わたしの説く浄土門の方に軍配が上がったよ。」

その場に居合わせた人の話です。
「議論といっても、話していたのはほとんど上人お一人でした。
法相、華厳、三論、天台、真言、禅のそれぞれについて、上人の理解を超える話ができる人は一人もいなかったのです。いずれの道も、恐らく山頂である覚りに通じているのでしょう。上人はそれぞれが辿る道筋をこと細かに説かれました。実際に歩んだ人でなければ知り得ないような道の起伏、険しさ、途中それぞれの場所に広がる景色から、道ばたに咲いている野草のいちいちに至るまで…喩えて言えばそのような具合です。上人のお話はまことに多岐にわたりました。
集まった面々の中には、自説を滔々と語る人もいましたが、初めのわずかな時間だけでした。あとは稀に上人に質問をするだけで、他の時間は圧倒的な上人のお話に深く頷くばかりでした。」

別の人です。
「上人はやや低い、穏やかな声で話されました。ふだんと同じです。人が多かったものですから、注意して耳を傾けないと聴き取れませんでした。初めて聴く貴重な話も多く、いくつか印象に残ったところは戻ってからすぐに書き留めました。でもそれはほんの一部に過ぎません。
ああ、阿難尊者のような記憶力があれば…自分の愚かさを呪いました。」

こういう人もいました。
「仏教を二十年間学んできました。解脱や覚りと言っても、自分は何一つ理解していなかった―それが今日よく分かりました。浄土門に帰するかどうかは分かりません。確かなのは、まったくの初めからやり直しだ、ということです。」

別の人です。
「心から覚りを求めて歩んできた人は、かくも違うものか―とにかく驚きました。私がこれまで知っている僧侶は、ただ学問を弄ぶ人、仏教を通じて地位や名誉を欲する人、徳を積んで社会へ影響力を広げたい人、さもなければ遁世して廃人のようになってしまった人…そういう者ばかりでした。仏教者とはそういう人たちだと思っていたのです。
すっかり考えが変わりました。」

◇ ◆ ◇

―― 私のこれまでの人生は、周囲で起こる様々なことに翻弄され続ける―ただそれだけでした。仏の道とは遠くかけ離れた河の流れに浮かぶ落ち葉のようなものです。ただ流れに身を任すしかない―しかも、その流れは濁りきっていたのです。
初めてお目にかかった時、法然さまは微笑みながら、
「何も変える必要はない。ただお念仏をなさい。」
と言われました。
たったそれだけで仏の道に入れるのかしら…私のイメージでは、仏の道とは険しい階段を昇るようなものでした。数段踏み外して怪我をしたり、別の階段を昇っていることに気づいて初めからやり直さなければならなかったり、散々そうしたことを繰り返しながら、少しずつ少しずつ、上に昇ることができる―そういう道を想い描いていました。
ですから、ただ念仏なさいと言われても、当惑するばかりでした。お経を読めば答えが見つかるかもしれないと思って目を通してみましたが、何も分かりませんでした。
ただ、法然さまはこれまで出会った人の中で一番信頼のおけるお方―それだけは間違いありませんでした。それで、私もお念仏を始めました。
うまく表現できませんが、私の心と私の周囲が、少しずつ変わり始めたように思います。◆

(この話は夢物語であり、歴史的事実ではありません)


2013.06三学(サンガク)ヲ超エテ

4月(前々回)に「三学ノススメ」について書きました。
三学とは、戒(かい=清らかな生活)、定(じょう=心の安定)、慧(え=心の安定から生まれる洞察)のこと。仏教修行の基本です。
日々これらを心がけるだけで、私たちの人生、私たちの生活は飛躍的に改善される―そのあたりのことを書きました。
しかし、仏教徒としては問題が残ります。三学による生活の改善を積み重ねた結果、「覚り」にまで辿りつくことができるのでしょうか。あの釈尊が成道された地点と同じところに、私たちは本当に立つ(坐る)ことができるのでしょうか。
実のところ、釈尊は単に私たちの生活を向上させるために教えを説かれたのではありません。私たちをご自身と同じ「覚り」に導くために、成道の坐から立ち上がり、沈黙を破って教えの法輪を回されたのです。
覚りとは何か。それは限りなき光明であり、煩悩の断滅であり、輪廻転生の終止です。それはまた、他者に向かって溢れ流れる限りなき慈悲心であり、迷いの闇を打ち破る電光石火の如き鋭い智慧です。
「よし。必ずそれ(釈尊と同じ覚り)を達成してみせる。」
と決意し、その道に進まれる方もおいででしょう。
しかし多くの人はこう思うのではないでしょうか。
「現実問題として、自分の人生でそこまで行くのは無理であろう。自分より優れた人は世の中にたくさんいるが、お釈迦さまに匹敵するような人に出会ったことなど一度もない。噂を聞いたことすらない。それなのに、この自分がお釈迦さまと同じ覚りを開くなんて…。」
いにしえの時代に大乗仏教をつくり上げてきた人々も、そう考えたに違いありません。伝統的な修行にうちこむ出家教団は存続していましたが、実際に覚りを得た人は見当たらず、硬直化した集団、権威的閉鎖的な集団と化していました。釈尊が亡くなられて300年、400年も経てくれば無理もないことです。
ここに、直接仏を信仰し、今現在において仏の導きを得ようとする新しい信仰運動(=大乗仏教)が起こりました。そのなかの代表的な流れの一つが浄土教です。
浄土教では、三学を極めて覚りに至ることを断念します。この世で生身の身体をもちながら煩悩を断滅することはほぼ不可能、と考えます。(もっともこれは人から言われる話ではなく、わが身を振り返って自ら出すべき結論ですが…)そこで、阿弥陀仏の願い(それは釈尊の願いでもあります)にすべてを托します。その願いとはこれです。
「人びとを一人も残すことなくわが覚りの世界に導こう。そのために、わたしの名を称えさせよう。」
この大いなる誓いにわが身わが心、わが全てを預けん、とするのが浄土教です。
阿弥陀仏の覚りの世界に入るためには、三学は要りません。心からかの名を呼ぶ―それが唯一の条件です。ひとたびかの世界に入ることが叶えば、わが心も自然に覚りの境地に至ることができる。これが浄土教です。

かの世界は、まことの美に満ちた素晴らしい楽園です。大乗仏教はある意味でとても豊潤、贅沢です。覚りをめざしながらも、花鳥風月を愛します。大スペクタクルのごとき宗教詩を愛します。覚りをめざしながらも、人々への奉仕を大切にします。人々とともに歩むことを大切にします。
蓮の華が開くのはそれが生えてくる泥があってこそ。泥(煩悩)を汚れとして退けるのではなく、覚りの土壌として大切にします。花鳥風月を愛し、泥をも受け入れられるのは、阿弥陀仏への信頼と、その覚りの世界へ導かれる約束があるからこそです。

そして…また話を戻します。三学もまた大切。何度も申しますが、日々三学を心がければ、私たちの人生、私たちの生活は飛躍的に改善されます。
阿弥陀仏の導きを頼みにしつつ、三学に励みましょう。

結論―「なむあみだぶつ」と称えながらしっかりとお掃除をしましょう!



 「たとい戒定慧の三学すべて具したりといえども、本願念仏を修せずんば、往生を得べからず。戒定慧なしといえども、一向に称名せば、必ず往生を得べきなり。」
――法然上人

(たとえ三学をすべて修めていたとしても、阿弥陀仏の約束を信じて念仏を称えなければ、かの世界に入ることはできない。また三学を修めていなくとも、一向に南無阿弥陀仏と称えれば、必ず阿弥陀仏の覚りの世界に入ることができる。)◆


2013.05故堀部上人のこと

佛教大学(京都)入学時以来の畏友、堀部博海上人が極楽浄土へと旅立たれました。
過日、親しい方々とともに四十九日法要(偲ぶ会)を営みました。

法要の中で読み上げた表白(ひょうびゃく=ご本尊の前に、法要の主旨を読み上げるもの)は以下の通りです。

「謹み敬って本尊阿弥陀如来、観音菩薩勢至菩薩、宗祖法然上人の宝前に白(もう)して言(もう)さく。
今ここに、堀部上人有縁の一同あい集い、当林海庵本堂に上人精霊を勧請し、恭しく七七日忌の法会を厳修し、追善供養の誠をいたさんとす。
惟えば上人は多きにわたる分野、音楽、文学、舞踊より哲学、心理学、キリスト教、租税法に至るまで各々高い見識と幅広い経験を有され、平成三年からは京都佛教大学に学び、仏教学、浄土学の学問修行を修めらる。
僧階を取得されて後は、東京東麻布心光院に縁を結ばれ、法務を通じ寺門発展、檀信徒先祖慰霊のために身を尽くせり。
しかるに近時病を得られ、娑婆の縁にわかに尽きて去る三月四日、安祥として西方に往生せらる。世寿八十三歳。
請い願わくは上人、平生より修するところの口称念仏、悉く回向して行願速やかに円満し、早く穢国に還り来たって人天を度せられんことを。敬って白す。」



上人は若かりし頃、国立音大を卒業。専門はピアノでした。学識豊かで多芸、多才のまことに稀有な教養人でした。語学も堪能で、ヘルベルト・フォン・カラヤンが来日した時には通訳を勤めた、とのこと。
あるとき私と話していて、クラシック楽曲の話題が出ました。上人は、
「あなたが聴いたその曲は、指揮者は誰で、どこのオーケストラのいつの演奏ですか?」
とお尋ねになりました。そこがはっきりしないことには話の進めようがない、という風でした。なるほど、専門家にとってはそうなのか、と思った次第です。
むろん仏典のご理解も深く、
「『阿弥陀経』に説かれている極楽浄土の光景は、経典編纂当時のインドで想い描かれた理想郷だという人がいるが、そうではなくて実際の、現実の光景ではなかろうか。」
と言われていたのを思い出します。
上人は音楽家にして税理士、さらにはキリスト教の牧師から浄土宗僧侶に転身されたという変わった経歴の持ち主です。
あるとき、
「所得税の申告期限は3月15日ですね。」
と言われるので、
「ええ、そうだと思いますが。」
「その日の何時までかご存知?」
「いや、知りません。」
「締め切りは夜中の12時。昔は午後5時までだった。あるとき私が国税に、『申告期限は3月15日ってそう書いてある。どこにも夕方5時までなんて書いてないではないか。15日といえば、夜中の12時まで15日でしょ。12時まで受付けなくちゃおかしいでしょ。』とねじ込んだら、しばらくして夜中の12時までになったんですよ。」
「でも夜中は税務署も閉まっているのでは。」
「そう。夜間投函口というのがあって、そこに放り込んでおけば大丈夫なの。」
「へぇー(感心)」

牧師をされていたときは刑務所の教誨師(受刑者の人たちに説教をする)を勤め、地元のならず者にも一目置かれていた由。

上人はまた気難しいところや、自由奔放なところもたくさんお持ちで、色々な方々にご迷惑をかけたようです。(件の国税局の担当者もさぞかし困られたことでしょう。)法要後の会食の席では「まったくへそ曲がりなんだから」「反面、女性にはとにかく甘い」など、「死んだ人の悪口」に花が咲きました。



堀部上人の御霊よ。願わくは西方浄土において速やかに仏道を成じ、翻ってわれらを安らけき彼の国に導き給え。◆


2013.04三学(サンガク)ノススメ

「三学(さんがく)」は、仏教の基本です。
浄土宗を開かれた法然上人は、
「ここにわがごときは、三学の器(うつわ)ものにあらず。(三学を修められるような器ではない)」として三学を捨てて(あるいは超えて)念仏ひとすじの道を選ばれました。「往生を目的とするのであれば、三学はいらぬ」これが浄土宗の立場です。

では、私たちの目的であるこの「往生」とは何か。それをしっかり理解したいと思うのです。
そのためには、少し逆を行くようではありますが、仏教の基本である「三学」つまり「戒(かい)・定(じょう)・慧(え)」について知り、これを実践してみましょう。(基本を踏まえつつ、現代風にアレンジしました。)

戒=清らかな生活

  1. まずは掃除。
    使わないものは処分、リサイクルへ回しましょう。簡素な生活イコール清らかな生活です。身の回りの物は、私たちの心に直結しています。掃除をしたり物を整理することによって、心をシンプルに保つことができるのです。

  2. 他人の立場や考え方、感じ方を尊重する。
    他人を傷つけると、相手にイヤな思いをさせるばかりでなく自分にも後悔の念が残ります。もちろん、自分自身も不用意に傷つかぬように気をつけましょう。自分の口から出る言葉には特に注意。言うべきでないことを言わない。言うべきことは言う。ジョークや軽口を楽しむのも良いですが、ほどほどにしましょう。

  3. ◯◯中毒にならない。
    パソコン、携帯、お酒、テレビ…ほどほどにしましょう。心を乱すもとになります。

定=心の安定

  1. 仏さまに手を合わせる。
    仏像、仏画、あるいはその写真などに手を合わせる習慣をつけましょう。ネットからダウンロードしたお気に入りの仏像写真をプリントして、手を合わせている人もいます。心が移らぬよう一体(ないし三尊)の仏さまに限りましょう。

  2. 一心に集中する時間をもつ。
    静座、念仏、写経、聖典読誦など。趣味の時間に精神集中するのも良いですが、多少なりとも仏教に関連した時間をもつことをお奨めします。短時間でも良いのです。日々継続することが大切。

慧=静かな心から生まれる智慧

個人的な気づきです。懸案だった問題に答えが得られた、あるものごとが別の角度から見えてきた、気づかなかった自分の心に気づいた、など。
  1. 直観を大切にする。

  2. これまでの「自分」という枠を超えてみる。
という方向に関係してきます。

  • 清らかな生活、簡素な生活(戒)の中に、心の安定(定)が得られる。
  • 心の安定の中から洞察(慧)が生まれる。

わずか二行、これが仏道の基本です。
これらを心がけるだけで、私たちの人生、私たちの日々の生活は飛躍的に改善されるはずです。

難しい本を読む必要はありません。まずはお掃除から始めましょう。◆


2013.03法然上人夢譚(むたん)(7)... 三人の独白

―― 私は弘法大師を心から尊敬しています。大師の著作は難解ですが、繰り返し読んでいると「自分は大日如来と同体である」という自信が湧いてくるのです。
法然さまのもとに通うようになってからも、私の中では弘法大師が一番でした。大師は三乗、華厳、法相、中観、法華涅槃と仏教の教えをすべて折り込んだ上で、最高の場所に密教を置かれます。それはまるで、巨大な織物―目にも鮮やかでこれまで見たこともないような美しい織物を眺めているうちに、自分がその巨大な織物に溶け込んで行くような感じなのです。

法然さまも、仏教の流れをすべて踏まえた上でお念仏を最高のものと教えられます。ひとつだけ違うのは、弘法大師はご自分の境地まで私たちをいざない、「理解」を求めるのに対して、法然さまは知的な理解をまったく求めないところです。知的な説明を欲しがる人にはそれを与えましたが、法然さまがそれを第一と考えていないのは明らかでした。

なぜ私は法然さまのもとへ通うのか―自分でもよく分かりません。多分どこかに自信をもてないところがあるのでしょう。

法然さまといると、とにかく安心するのです。

◇ ◆ ◇

―― 上人は時おり、私の私邸に来て下さいます。この日もそうでした。数刻にわたって浄土の法門についてお話を承りました。
庭をとおってお帰りになられるとき、私は有り難さに心を浸しながら、その後ろ姿を眺めておりました。そのとき、ハッとしたのです。
上人のお身体が地面から一尺ほど浮き上がっているではありませんか。そのみ足の元には時ならぬ蓮華が花開いています。一歩一歩と空中にみ足を進めるたびに、新たな蓮華が花を広げ、上人のみ足をふんわりと受け止めるのです。
呆然として眺め入るうちに、上人のお姿は池に渡した橋の上にさしかかりました。そのとき、上人の頭を中心として円い光が輝くのがはっきりと見えました。
私は息をのみ、釘付けになりました。次の瞬間には庭先に転げ落ち、地に伏して上人を拝していました。
その気配を感じられたのか、上人は私の方を振り返りました。
顔を上げると、上人は普通のお姿です。蓮華も、光も消えていました。

後で橋のたもとに行ってみると、青蓮華の花弁がひとひら落ちていました。夢ではなかったのです。
その花弁を今でも大切に持っています。

◇ ◆ ◇

―― 天台宗の若い僧侶がやってきました。
ちょうど法然さまはお出かけになるところでしたが、その僧侶は深く礼拝して、このように尋ねました。
「浄土の教えについてお尋ねいたします。上人の教えによれば、この世を穢れた世界と見て、死後の浄土往生を願いなさい、ということです。しかしそれでは、この現実の世界に立ち向かおうとする気力を失ってしまうことになりませんか。苦しい中でもこの世に生きなければならない人々に対しては、あの世での希望を与えるのではなく、まずはこの世に生きる力を与えるべきなのではありませんか。」
法然さまは、その僧侶の方をちらとご覧になりましたが、答えずにそのまま庵を後にされました。私は僧侶に、
「また尋ねておいで。そなたの疑問はきっと解けるから。」
と言って、帰しました。
数日すると、また同じ僧侶が訪ねてきました。
「先だっては失礼申し上げました。もう一度お尋ねいたします。この世を厭い、浄土を求めるという教えは、この世の現実に立ち向かうのを避けることにつながらないでしょうか。そこのところをお聞きしたいのです。」
言葉づかいは丁寧でしたが、顔色には苛立ちが現れていました。よほど思い詰めているのでしょう。
法然さまは、数珠を繰りながら念仏を続けられるばかりでした。若い僧侶はしばらく居りましたが、法然さまに相手にされないと悟ると座を立ち、肩を落として帰って行きました。
私は、「はて。どうして法然さまは、あの者の質問にお答えにならぬのだろう。先日はお出かけのご予定があったが、今日はそれはない。このようなことは初めてだが…」と思いました。しかし、法然さまにお考えがないはずはありません。黙っておりました。
また数日経って、彼の僧侶がやってきました。
「自分で答えを見つけよ―それが上人の教えと思い、あれこれと考えました。しかしどうにもなりません。三たびお尋ねいたします。死後のことを心配するよりも、世の乱れを静めることを考える方が先ではないでしょうか。この世の矛盾に眼をつぶり個人的に死後の救いを求めることは、利他行を旨とする菩薩の道に反することになりますまいか。」
法然さまは数珠の動きを止めて、暫く黙っておられました。
身体ごと若者の方に向き直ると、真直ぐに彼の眼に視線を注がれました。
「そなたが考えるほど人生は単純ではない。厭離穢土(えんり えど―この穢れた世界を厭い離れること)とは言っても、日がな床に伏したままで浄土往生を願うわけではない。病で伏しているのでない限り、朝になれば床から起き、顔を洗い、食事を摂り、日々の勤めに励むであろう。念仏を第一としながらも、自分の生活を組み立て、家族がいれば家族の面倒を見るであろう。念仏を第一としながらも、道に倒れた人を見れば、手を差し出して助け起こすであろう。念仏を第一としながらも、より平和な社会の中で生きようとするであろう。
ゆえに、このように理解しなさい。
浄土往生に心を留めることによって、まずそなたは、仏道修行についての煩いから解放される。なぜならば、この世において覚りを開かんと懸命になる必要がなくなるからだ。成仏は浄土に往生した後のこととして、今ここで煩う必要はなくなる。第二に、死の恐れから自由になるであろう。実際のところあるのは「往生」であって、死ではない。肉体の終わりとともに、仏国土で新しい生命が始まる。つまり、そなたの人生から死がなくなるのだ。
仏道成就―覚りについて煩うことがなくなり、死について恐れることがなくなる。それによって、人はより良く現実に向き合うことができる。
わたしが『人生は単純ではない』と言ったのはこのことだ。来生の救いに安心することによって、かえって現実に真直ぐ関わることができる。実際に浄土の教えに身を任せれば、そなたにも分かるであろう。」◆

(この話は夢物語であり、歴史的事実ではありません)


2013.02調和ということ

この国は調和―大いなる和を大切にしてきた、といわれます。
自然との調和、そして他者との調和。私たち日本人はさまざまな次元で「調和すること」を重んじてきました。
雅楽のゆったりとした調べ…そこには切り込んでくるような激しいリズムはありません。他者の音色を聴きながらそっと自分の音を重ねてゆき、調和するように、人々と、音と、空間と和するように力強く奏でてゆく。空気を読む、という言葉がありますが、私たちはこれまで雅楽を演奏するがごとく、空気を読みながら生きてきたのではないでしょうか。

この「調和」の世界は美しく、緻密でかつ技に長け、また安心感を抱かせてくれる場所です。しかしともすると淀んでしまったり、全体主義的な価値観を押しつけたり、あるいは調和を乱す者や反骨精神を嫌って排除しようとします。どうにも調和が保てなくなると、時おり内部や外部からショックを受けることによって、新しく脱皮し直す必要がある。あるいはそうせざるを得ない。これもまた、歴史が繰り返し語るところでしょう。

さまざまな調和の中でも死との調和、あるいは死者との調和はとりわけ重要です。死は突然、私たちの日常を分断していきます。しかも死は、私たち自身の内部にも潜んでいます。やがてはわが身にも起こること。そこから逃れることはできない。そう頭では分かってはいるが、しかしなんとも調和しがたい相手―それが死です。

日本人が仏教を受け入れ、それを身近なものとしてきたことの背景には、この「死との調和」を願う国民性があるのではないでしょうか。「祟りを鎮める」「霊を慰める」という言葉を使うと、若い方々にはピンと来ないかもしれません。が、「死との調和」という観点で考えると分かりやすいでしょう。
ふだんの生活では「死」から離れていても、ときには「死」に近づき、それと調和する必要がある。そのために仏教の儀式ほど有効なものはない。私たちはそう考えてきました。
私たちは儀式を大切にし、儀式を執り行うことによって一時的に死の世界に触れ、それと調和し、安心を得ることができるのです。

身近な人の死に際しては不安、恐れ、孤独、諦め、悲嘆あるいは怒りなどの思いが起こります。また言葉にならぬさまざまな感覚。それらを、コミュニティー(法要に出席している家族や親戚縁者)と読経という背景の中で自己の中に静かに統合してゆく―それが仏教儀礼を行なう意味なのではないか。葬儀や法事を勤めながら最近、そう思うようになりました。
こう考えると、「宗派にはこだわらないがお経を上げて欲しい」という方々がいるのも理解できます。その方々にとっては、どの宗派のお経であっても、厳かな読経であれば「調和」が成り立つのですから。

実は、法然上人の教えからすると、儀式は必ずしも重要ではありません。日々の生活の中でお念仏を称えること―それが尤も大切とされます。しかしここで述べたように、日本の「調和を重んずる文化」というコンテキストでは、コミュニティーにおける仏教儀礼の重要性が理解できます。私たちにとって「死」とは、個人の範疇を超えたものであり、個人だけの力では直に向き合えないもの、コミュニティーと儀式を通じてのみ向き合い、調和し得るものだったのです。

しかし、ご承知のように今は変化が生じています。地縁血縁のコミュニティーはくずれ、仏教儀礼を敬遠する人もいます。

これから私たちは、どうやって死と向き合うのでしょうか。

実はそこにこそ、新たな仏教の横顔が覗き見えるのです。
儀式を通じた死との調和―それは今でも仏教の大きな役割です。それとともに、個の魂が死と直に向き合う、その場面にこれからの仏教は関わってゆくことになるでしょう。

法然上人の教えが、本来の姿をもって生きてくるのもそこです。
この私を死から救ってくれる(死を超えた仏の世界に調和させてくれる)のはお念仏、南無阿弥陀仏。
儀式からさらに一歩踏み込んでみると、分かりやすく懐の深い導きがそこにあります。

是非ともお伝えしたい法門です。◆


2013.01謹賀新年

つつしんで新春のお慶びを申し上げます。

門松は 往生路の一里塚 
こころめでたし 南無阿弥陀仏

本年も手を合わせる心を大切に、ともに歩んで参りましょう。

佳きご縁に恵まれる年でありますように。◆