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2010.01

 
年頭にあたって

新たな年を迎えました。
本年も、林海庵ならびに当サイトを宜しくお願いいたします。

『法然上人行状絵図』の第19巻に、こうあります。
「尼聖如房は、深く上人の化導に帰し、ひとえに念仏を修す…」
この「聖如房(しょうにょぼう)」という方が、式子内親王のことである、ということが先年(といっても昭和30年ですが)明らかになりました。
式子内親王は、後白河天皇の第三皇女で、『新古今和歌集』の代表的女流歌人として知られ、多くの優れた和歌を残しています。
「玉の緒よ たえなばたえね 長らへば 忍ぶることのよわりもぞする」
(この命よ、もう絶えるというのなら、絶えてしまっておくれ。これ以上生き長らえたとしても、あなたを密かにお慕いし、苦悩を耐え忍ぶ力が衰えてくるだけでしょうから。)
この忍ぶ恋の相手ははっきりしません。藤原定家ともいわれてきましたが、聖如房=式子内親王、ということが判ってからは、この恋の相手が16歳年上の法然上人ではないか、という説が出ています。(石丸晶子氏『式子内親王伝―面影びとは法然』

式子内親王は50歳過ぎで亡くなりました。
肩のあたりに熱がある~乳の腫れがひかない、風邪気味、足が腫れた、という症状が書き記されており、石丸晶子氏は、ご病気は乳がん、それが肺にも転移、また脚気、というふうに推測しています。
いよいよ病が重くなったときに、式子は法然上人と是非ともお会いしたい、という希望を上人に伝えました。法然上人はちょうど別時念仏の最中でした。
お念仏の合間に認められたであろう、法然上人のご返事(抜粋)です。

「聖如房よ、ご病気の重いことを伺い、ただただ驚いております。
ご自分が最後までお念仏できるのだろうか、と気がかりにお思いでしょうに、
ご自身のことよりもまず私のことをお心にかけて下さり、もったいなく、また心苦しく思っております。
別時の念仏を中止してでも、お見舞いに伺うべきかとも存じます。
しかし思えば、この世での対面は所詮どうでもよいことです。お目にかかることにより、しかばねに執着する心の迷いにもなりましょう。誰とても、この世に生き続けたままではいられません。ただ後に残るか先立つかの違いがあるだけです。
ただきっと、同じ仏の国にともに往き、彼の国の蓮の上で、この世の憂さや、過去の因縁をも語り合って、お互いに将来の仏道を助け合うことこそ、大事なことです。これは、お目にかかった当初から申し上げていたことです。
かえすがえすも、仏の本願を深くお受け取りになられて、一瞬も疑うことのなきように。一声でも南無阿弥陀仏と申せば、いかに罪深い人でも仏の願力によって必ず往生できると思し召して、ただ一筋にお念仏をなさって下さい。
また、あなたの浄土往生は難しい、というようなことを言う人々が周りにおられるとのこと。たいへん残念で、心苦しく思います。いかなる智者、また身分の高い人がおっしゃろうとも、仏道の理解や修行方法が異なる人の言うことは、往生のためにはかえって悪影響です。ひとすじに、阿弥陀仏のお誓いをお頼みなさるように。
あなたはこれまで、よくよく往生についての教えを受けてこられ、私も申し上げて参りました。つね日頃お念仏を称えて、その功徳がすでに積もっているではありませんか。たとえ臨終に導いてくれる人が枕辺にいなくても、浄土往生は疑いのないことです。
私がこのように引きこもって別時念仏をしようと思い立ったのも、元よりわが身一つのためのことではございません。おりしもご病気のことを承ったからには、今からは一念も残さず、ことごとくあなたの往生の助けになるようにと、ご回向させて頂きましょう。必ずや、お心の通りに往生を遂げて頂くのだ、と深く念じております。
私が申し上げた一言をお心に留めておられるということも、この世ばかりでなく、前世からのご縁なのでありましょう。そう思えば、このたびあなたが先立たれるにしても、私の方が先立つことになっても、ついには同じ阿弥陀仏の浄土で再びお会いできるのは疑いなきことです。
夢まぼろしのこの世で、もう一度お会いしたい、などと思ったことは、ほんとうはどうでも良いことだったのでしょう。
そんな思いはどうぞきっぱりとお捨てになり、ただ往生を願う心を深め、お念仏にお励みになって、浄土において私のことを待とう、とお考えになって下さい。
よほど弱られているようでしたら、この手紙は長過ぎます。そのときはお使いの方が要点をお伝えになって下さい。」

法然上人のおられた庵から式子内親王の邸宅までは、わずかな距離でした。法然上人は一瞬、「見舞いに行こう」と思われたようですが、踏みとどまり、長い長い手紙を書いて、会いに行かない理由を説明しています。このようにしかできない、上人にしか分からない深い思いがあったのです。

この話をご紹介しようと思ったのは、昨年十月に私の母が旅立つ直前、この法然上人が式子内親王に宛てたお手紙のことが思い起されたからなのです。
母が亡くなる数日前のこと、林海庵の本堂でお念仏を勤めておりました。
その日も病院に見舞いに行く予定でした。ところが、本堂に坐ってお勤めをしているときに、
「こうして自分が本堂でお念仏しているときに、臨終を迎えてくれると良いのだが」
という考えが浮かんできたのです。
つまり、病院のベッドに横たわる母の身体の近くに私がいて、その死を看取るよりも、阿弥陀さまの近くに私がいて、母の往生を願って念仏する方が、はるかに母を助けることになる─そのように思われたのです。

そのときに思い起こされたのが、上にご紹介した法然上人のお手紙です。法然上人は、深い絆を感じている相手、式子のもとに駆けつけるよりも、別時念仏を続けて、その一念一念を式子のために回向することを選びました。
法然上人は、
「しかし思えば、この世での対面は所詮どうでもよいことです。お目にかかることにより、しかばねに執着する心の迷いにもなりましょう。」
と書き、式子の願いを拒んでおられます。それは、法然上人ご自身の執着心を断ち切るため、という意味ではなく、式子の執着がこの世に残ることが彼女の往生のために良くない、と思われてのことでありましょう。
死に臨んでいる人が「自分に会いたい」と言ってきたときに、これを拒むことは、並大抵のことではありません。家族であれ、親戚友人であれ、宗教上の師弟関係であっても同じです。まずは駆けつけて、本人を少しでも安心させてやりたい、と思うのが人情でありましょう。
しかし、法然上人は違いました。
式子の浄土往生、という宗教上の最高目的をかなえるために、臨終の面会という二度と還らぬひとときを犠牲にする。否、本当に犠牲にしてよいのか? そのぎりぎりのところで法然上人は迷い、迷いながら結果として長文の手紙─「これで良いのだ」とご自身を納得させるために語っておられるかのような、長いお手紙を出されたのだと思います。

法然上人のご心境は、もとより私の推量の及ぶところではありません。が、母のためにお念仏をしているときに、ふと「どうして法然上人は、式子の枕元に駆けつけて、そのお念仏をお助けになられなかったのか」という疑問の答えが浮かんだような気がしたので、このことを書かせて頂きました。

式子が亡くなったのは、建仁元年1月25日。
法然上人が遷化(せんげ)されたのは、それから11年後の、同じ1月25日でした。■

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