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2015.10

 
死について(中)

 お釈迦さまはご自身の深い心を光明で満たされ、そのみ光を外側の世界の人々にまで降り注がれました。
 さて、翻って私たちを見ますと、何とも心もとない限りです。ひとすじの光明どころか、昨夜見た夢も覚えていない。日々深い心からわき起こる煩悩に振り回されながら生きている。表面の意識ではいろいろなことを学び、自分の生き方を変えようとさえしますが、表面の意識の決心はなかなか深い心にまで届かない。生き方全体には及ばない。
 仏教の修行とは、この表面の意識から深い心へと降りて行き、その深い内面世界を浄化してゆくことだと言えましょう。
  「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」
  (しょあくまくさ しゅぜんぶぎょう じじょうごい ぜしょぶっきょう)
 もろもろの悪をなさず、もろもろの善を行ない、みずからその心を浄らかにすること、これが諸仏の教えである―「七仏通誡偈」と言われる仏道の基本です。
 深い心を浄化するためには、まず表面の浄化からこれを行ないます。身を清め、表層の心を澄んだ状態に整える。そのためには自分や他人の身体を害したり、心を傷つけたり、嘘をついたりすることを慎まなければなりません。それらの行ないは私たち自身の心を濁らせ、複雑に入り組ませてしまいます。
 また善き行ないをすることによって(一歩踏み出して外側の世界に心を開くことによって)、私たちの心は明るく満たされ、ありがたい感じや透明感に満たされます。こうした表面の行ない、表面の心のちょっとした変化が徐々に深い心に影響を与えてゆくのです。
 さらに仏教では「仏性(ぶっしょう)」といいまして、誰の心にも仏の種が宿っている、と説きます。誰でも覚りの光に満たされることができる、と。覚りの種がある場所は、おそらくこの深い心の底あたりです。
 お釈迦さまは、ご存命中にこの覚りの種から花を開かせ、ご自身の全存在を光で満たされた。さらにはそのみ光を広く人々に施されたわけです。
 浄土の教えとは、この深い心、すなわち仏の種を宿してはいるものの厚い煩悩に覆われたこの深い心を自ら浄めてゆくのではなく、この清濁あわせ含む深い心をそのまままるごと仏の世界にお預けし、かの世界で仏性を花開かせて頂こう、という道です。
 自浄其意=みずからその心を浄らかにする、という仏教の基本からするとそれは正道ではない、という見方もあるでしょう。しかし、現実として私たちの深い心とは漆黒の闇に包まれたジャングルのようなもの。そのジャングル全体を光で満たそうとするよりも、念仏の一灯をたよりに仏のお力によって光の世界に導いて頂く、という方が安全かつ唯一可能な道だと思われるのです。

「もし智慧をもちて生死を離るべくば、源空いかでか彼の聖道門を捨てて、此の浄土門に趣くべきや。聖道門の修行は智慧を極めて生死を離れ、浄土門の修行は愚痴に還りて極楽に生まると知るべし」(法然上人)

(私訳:もし私が自分の智慧をもってこの暗闇に包まれたジャングルのような深い層の心を光で満たすことができるのならば、私はどうして智慧の道を捨てて浄土の道に入るでありましょうか。浄土門の修行はこの暗闇のような深層意識をそのまま現実として認め、暗闇のままで極楽浄土に引き取って頂き、彼の世界で覚りの花を開かせて頂く道である、とそのように理解しなさい。)◆

(次回に続く)

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