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2010.08

 
夏の終わりに

お寺にとって夏は多忙な季節。お盆やお施餓鬼などの行事が目白押しとなるからです。
お盆のお参りに檀信徒のお宅を回っておりますと、色々なことが起こります。

あるお宅では、お子さんお孫さんが勢揃い。お経が終わってお茶をご馳走になっていると、子供たちから質問が飛び出します。
「そこのところ(と言いながら、私の袖を指差す)は何というのですか。」
「袖のこと? 袂(たもと)とも言うけど。」
「そこって何を入れても良いのですか。」
「ええと…例えば?」
「筆箱とか。」
「(この子はどういう筆箱を使っているのだろうか。とりあえず)うん。構わないよ。」
せっかく質問をしてくれたので、少しおまけをつけます。
「これはインドに由来すると思うけどね。右手を清らか、左手を不浄、という考え方があるんだ。だから、右の袂には不浄なもの、例えばハンカチ等を入れる。左手で出し入れするわけだからね。左の袂には清浄なものを入れるんだ。」
このあたりになりますと、大人たちも感心した顔つきで聞いてくれます。
「そういえば、仕事でスリランカに行ったことがあるのですが、現地の人は食事を右手でしていましたね。」
さて、次の質問。
「木魚とおりんは、どう使い分けるのですか?」
うーむ。慣れ過ぎて、半ば無意識に使い分けていたことに気づきます。
ひと呼吸置いて、答えることができました。
「おりんは、主に短いお経に使うんだ。短いお経の節目節目に入れる。どこで打つかが細かく決まっていてね。木魚の方は、長いお経のときに使う。大勢のお坊さんが長いお経を読む時は、木魚のリズムで声を合わせるんだ。お念仏を長く称えるときもそうだね。木魚に合わせる。そうすると、大勢で称えても声がずれてこないだろう。」
そして、おまけ。
「浄土宗の木魚の使い方は独特でね。合間打ちというんだ。先ほどのお経のとき気がついたかな。こんな具合だよ。(と叩いてみせる)。」
「へえー」
と感心してくれる子供たち。丸い目の可愛いこと。
別のお宅では、高校生からの鋭い質問がありました。
「それ(私の持っている朱扇<しゅせん>=扇子の一種で、朱色の骨に白い面を張ってある=を指差す)って、何に使うんですか。」
うーむ。確かに見慣れない人にとっては気になるだろう。当たり前のように持ち歩いているが、自分は何に使っているのだろう。
「暑い日にこうやって扇ぐためかな。(と広げて扇いでみせる)」
いや、それはたくさんある用途の一部に過ぎません。扇ぎながら考えます。
「大事なものを運ぶときや受け渡しするときにも使う。小さなお盆の代わりだね。また、畳に直接置いてはならないものーお数珠や袈裟、経本を畳に置かざるを得ないときに、この朱扇を下敷きにするんだよ。」
「儀式の中で使うこともあるし、置き場所にもこういう場合はこう置く、と決まりがある。それに、何といっても朱扇があると手の納まりが良い。両手が遊んでふらふらしている、ということがなくなるんだ。朱扇を持っているということが一つの修行、と言えるかも知れないね。」
と話しながら、ああ、本当にそうだな、と気づきます。

あるお宅では、ご高齢の未亡人がこう言われました。
「お盆のお経を頂いて、主人もさぞかし悦んでいることでしょう。いくら心に想っていても、(こうして)形に表さなければ、何も伝わりません。それは何もしないのと同じですから。」
お身体は少し不自由のご様子でしたが、品格にあふれた老婦人のお言葉は、胸に深く残りました。■

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