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Q&A 188

質問188

仏教, 宗教
 歴史上の釈尊は念仏の教えは説かなかったと聞きましたが、どういうことでしょうか?
〈回答 188〉「大乗非仏説(だいじょうひぶっせつ)」のことを言われているのでしょう。これは、大乗仏教の経典は、釈尊ご本人の口から説かれた金口(こんく)の教えではなく、後世の大乗仏教徒が創作したものである、という説です。この議論自体は古くからあり、仏教に批判的な人々や、あるいは仏教徒であっても大乗仏教に批判的な人がしばしばこの立場をとります。
私は、こう考えています。
仏教には多くの教えがあります。それは山頂に至る道にたとえられます。いずれの道を通っても、登り続けてゆけばやがては山頂(覚り)にいたります。険しい道、なだらかな道、広い道、狭い道、日向を通る道、また木陰にかくれたところを通っている道、古くからある道、そして比較的新しい道…。
では、ご生前の釈尊がはっきりと示された道はどれか、といえば、それを確認するすべはありません。当時は、そして数百年経っても、教えは口承で語り継がれていました。釈尊ご自身の著作、というものはないのです。初期の経典が釈尊の生のお言葉に近いであろう、という推測しかできません。
「わたしは、過去の覚れる人々のたどった道を発見したのである。」
釈尊のことばです。これは「八正道」(ごく初期の、間違いなく釈尊の口から説かれたであろう教え)について語られたものですが、それすら、ご自身が切り開いた道とはおっしゃらずに、過去の古道を発見したのだ、と言われているのです。

さて、「山頂へ至る道」のたとえで申しますと、大乗仏教の教えは比較的新しい道である、とはいえましょう。浄土経典や般若心経、法華経などは皆、この分類に属します。「新しい道」といいましても、それはちゃんと頂上へと続くものです。すでに無数の人々がこれらの道を歩んできたので、堅固に踏みならされた、広い道になっています。
私たちは今、山の麓にいて、暗闇の中を右往左往しています。
迷いの中にある私たちに、釈尊はこう示されます。
「ここに山頂がある。ここまでやっておいで」
肝心な点は、各々の道に評論を加えることではなく、山頂にたどり着くことにあります。そのためには、わたしたちは自分に合った道を選び、自らの脚で、退くことなく歩み続けなければなりません。
「大乗仏教は釈迦金口の教えにあらず」としてそれを切り捨てる事は(少なくとも個人としては)簡単なことですが、それによって残るのは、古く、狭く険しい、ごくわずかの人しか歩めない道だけでありましょう。

法然上人は、ご自身可能な限り多くの道を歩まれました。その求道の結論が、お念仏の道です。たいそう広くなだらかな道で、だれもが共に歩むことができ、頂上へたどり着くことが約束されている道です。
私は、法然上人のお言葉を是ととります。
さて、あなたは如何でしょうか。