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Q&A 86

質問86

浄土宗
『般若心経』には「一切は空である」と書いてあります。もしそうならば「浄土」も「念仏」も本来「空」であって、浄土を求めて念仏をとなえるのは一種の執着なのではないでしょうか?
〈回答 86〉 確かに「一切は空である」という見方に徹すれば、すべての執着を断つことができるでしょう。しかし、私たちは生身の人間。一切が空である、と一時的に達観できたとしても、そこに徹し続けることはなかなかできません。浄土の教えは「自分を鍛えて執着を断っていこう」というものではありません。それは仏さまや菩薩さまだからできること。自分にはとても無理だ、というところから出発します。
「一切衆生は、みな仏性あり。遠劫よりこのかたまさに多仏にあうべし。何によりてか、今に至るまですなわち自ら生死に輪廻して火宅を出ざるや…」
つまり、こう考えます。
「私は輪廻転生——限りない生死の繰り返しの結果、解脱できずに今ここにこうして生きている。悟りを求める気持ちをおこすのは、たぶん今生が始めてのことではないであろう。過去生においても同じようなことを考えたはずだ。また、悟りを開いた方にお会いしたこともあっただろう。しかし、過去生においていくら悟りを求めて努力しても、悟りは開けなかった。だからこそ、現に今ここで迷っているのだ。」
「今生もまた同じ。どんなに頑張ったとて、自分の力では到底悟りには達しないであろう。自分の力を遥かに超えた阿弥陀仏の本願力——浄土の教えにすがるしかない。」
ですから、執着心・煩悩をもったありのままの自分を導いて頂く道——それが浄土の教え、というわけです。
浄土宗も仏教ですから、究極の目標は仏道成就、すなわち悟りを開くことです。ただし「執着を断ち、悟りを開く」ことができるのは、今生においてではありません。浄土にお導きを頂いたあとのことです。
浄土へのお導きを信じてお念仏をとなえる——そこにこそ、この濁世に生きる真実があります。