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Q&A 160

質問160

修行
将来、実家の寺を継ぐつもりです。周囲の友人はほとんど「無宗教」だといいます。このままでは、寺院・仏教の将来が心配になってきます。私はどういう心構えをもってゆけばよいでしょうか?
〈回答 160〉 「無宗教」ということばには、いくつかのニュアンスを感じます。どういう方が、どういうふうにこの言葉を使っているのでしょうか。
  • お墓やお仏壇にはお参りするが、仏教のことはよく分からない。「私は仏教徒です」というにはおこがましい。
  • 旅行先で、神社仏閣にはよくお参りする。が、特定の宗派に属しているわけではない。
  • 先祖のことは大切に思っている。だが、古くさい形式で先祖供養するのは嫌だ。
  • 特定の宗教や宗派にしばられるのは嫌だ。
  • 宗教に熱心な人は、自分たちの考えを押し付けてくるので、関わりたくない。
よくよく話を聞いてみますと、案外宗教心を大切にしている方が多い—私はそういう印象をもっています。
「自分の中の純粋で微妙な部分は、そっとしておいて欲しい。宗教団体に関わると、その微妙なところが冒されるような気がする」
私から見ますと、まことに宗教的にみえる(ことがあります)。
あなたの周囲のご友人は、おそらく大人たちが「無宗教」という言葉を使うのを聞いて、どこかしらに魅力を感じたのでしょう。その言葉に、「自由」で、「開かれた」「新鮮な」、それでいて「守られている」感じがあるのかもしれません。宗教について充分に理解したうえで、「これは自分の取るところではない」と判断しているわけではないと思います。

では、そういう方々に、どういう心構えで関わってゆけばよいのでしょう。
以下は私の考えです。もし上に書きました通りであるならば、私たちの寺院・仏教に、「無宗教」という言葉を超える魅力を創ってゆかなければなりません。「無宗教」といっても宗教心そのものを否定したり、宗教自体が無意味であると言っているわけではない。ですから、檀信徒の方々の心の「純粋で微妙な部分」に、何かを押し付けるのでもそれを無視するのでもなく、ソフトに関わってゆく、また仏教やお寺と関わる中で「自由で、開かれた、新鮮な、それでいて守られている」ように感じて貰えるように工夫してゆく…そこに活路があるように思います。

「私たちの寺院・仏教に『無宗教』という言葉を超える魅力を創ってゆく」と書きましたが、これは何も「とにかく新しいこと始めなさい」と言っているわけではありません。そうではなく、今の時代に生きるあなたご自身が、仏教・お寺にどういう魅力を見いだすか、それがきっと架け橋になるだろう、と申しているわけです。

人が生きているかぎり、そこには苦悩があり、救いを求める心があります。その心を土台から支えてくれるのは、やはり仏教です。
自信をもって、時代に立ち向かって下さい。