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コラム倉庫 2015〜16年分(平成27〜28年)


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「仏教で学ぶわが人生」を開講します (2016.11) 仏教を学ぼうとする場合、一番手っ取り早いのは本を読むことです。私もこれまでたくさんの仏教書を読ん...
Amazon「お坊さん便」などの僧侶派遣サービスに思うこと (2016.09) 「お坊さん便」についてのさまざまな報道を見ながらの感想です。
話の順序として、まず皆さんの...
先祖供養は菩薩信仰である (2016.08) 7月8月はお盆の季節です。棚経、墓参、また各寺院で行事(施餓鬼会)が営まれることもあって、先祖供...
日蓮宗と浄土宗 (2016.07) 日蓮宗といえば『法華経』。「諸経の王」として古来尊ばれてきた経典です。浄土宗では『浄土三部経』が...
仏教:東洋から西洋へ、西洋から東洋へ (2016.05) 先日、『アメリカ仏教』(ケネス・タナカ著、2010年、武蔵野大学出版会)という本を読みました。<...
仏教的態度 (2016.04) 仏教徒であるとはどういうことでしょう。私は、仏教徒である(あるいはそうあろうとする)とは「仏教的...
「苦」という聖なる真理(続) (2016.03) お釈迦さまというお方は、一体どのような人であられたのでしょう。想像するより他はないのですが、おそ...
「苦」という聖なる真理 (2016.02) 仏教を学んだことのある方なら「四聖諦(ししょうたい)」という言葉を...
「話を聴く」 (2016.01) 明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願いいたします。私は8年間の社会経験を経たのち、3...
生命の尊さ (2015.12) 「人の生を受くるは難く、やがて死すべきものの今生命(いのち)あるはありがたし。」(法句経)生命は...
死について(下) (2015.11) 私たちの心の深い部分、底流の部分を仏の力(本願力)に委ね、お導き頂くという話をいたしました。では...
死について(中) (2015.10) お釈迦さまはご自身の深い心を光明で満たされ、そのみ光を外側の世界の人々にまで降り注がれました。さ...
死について(上) (2015.09) 家族や身近な人との死別―それは人生の中でもっともつらい体験の一つです。お釈迦さまは「愛別離苦」=...
集団的自衛権? (2015.07) 自分自身の身体や、自分自身の心とじっくりつき合い、それを内側から理解しようという経験を重ねていれ...
先祖供養 (2015.04) 日本の仏教は先祖供養を中心としています。「先祖供養は本来の仏教ではない」と言う声もありますが、現...
近況 (2015.03) 今年はいつになくインフルエンザに悩まされました。回復が遅れましたが、ようやく平常のペースに戻りつ...
信仰とは (2015.02) 今回のイスラム国をめぐるニュースを見ながら考えさせられました。信仰とは一体何でしょうか。それは人...
あなたにしかできないことがある (2015.01) 新年明けましておめでとうございます。み仏の光のもと、本年も皆さまとともに歩んで参りたいと思います...



 一気読みコーナー 
※時間の逆順になっています(新しいものほど上)

2016.11.05「仏教で学ぶわが人生」を開講します

 仏教を学ぼうとする場合、一番手っ取り早いのは本を読むことです。私もこれまでたくさんの仏教書を読んできました。面白そうな本は購入したり図書館で借りてきたり…仏教辞典はいつも手元に置いてあります。
 そして、専門の先生(あるいは僧侶)の講義や法話を聴くという方法があります。単なる仏教に関する知識だけではなく、その先生の体験談や人柄、熱意など、その場でなければ受け取ることができないものを学ぶことができます。
 また寺院や研修施設などで、実際に修行体験を通じて学ぶこともできるでしょう。いわゆる座学に比べ、体感を通じて得られるものにはまた格別のものがあります。

 さて、私がここで皆さんに提案したいのは、「仏教を学ぶ」というよりも「仏教を通じて自分を学ぶ」「自分の人生について洞察を深める」ということなのです。いくら知識を身につけても、あるいはいくら寺院で体験を積んでも、ふだんの生活に戻れば元の木阿弥というのでは意味がありません。実人生とは別のところで「知識のコレクション」の一つとして仏教を学ぶのではなく、自分の人生や生き方と関連付けて初めて仏教の教えが生かされます。また仏教修行の大事な要素は「自問自答」です。自問自答力を鍛えてゆけば、単なる知識を越えた生きる力につながってゆくことでしょう。
 この「自問自答力」を鍛え、仏教を通じてご自身の人生についての洞察を深めるお手伝いができるように、この度「仏教で学ぶわが人生」を開講します。

  • 対 象 仏教(あるいは浄土宗の教え)を通じて、自分の人生を新たな目で眺めてみたいという方。仏教と自分の人生を結びつけて考えてみたい方。僧俗を問いません。
  • 期 間 不定。
  • 進め方 メールのやりとりによるレポート提出。課題は個々の受講者に与えられます。通学の必要はありません。
  • 受講料 無料。(浄財については任意。送金先はご寄付のページをご覧ください。)
※この講座は僧侶資格を授与するものではありません。

 上記のように、こちらから「課題を与える」という枠組みをとりますが、主役は受講者である皆さんであり、私自身も学ぶ立場です。
 ともに学び、ともに仏道を歩んで参りましょう。

 受講ご希望の方、あるいはご質問は、お問い合わせページからどうぞ。◆


2016.09.14Amazon「お坊さん便」などの僧侶派遣サービスに思うこと

 「お坊さん便」についてのさまざまな報道を見ながらの感想です。
 話の順序として、まず皆さんの前に法衣を着て現れる僧侶を3種に分類してみます。(大都市圏の場合です)

(1)お寺の住職・副住職・職員。主としてそのお寺の檀信徒を対象に儀式・行事などを行う方々です。
(2)その宗派の僧侶資格を取得しているが、お寺に住んでおらず、お寺から離れて活動している僧侶。「マンションお坊さん」と呼ばれる人たち。但し、自宅から寺院に通勤している人は(1)に含まれるので、ここでいうのは寺院に通勤せず独立して活動している方々です。
(3)その宗派の僧侶資格を持っておらず、業者(葬儀社・霊園・石材店・僧侶派遣業者)と関係を結び、もっぱら業者を介して葬儀・法事の読経をしている人。

 まず(3)の方々。医師であれば無資格で医療行為を行えば罰せられますが、宗教行為は罰せられません。仮に浄土宗の僧侶資格を持たない方が浄土宗のお経をあげてお布施を受け取っても、法律的な問題が生じるわけでもなく、「浄土宗」も「やめなさい」と申し入れることは通常はいたしません(統括しきれません)。もちろん道義的には大きな問題があります。形だけ読経を真似ても、その方はおそらく経文の意味や浄土宗の解釈などは分からないでしょう。一般の方がお経を聞いただけでは宗派の違いまでは分からない—そこにつけこんだ悪質な行為です。

 ついで(2)の方々。正統の僧侶資格を持っている、という点では安心ですが、独立して活動していること自体が問題を含んでいます。第一に、寺院本堂で日々のお勤めをしているわけではない。本堂を守るということは、一般の方々がお仏壇やお墓を守るということに対応しているといえます。一般の方々が行なっている日常の宗教行為を僧侶本人が行えていない訳で、ここに問題があります。さらに、お布施の収入が個人の生活費に充てられる。皆さんは当然のことだろうと思われるかもしれませんが、寺院の場合であれば、お布施はいったん寺院収入に計上されます。その中から住職は給与として生活費を支給されるわけです。寺院には人件費以外にも多くの支出があり、例えば宗派や本山を支える経費、次世代の僧侶を育てる費用、僧侶が学び合うための研修費用、宗派で出す出版物や教化資料を作る費用、寺院施設(礼拝施設)にかかる経費などが頂いたお布施の中から支出されます。一方「マンションお坊さん」であれば個人の生活費以外は負担しませんので、お布施の収入金額を抑えることができます。こうした方々が増えると、宗派や本山は成り立たなくなるでしょう。
 業者の仲介によって読経依頼を受ける僧侶は、この(2)(もしくは(3))に当てはまる場合が多いのです。心のこもった読経という点から見ると、果たしてご先祖のご供養が成立するのか疑わしく思われます。

 それでは(1)の方々、つまり近隣の寺院の住職さんに供養をお願いするとどうなるのか。快く引き受けて下されば良いのですが、そのお寺の檀家さんや紹介された方以外には門戸を閉ざしているお寺も多いのです。これは別に意地悪でそうしているのではなく、檀家さんへの対応だけで手一杯という状況なのです。中には門戸を開き新しい檀信徒を歓迎する寺院もありますが、外から見てもよく分からないでしょう。また「高額の布施を請求された」などの苦情が出る場合もあるので、檀家以外の方には「どういうお寺さんなんだろう」と敷居が高く思われるかもしれません。

 とすると、菩提寺のない方が葬儀や法事の読経を頼みたい場合、どこに依頼すればよいのか。
 まずは、各宗派の宗務庁(「宗務所」と呼ぶ宗派もあります)にお問い合わせ頂くのが一番良いと思います。

  ●浄土宗宗務庁
   (東京)Tel: 03-3436-3351
   (京都)Tel: 075-525-2200

 今後のことになりますが、私ども仏教界が菩提寺のない方々のためにどう対応を考えてゆくべきか。
 まずは開教寺院を増やしてゆくことです。寺院の不足している地域に新たな寺を建てる—至極当然のことであり、新興宗教であれば当たり前の事業です。ところが伝統仏教ではまだ始まったばかり。新しく建立された寺院は新しい檀信徒とのご縁を求めています。仏事相談を持ちかければ、悦んで対応してもらえることでしょう。小さくとも門戸を開いた寺が増えて行くことが望ましいと思います。(浄土宗では国内開教事業に積極的に取り組んでいます)
 さらに仏教会や各宗派が、菩提寺のない方々への対応に具体的に取り組むこと。「意識改革を!」という精神論だけではだめで、具体的・実務的な仕組みづくりを行う必要があります。

 今回は内側の事情の話になってしまいましたが、「お坊さん便」の件をきっかけとして、仏教界が動き出すことを期待しています。◆


2016.08.01先祖供養は菩薩信仰である

 7月8月はお盆の季節です。棚経、墓参、また各寺院で行事(施餓鬼会)が営まれることもあって、先祖供養の読経回向が続きます。

 先月のコラムで大乗仏教について書きました。
「永遠の仏への信仰」「すべての人が仏になれる」「菩薩精神」。これが大乗仏教の三本の柱ですよ、と申しました。
 さて、日本の仏教は先祖供養を中心としています。この先祖供養は本来のインドの仏教にはないもので、儒教の影響を受けた東アジア地域に見られる、といわれています。私も以前は先祖供養と仏教との関連性について頭を悩ましたものです。お経を調べても、先祖供養に言及しているものはほとんどないのです。しかしこの頃こう思うようになりました。先祖供養の仏教は、大乗仏教の精神をそのまま受け継いでいるのではないか、と。

 自分自身の感覚として、仏教の教義を学んだり修行に励むときよりも、はるかに宗教的にずっと深い所に至る時があるのです。それは他ならぬ葬儀、法事など先祖供養の場においてです。これはどういうことだろう、と常日頃疑問に思っておりました。最近気づいたのは、先祖供養の場には大乗仏教の精神が実に生々しい形で息づいているのではないか、ということなのです。
 今一度大乗仏教の三本の柱に立ち返りましょう。
 第一に「永遠の仏への信仰」。これが先祖供養のベースにあるのです。死がすべての終わりではなく、その先の世界がある。「永遠の仏」は「祖霊の永遠性」を担保する基盤であり、さらに祖霊を仏の位に導いてくれる存在でもあります。僧侶の側も一般信徒も、そのような共通の意識(明確ではないかもしれませんが)をもって先祖供養の場を創ってきたのではないでしょうか。
 第二に、「すべての人が仏になれる」。死後の成仏を願うということは、死後成仏が可能である、つまり祖霊は肉体の死後も何らかの個体性を保ち(堅固な個体性はなくなるにしても)、浄化され成仏できる、つまりすべての人が仏になれるという前提があることになります。
第三に、「菩薩精神」。祖霊は菩薩である。「上求菩提 下化衆生(じょうぐぼだい げけしゅじょう)」という言葉があります。この言葉は「上には自らの覚りを求め、下には衆生を仏道に導く」という菩薩の精神を表します。
自らは仏を目指す道を歩み、同時に人々を救い導く。先祖供養の場では、先祖の仏道増進を願い、また子孫を守ってくれるように願う—つまり祖霊をある種の菩薩として崇拝する心がそこにあるのではないでしょうか。

 先祖供養の場がこの三本の柱で成り立っているので、そこに大乗仏教を基盤とした祈りの場が成立して仏教的感動が起こる。このように考えられないでしょうか。
 先祖供養は決して仏教とかけはなれた宗教活動にあらず、大乗精神の大いなる土壌から育った樹、開花した花と言っても言い過ぎではないと思います。身内との死別を通した仏教。永遠の仏というと遠い存在に思われるかもしれませんが、、菩薩、さらに先祖になるととても身近で切実な感覚を持って手を合わせることができる。祖霊信仰は大乗仏教がわたしたちの身体感覚に取りこまれた独特の宗教、習慣、と言えるのではないでしょうか。

「お釈迦さまの説かれた具体的な教えはよく分からないが、お釈迦さまを敬いその永遠性を信じます。」
「亡くなった人が煩悩や苦しみ、けがれから浄化され、いつかは最終的に救われた存在(仏)になってくれると信じます。」
「それまであちら側の世界で安らかな歩みを進めて欲しい。私たちの事もどうぞ見守っていてください。」
 こうした信仰は、まさに大乗の菩薩としての先祖に手を合わせている、と言って良いのではないでしょうか。

 わたしども僧侶の務めは、まずは先祖供養の場の宗教性をしっかりと支えること。そしてもう一つ大切なのは、先祖のみならず、わたしたち自身が菩薩として利他の精神を発揮すべきである—そのように皆さまにしっかりとお伝えすることだと思います。

 わが家の家族のみの安心繁栄を願うのでは大乗仏教ではありません。ご先祖が微笑んでくれるような、「よく頑張っているね」と言ってくれるような利他的な生き方を心がけましょう。そしてそれは決して難しいことではありません。相手の立場を考えること—ちょっとした思いやり、さりげない心づかい、あるいは優しい微笑みでも十分なのです。◆


2016.07.01日蓮宗と浄土宗

 日蓮宗といえば『法華経』。「諸経の王」として古来尊ばれてきた経典です。浄土宗では『浄土三部経』が基本ですので、法華経は読誦しません。修学の際も、仏教概論や大乗仏教史を学ぶ中で簡単に触れる程度です。
 日蓮聖人ご自身は浄土宗を厳しく批判された方でありまして、浄土宗と日蓮宗はいわば水と油。今日では両者の間に宗論こそありませんが、交流もありません。しかし法華経も浄土経典も同じ大乗仏教。大乗仏教の大切な教えが共通してそこにあるのです。

 大乗とは文字通り「大きな乗りもの」の意で、「あらゆる衆生を乗せてさとりに導く大きな乗物(教え)」(『岩波仏教辞典』)のこと。自分自身の学問・瞑想のみに専念する出家修行者(かつては小乗仏教と呼ばれました)に対し、人々の覚りと救済のため利他に励むべし、と説く仏教です。
 この大乗仏教の特徴を三点挙げましょう
 第一は「永遠の仏」です。
 釈尊は80歳でご入滅されました。さてそのあと残された仏教徒たちはどうなるのでしょうか。これは当時(仏滅後数百年の間)大問題だったに違いありません。われわれ仏教徒は何を頼りに生きてゆけば良いのか。確かに釈尊の説かれた法は残っている。われわれを導いて下さるのは「かく生きよ」という釈尊の遺された法(教え)だけなのか。このような不安の中で、釈尊が信仰の対象として-超歴史的存在として崇拝されるようになったのは自然な成り行きでした。
「歴史上の釈尊は80歳で亡くなられたが、現在もわたしたちを導いて下さる永遠の仏がおられる。釈尊のお覚り、その智慧と慈悲は永遠に輝いている。永遠の仏が今ここでわたしたちを護り導いて下さっているのだ。」
 これはただ単に、信仰上の仏さまが考案されたということではなく、多くの仏教徒の魂のレベルで実感された真実だったことでしょう。永遠の仏-これが大乗仏教の柱です。法華経では「久遠実成の釈迦牟尼仏」浄土教では釈尊に先立って覚りをひらかれた「阿弥陀仏(無量寿仏)」として説かれます。

 第二は、「すべての人が仏になれる」。
 法華経には「三乗方便、一乗真実」の教えがあります。大乗仏教でしばしば批判の対象となる声聞乗、縁覚乗の二乗も仏になれる、と説きます。浄土教では「念仏衆生、摂取不捨」(『観無量寿経』)と示され、念仏を称える人はすべて、例外なく極楽浄土に往生できると説かれます。(成仏は往生の後です)『無量寿経』には三悪道(地獄道・餓鬼道・畜生道)に堕ちて苦しんでいる者も、阿弥陀仏の光明に出会えば次の生で解脱を得る、と説かれています。
 一切衆生にことごとく仏性あり。法華経も浄土経典もこの誰しもの心の底にある仏性が花開く、一切の人々が仏になれる、と示してくれるのです。

 第三は、「菩薩精神」の強調です。
 自分自身の覚りをさておいて人々のために尽くす。これが菩薩精神です。法華経には常不軽菩薩、薬王菩薩、上行菩薩、観世音菩薩等さまざまな菩薩が登場します。日蓮聖人ご自身も、苦難と弾圧に満ちた布教活動の中で、みずからを上行菩薩と自覚されます。
 一方浄土教においては、「一切の人は皆凡夫である」という人間観から今生における菩薩行は強調されません。なぜなら、われわれ自身は仏の智慧に遠く及ばない愚者である。そればかりか内実は罪悪にまみれ存在であり、阿弥陀仏の慈悲にすがるしか救いの道がない。このように説くからです。真の利他行を行なうためにはまず極楽往生が第一。往生ののちに利他行を行なえる力を得ることができる。というわけで、浄土教においては表面的には菩薩精神は強調されません。
 しかし、浄土教の根幹は法蔵菩薩の「一切の人を救わん」という誓願です。菩薩精神という礎石の上に浄土教全体が成り立っているわけです。
 そして「自分は凡夫であると自覚せよ」といっても、実際のところ精一杯やってみなければ自分の限界は見えてきません。利他行-それはボランティア活動かもしれませんし、職業や家事を通じて直接間接に社会に貢献することかもしれません。また日々の生活の些細な場面でさりげない心遣いをすることも立派な利他行です。利他行に努めよ。浄土宗だから、念仏往生第一だから利他行は行ないません、というのでは駄目です。凡夫往生をかなえてくれる念仏を称えながらも、一方では利他行に励み、菩薩精神を大切に育むべきです。

 ここに述べました「永遠の仏への信仰」「すべての人が仏になれる」「菩薩精神」は大乗仏教の三本の柱と言ってよいでしょう。初期の仏教には見られないものです。法華経にも浄土経典にも通ずる三本柱。この大乗仏教の原点に立てば、日蓮宗も浄土宗もそれぞれの教えを護りながらともに手を携えることができるのではないでしょうか。
 大乗仏教については、「お釈迦さまが直に説かれた教えではなく、後世の仏教徒の創作である」という批判的な見方もあります。しかし、仏道を広く考えて「人として成長する過程」ととらえるならば、学問と瞑想だけでは限りがあります。人間関係の葛藤や支え合い、喪失の苦しみの中に放り込まれて初めて、自分の執着心や縛りに気づかされるのです。おのれの限界や愚かさに嫌というほど向き合って初めて、仏の偉大さを理解できるのです。日蓮聖人も法然上人も、そのように思っておられたのではないでしょうか。

 私は大乗仏教の歩みの中に、目に涙をたたえつつ仏さまに手を合わせる人の姿に、真実を見ます。◆


2016.05.03仏教:東洋から西洋へ、西洋から東洋へ

 先日、『アメリカ仏教』(ケネス・タナカ著、2010年、武蔵野大学出版会)という本を読みました。
 アメリカには300万人以上の仏教徒がおり、その数は年々増えているとのこと。私にとってはたいへん刺激的な内容でした。新たに学んだことも多く、また読みながらしばしば頷かされました。

 同書には、アメリカにおけるいくつかの仏教の流れについて書かれています。
その中で、(日本発のZENは別として)日本にも影響が及んだものとしてまず思い浮かぶのが、チベット仏教です。
 日本の若い世代(当時)にチベット仏教が知られるようになったのは1980年代です。私自身は中沢新一さんの『虹の階梯』をきっかけとしてその世界に初めて触れました。 東京・五反田にあるチベット文化研究所に足を運び、チベットの高僧の講義を拝聴することもありました。若い日本人が大勢来ていたのを思い出します。日本でこのようにチベット仏教が注目されるようになったのも、欧米のカウンターカルチャーにおけるチベット仏教の影響が大きかったと思われます。『アメリカ仏教』には、ダライ・ラマ14世や、チョギャム・トゥルンパ師のアメリカでの影響力の大きさについて書かれています。日本ではその後、チベット仏教を中心的に取り入れたオウム真理教の事件があり、教えや実践という文脈でチベット仏教が取り上げられることは少なくなりました。今日ではダライ・ラマの説かれる分かりやすい教えや、中国との政治問題の方が日本では注目を集めています。
 現在、日本の若い世代を中心にアピールしているのは「マインドフルネス」です。これもアメリカの影響ではないかと思われます。アメリカでは上座部の僧侶の方々や、ベトナム出身の高僧ティク・ナット・ハン師らの指導により「マインドフルネス」瞑想法が一般の方々に広まりました。様々な分野-教育や医療、刑務所のプログラムにまで用いられています。今では、一宗派や一宗教の修行の枠を超えて大きく広がっており、アメリカ人の指導者、それも僧侶ではなく在家の指導者がたいへん多いそうです。

 日本でも今後、チベット仏教やマインドフルネスと同様、海外の仏教の影響が大きくなってくるでしょう。「エンゲージド・ブッディズム(社会参加する仏教、行動する仏教)」という概念も海外から入ってきたものです。僧侶も社会問題に積極的に関わってゆくべきだ、という考え方で、近年日本でも若手僧侶を中心にさまざまな社会活動が行なわれるようになりました。
 海外の仏教のいろいろな動き、状況が伝えられるようになり、その影響が日本にも及んでいます。先祖供養を中心とした伝統的な仏教はまだまだ主流であり続けるでしょうが、やがて個人個人が「生きるよりどころとして」日々の実践を仏教に求めてゆくようになると思われます。

 アメリカで浄土教が盛んである、という話はまだ聞こえてきませんが、これから徐々に伸びてくるのではないかと思っています。
 私自身は、(体験的に)瞑想系の修行には限界を感じました。瞑想を続けてゆくと、やがて自分の集中力や意識状態を自分自身でチェックするようになります。そうすると、自分の意識状態に対する関心が第一となり、他人と距離感が広がってしまうのです。心安らぐ素晴らしい体験でありながら、同時に他者を疎外してしまう…そういう限界を感じました。自力による瞑想実践に限界を感じたとき、浄土教の広く深い世界に魅せられるようになったのです。手前味噌になりますが、私のように感じる方がアメリカ人や英語圏の人々の中にも出てくるような気がしています。(そのような夢を描きながらYouTubeの英語法話を始めました)

 個人個人の価値観を尊重する傾向は、今後ますます強くなることでしょう。宗教観もまた同じ。アメリカ仏教、海外の仏教から刺激を受けながら、日本の仏教も変わっていく…その中で浄土宗が、以前とは違う形で、すなわち「わが家の宗派だから」ということではなく、純粋に安心と修行を求める方向で注目される時代がやってくると思います。◆


2016.04.01仏教的態度

 仏教徒であるとはどういうことでしょう。
 私は、仏教徒である(あるいはそうあろうとする)とは「仏教的な態度を身につける」ということだと思います。
 いくら経典を暗誦できても、仏教学の学位を取ったとしても、仏教的態度が身についていなければ無意味です。
 温かな心で人に接する、周囲を清潔に整える、身ごなしに意識が行き渡っている、簡素な生活を心がける、明晰な考え方を大事にする、真正である、聖なる境地に心を向けている、自由で開かれた心を愛する…等々。
 寺院にあまり足を運ばない方の中にも、このような人はおられます。そういう方とお会いすると、すがすがしさ、明るさ、温かさを感じます。その一方で、たとえ僧侶であってもこれらの資質を欠いている方もいます。

 それでは、仏教的態度を培うにはどうすればよいのでしょうか。
 日常生活の中に宗教性に触れる時間を組み入れる—これが第一です。やはり「継続は力なり」。仏壇があれば一番ですが、仏像や仏像の写真、宗祖の肖像や優れた宗教者の写真もインスピレーションを与えてくれることでしょう。これらの前に坐り、心を開く時間をもちます。(読経、念仏、題目、瞑想、写経などももちろん素晴らしいことです)
 次に、若干で結構ですので、教えの基本を学びます。
 仏教の「苦」という教えについて先月、先々月のコラムに書かせて頂きました。他にも「無常」「無我」、また浄土宗であれば本願、凡夫というような基本の教えがあります。これらは自分にとってどういう意味をもつのか。日常生活の中に実感として取り入れます。すべては川の流れの如く過ぎ去ってゆく。過去のできごとを既に「終わったこと」として眺めることができたなら、起こり来る新しい状況に対して、新鮮な気持ちで取り組むことができることでしょう。
「苦」「無常」「無我」というような教えを学び、日常生活の中で実感として学ぶ。しかし、型にはまりすぎた理解にならぬように気をつけます。心の流れはとても微妙であり、四季折々の自然の文様を見るが如くだからです。またときには、恐ろしいほどの宿業や魔境と向き合わねばならぬこともあるでしょう。
 あまり多くを学び過ぎぬように気をつけます。過ぎたるはなお及ばざるがごとし。教えの森の中で迷子になってしまいます。

 日々の生活の中に、宗教性に触れる時間を作る。
 教えの一片を、胸にあたためながら生活する。

 私からの提案です。◆


2016.03.01「苦」という聖なる真理(続)
 お釈迦さまというお方は、一体どのような人であられたのでしょう。
 想像するより他はないのですが、おそらくその存在そのものが尊くもまばゆい光を放っておられたに違いありません。人々は、お釈迦さまのおそばに坐っているだけで、あるいはそのお声を拝聴するだけで、光を浴びているような気持ちになったことでしょう。
 お釈迦さまが亡くなられると、そのお言葉や行動が初めは口伝えで、のちには経文として記録されました。お釈迦さまの肉体は去った。だがその臨在、存在感は未だここに残っている。これらを何らかの形で後世に残さねば。たとえお釈迦さまを直接存じ上げているわれわれ弟子たちがいなくなったとしても、お釈迦さまの記録をのちの時代に伝えねばならぬ。お弟子様方はこうした使命感に突き動かされたことでしょう。

 しかし、お釈迦さまの「臨在」はもはやそこにはありません。後年大乗仏教が起こり多くの門流が生まれたのは、いずれもお釈迦さまの臨在を追体験しようとする努力、試みでした。
 その一つが浄土教です。
 苦—それはいつの時代にもあります。いたるところにあります。いくら生活が便利になったとしても、いくら豊かな時代になったとしても、それはなくなりません。
 極端な例かもしれませんが、戦場からの帰還兵のPTSD(心的外傷後ストレス障害)について聞いたことがあります。ベトナム戦争では約5万人の米兵が戦死しました。それに対して、退役軍人の自死は10万人に及んだそうです。驚くべき数字です。戦場という特殊な状況での死との直面。その後に続く長い苦しみ。経験した人でなければ分からないものでしょう。
 浄土宗を開かれた法然上人も、幼くして父に死に別れました。それも夜襲に遭い、目の前で敵に討たれるというむごい光景でした。見てはならぬものを見てしまった…今で言うところのPTSDは、自分の力だけではどうにも解決できない—いくら経典を学んでも、いくら禅定を修めてもその苦しみを乗り越えることはできませんでした。
 法然上人の内なる深い闇。30年以上にわたる心の暗闇に突然差し込んできたのが阿弥陀仏の聖なる光です。それは、かのお釈迦さまが放たれていたのと同じ光明—ここに本願念仏の道が開かれました。

「南無阿弥陀仏。」

 苦という聖なる真理に向き合い、血を流しながら必死で取り組まれた法然上人の、それが結論でした。
 お釈迦さまのお覚りでは、明けの明星を仰ぐと同時に内なる光が炸裂しました。法然上人の場合は、阿弥陀仏の真意を覚ると同時に、外なる光明がそのお心を貫いたのです。

 こうしてみると、自らの心の闇に向き合い、その中に跳び込み、底の底に降り立った人が「光明の人」となる、それが「苦という聖なる真理」の示すものなのかも知れません。◆


2016.02.01「苦」という聖なる真理

 仏教を学んだことのある方なら「四聖諦(ししょうたい)」という言葉をご存じでしょう。四つの聖なる真理、という意味です。
 お釈迦さまの主要な教えの一つであり、宗派を超えて学ばれるものです。
 その第一が「苦」という聖なる真理。
 お釈迦さまの教えはこうです。
「人生の一切はみな苦である」
「たとえ悦びや楽しみを味わうことがあっても、それが終わる時は苦である」
 私は法話の中でこれを「人生は苦い夢のごとし」という風に少し表現を柔らかくして説明しています。
 さて、一見するとこれは悲観的な教えにみえます。
「人生のすべては苦しみである。たとえ悦びがあったとしても、それもいつかは苦しみに転ずるであろう。苦しみは欲望から生まれる。ゆえに欲望から離れて生きよ」
 さあ、そこに生きる悦びはあるのでしょうか。みずみずしい生命を感じながら人生を歩むことは仏教に反するのでしょうか。お釈迦さまは生きる悦びを否定されたのでしょうか。
 これらの疑問から、「仏教は人生を否定する教えではないのか」と誤解されることもあるのです。

 では、お釈迦さまはどうして「苦」を説くことから始められたのでしょうか。

 覚りや解脱に達するために、肉体を痛めつけるような厳しい修行=苦行をおこなう。これはインドでは特に珍しい事ではありません。今日でも行なわれています。片足で立ち続けたり、無数の針の上に横たわったり…かのお釈迦さまも極度の断食を行なったと伝えられています。しかし、そうした苦行には意味がない、と気づきそれを放棄されました。体調を整えたのちに最後の瞑想に入られ、ひと晩がたちます。翌朝、東の空に輝く明けの明星を仰ぐと同時に、お釈迦さまは偉大なる覚りを得られました。
 成道ののち、ほどなくして元の修行仲間に対して説かれたのがこの四聖諦です。いわば、特殊な人たちに説かれた教えです。一般の人々に向かって説かれたものではありません。
 だとすれば、お釈迦さまの真意はこうだったのではないでしょうか。

「あなたたちが行なっているように、そしてわたしが行なってきたように、日常生活とかけ離れた場所で特殊な苦行を積んでもそれは意味がない。肉体を痛めつける苦行によって、自我への執着心を克服することはできないのだ。
 だが、あなた方自身の人生をよくよく観察してみなさい。それは苦しみそのものではないか。生老病死の苦しみ、別離の苦しみ、人間関係の難しさなど、思うままにゆかぬのがわれらの人生。ごく当たり前の生活でさえ、それはさまざまな苦しみに満ちたものなのだ。
 ゆえに、わたしたちは特殊な宗教的苦行を行なうのではなく、実人生における『苦』に取り組むべきなのだ。まさにその苦しみへの取り組みの中で、自分自身の根深い執着心に出会うことができる。そこに目覚めのきっかけがあるのだ。
 あなた方は出家し、修行者となる道を選んだ。もはや欲と計算にまみれた世俗の世界に立ち戻る必要はない。だが同時に、特殊な身体的苦行をおこなう必要もないのだ。
 簡素な暮らしを心がけ、心を清らかに鎮めてゆきなさい。その中で、あなた方自身の苦しみや執着心と向き合うのだ。個々の体験に取り組み、そこから学びなさい。悲しみ、欲望、プライド、怒り、受け入れ難い自分、恐れ…実体験を通じて、これまで手に握りしめてきたものに気づきなさい。そしてそれを手放すことを学ぶのだ。それこそが、覚りに至る道である。
 わたしも可能な限りあなた方を助けよう」

 このように受け取ってみると、「苦」という教えが決して悲観的なものではなく、それまでの修行の観念を超えた新鮮で創造的な道を切り開いていることに気づきます。

 お釈迦さまのお言葉は、それを聴いた修行者たちの心に光のごとく真直ぐに差し込んでいったことでしょう。◆


2016.01.01「話を聴く」

 明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願いいたします。

 私は8年間の社会経験を経たのち、34歳のときに僧侶資格を頂きました。その後、仏教の専門的な勉強を続けるか、それともカウンセリングの勉強に進むか迷った末に、カウンセリングを学ぶことにしました。
 2年間にわたる研修を受け、いくつかの相談機関で電話相談を延べ10年以上受けました。中には自殺念慮をともなう深刻な相談や、そこまで深刻でなくとも対応の難しいケースがいくつもありました。
 まずは、相談者の話に耳をよく傾けます。何を訴えたいのか。どういう気持ちを分かってもらいたいのか。どういったところで迷っているのか。話を聴くためには根気や集中力が必要です。安易なアドバイスは禁物。相談者が何週間も、あるいは何年にもわたって悩み続けてきた問題です。私たちが思いつくような解決策はとっくに検討されているはず。アドバイスをするということは「その問題については、君よりも私の方がよく分かっているよ」と言うのと同じです。
 私たちは、相談者の頭上から眺めてその人を将棋の駒のように動かそうとするのではなく、横に並んで共に歩む、あるいは一歩下がってついて行くくらいがちょうど良いのです。
 相談を受けてゆくうちに、自分なりの基準が出来あがってきました。
 相談者に対応している自分自身の気持ちを眺めます。第一に、自分は温かい心をもって話を聴いているか。第二に、開かれた心をもって聴いているか。第三に、自由な心で聴けているか。第四に、肝っ玉を据えてそこにいるか。この4つです。これらをすべて満たすのは難しいのすが、それを目標とすることが自分のトレーニングになるわけです。またこれはそのまま仏教の修行にも通じます。
 私の対応がどの程度相談者の役に立ったかは分かりません。相談を受けているときに、「そうか。それでこんなに悩んでおられのか」と気づく瞬間があります。そのときには自分の心が開かれ目の前が明るくなります。そうしたときに相談者の心にも変化が起こる(であろう)。そうした時をたまに感じます。しかし、その後の相談者の人生が好転したかどうかまでは分からないのです。
 少なくとも、対応している間だけはベストを尽くす—そういうことだと思います。
 今でも寺の住職として、様々な相談にのらせて頂いています。◆


2015.12.04生命の尊さ

「人の生を受くるは難く、やがて死すべきものの今生命(いのち)あるはありがたし。」(法句経)

 生命はまことに尊いものです。
 私たちの地球—これほど生命にあふれた星はありません。時おり地球外生命についての報道がありますが、未だ可能性の域を出ておりません。せいぜいのところ、「微生物が生息しているかもしれない」というレベルです。地球の外側には生命現象は(ほとんど)ない、つまり私たちが住んでいる星は圧倒的な「死の世界」に取り囲まれているわけです。死に満ちた大宇宙の中のちっぽけな星。そこにありとあらゆる種類の生命が豊かに息づいている。なんと貴重なことでしょうか。どんなに小さな生命であっても、むやみに傷つけてはいけません。
 これは神仏に禁じられているから傷つけないのではありません。理性をもって考えてみれば、自然に非暴力という結論に至ります。お釈迦さまのお言葉通りです。
 次に、時間的に眺めてみましょう。これら多種多様な生命が展開し、進化して現在の私たちがここにいるわけです。自分の命は誕生日から始まって、死ぬときに終る。いいえ、そうではありません。この世にオギャアと生まれてくる前にはあなたはお母さんのお腹の中にいました。誕生日に突然生まれた生命ではありません。ではお母さんのお腹の中に宿る前はどうだったか。その種はお母さん、お父さんの肉体の中にあった。お母さんやお父さんの肉体はどこから生まれたのでしょう?ご先祖の方々、そしてずっと昔からこれらの人々を育んでくれた太陽、雲、雨といった天の恵み、そして食べものをもたらしてくれる地の恵み。こうした天地人の大いなる恵みの歴史の延長上に私たちは貴重な命を得て(頂いて)いるのです。この生命をどうして粗末にできましょうか。

 中にはこう考える方もおられるかもしれません。
「確かに生命は尊いものかも知れないが、今は生きるのがつらくてしょうがありません。何とかしてこのつらさを終らせたいのです。」
 何かきっかけになるようなおつらいことがあったのでしょう。あなたは今、救いのない孤独感の中に閉じ込められているのかも知れません。しかし「つらい」と感じるそのこと自体が、生命へのもがきなのではないでしょうか。あなたの中に、生き生きと脈打つ生命を目指して必死でもがいている部分があるのではないでしょうか。
 夜明けは遠くありません。いつまでもこの暗闇が続くわけではないのです。
 どうか仏さまに向かって心を開き、仏心−その心臓の鼓動の中に、大いなる安らぎを見出して頂きたいと思います。

 来年が皆さまにとって佳き年でありますように。◆


2015.11.01死について(下)

 私たちの心の深い部分、底流の部分を仏の力(本願力)に委ね、お導き頂くという話をいたしました。
 では主題に戻りまして、私たちは自分の死をどのようにとらえれば良いのでしょうか。
 死を迎えるまでに肉体は病に罹っていたり、老化が進んでいたりします。私たちは徐々に体力を失ってゆきます。一人で起き上がることも難しくなる。表層の意識も眠りに近い状態となり、徐々に気力を失ってゆく。これは喩えて言えば、水道の栓を少しずつ締めてゆくのと似ています。水が出ている蛇口の栓をしぼってゆくと、水の流れが少しずつ細くなってきます。どんどん細くなり、やがて水の流れが止まる。これが「死」です。体力と気力がどんどん細く弱くなり、やがて生命の流れが止まる。「死」というのは言葉上のことであって、実際には「死」という恐ろしい現象が起こるわけではありません。「生」という現象が停止するだけです。ですから私たちは肉体と表層意識に関しては、死を恐れる必要はありません。なぜならそれは眠りに入るのと似ているからです。眠りであれば毎晩経験しています。睡眠に入るときに苦しみはありません。何も恐れる必要はないのです。睡眠の場合には翌朝になると肉体も意識も再び動き始める。違いはそこだけです。
 病によっては痛み苦しみを伴いますが、今は緩和ケアが進んでいるので、さほどの心配はいりません。葬儀のときにご臨終の様子をご遺族に尋ねますと、「最期まで苦しみませんでした」「いっときは痛みがあったようですが、亡くなるときは安らかでした」という方が大半です。というより、苦しみながら亡くなったという話はこれまで聞いたことがありません。
 内科の医師を長年勤められている方にお聞きしたところ、「確かに苦しみ悶えながら亡くなった、という患者さんはこれまで一人もいませんね。」というお話でした。最期のときには、安らかな眠りに入るように活動を終えることができるのです。(注記・但し、事故などで急に死を迎える場合、その直前に恐怖や後悔などの激しい感情が起こることは考えられます。)
 従って、問題は心の深い部分です。
 意識の届かない深い部分に、思ってもみないような恐れや煩悩が渦巻いている。そこにはこれまでに行なった善き行ない、悪しき行ないもすべて刻まれています。それらは今生のものばかりでなく、過去生より引き継いでいるものもある。この膨大な深い心の領域を何とか光に導いて頂く―これが浄土の教えです。

 まとめましょう。私の結論はこうなります。
 肉体の停止と表層意識の停止については恐れる必要なし。心の深い部分については死後もその流れが続いてゆくと思われる。その暗闇の部分は阿弥陀仏の光明が照らし導いて下さる。
 このように気持ちを定め、人生の最期についての憂いを払い、お念仏を中心とした善き人生を歩みましょう。これが私からの提案です。
 善き人生?そうです。死に対する不安がなくなれば、今や恐れるものはありません。後悔のないように、自分に合った創造的な生活、深い悦びが感じられるような人生を歩んで頂きたいと思います。

 あなたの明るい表情は、周囲の人たちの心も明るく照らすに違いありません。◆

(了)



2015.10.02死について(中)

 お釈迦さまはご自身の深い心を光明で満たされ、そのみ光を外側の世界の人々にまで降り注がれました。
 さて、翻って私たちを見ますと、何とも心もとない限りです。ひとすじの光明どころか、昨夜見た夢も覚えていない。日々深い心からわき起こる煩悩に振り回されながら生きている。表面の意識ではいろいろなことを学び、自分の生き方を変えようとさえしますが、表面の意識の決心はなかなか深い心にまで届かない。生き方全体には及ばない。
 仏教の修行とは、この表面の意識から深い心へと降りて行き、その深い内面世界を浄化してゆくことだと言えましょう。
  「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」
  (しょあくまくさ しゅぜんぶぎょう じじょうごい ぜしょぶっきょう)
 もろもろの悪をなさず、もろもろの善を行ない、みずからその心を浄らかにすること、これが諸仏の教えである―「七仏通誡偈」と言われる仏道の基本です。
 深い心を浄化するためには、まず表面の浄化からこれを行ないます。身を清め、表層の心を澄んだ状態に整える。そのためには自分や他人の身体を害したり、心を傷つけたり、嘘をついたりすることを慎まなければなりません。それらの行ないは私たち自身の心を濁らせ、複雑に入り組ませてしまいます。
 また善き行ないをすることによって(一歩踏み出して外側の世界に心を開くことによって)、私たちの心は明るく満たされ、ありがたい感じや透明感に満たされます。こうした表面の行ない、表面の心のちょっとした変化が徐々に深い心に影響を与えてゆくのです。
 さらに仏教では「仏性(ぶっしょう)」といいまして、誰の心にも仏の種が宿っている、と説きます。誰でも覚りの光に満たされることができる、と。覚りの種がある場所は、おそらくこの深い心の底あたりです。
 お釈迦さまは、ご存命中にこの覚りの種から花を開かせ、ご自身の全存在を光で満たされた。さらにはそのみ光を広く人々に施されたわけです。
 浄土の教えとは、この深い心、すなわち仏の種を宿してはいるものの厚い煩悩に覆われたこの深い心を自ら浄めてゆくのではなく、この清濁あわせ含む深い心をそのまままるごと仏の世界にお預けし、かの世界で仏性を花開かせて頂こう、という道です。
 自浄其意=みずからその心を浄らかにする、という仏教の基本からするとそれは正道ではない、という見方もあるでしょう。しかし、現実として私たちの深い心とは漆黒の闇に包まれたジャングルのようなもの。そのジャングル全体を光で満たそうとするよりも、念仏の一灯をたよりに仏のお力によって光の世界に導いて頂く、という方が安全かつ唯一可能な道だと思われるのです。

「もし智慧をもちて生死を離るべくば、源空いかでか彼の聖道門を捨てて、此の浄土門に趣くべきや。聖道門の修行は智慧を極めて生死を離れ、浄土門の修行は愚痴に還りて極楽に生まると知るべし」(法然上人)

(私訳:もし私が自分の智慧をもってこの暗闇に包まれたジャングルのような深い層の心を光で満たすことができるのならば、私はどうして智慧の道を捨てて浄土の道に入るでありましょうか。浄土門の修行はこの暗闇のような深層意識をそのまま現実として認め、暗闇のままで極楽浄土に引き取って頂き、彼の世界で覚りの花を開かせて頂く道である、とそのように理解しなさい。)◆

(次回に続く)


2015.09.04死について(上)

 家族や身近な人との死別―それは人生の中でもっともつらい体験の一つです。お釈迦さまは「愛別離苦」=愛する人と別れる苦しみ、という言葉で表現されました。この苦しみに立ち向かわざるを得ない方々の脇にいて、いささかなりともお助けするというのが、私ども僧侶の大きな務めです。
 さて、今回はこの「死別」ということはいったん措いて、自分自身の死について考えてみましょう。
 自分は死んだらどうなるのでしょうか?
 まずこの肉体は失われます。正確に言えば分解、あるいは蒸発して遺骨だけが目に見える形で残ります。遺骨に対して、家族は私を偲ぶよりどころとして手を合わせてくれることでしょう。宗教的な礼拝対象にはなりますが、この遺骨自体には「私」の心や霊のようなものは宿らないと思います。自分の髪や爪を切ったときにそれらに霊が宿っているとは感じないでしょう。それと同じです。つまり、私自身の実感としては、火葬に立ち会ったり、ご遺骨を抱いたりする機会の多い中で、「このご遺骨は礼拝の対象であり、私たちが仏の世界へと心を向けるための象徴的な存在である。ご遺族の思いはここにこめられているが、遺骨自体には故人の心や霊のようなものは感じられない」ということなのです。
 さて、この肉体は失われます。ではわれわれの心や意識はどうなるのでしょうか。
 今、この「心」を表面の心=表層意識と、深い心=深層意識の二つの流れに区別して考えてみましょう。
 表面を流れている心は、朝起きたときに「さあ、もう起きる時間だ。今日はどういう日だったかな。ああ、そうだ。今日の予定は…」と考えます。この心がものごとを考え、それを実行し、他人と交わりながら生活を行ないます。ものごとを考える機能に加えて感じること、たとえばお天気の具合や、気温、身体の皮膚感覚、疲れ、空腹など、私たちが身体で感じ、同時にそれを意識している感覚もここに含みましょう。また感情、たとえば喜び、怒り、悲しみ、なども同様です。私たちがそれらを意識できていれば、それは表面の心です。私たちの日常生活は大方、こうした表面の心によって成り立っています。
 この表面の心から奥深く降りたところに、深い心が流れています。ふだん私たちはこの深い心を意識しませんが、何かの拍子に深い心の一部が浮かび上がってきます。たとえば、夜眠っている間に見る夢として。あるいは突然の記憶のよみがえりとして。ちなみに優れた芸術作品は、私たちをこの深い心へと誘います。詩、音楽、絵画、舞踊などから私たちは言葉であらわすことのできないような感動を受け取ります。それは、それらの作品がおそらく作者の深い心から生まれたものであり、それが私たちの深い心を刺激するからでしょう。
 今芸術に対する感受性のことを書きましたが、この深い心には私たちの個人的な記憶やこれまでに受け取った印象、そして欲望、怒り、悦びなどの深い感情が保存されています。
 仏教の説く「唯識」という考え方によれば、表面の心は死によって失われますが、深い心の流れは失われません。もっとも表面の心は毎晩眠るときに失われますし、昼間でもごはんを食べたあと電車に揺られると、いつの間にかウトウト…いとも簡単に失われてしまいます。死の前に意識が失われるのもこれと同じであって、特別なことではないと思われます。

 以上をまとめてみましょう。人間という存在は三層に分けて考えられる。
 第一の目に見える層は肉体。これは死によって失われます。
 第二の層は表面の心。これも死によって、また死によらずとも失われます。
 第三の層は深い心。これが死後も何らかの形で流れ続いてゆくと考えるか(仏教ではそれを輪廻転生と呼びます)、あるいはこれも肉体や表層意識とともに失われると考えるかによって、宗教を重視するか軽視するかが分かれてまいります。
 私自身はこのように考えています。朝起きた瞬間に心の内をのぞいてみると、そこに何かが流れている(あるいはつい今しがたまで流れていた)のを感じるのです。その「何か」はおそらく眠っている間も心の底流としてずっと流れ続いていた、という感じです。ここから考えを広げてみると、肉体と表層意識が失われたあとも深い心、深い意識は残るのではないか、ということです。
 さまざまな伝統がこの「深い心の世界」について神話や伝説、宗教として語っています。私はそれらの教えを尊いものとして尊重したいのですが、同時にこの深い心の世界はあまりにも広大で奥深すぎて、そのすべてを知り尽くす事はとうてい不可能であろう、とも思うのです。肉体や病気のことについて医学的に分かっている事はほんのわずかに過ぎない、と言われますが、この深い心についても同じ、否それ以上でしょう。ですから、この宗教が正しくてあの教えは間違っている、というのでなく、どの教えにも一片の真実はある、だがすべてを語り尽くしているわけではない、という態度が妥当なのではないでしょうか。

 私たちのお釈迦さまは、ご自身の広大なる深層意識を目覚めの光明で満たされた稀有なお方です。その光明が深みから表面の心へ、さらには肉体にも及んで、光り輝く存在=叡智そのものとなられたのでありましょう。しかしご自身の体験を語り、人々を導く道を言葉で表現するまでには相当骨を折られたことと思います。
 もし今の時代にお釈迦さまが生きておられたら、どういう言葉で私たちを導いて下さるのだろうか…いつも思うところです。◆

(次回に続く)


2015.07集団的自衛権?

 自分自身の身体や、自分自身の心とじっくりつき合い、それを内側から理解しようという経験を重ねていれば、たとえどのような状況であっても、自ら「他人の身体を傷つける」という可能性はあり得ません。
 それはちょうどこのようなものです。あなたには自分自身の家と庭があり、それがあまりにも美しく、貴重なものであることを知っています。「他人の身体を傷つける」とは、自分の美しい家と庭をあとにして、わざわざ遠くの山に出かけて行って、そこにゴミをまき散らすようなものです。どうしてそこを汚す必要があるのでしょうか。そんなことをすれば自分にとっても不幸であり、その山にとっても不幸なことです。どうして自分が幸せなときにわざわざ不幸を作りに出かけてゆくのでしょうか。

 人はこう問うかもしれません。
「今は確かに平和だ。あなたは自分の美しい家と庭の中で幸せに生きるがよい。だが、あの山が動いてあなたに襲いかかってきたらどうするのか。あるいはあの山があなたの隣人を攻撃してきたらどうなるのか。そうなればあなたの家と庭も破壊されてしまうかもしれない。それを未然に防ぐ手だてを打つべきではないのか。」
 しかし、その「手だて」がくせ者です。その手だては敵を作り、呼び寄せることになるでしょう。なぜなら、誰もが自分の家と庭の美しさに気づいていないために、自分を不幸だと思っているからです。彼らは怒りに満ちています。ひとたびチャンスがあれば、その怒りが噴出します。怒りは出口を探しています。口実は何でもよいのです。
 だから、彼らの怒りに火をつけるべきではありません。それは得策ではない。むしろ、彼らの怒り、彼らの痛みを理解し、それを癒す方向に働きかけるべきです。それをやったところで、あなたの家と庭の美しさが損なわれることはありません。もしかしたら、彼らが感謝の心から、花束を持ってきてくれるかもしれません。そうなれば、あなたの家はもっと美しくなるでしょう。

 もしあなたが他人の身体を傷つけても構わない、と思うなら、それはあなた自身が怒りと不満足に満ちている、ということを意味します。あなたは他人の身体を傷つける準備をするよりも、あなた自身の怒りと不満足に取り組むべきです。それらはどこからやってくるのか。あなたの痛みはどんな感じなのか。今あなたが感じている微妙な生き生きとした感じは、見かけ上の痛みや怒りの奥に潜む深い「何か」を伝えようとしているのではないのか。

 自分の痛みに触れ合おうとすることは、他人の身体を傷つける準備をすることに比べれば何千倍の価値があります。
 方向を変えるべきです。外から内に。あなたの痛みや悲しみに、慈悲心をもってつき合って上げて下さい。

 まったくのナンセンスに貴重な時間を費やすのはやめましょう。わたしたちはもっと幸せになることができます。私たちのありよう次第で、世界中に幸せを広げることすらできるでしょう。
 自分自身に対する理解、慈悲心をもって自分を眺めるまなざし。そのコツを少しでも学べば、外側に向ける慈悲のまなざしもまったく同じだと気づきます。

 それは自分自身を癒し、いっそう豊かにしてくれるのです。◆


2015.04先祖供養

日本の仏教は先祖供養を中心としています。
「先祖供養は本来の仏教ではない」
と言う声もありますが、現実としてお寺に見える大半の方が「今は亡き家族の供養のために」手を合わせられます。
先祖供養の素晴らしい点は、それが素朴で自然な宗教心がひらかれる場である、というところです。私たちの多くは、現に生きておられたご先祖のために手を合わせ、心から冥福を祈ります。
お寺の本堂で、あるいは自宅の仏壇、お墓の前でこのように対話をする方も多いでしょう。
「おかげさまで元気にやっていますよ。」
「子供たちもこんなに大きくなりましたよ。」
「そちらはどんな世界ですか。お父さんと喧嘩しないで仲良くやっていますか。」
「今、迷っていることがあるのだけど、お父さんだったらどうする?」
「どうか私たちを見守っていて下さい。」
などなど…。
そして私たちは目に見えない仏さまの世界、ご先祖の世界に支えられながら、日々何とかやってゆけます。ご先祖から『よく頑張っているね』と言ってもらえるよう、心を正して前に進んでゆきます。たとえ仏教の戒律を学ばなくても、各宗派の教義を学んだり修行を経験したりしなくても、ちゃんと教えに適った生き方になってゆきます。
「私は無宗教です。」
とおっしゃる方が多いそうですが、人と会えば笑顔で挨拶をし、財布を拾えば交番に届け、人に迷惑をかけないように、人を苦しめないように気をつけながら暮らしてゆく。これは立派な仏教徒の生き方です。日本人の道徳性、倫理性は先祖供養という宗教(習慣?)と深く結びついていると言ってもよいかもしれません。
このように、大きく見ますと先祖供養という素晴らしい宗教は結果的に仏教徒としての生き方の方向を示してくれているのです。
しかし、よく見ると弱点もあります。

一つは、宗教心が「わが家の供養」に限られてしまう傾向があるという点です。仏教では利他行、世のため人のため、困っている人を助けることを大事にします。その中で自分自身も成長してゆきます。しかし「わが家の供養」に限られた心は、ともすると「わが家以外には関心がない」というふうになりかねません。
これが進むと「わが家はちゃんと先祖を大切に供養していますよ。(だからもう十分務めを果たしているのです)」「わが家さえ良ければよい」「困っている人は自業自得、その人の努力が足りないのだ」となってしまいます。また、たとえ日常生活の中で人さまのためになることをしたり思いやりの心を持ったりしたとしても、それは先祖供養とは別のこと。従って仏教とは結びつかなくなります。善行を行なっても、そこに「仏のお導き」という背骨がない。もし「思いやりの心をもて、しかし執着するなかれ」という仏教の教えがしっかりと身についていたならば、「私は良いことをした」あるいは「皆も私を手本とすべきだ」という思いにブレーキがかかります。
このように仏教の学び、あるいは祈りの心を「わが家の先祖供養」の範囲に留めず、広げて頂きたいと思うのです。
そしてもう一つ。人生には「もはやこれまでか」と思う瞬間があります。たとえば自分の死に直面するときです。万策尽き果て、ぎりぎりの局面に追いつめられたときどうするか。その時思わず「なむあみだぶ!」と叫ぶことができるか。永遠の救い、生死を超えた世界にすがることができるのか。
さあ、先祖供養の宗教はこの問いには応えられません。
やはり宗派の教えに少しでも馴染み、ふだんから「なむあみだぶ」と称えている(あるいは他の宗派ならばその教えに従って、例えば日蓮宗系なら「なむみょうほうれんげきょう」と称える等)ことが大切です。

今までは 人のことだと思ふたに
俺が死ぬとは こいつはたまらん (大田南畝)

目の前に ただ一筋の命綱
なむあみだぶつ なむあみだぶつ◆


2015.03近況

今年はいつになくインフルエンザに悩まされました。
回復が遅れましたが、ようやく平常のペースに戻りつつあります。

平常のペースといえば、「お坊さんは一日をどういうふうに過ごしているのですか?」と尋ねられることがあります。私自身も、僧侶になる前は同じように疑問に思っておりました。
一日の過ごし方は大体こんな感じです。

5:30 目覚め。布団の中で念仏。
5:45 起床、洗顔など。
6:30 ラジオ体操。
6:45 朝食、朝礼。
7:15 掃除、洗濯。
8:00 本堂でお勤め。
8:40~17:00 対外対応(電話やメールへの対応、面談、手紙、法事など)、
事務作業、教義や布教の研鑽、本山での会議、その他雑務、昼食。
17:00 本堂でお勤め。
17:40~19:30 対外対応、事務作業など。
19:30 夕食。
22:30 就寝。

朝のラジオ体操は昨年の秋から始めました。以前はヨーガの時間を取っていたのですが、時間の短縮と筋力の衰え対策の点から今はラジオ体操をしています。
基本的に休日はなく、公私の区別もほとんどありません。寺に住んでいるので出勤もなく、サラリーマン時代の生活とは大分様子が異なります。
日中は様々な業務を行なっています。当庵のような小さな寺でも細かい仕事がたくさんあります。一つの仕事を何時間も続けてやるというよりも、1時間くらいかかる仕事がいくつもある、といった風です。仕事中、あるいは合間に思い出したときにお念仏を称えます。
「お坊さんはきっとゆったりと時を過ごしているのでしょう」と言われますと「いいえ、そうでもありませんよ」という答えになりますが、かといって一日の間を秒刻みで追われているわけでもありません。皆さまのおかげで念願がかない、新しいお寺を構えることができたわけですので、多忙であることも有り難い機会、自分の取り組むべき修行と思って励んでいます。

さて、今回の養生の期間に仏教の唯識思想に関心をもつようになりました。浄土教との関連性にはたいへん興味深いものがあります。いずれ考えがまとまりましたら、皆さんと分かち合いたいと思っています。◆


2015.02信仰とは

今回のイスラム国をめぐるニュースを見ながら考えさせられました。
信仰とは一体何でしょうか。それは人々を幸福にしてくれるのでしょうか。はたまた…。

ここでは三種類の信仰について書いてみます。

第一は、澄みわたった青空のような信仰です。この信仰心をもった人は、自分のことを客観的にみることができます。自らの信仰を最も大切にします。と同時に、他の方々の信仰も尊重します。自らの信仰が傷つけられることをきっぱりと拒否する一方で、他の方々の信仰を傷つけぬよう十分に注意を払います。
他の宗教や信仰からも学び、自らの信仰を深めてゆきます。やがて、すべての人の中に神仏(あるいは神仏へのつながり)を見いだすようになるかもしれません。
第二は、炎のように燃える信仰です。この信仰は人々を引きつける魅力にあふれています。が、一方では客観性を失って独善的に突き進んでしまう傾向があります。自分たちの信仰は正しいが他の信仰は誤っていると考えますので、他の信仰から学ぶことはありません。間違った信仰をもつ人を正しく導いてあげる必要がある、と考えます。これが進みますと、他の信仰をもつ人、われわれの「正しい」信仰を拒む人はどうなってもよいというふうになってしまいます。
また同じ信仰をもつ人どうしの間でも、おたがいの人間性を尊重するというよりもむしろ、何か別のもの(教団や教義、信者数、貢献度など)の方が尊重されがちです。
そして第三は、巌のようにどっしりとした信仰です。この信仰には歴史の重みと安定があります。わざわざ立ち上がって何かを求めて他の場所に出かけていくこともなく、その場で充足しています。平和ではありますが、閉じられた心になりがちで、排他的です。なぜそこにいるのかと問われれば「気がついたらここにいた」と答えるしかありません。

いまここに述べたことは、「ある宗教、ある信仰がこの三種のいずれかに分類されます」ということではありません。信仰者の内面的な態度についての話です。いずれの宗教、いずれの信仰にもこの三種の態度が内在していると思われます。

私たちを真の幸せと自由に導いてくれるのは青空のような信仰態度です。どの宗教宗派に属するかということよりもむしろ、どのような信仰態度をもつかということの方が重要です。
またここで用いた「信仰」という言葉を「価値観」という言葉に置き換えてみれば、宗教以外の分野、たとえば政治的、経済的、文化的価値観に関しても当てはまるのではないでしょうか。◆


2015.01あなたにしかできないことがある

新年明けましておめでとうございます。
み仏の光のもと、本年も皆さまとともに歩んで参りたいと思います。

冒頭の言葉は、私が十数年前にこの新しい寺を立ち上げる際、大先輩のさるご住職から頂いたものです。
「あなたにしかできないことがある」
当時は不安でいっぱいだった私の心を支えてくれた言葉です。

そしてこの言葉は誰に対しても、またいつでも常に言えることだと思います。私にしかできないこと-それがはっきりと形になるのは先のことかもしれません。今はまだそれが何なのかよく分からないかもしれません。私もそうでした。また未来の「私にしかできないこと」は、今の私には分かりません。
しかし、
「あなたにしかできないことがある」
その通りなのです。
この言葉を自分に言ってみて下さい。どこからともなくエネルギーが沸いてくるのが分かるでしょう。
このエネルギーをもって、今の目の前のこと(それが何であれ)にベストを尽くしましょう。◆