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2006.02

 
あるメールにお答えして

浄土宗は念仏往生の教えです。それに関連して最近、気になるメールを頂きました。
「浄土宗は、世間の苦悩に目をつぶり、まず自分が先に極楽に往生しよう、という利己的・逃避的な教えではないか。」
というものです。

この教え(浄土宗)は、「世間の苦悩に目をつぶる」のではなく、私たちの苦悩をよく理解し、それを解決に導くには、まず自分自身が目を開かなければならない、目を覚まさなければならない、という自覚に立っています。それは正しく仏教の原点、お釈迦さまのお立場そのものでもあります。

いま現在、自分自身の心が混乱しているならば、世間の苦悩を解決せんとして行動を起こしても、ただこの混乱を蜘蛛の巣のように広げるだけ、ということになりかねません。自分自身の心が混乱している、自分はまったく至らぬ存在である、という自覚を私たちは大切します。法然上人の教えを学んでいる者は、「現世を仏国土に変えてゆこう」「苦しんでいる人々に救いの手を差し伸べよう」といスローガンには警戒心(自戒の心、といったほうがいいですね)を抱きます。澄んだ心をもってこれらに取り組むことは決して容易ではない、とよく知っているからです。

とはいっても、現実社会の苦悩に直面したとき、ただ静観していよ、というわけではありません。私たちの仲間にも、「世間の苦悩に目を向け」その解決に取り組む社会活動を行なっている方々がいます(国際協力ボランティア、難病の子供の家族サポート、教誨師、人権問題への取り組みや、各種社会福祉活動)。また歴史を繙きますと、江戸時代の無能上人、厭求上人、忍澂上人、明治以降も深見志運、颯田本真尼、神谷大周ほか、救貧事業・災害救済活動・養老事業・児童保護などの社会事業に力を注いできた先達がたくさんおられます。

「浄土宗は、世間の苦悩に目をつぶり、まず自分が先に極楽に往生しよう、という利己的・逃避的な教えではないか。」

いいえ。そうではなく、むしろ自己・他者の苦悩を真正面から見つめ、「お念仏の教えを頼みに、ともに極楽浄土に救われてゆこう」という教えです。利己的・逃避的な教えではなく、利他的・現実的な宗教です。それは、数多の苦悩の声に耳を傾け、万人救済の道を切り開かれた、宗祖法然上人のご姿勢そのものである…私はそのように理解しております。(私は特に、その利他的・現実的なところに魅かれ、浄土宗の門をたたきました。)

浄土門は、大乗仏教精神の究極の開花であり、この先はもうありません。

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