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2018.06

 
お釈迦さまの説かれた四諦・八正道・十二因縁

 前回のコラムに書きましたように、お釈迦さまのお覚りはおそらくは一瞬の間のできごとだったに違いありません。このお覚りの光明の中から、お釈迦さまは少しずつ教えの言葉を紡ぎ出してゆかれます。
 覚者のまなこから他の人々の状態(以前のご自分も含めて)を観察されると、人々が暗闇の谷底で苦しみ喘いでいるように見えたことでしょう。その状態から彼らを救い出し、ご自身が体験している光明の世界に何とかして導くことができないだろうか——これが、お釈迦さまが教えを説き始められた動機でした。
 根本の教えはこのようなものです。
「私たち(お釈迦さまからご覧になれば「あなた方」です)凡夫の人生は苦しみに満ちている。」
「その苦しみはどこから来るかというと、私たちが自分が欲する対象を得られないからである。」
 欲する対象とは、たとえば「もの」であったり「愛」、「性的対象」であったり、「健康」、「若さ」、「美貌」、「自分に合った仕事」、「住宅環境」、「境遇」、「待遇」、なんらかの「技術」、「他人からの賞賛、承認」、「良好な人間関係」、「あるいは広く「生きる意味」、「学び、働く意味」などかもしれません。またすでに失われたものをもう一度手にしたい、という願いもあることでしょう。豊かさに恵まれた現代においては、「ずっとこの幸せが続きますように」という欲求をもつ人も多いと思います。
 これらの、欲する対象を中々得られない、あるいはすでに持っているものをやがては失ってしまうという現実が私たちを苦しめます。ではどうすればよいのでしょう。お釈迦さまの教えは、「なんとかして欲しいものを手に入れる方法を探しなさい」「持っているものを失わないように工夫しなさい」というものではありませんでした。「それらを欲する主体、つまり自分自身を疑いなさい」というものでした。
 お釈迦さまが覚りをひらかれたときには、まさにこの主体、お釈迦さまご自身の存在の土台が爆発し、粉々になっていわば宇宙全体に広がってしまったのでした。その結果が涅槃—光明と至福、そして静寂の世界です。

 お釈迦さまはやってくる人々に対して、一人一人それぞれを個人的に導かれたことでしょう。そしてまた一方で、「心を清めなさい」「執着を手放しなさい」という一般的な、誰にでも共通する教えも説かれました。やがてそれが定式化され、「四諦(したい)」、「八正道(はっしょうどう)」、「十二支縁起または十二因縁(じゅうにし えんぎ)(じゅうに いんねん)」といわれる教えにまとめられます。

「四諦」とは、平たく申しますと、
‣ 人生は、欲するものを得られない苦しみに満ちています。
‣ 苦しみの原因は、欲するものを手に入れる方法が見つからないからではなく、そもそもそれらを欲する主体である自分自身の執着心・渇愛にあるのです。
‣ 修行を通じてこれを覚りなさい。
‣ それによって光明・至福・静寂の世界がひらけてきます。
というものです。さきほど述べたとおりです。
「八正道」とは、この修行の道を八つにまとめて述べたものです。これらも平たく申しますと、
「自分の心を静かに保ち、自分の内面世界と外側の世界を正しく観察しなさい」ということです。そうすれば自分の執着心や渇愛がはっきりと見えてきて、それに溺れるのではなく「そこから離れよ」というお釈迦さまの教えをより深く理解することができるわけです。
 この八正道が修行の基本となるわけですが、今日的に見るといささか抽象的な印象も受けます。「正しい道」といっても何が正しくて何が間違っているのか、初心者にはよく分かりません。「般若心経を写経しなさい」とか「お念仏を五百回称えなさい」というような具体的な指示ではありませんから…。
 仏教はのちに様々な宗派に分かれ、それぞれが各々の「正しい道」について具体的な心理分析法や修行法を開発してゆくことになります。

 さて、「四諦」「八正道」のあらましは以上のとおりです。問題は十二支縁起(十二因縁)です。様々な解説がありますが、それらを読んでも「何のことやら、よく分からん」という方が多いのではないでしょうか。これも平たくご説明します。
 十二支縁起(十二因縁)とは、わたしたちの心の中に、執着心や渇愛が自然に形成され、やがて苦しみにつながってゆくプロセスを説明するものです。
 それは以下の十二段階です。

‣ 私たちの意識は、真っ暗な空間の中で初めて目覚めます。
‣ 意識が目覚めると、それはまず周囲に注意を向けます。暗闇の中で手を伸ばして何かに触れようとします。それはつまり、自分自身の生命の枝を周りに伸ばしてゆくということでもあります。
‣ 触れたもの、あるいは眼が開いて見えたものを「これは何だろう」「これはお母さんの手だ」「これはお母さんのおっぱいだ」という風に自分自身で識別してゆきます。
‣ 識別が次第に進んで、「ママ」「パパ」と言葉を覚えるようになると、言葉と識別がむすびついて認識がさらに多様になってきます。
‣ 自分の身体に意識が向くようになり、目や耳などの感覚の入り口に気づくようになります。「これは私の目だ」、「これは私の耳だ」という感覚が育ちます。
‣ それらの感覚の入り口が外側の世界と接します。単なる意識から「自」意識が発達してゆきます。
‣ 外側の世界から「『私』の目」「『私』の耳」などの入り口を通じていろいろな情報やあるいは快感、不快感を受け取ります。
‣ その中で「私はこれが欲しい」「私はこれは欲しくない」という感覚が育ちます。
‣ やがて活動範囲が広がってくると、「私の欲しいものを手に入れる」という経験を重ねてゆきます。
‣ 「欲しいものが確かにそこにある」あるいは「外界にそれらのものが実在している」という体験を重ねるうちに、「それらを欲する『私』も確かにここにいる」という感覚が育ってゆきます。
‣ 「『私』がここにいる」のが確かであるとすれば、「『私』はあるとき(誕生日に)この世界に生まれてきた」ということも確かであるに違いない、と思います。
‣ その『私』がやがて老い、いつの日か死んで無になる—それは何と恐ろしく苦しいことだろう、と心の底から思うようになります。

 平たく述べたつもりですが、十二項目ありますので少し長くなりました。要するに、私たちの苦しみの元である執着心や渇愛はたいへん根深いものであり、この世に生まれ落ちたときからその萌芽を発している、というのがポイントかと思います。(前生からそれは始まり今生を経て来生へと続いてゆく、という十二因縁の解釈もあります。)
 この説明は、現代風にいえば「自己執着過程の心理分析」というようなことになりましょうか。お釈迦さまの洞察力の深さに驚かされます。
 いずれにしましても、「私」「自己執着心」「渇愛」を自明のものとして私たちは自分の人生を組み立てている、その「私」という土台自体が苦しみを生む元となっている、修行を通じてこの「私」という土台=幻想(?)に取り組みましょう、というのが「四諦」「八正道」「十二因縁」の教えといえます。
 では果たしてこの「私」「自己執着心」「渇愛」を実際に乗り越えることができるのでしょうか?
 ここから、いかにそれらを乗り越えてゆけば良いのか、その方法論をめぐって仏教の歴史や、浄土教を含む多くの仏教宗派が展開してゆくことになります。◆