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2015.07

 
集団的自衛権?

 自分自身の身体や、自分自身の心とじっくりつき合い、それを内側から理解しようという経験を重ねていれば、たとえどのような状況であっても、自ら「他人の身体を傷つける」という可能性はあり得ません。
 それはちょうどこのようなものです。あなたには自分自身の家と庭があり、それがあまりにも美しく、貴重なものであることを知っています。「他人の身体を傷つける」とは、自分の美しい家と庭をあとにして、わざわざ遠くの山に出かけて行って、そこにゴミをまき散らすようなものです。どうしてそこを汚す必要があるのでしょうか。そんなことをすれば自分にとっても不幸であり、その山にとっても不幸なことです。どうして自分が幸せなときにわざわざ不幸を作りに出かけてゆくのでしょうか。

 人はこう問うかもしれません。
「今は確かに平和だ。あなたは自分の美しい家と庭の中で幸せに生きるがよい。だが、あの山が動いてあなたに襲いかかってきたらどうするのか。あるいはあの山があなたの隣人を攻撃してきたらどうなるのか。そうなればあなたの家と庭も破壊されてしまうかもしれない。それを未然に防ぐ手だてを打つべきではないのか。」
 しかし、その「手だて」がくせ者です。その手だては敵を作り、呼び寄せることになるでしょう。なぜなら、誰もが自分の家と庭の美しさに気づいていないために、自分を不幸だと思っているからです。彼らは怒りに満ちています。ひとたびチャンスがあれば、その怒りが噴出します。怒りは出口を探しています。口実は何でもよいのです。
 だから、彼らの怒りに火をつけるべきではありません。それは得策ではない。むしろ、彼らの怒り、彼らの痛みを理解し、それを癒す方向に働きかけるべきです。それをやったところで、あなたの家と庭の美しさが損なわれることはありません。もしかしたら、彼らが感謝の心から、花束を持ってきてくれるかもしれません。そうなれば、あなたの家はもっと美しくなるでしょう。

 もしあなたが他人の身体を傷つけても構わない、と思うなら、それはあなた自身が怒りと不満足に満ちている、ということを意味します。あなたは他人の身体を傷つける準備をするよりも、あなた自身の怒りと不満足に取り組むべきです。それらはどこからやってくるのか。あなたの痛みはどんな感じなのか。今あなたが感じている微妙な生き生きとした感じは、見かけ上の痛みや怒りの奥に潜む深い「何か」を伝えようとしているのではないのか。

 自分の痛みに触れ合おうとすることは、他人の身体を傷つける準備をすることに比べれば何千倍の価値があります。
 方向を変えるべきです。外から内に。あなたの痛みや悲しみに、慈悲心をもってつき合って上げて下さい。

 まったくのナンセンスに貴重な時間を費やすのはやめましょう。わたしたちはもっと幸せになることができます。私たちのありよう次第で、世界中に幸せを広げることすらできるでしょう。
 自分自身に対する理解、慈悲心をもって自分を眺めるまなざし。そのコツを少しでも学べば、外側に向ける慈悲のまなざしもまったく同じだと気づきます。

 それは自分自身を癒し、いっそう豊かにしてくれるのです。◆

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