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Q&A 199

質問199

浄土宗
 ご教示ください。
お釈迦さまは、人間の死後について「無記」とされている、と聞いたことがあります。『阿弥陀経』などのサンスクリット語原典はまだ見つかっていないとも聞いています。
私は54歳です。拙い人生ですが毎日お念仏を称え、「祈り」と、阿弥陀さまに「お任せ」することで救われています。
私は自分の「無明」を自覚し、み仏の「お導き」を頂いていることを十二分に感じています。また自然や命へのみ仏の働きも自覚しています。しかし、「深信」は修行不足でまだまだ授かっていません。西洋の思想に基づいた教育を受けてきたことが原因だと思います。
そこでご質問します。
お釈迦さまが無記とした「死後」について、阿弥陀さまの存在を実感するにはどのように考えてゆけばよいでしょうか。
またお念仏するときに、私は私なりに、念仏とともに頭上から光明が入り、頭・首・胸・腹と阿弥陀さまの「光明」が降りてくるイメージで称えています。その流れに集中することで、雑念が少しずつ生じなくなりました。
このようなことでよろしいでしょうか。
正式なお念仏の称え方があればご教示ください。
〈回答 199〉「お念仏するときに、私は私なりに、念仏とともに頭上から光明が入り、頭・首・胸・腹と阿弥陀さまの「光明」が降りてくるイメージで称えています。」
たいへん結構です。口称念仏を助けるために、他力的なイメージを使って頂いても構いません。
浄土宗では正式な「イメージ」の指導はありません。『観無量寿経』に説かれる瞑想法も具体的には行ないませんが、たとえ自己流であってもお念仏を助ける行として推奨されると思います。
当庵での念仏会でもときどきイメージを導いております。
第一の、
「お釈迦さまが無記とした『死後』について、阿弥陀さまの存在を実感するにはどのように考えてゆけばよいでしょうか。」
というご質問は、現代においては極めて重要な問いだと思います。私の考えを整理して、後日コラム欄にてお答えいたしたく存じます。
今しばらくお待ち下さい。

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