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2017.08

 
お釈迦さまの浄土の教え

 浄土宗の教えは『浄土三部経』という三つの経典をその根拠としています。皆さんにもいつか、これらの経典をじっくり読んで頂きたいと思うのですが、正直申して、初めての方が読み通すのはなかなか大変です。そこで、どういうことが書かれているのか、その概略をご紹介したいと思い、ひとつの短い物語にまとめてみました。(以前このコラム欄に掲載したものを、一部編集しました。)
 お釈迦さまのご説法の一端を味わってみて下さい。

◇      ◆      ◇

 その日は、穏やかに晴れた素晴らしいお天気でした。
 暑すぎることも涼しすぎることもなく、爽やかな風がそよぎわたっています。林は豊かな緑に輝き、小鳥たちもそこかしこで歓びの歌を歌っています。
 今日は、私たちのお釈迦さまが特別なお話をなさる、ということです。高弟の方々をはじめ、たくさんの人々が集まっています。優に1000人は越えるでしょう。そうそう、ご案内が遅れましたが、ここはインド、コーサラ国の都にある「祇園精舎」という名前の大きなお寺です。
お釈迦さまはすでに壇上に登られ、ゆったりとした大きな台の上に、両足を組んで坐っておられます。お顔の輝きはふだんにもまさり、その焔のような明るさは太陽や月をもしのぐほどではないか、と思われました。
 お釈迦さまは、優しい微笑みをたたえ、集まった人々に目を向けられました。すぐそばに坐っている舎利弗さまや目連さまを見つめ、また遠くに見えるお弟子や信者の方々を眺めながら、しばし沈黙しておられます。
 一同は、ワクワクしながらお釈迦さまがご説法を始められるのを待っておりました。やがてお釈迦さまは口を開かれ、力強い、深みのあるあのお声が響き渡りました。

「皆、わたしの顔を見るがよい。わたしの顔は、ふだんにも増して光り輝いているであろう。
「わたしは今、歓びにあふれているのだ。なぜなら、今日はそなたたちに浄土の教えについて話すからだ。」

 このように前置きをされると、お釈迦さまはすぐに本題に入られました。

「ここから西の方、はるか彼方に、極楽国と呼ばれる世界がある。そこには阿弥陀仏という名前の仏がおられ、いつでもあなた方に救いの手を差し延べておられるのだ。
「かの世界には苦しみがなく、人々はただただ安楽のうちに、修行を楽しんでいる。ゆえに、この上ない楽しみ、極楽と呼ばれている。

「この極楽世界には、信じられないほどの美しさがあふれている。今は、この祇園精舎にある樹々も豊かな美しい緑を湛えているが、かの世界に並ぶ樹々の美しさといったら、これとはまったく比べものにならない。極楽世界に茂っている樹々は、みな色彩豊かな宝石の輝きを放っているのだ。池に育つ蓮華も色とりどりの大きな花を咲かせ、新鮮な、そして悠久の時の香りを放っている。
「実のところ、わたしたちのこの世界でも、樹々は神聖さに輝いている。草原や、岩や小石でさえ神聖さに満ちている。だが、それを感じとることができるのは、目覚めた人々だけだ。覚りをひらいたごくわずかな人々…。
「極楽世界はそうではない。樹々も、大地も…すべての人がその神聖なる宝石のような輝きを体験している。いまだ目覚めていない者でも、その美しさに圧倒されてしまうことだろう。」

 お釈迦さまがそこまで話されたとき、一羽の鳥の鋭い鳴き声が、そのお声をさえぎりました。うつむいて話を聴いていた人たちも、ハッと顔を上げてお釈迦さまのお顔を注視します。お釈迦さまは、半ば目を閉じられ、鳥の声の残響が完全に消えゆくまで、ゆっくり味わうように耳を傾けられると、口を開かれました。

「かの世界にも、あのような鳥たちがいる。だが、その声の素晴らしさといえば、まるで覚れる人たちの説法を聴いているようだ。鳥の声に言葉はない。だが、その声、そのハーモニーがあなたの中にしみ通ると、それだけであなた方の心に清らかな目覚めを呼び覚ますのだ。

「さて、かの世界はいかにして創られたのであろうか。それは、私たちの住んでいる世界のように、自然が創造したものではない。今、この生身の手で触れたり、また肉眼で誰もが見ることができるような世界ではないのだ。だが一方で、極楽世界は私たちが心で思い描く、夢のような世界でもない。私たちが自分の心の中に極楽世界を持っているならば、それは一人一人の別の世界、ということになってしまう。そうではなく、極楽は、かの阿弥陀仏がその心の力で創られた世界なのだ。
「心の力で創られた世界であるゆえ、手で触れたり、皆の前で『これがその世界です』と言ってみせたりすることはできない。
「また、『心の力』といってもそれはあなた方の心とは違う。すでに覚りをひらかれた仏の心の力なのだ。だから、それは想像を超えた現実の世界だ。その場所は、言い伝えでは『ここから西の方角、十万億の仏土を過ぎたところにある』と表現されている。
「阿弥陀仏という仏も、私たちのように、両親から生まれた生身の身体をしているわけではない。修行の結果、心の力によって創られた身体をもっているのだ。この身体は生身ではないので、死ぬことがない。永遠の命をお持ちなのだ。そして、この身体は言葉では表わしようのない光、巨大な爆発が起こったような光明に輝いている。

「この阿弥陀仏という仏は、世にも稀なる仏だ。覚りをめざして修行するものは星の数ほどいる。実際に覚りを開き仏となった者も、その数は知れない。だが、まったく覚りからかけ離れた人々をも、必ず道の終点まで導こう、と決意した仏はただ一人、阿弥陀仏だけだ。阿弥陀仏が仏になられる前、法蔵菩薩という名をもつ一人の修行者であったころ、阿弥陀仏はこの誓いを建てられた。『わが名を呼ぶものを、必ずわが仏国土に導こう』という誓いだ。自分自身のことであれば、道を歩む上でおのれの最善を尽くすこともできる。だが、他人を導くこと、それもまったく仏教の素養をもたない人を導くことはこの上もなく難しい。それを成しとげた仏は、この阿弥陀仏をおいて他にはいない。わたし自身も覚りを得たが、いまだ阿弥陀仏のように存在するには至っていないのだ。

「阿弥陀仏の放つ光は特別なものだ。それは、あなたの心の隅々にまで届く。あなたという存在のすべてを貫き通す。あなたの秘密、誰にも知られたくないようなこと、あなた自身もすっかり忘れているようなこともすべて、まばゆい光のなかに照らし出されることになるのだ。阿弥陀仏という仏は、文字通りあなたのすべてを隅から隅までそのみ光で照らし、すべてを理解した上で、それでもなお、あなたに救いの手を差し延べてくれている。
「あなたにできることは、阿弥陀仏に手を合わせ、心のすべてを差し出して、任せきること。ただそれだけだ。
「ごく一部の人々は、この世に生きている間に阿弥陀仏の姿や、極楽世界のようすを見ることがある。だが、それはめったに起こらない。極めてまれなことだ。これを経験した人は、阿弥陀仏や極楽世界が現実のものであることをよく知っている。

「極楽世界に導かれるのは、この身体の寿命が尽きたときだ。そのために今、なすべきことがある。それは、極楽世界に入ることを願い、かの仏、阿弥陀仏の名前を称えることだ。 一日に一度、また二度、三度、あるいは気がついたときは常にこのことを思い出しなさい。阿弥陀仏に手を合わせ、『なむあみだぶつ』と称えなさい。阿弥陀仏があなたのすべてを知り、理解し、大いなる慈悲の心をもって導いて下さることは、すでに動かない真実だ。深い信頼の心をもって、『なむあみだぶつ』と称え続けなさい。あなたがたはすぐに忘れてしまうだろう。だから、一日のうちで何度でもこのことを思い出し、念仏を称えなさい。いつか、分かる日が来るだろう。自分の人生の真実の瞬間は、阿弥陀仏に向き合って、念仏を称えていたとき、ただそのときだけだった、と。
「人の命は長いようで短いものだ。この極楽世界の教えに出会うこともまた、まれなことだ。
「あなたがたはこの教えをすでに聞いた。この上なく尊く美しき世界、極楽世界に往くことを願い、阿弥陀仏の力をたよりとして、念仏に励むがよい。これがわが教えである。」

 このようにお釈迦さまがお話を終えられると、集まっていた人々は皆、歓びにあふれ、深く感謝しながら礼拝をしたのち、その場を立ち去った、ということです。◆