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2003.05

 
(4) 懺悔偈(さんげげ)

今年は浄土宗のお経の勉強を続けています。今回は第4回。

これまで、「香偈」「三宝礼」「三奉請」と進んできました。簡単に振り返りましょう。

「香偈(こうげ)」では、法要のはじまりに際し香を焚き、自分の身体と心を清め、これから諸々の仏に供養いたします、という意味の経文をとなえます。
「三宝礼(さんぼうらい)」では、仏教の三つの宝、すなわち(1)仏、(2)仏の教え、(3)仏教徒の集い、を礼拝する。
さらに「三奉請(さんぶじょう)」で諸々の仏をこの場(仏道の道場)にお招きいたします。
今回はそれに続く「懺悔偈(さんげげ)」について考えてみましょう。

我 昔 所 造 諸 悪 業  皆 由 無 始 貪 瞋 痴
  がしゃくしょぞうしょあくごう  かい ゆう む し とん じん ち
従 身 語 意 之 所 生  一 切 我 今 皆 懺 悔
  じゅうしん ご い し しょしょう いっさいがこんかいさんげ

われ昔より造るところの諸(もろもろ)の悪業は、みな無始の貪(むさぼり)瞋(いかり)痴(おろかさ)による。身・語・意より生ずるところなり。一切われ今みな懺悔したてまつる。

懺悔偈の心は、「ああ、本当に自分が悪かった」「何と自分はおろかだったのか」と気づく心です。しかし、このような心が起こるのはまれなことです。
私たちはときどき、「ごめんなさい」ということばを口にします。でも、心の底からこのことばを叫ぶことはめったにありません。もしそういう瞬間があるならば――心底から「ごめんなさい」といえるならば、それは誠に貴重な瞬間です。
私たちは子供のころからこう教えられてきました。「こういうときには謝りなさい」、「『ごめんなさい』は?」……だから、私たちは「ごめんなさい」といわなければならない状況を見て、機械的に「ごめんなさい」と口にします。自分の心――「本当に自分が悪かった」「間違っていた」と叫んでいる自分の心に充分に耳を傾けるひまもなく……。なぜならば、すぐに「ごめんなさい」といわなければお父さんやお母さんに怒られるからです。
状況を見てすぐに「ごめんなさい」という――これは、ある意味では「怒られないように」自分を守るためですし、大人になってからも人間関係の潤滑油として必要なことかもしれませんが、一方では打算的な心にも通じます。「ここは謝っておいた方がよさそうだ」「悪くおもわれると損だから謝っておこう」というわけです。
しかし、これは懺悔偈の心ではありません。
懺悔偈の心は、「自分の人生はいったい何だったのだろうか」「自分は何と愚かな人間なのだろう」と痛切に感じた経験のある人なら理解できるに違いありません。こうした経験はとてもつらいものです。大声で叫びたくなるほどつらいことかもしれません。できればそんな思いはしたくない――そうかもしれません。がしかし、そのような避けて通りたいようなつらい経験、そのすぐ脇に、宗教の地平が開けています。
「すべてを懺悔いたします」
と、心底からいえるようになったときに、私たちは新たな一歩を踏み出すことができます。これはとても貴重な瞬間です。
そして、この一歩を踏み出すことができた人は、幸いです。その人はとても大切なことを悟るでしょう。人生で出会う苦しみや悲しみのすぐ裏側に、輝く宝物――誰にも奪い去ることのできない宝物が隠れていることを悟るに違いありません。

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