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2007.03

 
念仏する心

私どもは日頃「なむあみだぶ なむあみだぶ…」とお念仏しておりおますが、はたしてどういう気持ちでお念仏を称えているのでしょうか。
阿弥陀さま、お導きをお任せいたします…これが南無阿弥陀仏ですが、私が思うに、そこには三通りの心があります。

まず第一は、追善供養のお念仏です。私どもが葬儀や法事を勤めるときは、ご参列の皆さんと一緒に追善のお念仏をお称えいたします。「阿弥陀さま、故人をどうぞ極楽浄土にお導き下さい」「どうぞ極楽浄土で故人の覚りが進むようにお導き下さい」という心をもって称える――これが追善供養のお念仏です。皆さんに最もなじみ深いと思われるのは、このお念仏――亡き方を供養する追善のお念仏です。
次に、現世において阿弥陀さまのお守り、お導きを頂くためのお念仏です。「現世」と言いましても、病気平癒や家内安全、商売繁盛、恋愛成就、受験合格…といったこちら側の「我」を主体とした現世利益は、浄土宗の取るところではありません。結果はどうあれ、阿弥陀さまの良かれと思われる方向にお導き下さい、その方向に私は進んで参ります――これが現世のお守りを願うお念仏です。
第三は、自分自身の往生浄土を願うお念仏です。この身体の寿命が尽きる時に、どうぞ極楽浄土にお導き下さい――そのお導きをすべてお任せいたします、というお念仏。
「ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと思いとりて申すほかには別の子細そうらわず」(法然上人)
これがそのお念仏です。

今、念仏する心を試みに三つに分けてみました。わが身を振り返りますと、いつもこの三つのいずれかの心をもって念仏しています。あるいは、どれか二つの気持ちが一緒になって称えている時もあります。
法然上人は、この三つのケースのいずれにも言及されました。しかし、かの偉大なる先達がもっとも強調されたのは、第三の心――すなわち、自分自身の往生浄土を願うお念仏です。法然上人の最大の関心事は、「私たち」が極楽世界に往くことにありました。わが身わが心の、この頼りなさと、輝ける仏の覚りの世界との気の遠くなるような隔たりを埋めてくれるのは、浄土往生以外には考えられません。
「願わくは、もろもろの衆生とともに、安楽国(極楽浄土)に往生せん」(善導大師)
身体の死は決して遠くにはありません。ここで言う第三のお念仏をしっかりと伝えてゆかなければ、と思っております。

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