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2008.10

 
阿弥陀経の物語〈下〉(全2回)

...《前月より続きます》

「阿弥陀仏の放つ光は、特別なものだ。それは、あなたの心の隅々にまで届く。あなたという存在のすべてを貫き通す。あなたの秘密、誰にも知られたくないようなこと、あなた自身もすっかり忘れているようなこともすべて、まばゆい光のなかに照らし出すことになるのだ。阿弥陀仏という仏は、文字通りあなたのすべてを隅から隅まで理解した上で、なお救いの手を差し延べてくれている。
あなたにできることは、阿弥陀仏に手を合わせ、心のすべてを差し出して、任せきること。それだけだ。
ごく一部の人々は、まだ生きている間に阿弥陀仏の姿や、極楽世界のようすを見ることがある。だが、それはめったに起こらない。極めてまれなことだ。これを経験した人は、阿弥陀仏や極楽世界が現実のものであることをよく知っている。
極楽世界に入るのは、この身体の寿命が尽きたときだ。そのために今、なすべきことがある。それは、極楽世界に入ることを願い、かの仏、阿弥陀仏の名前を称えることだ。 一日に1度、また2度、3度、あるいは気がついたときは常にこのことを思い出しなさい。阿弥陀仏に手を合わせ、『なむあみだぶつ』と称えなさい。阿弥陀仏があなたのすべてを知り、理解し、大いなる慈悲の心をもって導いて下さることは、すでに動かない真実だ。深い信頼の心をもって、『なむあみだぶつ』と称え続けなさい。あなたがたはすぐに忘れてしまうだろう。だから、一日のうちで何度でもこのことを思い出し、念仏を称えなさい。いつか、分かる日が来るだろう。自分の人生の真実の瞬間は、阿弥陀仏に向き合って、念仏を称えていたときだった、そのときだけだった、と。」

お釈迦さまはここまで話されると、視線を伏せて、沈黙に入られました。

ある人が立ち上がり、質問をしました。
─念仏を重ねてゆくことで、極楽に近づくのでしょうか。どのくらい称えれば良いのでしょうか。
「阿弥陀仏の力で創られた世界に、阿弥陀仏の力で導かれる。あなたがたの側ですることは何もない。ただ念仏を称えること。そして待つことだ。他にはない。念仏せよ、必ず救いとろう、というのは阿弥陀仏の約束だ。だから、念仏は修行ですらない。修行であれば、時とともにより高い境地に進んでゆくこともあるだろう。だが念仏は、今日初めて称えた人の念仏も、何十年も称え続けた人の念仏も、その功徳は等しい。同じことなのだ。なぜなら、念仏は『わが名を称えよ。必ず導こう』という阿弥陀仏の呼びかけに対して『はい、み心のままにいたします、なむあみだぶつ』と言うことなのだから。この『はい』という応答に、深い浅いはない。1日も、30年も関係ない。応えるか、応えないか、しかない。だからして、ただ一回の念仏でも、極楽世界に往くことができる─そう心得た上で、毎日たくさんの念仏を重ねなさい。」
─臨終のときに心が乱れていると、極楽へ往くことができないのでしょうか。
「ふだん念仏を称えるものは、臨終のときに心が乱れることはまずない。なぜならば、ふだん称えている念仏に応えて、阿弥陀仏が姿を現されるからだ。阿弥陀仏のお姿に触れることほど、あなたを安心させるものはない。
仮に心が乱れていたとしても、すぐに落ち着くであろう。あなたは、ふだん称える念仏によって、阿弥陀仏に導かれ、極楽世界へ往くことができるのだ。臨終のときには念仏を称えたくとも声が出ない、あるいは呼吸が弱くなることもある。意識が薄くなり、すべて忘れてしまうこともある。それでも、ふだん念仏を重ねていれば、必ず阿弥陀仏がまばゆい光とともに姿を現されるであろう。」

別の人々からも質問が出ます。
─極楽世界は、私たちの心の中にある世界なのでしょうか。それとも、心の外にある世界なのでしょうか。
「極楽世界は、あなたがたの心の中にある、と考えてはならない。自分の心を清らかにしてゆくことで、極楽世界に近づく、と思うべきではない。さっき話したように、その世界は阿弥陀仏の心の力によって創られた世界なのだ。あなたがたの心の力をもってたどり着くことができる世界ではない。そこには大いなる隔たりがあるのだ。ゆえに、『彼の世界は西方はるかかなたにある』といわれる。そこは、かの仏の力によってのみ、導かれ往く世界なのだ。」
─私たちがこれまで学んできたことや、修行してきたことと、この極楽世界の教えは、どのように関連しているのでしょうか。
「あなたがたはこれまで仏教、わたしの教えをいくらか学んできた。だが、今、この極楽の教えを聞いた。この教えに入ってゆくときは、あなたがたが学んできたことはすべて脇に置いておきなさい。『私は仏教についていくらか知っている』と思ってはならない。私は何も知らない、このように考えて、阿弥陀仏にすべてをあずけなさい。」
─かの仏は、なぜ阿弥陀仏と呼ばれるのですか。
「『あみだ』は、ア・ミタつまり、量ることができない、量り知れない、限りない、という意味だ。彼の仏の放つ光は、あらゆる世界をくまなく照らし、あなたの心の奥底まで貫き通す。限りない光を放つ仏、ゆえに阿弥陀仏と呼ばれる。そして、彼の仏の身体は心の修行によって生まれた身体であり、両親から生まれた生身の身体ではない。阿弥陀仏の身体は死ぬことがない。限りない命をもつ仏、ゆえに阿弥陀と呼ばれるのだ。」
─極楽に生まれると、どうなるのでしょうか。
「ひとたびかの国に生まれると、彼の国にいる無数の清らかな修行者たちの仲間入りをすることになる。彼らは皆、仏になることが定まっていて、その境地が後退することがない。あなたがたは、先に極楽に生まれた人たちと再会することができる。それだけではない。彼らは皆、すでに清らかな境地を得ているので、この再会の歓びは、言葉では言い表せないほど素晴らしいものになるのだ。
彼らは皆、あなたがたを歓び迎え、この世ではかなわなかった清らかな修行の道へと、あなたがたを誘(いざな)うのだ。」

「質問はもう良いかな。では今日の話はこのくらいにしよう。
人の命は長いようで短いものだ。この極楽世界の教えに出会うこともまた、まれなことだ。
あなたがたはこの教えをすでに聞いた。この上なく尊く美しき世界、極楽国土に往くことを願い、阿弥陀仏の力をたよりとして、念仏に励むがよい。これがわが教えである。」

このようにお釈迦さまがお話を終えられると、集まっていた人々は皆、歓びにあふれ、深く感謝しながら礼拝をしたのち、その場を立ち去った、ということです。《了》

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