コラム目次へ

コラム倉庫

2016.08

 
先祖供養は菩薩信仰である

 7月8月はお盆の季節です。棚経、墓参、また各寺院で行事(施餓鬼会)が営まれることもあって、先祖供養の読経回向が続きます。

 先月のコラムで大乗仏教について書きました。
「永遠の仏への信仰」「すべての人が仏になれる」「菩薩精神」。これが大乗仏教の三本の柱ですよ、と申しました。
 さて、日本の仏教は先祖供養を中心としています。この先祖供養は本来のインドの仏教にはないもので、儒教の影響を受けた東アジア地域に見られる、といわれています。私も以前は先祖供養と仏教との関連性について頭を悩ましたものです。お経を調べても、先祖供養に言及しているものはほとんどないのです。しかしこの頃こう思うようになりました。先祖供養の仏教は、大乗仏教の精神をそのまま受け継いでいるのではないか、と。

 自分自身の感覚として、仏教の教義を学んだり修行に励むときよりも、はるかに宗教的にずっと深い所に至る時があるのです。それは他ならぬ葬儀、法事など先祖供養の場においてです。これはどういうことだろう、と常日頃疑問に思っておりました。最近気づいたのは、先祖供養の場には大乗仏教の精神が実に生々しい形で息づいているのではないか、ということなのです。
 今一度大乗仏教の三本の柱に立ち返りましょう。
 第一に「永遠の仏への信仰」。これが先祖供養のベースにあるのです。死がすべての終わりではなく、その先の世界がある。「永遠の仏」は「祖霊の永遠性」を担保する基盤であり、さらに祖霊を仏の位に導いてくれる存在でもあります。僧侶の側も一般信徒も、そのような共通の意識(明確ではないかもしれませんが)をもって先祖供養の場を創ってきたのではないでしょうか。
 第二に、「すべての人が仏になれる」。死後の成仏を願うということは、死後成仏が可能である、つまり祖霊は肉体の死後も何らかの個体性を保ち(堅固な個体性はなくなるにしても)、浄化され成仏できる、つまりすべての人が仏になれるという前提があることになります。
第三に、「菩薩精神」。祖霊は菩薩である。「上求菩提 下化衆生(じょうぐぼだい げけしゅじょう)」という言葉があります。この言葉は「上には自らの覚りを求め、下には衆生を仏道に導く」という菩薩の精神を表します。
自らは仏を目指す道を歩み、同時に人々を救い導く。先祖供養の場では、先祖の仏道増進を願い、また子孫を守ってくれるように願う—つまり祖霊をある種の菩薩として崇拝する心がそこにあるのではないでしょうか。

 先祖供養の場がこの三本の柱で成り立っているので、そこに大乗仏教を基盤とした祈りの場が成立して仏教的感動が起こる。このように考えられないでしょうか。
 先祖供養は決して仏教とかけはなれた宗教活動にあらず、大乗精神の大いなる土壌から育った樹、開花した花と言っても言い過ぎではないと思います。身内との死別を通した仏教。永遠の仏というと遠い存在に思われるかもしれませんが、菩薩、さらに先祖になるととても身近で切実な感覚を持って手を合わせることができる。祖霊信仰は大乗仏教がわたしたちの身体感覚に取りこまれた独特の宗教、習慣、と言えるのではないでしょうか。

「お釈迦さまの説かれた具体的な教えはよく分からないが、お釈迦さまを敬いその永遠性を信じます。」
「亡くなった人が煩悩や苦しみ、けがれから浄化され、いつかは最終的に救われた存在(仏)になってくれると信じます。」
「それまであちら側の世界で安らかな歩みを進めて欲しい。私たちの事もどうぞ見守っていてください。」
 こうした信仰は、まさに大乗の菩薩としての先祖に手を合わせている、と言って良いのではないでしょうか。

 わたしども僧侶の務めは、まずは先祖供養の場の宗教性をしっかりと支えること。そしてもう一つ大切なのは、先祖のみならず、わたしたち自身が菩薩として利他の精神を発揮すべきである—そのように皆さまにしっかりとお伝えすることだと思います。

 わが家の家族のみの安心繁栄を願うのでは大乗仏教ではありません。ご先祖が微笑んでくれるような、「よく頑張っているね」と言ってくれるような利他的な生き方を心がけましょう。そしてそれは決して難しいことではありません。相手の立場を考えること—ちょっとした思いやり、さりげない心づかい、あるいは優しい微笑みでも十分なのです。◆

ご寄付のページへ