仏教・仏事 Q & A [No. 41 〜 No. 60]

(2003年6月29日までの分)

目 次 (新着順)

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番 号 質 問 内 容 分 類
質問 60
仏教にはいろいろな宗派がありますね。日本の仏教を勉強しようとすると、まず「何宗?」という事になります。何宗でも結局目指すところは同じだと思うのですが...。宗派にこだわる必要があるのでしょうか?
仏教
質問 59
今日の僧侶・寺院は、結局はお金が目的で、宗教というよりも商売といった方が近いと思います。また所定の勉強なり、修行をすれば僧侶の資格がもらえ、当人の宗教性は問われない。それで真の宗教家といえるでしょうか。お釈迦さまやキリストは、全く違っていたのではないでしょうか?
仏教 (宗教)
質問 58
身体の病気で悩んでいます。「病気が治るから」と、ある宗教団体から勧誘を受けています。入信によって本当に病気が治るでしょうか?
一般の相談
質問 57
曹洞宗を熱心に信仰する祖母が、先日亡くなりました。祖母の子は私の母だけ。私の両親は浄土真宗の門徒です。事情があって、両親が建てた墓か、もしくは同じ敷地内に別の墓を建てて、祖母のお骨を入れてあげたいのです。宗派が違う上、姓も違うとなると、無理でしょうか?
仏事一般
質問 56
仏教はお釈迦さまが開祖といわれています。お経によりますと、西方に浄土ありて阿弥陀如来がおられ、南無阿弥陀仏を唱えるとお迎えに来て下さると説かれています。阿弥陀如来がおられるということは、お釈迦さまがそのことを悟られて、初めて阿弥陀如来が居られるということが分かったのでしょうか? それとも、お釈迦さまの生まれる以前の時代から阿弥陀如来という方が居られるという言い伝えがあったのでしょうか?
仏教
質問 55
菩提寺が「本堂を建て直す」そうで、「寄付のお願い」が来ました。気が進みません。寄付をしなければいけないのでしょうか。ふだん盆暮れの付け届けやお彼岸でお参りするたびにお布施を包んでいます。その上に多額の寄付をする経済的余裕はうちにはありません。
例えば一般の商店が店を改装するときに、お客さんに寄付をお願いしますか? そんなことはあり得ません。お寺だけが特別なのでしょうか?
仏事一般
質問 54
私のとても親しい友人が、私の母の葬式のとき都合が悪くて出られませんでした。「お母さまの四十九日法要のときに、是非お参りさせてほしい」と言ってくれたのでそのつもりでいましたら、親戚の一人から「法事や納骨は、身内だけでするものだ」と言われました。身内でない者の参列はまずいでしょうか?
仏事一般
質問 53
人は宗教がなくても生きてゆけるのではないでしょうか?
仏教 (宗教)
質問 52
人には定められた運命というものがあって、いくら頑張ってもどうにもならない、と思うことがあります。仏教の考え方を教えて下さい
仏教
質問 51
母が亡くなり、四十九日法要の予定を検討しています。直前の休日はご住職の都合が悪いということで、その次の週の休日を指定されました。本来の四十九日よりも過ぎて執り行うのはよくないと人から聞いたのですが、いかがなものなのでしょうか?
仏事一般
質問 50
念仏をとなえるとき「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と言います。「南無阿弥陀仏」という言葉には、何か意味があるのでしょうか?
浄土宗
質問 49
ここのところ、身内に良くないことが続いています。ある人を紹介してもらって相談したところ、「先祖の祟(たた)りです。きちっと先祖供養をなさい」と言われました。そのようなことがあるのでしょうか?
仏教
質問 48
お釈迦さまが生まれたとき、「天上天下唯我独尊」と言われたという話があります。ちょっとピンと来ないような、何となくお釈迦さまらしくないような、そんなふうにずっと感じていたのですが...
仏教
質問 47
家には仏壇があり、位牌をお祀りしています。お墓へ行けば、お墓に手を合わせます。先日ふと疑問に思ったのですが、先祖の魂はどちらにいるのでしょうか?
仏教
質問 46
浄土宗では念仏が中心と聞き、少しずつ実践しています。しかし自分でいくら念仏してみても、何か表面的というか、浅い感じがしています。仏教の勉強をもっとした方が良いのでしょうか?
浄土宗
質問 45
私は浄土宗の一僧侶です。笠原上人が携わっておられる「国内開教」、その林海庵としての実績についてお教え下さい
浄土宗
庵主のこと
質問 44
僧侶になられるにあたって、なぜ「浄土宗」という宗派を選ばれたのですか?
庵主のこと
質問 43
四十九日法要とお墓への納骨を同じ日に行なうのですが、お布施はひとまとめにして渡してもいいのですか?
仏事一般
質問 42
仏壇の前に(向かい合って)水やガラス、鏡などを置いてはいけない、と以前何かのテレビで見たのですが... 霊道ができるとかで。本当はどうなのでしょうか? 教えて下さい
仏教
質問 41
私の祖母はあの世のことを「冥土、冥土」と言っていました。「浄土」とはずいぶん雰囲気の違う言葉だと思いますが、何か違いがあるのですか?
仏教



 一気読みコーナー 
※番号の逆順になっています(若いものほど下)



質問 60
仏教にはいろいろな宗派がありますね。日本の仏教を勉強しようとすると、まず「何宗?」という事になります。何宗でも結局目指すところは同じだと思うのですが...。宗派にこだわる必要があるのでしょうか?
〈回答 60〉 「結局目指すところは同じ」といえば、確かにそうかもしれませんね。
 と同時に、「ではお釈迦さまは実際にはどういう教えを説かれたのか」を学ぼうとするとき、どうなさいますか? 直接その教えに触れようとするなら、まず経典を読んでみる、ということになりましょう。ところが、これが大変です。ご存知かもしれませんが、莫大なボリュームなのです。
  『大正新修大蔵経』という全100巻の本があります。日本で編集された仏典の全集です。図像等を除くと85巻。一巻は平均900ページくらいです。
 これで例えば『般若心経』を調べますと、たった1ページの、そのまた三分の一くらいの分量です。全体が80000ページくらいありますから、 『大蔵経』がいかに大部かお分かりになる思います。これだけの量の仏典を前にして「結局目指すところは同じ」と言ってしまいますと「何も学ばない」というのと同じになってしまいます。
 お釈迦さまは多数の教えを残された。その後仏教史上偉大な高僧が多く現われ、それぞれ「お釈迦さまの真意はこうであった」と説かれた。それが宗派のはじまりであったはずです。
 例えば、浄土宗の場合は法然上人です。法然上人が命を懸けて説かれた念仏の教え——これは私ども浄土宗僧侶(信徒)にとっては、他の教えとはまったく違う、特別な教えです。「私たちはこの道を通じてしか、目指すところにたどり着けない」という特別な意味があるのです。それぞれの宗派にこのような独自の教えがあるわけです。
 目指す山頂は同じかもしれませんが、山頂に到るにはまず何らかのルートに沿って登ることを始めなければなりません。山の麓をぐるぐる回っているだけでは、何も始まらない。そうではありませんか? そのルートというのがそれぞれの宗派だというふうに考えれば、「宗派=こだわり」ではないことがわかっていただけるでしょう。

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質問 59
今日の僧侶・寺院は、結局はお金が目的で、宗教というよりも商売といった方が近いと思います。また所定の勉強なり、修行をすれば僧侶の資格がもらえ、当人の宗教性は問われない。それで真の宗教家といえるでしょうか。お釈迦さまやキリストは、全く違っていたのではないでしょうか?
〈回答 59〉 伝教大師(最澄)の言葉に「道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし」とあります。つまり、真剣に仏道を極めようとすれば、おのずと衣食はやってくる。だが、衣食を目的とするならば、そこにはもはや真の求道心はあり得ない。おそらくあなたの言いたいことと同じだと思います。私もこの言葉に賛同します。
 そして私が思うには、「悟り」「完成」「人類救済」というようなことでなくとも、例えば亡き家族のために手を合わせるといった小さな行為の中に、宗教的なきらめきがあります。そのような場に立ちあうことができ、自分は僧侶として幸せだと思います。
 ご質問が「あなたは宗教家といえるのか」という事であれば、「はい」とも「いいえ」とも答えられません。言葉で説明するようなことではないと思います。言われるまでもなく、この問いを私自身に向けながら、一歩一歩進んでゆくより他はありません。

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質問 58
身体の病気で悩んでいます。「病気が治るから」と、ある宗教団体から勧誘を受けています。入信によって本当に病気が治るでしょうか?
〈回答 58〉 さぞおつらいことでしょう。お気持ちも弱っていらっしゃるかもしれませんね。
 おっしゃるように、信仰をもつことによって病気が治る場合もあります。真に信仰に「目覚め」たならば、あなたは内的に統合され、大きな力が湧いてきます。いわゆる「免疫力」も増大することでしょう。重い病が治ることもあり得ます。
 しかし、ここは注意していただきたいことなのですが、もし病気を治そうとして何かの信仰に入るならば、そこには大きな落とし穴があるかもしれません。何かの宗教に入信して、健康に加えて、財産、信用、人間関係、精神的自立といったものまで失うこともあります。また、「私は入信して病気が治った」という話を前面に出して勧誘する宗教は、「入信しても治らなかった」という話は絶対に出しません。その辺りのことは冷静に考えて下さい。そもそも信仰で病気が治るのであれば、人の病を治すために専門の医学教育を長期間受ける必要がどこにありましょうか。
 また信仰に「取り引き」する気持ちがある——信仰と引きかえに、寄付やお布施と引きかえに健康を下さい、というのであれば、真の信仰とはかけはなれたものになってしまうでしょう。仏教は、(取り引きではない)信仰を大切にします。そして仏教は、生老病死の苦の克服を目指します。苦の克服を目指しますが、けっして「老いない」「病気にならない」「死なない」ことを教えるものではありません。人の肉体は必ず、老い、病み、死んでゆくもの…お釈迦さまとてその例外ではありませんでした。では、その肉体が老い、病み、死ぬという現実にどう向きあえばよいのか。それをどう受けとめればよいのか。大切なのはそこのところです。

「宿業(免れられない業(ごう))かぎりありて受くべからん病は、いかなる諸々の仏、神に祈るとも、それによるまじき事なり(効き目はない)。祈るによりて病もやみ、命ものぶる事あらば、たれかは一人として病み、死ぬる人あらん。
 いわんや又、仏の御力は、念仏を信ずる者をば、『転重軽受(てんじゅうきょうじゅ)』といいて、宿業限りありて重く受くべき病を、軽く受けさせたまう。いわんや、非業をはらい給わんこと、ましまさざらんや。
 されば、念仏を信ずる人は、たといいかなる病を受くれども、皆これ宿業なり。これよりも重くこそ受くべきに、仏の御力にてこれほども受くるなりとこそは申す事なれ。我らが悪業深重なるを滅して、極楽に往生するほどの大事をすら遂げさせ給う。まして、この世にいくほどならぬ命を延べ、病をたすくる力、ましまさざらんやと申す事なり。」(法然上人)

 仏の力は偉大であるから、免れ得る病は治して下さる。免れ得ない病は軽くして下さる。されば、念仏をとなえていて病になるなら、それはすべて免れ得ない病である。「仏の御力のお蔭でこれほどの症状で済んでいるのだ」と考え、いよいよ信心を深め、念仏に励みなさい——これが法然上人の教えです。

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質問 57
曹洞宗を熱心に信仰する祖母が、先日亡くなりました。祖母の子は私の母だけ。私の両親は浄土真宗の門徒です。事情があって、両親が建てた墓か、もしくは同じ敷地内に別の墓を建てて、祖母のお骨を入れてあげたいのです。宗派が違う上、姓も違うとなると、無理でしょうか?
〈回答 57〉 まず、お悔やみを申し上げます。大切なおばあさまであられたこととお察しします。
 一般的にいいますと、納骨をする場合は(埋葬許可証、改葬許可証など法的な点がクリアされていれば)
  ・ご家族の同意、および
  ・墓地管理者の同意
があれば、トラブルの心配はないでしょう。あなたの場合は前者——ご家族の同意の点は大丈夫のようですので、問題は後者、つまり墓地管理者の同意が得られるかどうか、ということになります。
1)お墓が寺院墓地、つまりあなたの家の菩提寺(浄土真宗)の境内にあるお墓である場合...
 残念ながら、他宗(曹洞宗)の方のご遺骨を埋葬するのはまず難しいとお考えになったほうがよいと思います。お寺の立場から見ると、ただ単に墓地を提供しているわけではなく、その宗派の教え(あなたの場合には浄土真宗の教え)を広める宗教活動のひとつとして、信徒(門徒)さんのお墓をおまもりしているからです。ですから、浄土真宗への改宗が納骨する際の条件になると思われます。
(なお、姓の違う方の納骨に関しては、お寺によって対応はさまざまです。)
 以上のことを踏まえたうえで菩提寺にご相談になるのもひとつでしょう。ご住職の考えを直接聞いてみるのもよいかもしれません。
2) 霊園墓地、共同墓地などの場合...
 ご家族の同意さえあれば、宗派や姓が違っていても大丈夫でしょう。一応、墓地管理者に相談なさってみて下さい。この場合、納骨のときに曹洞宗のお寺さんに来ていただくことになります。そのお寺さんにも納骨の経緯を話しておかれたほうがいいですね。また菩提寺にも事前によく事情を話しておきましょう。
 以上でご質問の答えになっているでしょうか? わかりにくいところがありましたら、遠慮なくお尋ね下さい。

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質問 56
仏教はお釈迦さまが開祖といわれています。お経によりますと、西方に浄土ありて阿弥陀如来がおられ、南無阿弥陀仏を唱えるとお迎えに来て下さると説かれています。阿弥陀如来がおられるということは、お釈迦さまがそのことを悟られて、初めて阿弥陀如来が居られるということが分かったのでしょうか? それとも、お釈迦さまの生まれる以前の時代から阿弥陀如来という方が居られるという言い伝えがあったのでしょうか?
〈回答 56〉 このテーマについては、いくつかの見方があると思います。
1)浄土経典によれば…
 ご存知のように、「阿弥陀如来は成仏されて十劫経っている」とお釈迦さまは言っておられます。また、法然上人も「お釈迦さまが世に出られたのは、阿弥陀さまの教え(浄土教)を人々に伝えるためである」とおっしゃいました。従って、ご質問の前者のように、「お釈迦さまが阿弥陀如来のことを悟られて、初めてそれを人々に説いた 」ということになりましょう。
 一方、仏教学者たちは「浄土経典は大乗経典の一部であり、お釈迦さまが直接説かれた教えではない」という歴史的事実を指摘します。その方面の研究によれば、
2)阿弥陀信仰の起源
 イランの古代宗教(太陽崇拝)にそのルーツがある、という説や、インドのヴェーダに出るヤマ天(安穏不死の世界)が極楽浄土の起源であるという説、同じくインドのヴィシュヌ神信仰がその起源であるという説など、諸説あります。(しかし、いずれも決め手があるというわけではなさそうです。)ですから、ご質問の後者「お釈迦さまが生まれる以前から阿弥陀信仰があった」か、又はそれに類する信仰があった可能性はあるわけです。お釈迦さまの人格ならぬ「仏格」に、これらの信仰が結びついて、悟りを得られた存 在としての「阿弥陀如来」が語られるようになった、とも言えましょう。
 このように、見方によってどちらとも言えるわけです。

 私自身は、こう考えています。「歴史的事実」は、「宗教性」という偉大な輝ける鉱脈が、ほんのわずか地上に顔を出したものに過ぎない。だから、それはもちろん無視できないが、真実のごく一部に過ぎない。それがすべてだと思ってしまってはいけない。
 ですから、私自身は阿弥陀信仰の歴史的起源はあまり問題にしていないのです。心をこめて「なむあみだぶつ」と発声することが大切だと考えています。

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質問 55
菩提寺が「本堂を建て直す」そうで、「寄付のお願い」が来ました。気が進みません。寄付をしなければいけないのでしょうか。ふだん盆暮れの付け届けやお彼岸でお参りするたびにお布施を包んでいます。その上に多額の寄付をする経済的余裕はうちにはありません。
例えば一般の商店が店を改装するときに、お客さんに寄付をお願いしますか? そんなことはあり得ません。お寺だけが特別なのでしょうか?
〈回答 55〉 お寺の経営面をみますと、多くの場合、檀家の方々のお布施等が収入の主たるものだと思います。また檀家さんも「お寺のためならば」と、功徳を積む機会として、また責任感をもってお寺を支えてきました。ですから、「一般の商店」とは確かに事情が違います。
 一般の商店がお店を改装する場合、その資金はどこからやってくるでしょうか。それまでの利益を蓄積したものが充当されるか、あるいは今後の売り上げ増を見込んだ中から(銀行から借りるなどして)手当てをすることになるでしょう。いずれにしてもその資金は商品の価格の中に含まれていることになります。
 しかし、お寺の場合はそうではありません。本堂を建て直す、という大きな事業であれば多額の資金が必要ですが、それを全額、ふだん頂くお布施などから出すことは困難です。もちろんお寺の側もある程度は負担するでしょうが、不足分は檀家さんに頼らざるを得ません。
 ふだんお寺とどういう関係を持たれていますか? 住職さんと親しくお話をされたことがありますか? ご先祖の供養でお世話になっているという感じを持っておられますか? そういったことも、「寄付のお願い」が来たときの印象に大きく影響するでしょう。
 私としては、お寺の側は「こういう時代に檀家さんに負担をお願いするのは本当に申し訳ないが、お寺を維持するためにはどうしても必要なことなので、なんとかお願いしたい」という気持ちで、また檀家さんの方は「今までお世話になってきたし、これからもお世話になるのだから、ここは何とかして差し上げたい」という気持ちでことが運べばいいのだがなあ、と思います。
 ただ、檀家さんの側にもそれぞれの経済事情がおありでしょうから、「いくらいくらお願いします」と割り当てがきて、どうしてもそんなに寄付できないということであれば、率直にお寺にご相談されてよいと思います。

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質問 54
私のとても親しい友人が、私の母の葬式のとき都合が悪くて出られませんでした。「お母さまの四十九日法要のときに、是非お参りさせてほしい」と言ってくれたのでそのつもりでいましたら、親戚の一人から「法事や納骨は、身内だけでするものだ」と言われました。身内でない者の参列はまずいでしょうか?
〈回答 54〉 かまいません。「とても親しい」ご友人でしたら、是非お参りして頂いて下さい。
「身内だけでするもの」というのは、どういうことでしょうね。多分、あまり広い範囲に声をおかけすると、法事を主催するほうも大変、呼ばれたほうも負担ということになりかねない、という理由によるのだと思います。そして、「身内だけ」ということに統一しておけば、「あの人は呼ばれたのに、うちは呼ばれなかった」というようなトラブルも避けられます。
 でも、ご質問のケースでは、そのような心配は無用だと思われます。むしろ母上も喜ばれるでしょうし、良いご供養になるでしょう。
 どなたにいらして頂くかは、最終的には施主がお決めになればよいのです。ただ、せっかくアドバイスを下さったご親戚と角が立つのも宜しくないので、うまくご説明下さい。「僧侶の方に相談したらこう言われた」と、この回答の内容を利用して頂いても結構です。

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質問 53
人は宗教がなくても生きてゆけるのではないでしょうか?
〈回答 53〉 その通り、人は宗教がなくても生きてゆける、と思います。私は「すべての人は、宗教がなくては生きてゆけない」とは決して思いません。
 「宗教」をどう定義するかにもよるでしょうが、○○教、△△宗に属する必要は、必ずしもないと思います。
 朝起きて、ご飯を食べて、学校や会社に行き、勉強したり遊んだり、仕事をしたりして、夜家に帰る。ご飯を食べて、お風呂に入って寝る。
 学校を卒業して、就職して、結婚して、子どもを作って、育て、社会に送りだす。幸せがあり、時に不幸があり、泣いたり笑ったり、喜んだり悲しんだりして、年老いてゆく。時に哲学的になることがあったとしても、「まあ、人生はこんなものだ」と納得しながら生きてゆく…そこに何も問題はないでしょう。まして、あなたが健康な身体をもち、不安のない(少ない)環境で生活なさっているのであれば、「宗教がなくても…」と思われるのもごもっともです。

 私自身はどうか、といいますと、例えば、
 「私たちの日常生活の奥には、もっと深く豊かな世界が開けているのではないか」
 というようなことを子どもの頃からずっと感じ続けてきました。あるいは、
 「真の幸せは、この世界と背中合わせに存在している別の次元にあるのではなかろうか」
 「『死』によって、すべてに終止符がうたれてしまうのだろうか」
 というようなことですね。僧侶を志した背景のひとつには、このような感覚があったように思います。そして、宗教は——私の場合は仏教ですが——これらの問いに答えてくれると思います。
 とりわけ「死」の問題は大きい。家族の死、友人の死、自分の死…人間にとって「死」が大した問題でなかったとしたら、仏教は生まれなかったのではないでしょうか。

 お釈迦さまは、出家されるときの心境を次のように語っておられます。
 「愚かな者は、自分が死にゆく身であり、死をのがれる方法を知らないのにも関わらず、他人が死ぬのを見ると、自分のことは忘れてそれを厭い嫌う。考えてみると、わたしも死にゆく身であり、死をのがれることはできない。それなのに他人の死を厭い嫌うというのは、わたしにふさわしいことではない。
 そのように考えたとき、わたしの青春のおごりはすべて断たれてしまった。」

 しかし、けっして無理をすることはないと思います。お釈迦さまはお釈迦さま、私は私、あなたはあなたです。もしあなたに(宗教への)関心が出てきたならオーケー、出てこなくてもオーケーです。

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質問 52
人には定められた運命というものがあって、いくら頑張ってもどうにもならない、と思うことがあります。仏教の考え方を教えて下さい
〈回答 52〉 ものごとは、決して独立して存在するものではありません。直接の原因があって、そしてさらに周辺の条件が整って、初めてものごとが生じてきます。
 たとえば、私たちの存在... 私たちは両親を介してこの世に生まれてきます。両親が直接の原因、といえるでしょう。では、両親はどうして出会ったのでしょうか。なぜ、父親は他の女性でなく母親を選んだのでしょうか。母親はなぜ父親と結ばれることを選んだのでしょうか。その背景にはいろいろなことがあったはず。また、もし両親が健康に育たなければ、(どちらかが命を失っていれば)その出会いはなかったことでしょう。
 さて、あなたはこの世に生まれてきました。これまでどういう経過をたどられましたか。あなたの身体を形作っているのはご両親ばかりではありません。あなたの食べた食べ物、水、空気、環境... 無数の条件が、今のあなたを形作っています。あなたの精神生活はいかがですか。あなた自身の体験、思索、友との出会い、いろいろな方々からの影響(テレビや映画の影響もあるでしょうね!)、... ここでも無数の条件が関わっています。
 そしてまた、あなた自身もいろいろなものごとの原因となり、周辺の条件を作っています。ご両親が「親」であるのはあなたが「子」であるからです。あなたの周囲の方々があなたに大きな影響を与えているのと同じように、あなたもまた、周囲の方々や環境に大きな影響を与えています。一刻としてとどまることなく、この「相互依存の巨大かつ複雑なながれ」が続いています。これは、ものごとのありようの、客観的な真実のすがたといってよいでしょう。

 さて、実人生ではときに「いくら頑張ってもどうにもならない」というふうに感じますね。「他人と過去は変えられない」といいますが、本当にその通り。また、自分を変えようと努力しても遅々として進歩しない、逆戻りしているようにさえ見える、ということもあるかもしれません。しかし、「相互依存の巨大かつ複雑なながれ」の中では、ひとつとして無意味なことはありません。無駄に消え去っていくものはありません。この「巨大なながれ」はいつも動いていて、しかもこのながれのある部分は、他の部分と関連しあっています。あなたが夜空の星を眺めているときは、夜空の星もあなたを眺めています。一輪の花に微笑みを送れば、その花も微笑みを返してくれるでしょう。

 ですから、努力が無駄になることはありません。「すべては運命として定まっていて、努力することは虚しい」... 決してそうではありません。そうではないからこそ、「仏の教えにしたがって生きていこう」と努力する仏道が尊いものでありうるのです。

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質問 51
母が亡くなり、四十九日法要の予定を検討しています。直前の休日はご住職の都合が悪いということで、その次の週の休日を指定されました。本来の四十九日よりも過ぎて執り行うのはよくないと人から聞いたのですが、いかがなものなのでしょうか?
〈回答 51〉 四十九日法要は、四十九日当日に行なうのが一番良いのですが、参列される方々のご都合を考えて、土曜、日曜などに日にちをずらして行われることが多い、というよりも、今はほとんどそうなっています。
 そこで、手前にずらすか、後にずらすかということになりますね。どちらかを選べる場合は(仏さまに失礼にならないように、というような理由付けで)手前にずらす、というのが一般的です。
 しかし、ご住職の都合が悪い、というのは「どちらかを選べる場合」には該当しないと思います。ですから、お寺さんが「この日で」と言われたのであれば、後にずらすことになっても宜しいでしょう。
 どうしても手前に、ということであれば、三十五日前後に行なうという方法もあります。このあたりはご家族、お寺さんに相談してみて下さい。

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質問 50
念仏をとなえるとき「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と言います。「南無阿弥陀仏」という言葉には、何か意味があるのでしょうか?
〈回答 50〉 まず「南無」というのは、昔のインドの言葉「ナマス」の音に漢字をあてた言葉です。「南」とか「無い」とかいう意味があるわけではありません。「ナマス」とは、「帰依いたします」「よりどころといたします」という意味です。ですから、「南無阿弥陀仏」は、「阿弥陀仏に帰依いたします」「阿弥陀仏をよりどころといたします」という意味になる。
 では「阿弥陀仏」とは...? これも「南無」と同じように、インドの言葉に中国で漢字をあてたものです。
 「ミダ」は、「量(はか)る」という意味。英語に「meter」(計量器—ガスや水道のメーター、また長さや距離を計るときのメートル)という言葉がありますね。これらに通ずる単語です。この「ミダ」の前に否定をあらわす「ア」がついて、「アミダ」つまり、「はかれない」「はかりしれない」「限りない」という意味になります。
 「ブツ」は仏です。これも、もとはインドの言葉「ブッダ」からきています。「目覚めた者」「真理をさとった聖者」の意味。
 したがって、「アミダブツ」とは、「限りないほとけ」の意味です。では、この仏さまのどういうところが「限りない」のかといいますと、お経、つまりお釈迦さまの教えによれば、
 「この仏の放っておられる『救いの光』が限りない(無量光)」
 「この仏の『命(寿命)』が限りない(無量寿)」
 ということなのです。
 どうでしょう。ちょっとややこしくなりましたね。

 まとめますと「南無阿弥陀仏」とは、
 「限りない『救いの光』を放っておられ、また限りない『寿命』をもっておられる仏である『アミダブツ』に、ナーム、帰依いたします。」
 という意味になります。

 そしてこの浄土の教えによれば、「南無阿弥陀仏」ととなえれば、かの仏の救済力によって、この世の命終ってのち必ず「極楽浄土」という仏の世界に新たな命を得ることができる。念仏さえとなえれば、難しい学問をおさめなくても、厳しい修行を積まなくても、仏の世界へ往き、そこでさとりを開くことができる。また「南無阿弥陀仏」ととなえるときに、いちいち上記のような意味を考えなくても構いません。ただひたすら、浄土への導きをお任せしてとなえればそれでよい、というのが宗祖法然上人の教えです。

 そうですね、例えばこのような疑問を持たれたことがおありですか。
 「私は何のために生きているのだろう」
 「人生に意味や目的はあるのだろうか」
 「自分にとって、真の幸せとは何だろうか」
 「人間は死んだらどうなるのか」
 浄土の教えはこれらの疑問に答えてくれます。自ずと答えがやってくる。というより、これらの疑問が消滅する、といったほうがいいかもしれません。

 この教えは仏の力に「極楽浄土」への導きをお任せすることから、「他力」の信仰であると言われています。しかし、これは自己努力を放棄するものではありません。
 この世における自己努力はしなければなりません。今月分の家賃を阿弥陀さまが払ってくれるわけではないですし、好きな人への気持ちを阿弥陀さまが伝えてくれるわけでもありません。自分で感じ、自分で考え、自分の力を活用して、また人さまの力も借りながら、何とか生きていかなければならないでしょう。
 (「他力本願」という言葉がありますが、本来の意味とまったく違うように使われています。本来の「他力本願」は、この世の努力を放棄して、自分ですべきことを他人任せにするという意味ではなく、死後の救い、つまり自分の力の限界を超えたところ、しかも自分にとって最も大切なところをすべて仏にお任せする、という意味です。他力本願については、このQ & Aのページの「質問 27」でも扱っていますので、そちらもごらん下さい。)
 努力は必要です。しかし、ひとたび「仏のお導きはまちがいない」という信仰が生まれたら、この世の努力は苦にならないでしょう。エゴへのこだわりも緩んでくる。溶けてくる。「何だ、『自分が、自分が』と思い込んで頑張ってきたけど、たいしたことないじゃないか」と思えてくる。ここが不思議なところです。こだわりが緩んでくると、かえってものごとがスムーズに進んだりする。今まで10のエネルギーが必要だったことが、半分くらいのエネルギーでできるようになる。
 私はこれを「念仏の功徳」だと思っています。

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質問 49
ここのところ、身内に良くないことが続いています。ある人を紹介してもらって相談したところ、「先祖の祟(たた)りです。きちっと先祖供養をなさい」と言われました。そのようなことがあるのでしょうか?
〈回答 49〉 仏教では、ご先祖を供養することを大事にしています。もちろんご先祖だけではありません。私たち仏教徒は、あらゆる命あるものの幸せを願います。しかし、私たちがこの世に生まれ育った条件の多くは両親、先祖によっています。この世に生まれ育ったことに感謝できるならば、自然に両親、先祖への感謝の気持ちも起こってくる。また、仮に感謝の気持ちが起こらないとしても、仏事など折りあるごとにご先祖に手を合わせていれば、いつかは素直な気持ちになれると思います。
 「気にかかっていた先祖供養をして、心がさっぱりした」
 という言葉を聞きますと、私どもも「よかったなあ」「いいご供養ができたなあ」と思います。
 ですから、もしあなたが仏事から遠ざかっていて、これを機にご供養をしてみよう、と思われるのであれば、たいへん結構なことです。

 ただし、先祖供養が善いことだからといって、「供養しなければ祟りがある」「供養すれば祟りがとれる」というのはどうかと思います。私でしたら、そう言われると嫌な感じがします。あなたはいかがですか?
 もしそう言われたら、私はこのように考えるでしょう。
 「ご先祖は、子孫の幸せを願いこそすれ、祟るなどということがあるのだろうか。」
 「仮に自分が死んだあと、子孫が供養をおろそかにしたからといって、祟ってやろうと思うだろうか。」
 「生老病死は世の常、『先祖供養で苦しみが除かれる』というのはお釈迦さまの教えに反していないだろうか。」

 浄土宗を開かれた法然上人は、
 「祈ることで病気が治り、命も延びるならば、病気になり死ぬ人などいないであろう。
 念仏を信じとなえる者は、病にかかったときは『この病は避けることのできない宿業である。本来はもっと重い病であるところを、仏のお力によってこのように軽く済んでいるのだ』と思い、信心を深めてこの世を厭(いと)い、浄土を願うべきである。」
 と教えておられます。

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質問 48
お釈迦さまが生まれたとき、「天上天下唯我独尊」と言われたという話があります。ちょっとピンと来ないような、何となくお釈迦さまらしくないような、そんなふうにずっと感じていたのですが...
〈回答 48〉「天上天下(てんじょうてんげ)、唯我独尊(ゆいがどくそん)」——これは誕生の偈(げ)として知られています。お釈迦さまが生まれると間もなく、東西南北の四方に向かって七歩ずつ歩き、やがて右手で天を指さし、左手で地を指さすと、この誕生の偈を宣言された、といいます。
 これは歴史的事実ではないでしょうが、仏教の本質に近いものを表現しているように思います。
 お釈迦さまが生まれられたときにどうであったかは知るべくもありません。が、35歳で悟りを開かれたときは、まさしくこの偈文のような心境であられたことでしょう。
 「自分にとって、すべての問題は解決した」——自己の強烈な存在感。時空を超える明晰な知性。ものごとのありさまが今やはっきりと理解できる。「わたしは目が覚めた。」と同時に、他者がすべて、ぐっすりと眠りこけているのがよく分かる。彼らとの間に横たわる、絶望的なまでの距離感...。
 唯我独尊——これは、他人と比較して自分が抜きんでている、ということではありません。量的な差ではなく、質的な差を語った言葉です。そこには一片の驕りもありません。「この状態は、そうとしか言い表わしようがない」ということなのです。そして、この直後に、「眠りこけて苦しみに喘いでいる人々」に対する大いなる慈悲心が起こってくるのだと思います。
 このような見方でこの言葉を読み直すと、少しまた違った印象になるのではないでしょうか?

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質問 47
家には仏壇があり、位牌をお祀りしています。お墓へ行けば、お墓に手を合わせます。先日ふと疑問に思ったのですが、先祖の魂はどちらにいるのでしょうか?
〈回答 47〉このご質問も、よく頂きます。
 ご先祖のおられる本国は、極楽浄土です。そして、お位牌もお墓も、ご先祖と通ずるためのいわば通路のようなもの。通路のようなものであって、しかも礼拝の対象です。どちらも、新しく求められた時には「開眼式(かいげんしき)」といって、いわば魂をお入れする儀式を行ないます。
 ですから、「先祖はお位牌の中にいる」「お墓にいる」というよりも、お仏壇やお墓にお参りすることで、ご先祖と通じ合うことができる、というふうにお考えになったら宜しいと思います。
 お花を飾り、(お供物を上げて)お線香を焚く。合掌し、心からお念仏をとなえます。そのときのお気持ちをどうか大切にして下さい。

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質問 46
浄土宗では念仏が中心と聞き、少しずつ実践しています。しかし自分でいくら念仏してみても、何か表面的というか、浅い感じがしています。仏教の勉強をもっとした方がよいのでしょうか?
〈回答 46〉ご興味があるならば、勉強を積まれるのも結構です。そこに新たな発見があるかもしれません。私自身も、勉強から得たことは沢山あります。しかし同時に、このことも知っておいて下さい。
 心からの念仏——極楽浄土へのお導きを阿弥陀仏にすべてお任せして称(とな)える念仏であれば、そこに深い浅いはありません。これを他力(たりき)の念仏といいます。たとえ仏教学の奥義を極めた人の念仏であっても、素朴な信心から出た念仏であっても、阿弥陀仏の救いを信仰しての念仏であれば、どちらが深いとか、優劣などはありません。自分を開き、明け渡して、お任せをする... そこに「比較」が入りこむ余地はありません。
 おのれの世間的な器がどれほどのものであろうと、どれほど仏教に通じていようと、あるいは教団や社会にどれほど貢献していようと、また逆に、まったく救いがたい自分であろうと... いったんすべてを明け渡してしまえば、自分はゼロです。そこにあるのは阿弥陀仏の救いだけ——平等に降り注ぐ光明の慈雨だけです。
 ですから、ご自分の念仏が深いか浅いか、というようにはお考えにならない方がよいでしょう。それよりも、お念仏を称えながら「自分自身のすべてを開き、明け渡している」というふうに感じてみて下さい。そうすれば、少しずつ、しっくりした感じが湧いてくると思います。

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質問 45
私は浄土宗の一僧侶です。笠原上人が携わっておられる「国内開教」、その林海庵としての実績についてお教え下さい
〈回答 45〉「浄土宗寺院の不足する地域に浄土宗の教えを広めてゆく。やがては寺院建立を目指す」という意図で、浄土宗東京事務所の指導・監督のもと、平成13年春から開教の準備を開始しました。自分自身、ほとんど縁のない土地にやって来ましたので、まず、この開教活動について多くの方がたに知って頂くことが肝要と考えました。
 そのために、タウンページに載せる、リーフレットを配布する、またこうしてサイトを立ち上げるなど、これまで経験のなかったことなのですが、多くの方にご協力を頂きながら宣伝活動を行なっています。
 また、浄土宗内の多数の上人がたから応援を頂戴しています。所属寺院・宗務所・東京教区内のみなさんの力に負うところは甚大です。信徒さんをご紹介いただくこともございます。このサイトからはあまり伝わらないかもしれませんが、私が一人で行なっている部分はほんの僅かにすぎません。
 おかげさまで信徒の方も徐々に増えています。実績、となりますと一口では言えませんが、仏事相談、人生相談、法事や葬儀の依頼、参拝ご希望など、開教活動の成果といえる確実な手応えを感じています。
 昨今は家庭崩壊、宗教離れなど、社会が急速に変化しているといわれます。しかし、どんな方でも宗教的感性を失うことなく持ち続けている。この実感が私の中で大きく育ちつつあることが、今回の開教活動の最大の成果かもしれません。

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質問 44
僧侶になられるにあたって、なぜ「浄土宗」という宗派を選ばれたのですか?
〈回答 44〉 私は二十代からヨーガをやっています。今も続けていて、そこから大変多くのことを学んでいると思っています。ただ、自分のヨーガに「他者との関わり」という点が抜けているのが以前から不満でした。それはどういうことかというと、たとえば知人との間で宗教に関する話題が出ても、ある地点で「このことは、ヨーガをしている人にしか分からない」ということになる。それでいいんだ、やむをえない、という見方もあるでしょうが、私には不満でした。もっと自分の幅を広げ、たくさんの人と宗教的な関わりを持ちたい、と思っていたのです。
 ふとしたことで法然上人の教えについて書かれた本を読みまして、「ああ、探していたものがここにあった」と思いました。ちょうど良い具合に家の宗派が浄土宗だったので、菩提寺の門をたたきました。

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質問 43
四十九日法要とお墓への納骨を同じ日に行なうのですが、お布施はひとまとめにして渡してもいいのですか?
〈回答 43〉 ひとまとめで構いません。私の経験では、「お車代」「御膳料」などを分けてお包みになる方はおられますが、お布施を分けて包まれた方はいません。お位牌の開眼も一緒にされることでしょうが、これもお布施を分ける必要はありません。

 もしお塔婆を立てる場合は、塔婆回向料(たいてい、一本いくら、と決まっています)は分けて包んだほうがよいでしょう。

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質問 42
仏壇の前に(向かい合って)水やガラス、鏡などを置いてはいけない、と以前何かのテレビで見たのですが... 霊道ができるとかで。本当はどうなのでしょうか? 教えて下さい
〈回答 42〉 お寺の本堂の正面には、ガラス戸が入っていることが多いですよね。つまり本尊様の向かいがガラスになっているわけです。うちの仏間も同じです。私は霊道には詳しくありませんが、一般にお寺で本尊様とガラス戸との位置関係が問題になることはありません。
 ご家庭の仏壇はお寺の本堂のミニチュアですから、同様にガラスがあっても大丈夫です。鏡についても全く問題はありませんが、気になるなら位置を変えても構いません。

 ところで、あなたは何かご信仰をもっておられますか? もしそうであれば、その信仰を高めることに焦点を当てて下さい。そうすれば、ネガティブな気掛かりは自然に落ちてゆくでしょう。
 また、特に信仰をお持ちでないなら、何か宗教的な実践をされたらいかがでしょうか。何でもいいのです。お念仏やお題目を称える、お経を上げる、写経をする... など。こつこつと積み上げていくことです。そうすれば、テレビや他人の話はそれとして、ご自分で判断する力がついてくるでしょう。

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質問 41
私の祖母はあの世のことを「冥土、冥土」と言っていました。浄土とはずいぶん雰囲気の違う言葉だと思いますが、何か違いがあるのですか?
〈回答 41〉 冥土は「冥途」とも書き、死者の霊魂がゆくといわれる地下の世界です。冥(くら)い、つまり光のない暗黒の世界。これは、中国の他界観に由来する言葉です。
 それに対し西方浄土は、お釈迦さまが説かれた光明の世界。仏教の「浄土」は実は沢山あるのですが、ここでは念仏によって往生できる西方極楽世界のことを言っています。この世で仏にお会いすることはかないませんが、命終ってからは無量の光を放たれている西方浄土の阿弥陀仏にお会いすることができる。
 また、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)といえばこれも、輪廻転生を続けながらめぐる六つの世界ですから、死後に赴く可能性のある世界です。では、冥土と六道はどう関係しているのか?というと、よく分かりません。「六道の下から三つめまで、すなわち地獄・餓鬼・畜生の三つの世界を『冥土』という」という話も聞いたことがありますが、根拠は不明です。
 ひとくちに中国の他界観といっても、道教や山岳信仰に仏教の影響があったりと、いろいろあるようです。もう少し詳しいことが分かりましたら、またお載せします。

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