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2012.04

 
十二因縁(いんねん)の話

「十二支縁起」とも言い、仏教の基本的な教えのひとつです。
エゴの形成、という観点から見て参りましょう。

 十二因縁とは「12のプロセスを通じて、エゴ、すなわち「私の」「私は」という我執=苦しみの原因が育ってゆく過程を説明する」教えです

第1の段階:まず初めに、あたり一面の暗闇の中で、意識のみが目覚めます。
第2の段階:外に向かって手を伸ばしてみます。あるいは声を出してみます。
第3:伸ばした手が外界の何かに触ったり、外界から声が還って来たりして、外の様子を知りはじめます。
第4:母が「私」に呼びかけます。眼が開き、光が入ってきます。母の顔が分かり、外界がおぼろげに分節されはじめます。同時に少しずつ「私」という感覚が芽生えてきます。
第5:視覚や聴覚だけでなく、嗅覚、味覚など色々な外界とのチャンネルが開けてきます。
第6:開けたチャンネルを通じて、「私」が外界と広く接触してゆきます。
第7:接触した外界を、自分の中に取り込んでゆきます。「私の母」の姿や声、「私にとっての外界」を心に納めてゆきます。
第8:取り込んだ記憶に応じて、「私の」母を探し求める気持ちが起こってきます。「私の」母の姿や声を探し求める、また外界の中で好ましいものを探し求めるようになります。
第9:続いて「私のもの」という感覚が育ってきます。母は「私のもの」である。外界の中で好ましいものは「私のもの」である…。
第10:母がいる。外界のあれやこれは存在する。それに対して「私が」いる。「私」という感覚がしっかり固まってきます。
第11:「私」はかつて、無からこの世に生まれてきた、と思い込みます。(本当は幻想なのですが)
第12段階:生まれてきた「私」はやがて老い、死にゆくのだと幻想します。そしてそれを大いなる苦しみと感じます。

これが、エゴが生じ、やがて苦しみに転じてゆくプロセスです。このようなプロセスを通じて堅固な「私」意識─「私は」「私の」という感覚が育ってくるわけです。
しかし実は、このエゴは幻想に過ぎません。例えば夜、松明の炎をぐるぐる回すと、それが円を描いて見えますが、「私」とはこの松明の火が描く円と同じ。実体は何もありません。この偽りのエゴこそが、苦しみの元である。これが仏教の根本の教えです。
それを見抜く(覚る)ために、いわば「松明の炎を回すスピードを落として行く」のが仏教の修行である、と言えましょう。

それでは、どのように修行すれば、エゴを幻想であると見抜くことができるのでしょうか。あなたは上記のような説明を理解することによって、偽りのエゴから解放されるでしょうか。

実は、このような問いから(も)念仏の道が開けてくるのです。浄土宗では心を静めて「無我」を知る、「空」を体験する、という方法は取りません。仏の導きに任せるのが一番の近道だと考えます。これが法然上人の説かれた念仏の教えです。

「理観、菩提心、読誦大乗、真言、止観等、いずれも仏法のおろかにましますにはあらず。みな生死滅度の法なれども、末代になりぬれば力及ばず。…老少男女のともがら、一念十念のたぐいにいたるまで、みなこれ摂取不捨の誓いにこもれるなり。このゆえに諸宗にこえ、諸行にすぐれたりとは申すなり。」(法然上人)
(真理を観じる修行をする、あるいは覚りを求める心を確立する、大乗経典を読誦する、また真言や止観─真言宗、天台宗の奥深い教えに基づいた修行など、どの道も仏法として劣っているわけでは決してありません。みな迷いを離れて解脱するための教えではありますが、末法の時代になったのでそれらの教えは力を発揮できないのです…浄土宗では、老いも若きも、男も女も、たった一回の念仏、十回の念仏しか称えない人に対しても、みな阿弥陀仏の「必ず救いとって、一人も見捨てない」というお約束が守られるのです。このゆえに、念仏の道は他の諸宗にまさり、他の修行より勝れていると申しているわけです。)

このように、従来の修行や学問を離れ、念仏一行に徹することを勧めておられます。仏教の一大転換、大革命と申すべきでしょう。
法然上人のこの呼びかけは、今日もなお新鮮な響きを失いません。どんな人でも仏教の真髄につながることができる、という点において、この教えを超えるものは今後も出てこないと思われます。◆

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