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2018.02

 
法然上人の浄土の教え(2)

 昨年9月のコラムでは、法然上人の『一枚起請文』を取り上げました。今回はその続きとして、いくつかの問いを設けて上人のお答えを伺ってみましょう。

<最初の問い>

-私は本当に未熟な人間です。私のような者でも仏道を歩むことができるのでしょうか。

「このごろの我らは、智慧の眼(まなこ)しい、行法の足萎(な)えたる輩(ともがら)なり。聖道難行の険しき道には、惣じて望みを断つべし。ただ弥陀の本願の船に乗りて生死の海を渡り、極楽の岸に着くべきなり。」


(釈尊の時代からはるかに下った今の時代に生きるわたしたちは、たとえ表面的な知識をもっていたとしても深い洞察力に欠けている。厳しい修行に耐える肉体をもっているわけでもない。これはあなた一人に限ったことではない。ゆえに、学問や修行によって自分を高め、覚りにいたろうとする道はすべて諦めた方がよい。あなたが歩むことができる道、また歩むべき道は、ただ阿弥陀仏の本願の船に乗り、生死輪廻の海をわたって極楽浄土の岸にたどり着くことである。極楽浄土では必ず覚りを開くことができる。)

<二番目の問い>

-勉学、坐禅、巡礼、祈祷など色々な修行法がありますが、どのように取り組めば良いのでしょうか。

「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。」


(「自分は仏教を正しく理解している」「仏教の正しい修行を積んでいる」という考えをすべて捨てなさい。ただ一向に念仏するがよい。)

<三番目の問い>

-念仏は法然上人が考えられた修行法ですか。

「諸行の中に念仏を用うるは、かの仏の本願なるゆえなり。」


(そうではない。諸々の修行があるなかでただ念仏を称えなさいというのは、阿弥陀仏が「わが名を呼びなさい。南無阿弥陀仏と称えなさい。そうすれば必ずわが極楽浄土に救いとろう」と約束して下さっているからだ。念仏は、わたしが考え出した修行法ではなく、阿弥陀仏によって定められた行なのだ。)

<四番目の問い>

-病気で悩んでいます。信仰によって救われるでしょうか。

「祈るによりて病も止み、命も延ぶる事あらば、誰かは一人として病み、死ぬる人あらん。況やまた、仏の御力は、念仏を信ずる者をば、転重軽受(てんじゅうきょうじゅ)と云いて、宿業限りありて重く受くべき病を軽く受けさせ給う。況や非業を払い給わんこと、ましまさざらんや。」


(もし神仏に祈ることによって病気が治り、延命できるのであれば、誰が病気で苦しむことがあろうか。誰が命を落とすことがあろうか。だがそのようなことはあり得ない。誰もが病み、いつかは死ぬというのが命あるものの定めであり、釈尊の教えるところである。  阿弥陀仏の本願力は、煩悩の只中にあるわれわれを極楽浄土に導いて下さるほどの偉大な力である。もしあなたが病に苦しんでいるならば、「阿弥陀仏の力のおかげで、本来ならもっと重く受けなければならない病を、このように軽くして下さっているのだ」と考えなさい。まして受けるいわれのない不幸から仏がわれわれを守って下さらないことがあろうか。このように受け止めて念仏しなさい。)

<五番目の問い>

-私は死を恐れています。どうすれば良いでしょうか。

「まめやかに往生の志ありて、弥陀の本願を疑わずして、念仏申さん人は、臨終のわろき事は、大方は候うまじきなり。  ただの時によくよく申しおきたる念仏によりて、臨終に必ず仏は来迎し給うべし。仏の来迎し給うを見たてまつりて、行者、正念に住す。」


(心から浄土往生を願い、阿弥陀仏の本願を疑うことなく念仏を称える人は、不幸な臨終を迎えることはあり得ない。なぜならば、ふだんよくよく称えている念仏によって、臨終のときに必ず阿弥陀仏が迎えに来て下さるからだ。仏のお姿を拝することによって、臨終時でも心を正しく保つことができるのだ。だから、安心して念仏しなさい。)

<六番目の問い>

-亡くなった人にもう一度会いたいのです。会えるでしょうか。

「会者定離(えしゃじょうり)は常の習い、今始めたるにあらず。何ぞ深く嘆かんや。宿縁空しからずば同一蓮に坐せん。浄土の再会、甚だ近きにあり。今の別れは暫くの悲しみ、春の夜の夢のごとし。」


(出会いがあれば必ず別離がある、というのがこの世の定めである。これは今に始まったことではない。どうして深く嘆くことがあろうか。もし念仏の縁が確かなものであれば、極楽浄土の同じ蓮の台うてなに共に坐すことができよう。浄土での再会は甚だ近くのことだ。今の別離はしばしの間の悲しみ、春の夜の夢のごときもの。極楽浄土こそが、夢から覚めた真実の世界なのだ。)

<七番目の問い>

-亡くなった人が、苦しんだり迷ったりしていませんか。

「亡き人のために念仏を廻向し候えば、阿弥陀仏、光を放ちて地獄・餓鬼・畜生を照らし給い候えば、この三悪道に沈みて苦を受くる者、その苦しみ休まりて、命終わりて後、解脱すべきにて候。」


(すでに亡くなった人のために念仏を回向すれば、阿弥陀仏が光を放って地獄・餓鬼・畜生という苦しみの世界を照らして下さる。かりに亡くなった人がこうした苦しみの世界にいたとしても、阿弥陀仏の光を受けて苦しみが和らぎ、のちにはその世界を離れることができる。ゆえに、念仏を称えて回向して差し上げなさい。)

 浄土宗は、お念仏に始まりお念仏に終わる宗派です。法然上人はどうしてそのような教えを唱導されたのか。一歩奥に入ってみるとそれがお分かり頂けると思います。◆