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2015.04

 
先祖供養

日本の仏教は先祖供養を中心としています。
「先祖供養は本来の仏教ではない」
と言う声もありますが、現実としてお寺に見える大半の方が「今は亡き家族の供養のために」手を合わせられます。
先祖供養の素晴らしい点は、それが素朴で自然な宗教心がひらかれる場である、というところです。私たちの多くは、現に生きておられたご先祖のために手を合わせ、心から冥福を祈ります。
お寺の本堂で、あるいは自宅の仏壇、お墓の前でこのように対話をする方も多いでしょう。
「おかげさまで元気にやっていますよ。」
「子供たちもこんなに大きくなりましたよ。」
「そちらはどんな世界ですか。お父さんと喧嘩しないで仲良くやっていますか。」
「今、迷っていることがあるのだけど、お父さんだったらどうする?」
「どうか私たちを見守っていて下さい。」
などなど…。
そして私たちは目に見えない仏さまの世界、ご先祖の世界に支えられながら、日々何とかやってゆけます。ご先祖から『よく頑張っているね』と言ってもらえるよう、心を正して前に進んでゆきます。たとえ仏教の戒律を学ばなくても、各宗派の教義を学んだり修行を経験したりしなくても、ちゃんと教えに適った生き方になってゆきます。
「私は無宗教です。」
とおっしゃる方が多いそうですが、人と会えば笑顔で挨拶をし、財布を拾えば交番に届け、人に迷惑をかけないように、人を苦しめないように気をつけながら暮らしてゆく。これは立派な仏教徒の生き方です。日本人の道徳性、倫理性は先祖供養という宗教(習慣?)と深く結びついていると言ってもよいかもしれません。
このように、大きく見ますと先祖供養という素晴らしい宗教は結果的に仏教徒としての生き方の方向を示してくれているのです。
しかし、よく見ると弱点もあります。

一つは、宗教心が「わが家の供養」に限られてしまう傾向があるという点です。仏教では利他行、世のため人のため、困っている人を助けることを大事にします。その中で自分自身も成長してゆきます。しかし「わが家の供養」に限られた心は、ともすると「わが家以外には関心がない」というふうになりかねません。
これが進むと「わが家はちゃんと先祖を大切に供養していますよ。(だからもう十分務めを果たしているのです)」「わが家さえ良ければよい」「困っている人は自業自得、その人の努力が足りないのだ」となってしまいます。また、たとえ日常生活の中で人さまのためになることをしたり思いやりの心を持ったりしたとしても、それは先祖供養とは別のこと。従って仏教とは結びつかなくなります。善行を行なっても、そこに「仏のお導き」という背骨がない。もし「思いやりの心をもて、しかし執着するなかれ」という仏教の教えがしっかりと身についていたならば、「私は良いことをした」あるいは「皆も私を手本とすべきだ」という思いにブレーキがかかります。
このように仏教の学び、あるいは祈りの心を「わが家の先祖供養」の範囲に留めず、広げて頂きたいと思うのです。
そしてもう一つ。人生には「もはやこれまでか」と思う瞬間があります。たとえば自分の死に直面するときです。万策尽き果て、ぎりぎりの局面に追いつめられたときどうするか。その時思わず「なむあみだぶ!」と叫ぶことができるか。永遠の救い、生死を超えた世界にすがることができるのか。
さあ、先祖供養の宗教はこの問いには応えられません。
やはり宗派の教えに少しでも馴染み、ふだんから「なむあみだぶ」と称えている(あるいは他の宗派ならばその教えに従って、例えば日蓮宗系なら「なむみょうほうれんげきょう」と称える等)ことが大切です。

今までは 人のことだと思ふたに
俺が死ぬとは こいつはたまらん (大田南畝)

目の前に ただ一筋の命綱
なむあみだぶつ なむあみだぶつ◆

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