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Q&A 198

質問198

仏教, 宗教
 23歳、真宗大谷派の一門徒です。
私は自身を仏教徒であると自覚する一方、全ての宗教にあるような神さまや仏さまといった存在を、具体的なお姿として信じる事ができません。ですから、仏さまに救いを求める事について、どうしても懐疑的に考えてしまうのです。
仏前に座して、私の目には仏さまは「自身を省みるための鏡」のように映ります。
それは救いを求める対象ではなく、人としての生き方を問い続ける場所であると私は考えるのです。
人が本当の救いを得るためには、仏さまに身を委ね導いて頂く事ではなく、自分の力で自分の罪を許す事が必要なのだと思っています。
同時に、このような考え方は不信心なのではないかと不安に思う事もあります。
今のような姿勢で、私は仏さまに向かい掌を合わせても良いのでしょうか?
〈回答 198〉 初めまして。林海庵住職の笠原です。
自分をはるかに超えた偉大な存在(現象)を感じ、無に等しいこの自分が掌を合わせる、というのが仏前での(心の)ありようです。
であるならば、理屈ではなく自然に掌が合わさり、深く頭が垂れてくる、という状態が本物、ということになりましょうが、実際にはなかなかそうはいきません。

「仏前に座して、私の目には仏様は自身を省みる為の鏡のように映ります。
それは救いを求める対象ではなく、人としての生き方を問い続ける場所であると私は考えるのです。
人が本当の救いを得る為には、仏様に身を委ね導いて頂く事では無く、自分の力で自分の罪を許す事が必要なのだと思っています。」

結構だと思います。
ただ、あまり「仏前ではこうあるべき」と態度を固定しないで、「ああ、今日は仏さまを前にして、こんな感じがするなあ。」くらいのゆるい姿勢で宜しいのではないでしょうか。日々の感覚に気づきを向ける、というのも立派な修行です。

「今のような姿勢で、私は仏様に向かい掌を合わせても良いのでしょうか。」

まったく結構です。
まずは日々、仏さまと向き合う時間を作って頂きたいと思います。
ひとこと■ 以下のようなご返事を頂きました。
 確かに笠原様の仰る通り、私は仏前における自身の姿勢について、少なからず固執している部分があったかも知れません。
 信仰とは、私のような人が考えるのよりも、もっと自由であるべきなのでしょうね。つくづく己の未熟さを感じます。
 親鸞上人も、亡くなるその瞬間まで「私はなんと未熟者なのだろう」と思い続けていたと聞きます。自分を凡夫であると真に受け入れた上で、物事の理を思い続ける事が大事なのかな、と自分なりのヒントを得た気がします。
 本当にありがとうございました。