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2008.12

 
受容、ということ

まだ10代の頃、友人を亡くしました。
その晩、アルバイトの帰りに彼の家に寄ろうと思い、
電話をかけました。当人は出かけていて、今夜は遅くなる、とのこと。
日を改めよう、と、その日は真っすぐに帰宅しました。
翌朝、電話が鳴りました(共通の友人からだったと思います)。
「昨日の晩、Kと一緒だったか。」
「いや。留守だったので会えなかった。」
「夜中に、事故にあったらしい。」
鉄道の事故で、即死でした。

翌日の午後、戻ってきた遺体。
「変わり果てた」という言葉以上にあてはまる形容はありませんでした。

この出来事は、私が仏門に入ったことと無関係ではありません。
とても人間臭い、真面目で明るくて気のいい男でした。
「他人を思いやるってことと、自分に正直であるってことは両立するのかな。」
何度か、真面目な顔で聞いてきました。
質問というより、自問していたのでしょう。

先年、久方ぶりに彼の自宅を訪ね、お参りしてきました。
ご家族はご健在で、私の顔を見て喜んで下さいました。
友人の話になると、まるでその頃に帰ったような気持ちになりました。

年を重ねられたお母さんは、こう言われました。
「家族の死を受け入れる、という言葉がありますよね。」
「…ええ。」
「あれは嘘ですね。」
「え?」
「受け入れる、ってそんな簡単なことではない。」
「……そうですね。」
「私には受け入れられません。
この先も、それはないと思う。」

友人の死から30年近く経っているわけですが、
はっきりとそう言われました。

受け入れない、ということによって、
そのことに立ち向かう…
そのような生き方がある、と私は知りました。

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