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2004.12

 
なぜ浄土宗の教えを信じ、敬愛するか (3)

浄土宗の教えのもう一つの特色――それは、お念仏をとなえるという易行(やさしい修行)を往生のための最高の行として位置づけていることです。 極楽浄土に想いを向け、阿弥陀さまにお導きをお任せし、ただ「なむあみだぶつ」ととなえます。毎日5分でも10分でも、どなたにでもできる行です。これが最高の行です。読経や観想の行は「助業」といいまして、お念仏を助ける行になります。

「たとい一代の法(お釈迦さまが一生の間に残された多くの教え)をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして…智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし。」(法然上人)
たとえ仏教のいろいろな教えをよく学んだとしても、「私は何も知らない」と思い成して、ただひたすらに念仏しなさい――これが浄土宗、法然上人の教えです。
ただ念仏すれば救われる――そんな簡単なことがあるはずはない。仏教は深遠な教え…何か奥義があって、それを修得してはじめてお念仏のご利益を頂けるのではないか。そのような考え方は法然上人の時代にもありました。それに対しては、
「このほかに奥深きことを存ぜば、二尊(阿弥陀さま・お釈迦さま)のあわれみにはずれ、本願にもれ候うべし。」(法然上人)
もし奥義などをわたしが隠しているのであれば、わたし自身が阿弥陀さま・お釈迦さまの教えに背くことになり、お念仏の救いから漏れてしまうでしょう――これ以上の奥義など何もないのだよ、とはっきり言っておられます。

仏教では、簡素な生活と心の安定を説きます。簡素な生活とは、たとえば自分の持ちものを減らすことです。――なかなか難しいですね。しかし、もっと難しいのは「知的持ちもの」を減らすことです。私たちは「知識や経験を蓄積しなさい」と教えられてきました。「知識や経験を忘れなさい」と教えてくれる人はほとんどいません。ところが仏教に関するかぎり、これはとても大切なことなのです。知識や経験が豊かで「私は知っている」と思っている人は、仏教では「何も分かっていない」ということ。
我(エゴ)は、何かしら難しいものに取り組みたがります。「私は簡単な修行や初歩的な知識では満足できない。ごく少数の人だけが達成できるようなこと、ごくごく優秀な人だけが理解できるようなこと――それこそ、私が取り組むにふさわしいことだ」
こうして、ゲームが始まります。「エゴという幻」から離れることを目指して出発したはずなのに、いつの間にかエゴの戦略に捕まってしまいます。「私は仏教をよく勉強した。お経の意味や、人がどう生きるべきかということについて、充分な知識と経験を得ている。何でも私に聞いてくれたまえ。」??

法然上人はこう言われます。「一文不知の愚鈍の身になして(自分のことを、お釈迦さまの教えの一節さえも理解できない愚か者とみなして)」――「私は知っている」という思いはここで一刀両断に切り捨てられます。そして、「ただ一向に念仏すべし」――。

お念仏の教えは、「難しいことはよく分からないけど、救いが欲しい」と切実に願う人を救ってくれます。そしてまた、「今までたくさんのことを学んできたが、何一つ身についていない。相変わらず自分の煩悩にふり回されている」という人も救ってくれます。
「一切皆凡夫」――わたしたち凡夫をまったく平等に救ってくれるのが、誰でもできる念仏行なのです。
「願わくは、諸々の衆生とともに、安楽国に往生せん」
仏教をよく学んだ人も、学ばなかった人も、善行を積んだ人も、罪を犯してしまった人も、男も女も、老いも若きも、病める人も健やかな人も、皆でお念仏をとなえて、ともに極楽(安楽の国)に救われてゆきましょう――この理想こそ、大乗仏教の究極の姿であり、私がこの教えを敬愛する所以です。

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