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2011.05

 
日常生活での仏教修行



―震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします―



三法印(さんぽういん)という言葉をご存知でしょうか。
これは、仏教の特徴をあらわす三つの「はたじるし」として知られています。

  • 一に諸行無常
  • 二に諸法無我
  • 三に涅槃寂静
がこれです。
三つめの「涅槃寂静」は、涅槃の境地─煩悩の炎が消えればそこには静かな安らぎがある、という意味です。これは仏教の理想とする境地でありますが、わたしたちの現実生活に即してみるならば、今はまず手の届かぬところ。はじめの二つについて考えてみましょう。

今月は一つめの「諸行無常」を取り上げます。ご承知のように「あらゆるものごとは常に変化し続けている」という道理です。これは、万人の認めるところであると同時に、万人が避けて通りたい道理でもあります。なぜなら、それはこう言うからです。

  • 「若さはやがて失われる」
  • 「健康はやがて失われる」
  • 「豊かさはいつまでも手元に置いておけない」
  • 「やがて死ぬことになる」
誰しも「確かに」と分かってはいても、避けたいことばかりです。
しかし、「諸行無常」とはこういう意味でもあります。
  • 「何歳になっても、成長する機会がある」
  • 「心身の不調も、いつか良くなるかも知れない」
  • 「今は窮乏の状態にあるが、いつまでもこのままではない」
  • 「死があるからこそ、新たな誕生もある」
そこにどのような解釈や価値観を当てはめるかには関わりなく、一切が変化してゆく、すべては河の流れの如く過ぎ去ってゆく、それが諸行無常です。

まずは夜のひととき、今日一日を振り返ってみましょう。日中は喧噪のさなか、あるいは感情の波や白昼夢にすっかり飲みこまれていて、なかなか「無常」を観ずる余裕はないでしょうから…。
夜になって、一人静かに「すべては河の流れの如く過ぎ去ってゆく」と思う時、今日一日の経験はどのように映るでしょうか。
嬉しかったこと、哀しかったこと、腹の立ったこと、笑ったこと、辛かったこと、イライラしたこと─印象に残った体験を振り返ります。
「わたし」と「体験」がぴったり一体となっていたのが、「すべては過ぎ去ってゆく」と思う時、「わたし」と「体験」の間に隙間ができたような感じがしないでしょうか。
そして、今日一日のことはすでに流れ去っています。それぞれの体験で出会った人たちは、その後新たな時間の中を生きています。私たちは自分の体験を手放すことができます。「諸行無常」の大河の中に今日一日を流してしまうことで、安らかな眠りにつくことができるでしょう。

修行とは、教えと個人的経験を結びつけるものです。
お寺に行けば、そこに非日常の空間があり、特別の体験ができるかもしれません。しかし、一時的な気分転換で終わってはもったいない。
やはり日常の個人的経験の中で、教えを味わうことが大切です。

浄土宗でもお念仏の根本には「凡夫の自覚」というものがあります。これも個人的経験として出てくるもの。
人から教わる「自覚」なんてないですよね。■

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