仏教・仏事 Q & A [No. 161 〜 No. 180]

(2007年2月11日までの分)

目 次 (新着順)

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番 号 質 問 内 容 分 類
質問 180
 以前浄土宗のポスターで、「愚者の自覚を」という言葉を見ました。愚者の自覚とお念仏の教えと、どう関係するのでしょうか?
浄土宗
質問 179
 最近、浄土宗寺院の檀家になりました。せっかくなので浄土宗の二連の数珠を持とうと思ったのですが、近所の仏具屋さんには置いていません。どうすれば入手できるでしょうか?
浄土宗
質問 178
  昨年、父方の祖母が亡くなりました。その際、父の希望で分骨してもらい、わが家でも供養しています。またそれを機に初めて仏壇を購入し、開眼供養もいたしました。
 また、父自身も数年前から病気で入退院を繰り返していたのですが、このところ体調が悪化し、先日、主治医より余命宣告なるものを受けました。
 父の兄夫婦からは、「(父の)病気が悪くなっているのは、祖母の供養を二か所で行なっていて霊が迷っているからだ。また、まだ仏さまがいないのに新たに仏壇を購入したことにより、新仏が出る。早く閉限供養をして仏壇を閉じてしまいなさい」とアドバイスされました。
 私たち家族は、とても気になってお寺に相談しましたが、「閉限供養はできない」といわれました。迷信だとは思うのですが、とりあえず、一週間前から仏壇の扉を閉じています。
 私たちは何か悪いことをしているのでしょうか?
仏事一般
質問 177
 誰かの意見に共鳴したり、自分で何かを思いついた時に、必ずこう考えてしまいます。
「しかしこういう(別の)考え方もあるのではないか。」
 結局自分にとって何が良いのか、どう考えれば適当なのか、なかなか決まりません。頭の中が堂々巡りになってしまい、またそういう自分が嫌になります。
 どうしたらよいでしょうか?
一般の相談
質問 176
 私は死ぬのがとても怖いのです。どうすればよいでしょうか?
仏教 (宗教)
質問 175
 回答174で、「仏教では執着心やこだわりを嫌い…」とあります。私はむしろ、この執着しない(させない)ということを警戒しています。仏教系の新興宗教は、信心イコール「財産や人間関係、愛情に執着しないことだ」と説いて、信者から財産を巻き上げ、その人の人間関係をズタズタにしますよね。
 私は執着を美徳と考えます。
 僧侶の方々は、僧侶になることに執着したからこそ僧侶という職業についているのだと思いますし、不信心ものから見ますと、さとりを開くことに執着しているようにも見えます。私は、それらはすべて僧侶としての美徳であり、尊敬できることだと思っております。
 かつてアメリカズカップというヨットレースで、カップを米国から失ったデニスコナーは、カップを奪還するために自分自身とチームメイトに徹底させたのは「勝つことに執着することに執着する」です。そしてデニスコナーはカップを奪還しました。これはなまなかことではありません。
 執着という言葉に反応して面倒なメールを送ってしまってすみません。
仏教 (宗教)
質問 174
 現在フランスに在住していて、なかなかお寺にうかがう機会がないものですから、メールにてご連絡させていただきました。実家が浄土宗ということで、浄土宗関連の本を取り寄せたりして仏教に関する勉強を始めています。
 最近、「仁義礼智」という言葉に出会ったのですが、仏教的観点からするとどういう意味なのでしょうか? もしかすると、これは熟語ではなく、一つ一つに意味があるのでしょうか? もし後者の場合、それぞれどういう意味になるのでしょうか?
仏教
質問 173
 海外で暮らしている者です。
 自宅にはもちろん仏壇はありません。その代わりといっては何ですが、亡くなった祖父の写真と、可愛がっていた犬の写真を置き、毎朝お線香とお水を供え手を合わせています。
 その時心の中でどんなことを思えば良いのでしょうか? 妻であり母である私は、つい家族の健康や商売繁盛などをお願いしているのですが、仏様にはやはり感謝の気持ちだけをこめてお祈りしたほうが良いのでしょうか?
仏教
質問 172
 先日お墓参りに行きましたら、母の三回忌のときに供えたばかりの卒塔婆の文字が、雨のせいでしょう、にじんで流され、全く見えない状況でした。このままで構わないでしょうか? 何だか供養が足りなかったのではないか、と思ってしまうのですが。お寺さんに申し上げたほうがいいでしょうか?
仏事一般
質問 171
 仏陀というのは釈迦一人のことを指すのでしょうか? それとも覚者はみな仏陀なのでしょうか?
仏教
質問 170
 今般、霊園にお墓を買うことになりました。 最近は、墓石に「○○家(之墓)」というような家の名前ではなく、好きな字や言葉を刻めるようです。それで、どういう言葉を刻もうか、迷っています。
 仏教的に考えると、どういう言葉が良いのでしょうか?
仏事一般
質問 169
 お尋ねいたします。
 私はお寺の出身ではないのですが、結婚を機に浄土宗のお寺を継ぐことになり、そのために僧侶の資格を取ることにいたしました。両親も私の決断を尊重してくれておりました。
 しかし最近になって、私の名前は漢字で3文字なので、名前を変えなくてはいけない、という話を聞きました。これにはさすがに両親も「一所懸命考えて、思いをこめて付けた名前を、変えて欲しくない」と言って、反対しています。今まで、心配しながらも私のことを応援してくれた両親だっただけに、余計に思いが伝わってきました。
 そこでお聞きしたいのですが、お坊さんになるにあたり、名前を変えなくても済む方法はないのでしょうか?
修行
質問 168
 浄土宗寺院の副住職です。
 先日、ある檀家さんから「浄土宗には輪廻の思想はあるのですか?」という質問を受けました。うちの住職は、「浄土宗には輪廻はありませんよ」というように答えていました。
 しかし私は、今日人として生まれ過ごしているのも輪廻の迷いであり、この世に生まれる前、前世も六道の色々な迷いの世界を輪廻してきた、と解釈しています。したがって、今度浄土に生まれることができなかったら、再び迷い、六道に生まれ、また人に生まれ…というように思っています。
 笠原泰淳上人のご意見をお聞きしたく、質問させていただきます。
浄土宗
質問 167
 お尋ねします。「12月16日は『念仏の口止め』の日。正月の神様(年神様)は念仏が嫌いであるとして、この日の翌日から1月16日の『念仏の口明け』までは念仏をとなえないというしきたりがあり、この日にその年最後の念仏を行なう。」
 上記の記載を諸所で見て調べたところ、貴寺では12月16日以降でも念仏会を開催しておいでのことを拝見しました。上記につきましては、昔のこと、または宗派によるものなのでしょうか?
浄土宗
質問 166
 極楽浄土について調べますと、「西の方、十万億の仏国土を過ぎた場所で、様々な蓮の花、金銀の宮殿、美しい鳥の声の説法などに満ちた安らぎのあの世の世界」とあります。
 それでは、死後に行く所ではなく、今ある現実を清め、浄土にしようと功徳を積む国造りは、極楽浄土といえますでしょうか?
浄土宗
質問 165
 お墓参りについて教えてください。
 私たち夫婦は二人とも故郷を離れています。夫の両親も故郷を離れ都会に住んでいるので、ご先祖様の墓は田舎にあり、結婚以来、15年間に2回ぐらいしかお墓参りをしていません。
 この3月に私の母が亡くなり、ご先祖様というものを考えたとき、私たちは先祖供養をおろそかにし過ぎていたのではないかと思いました。それで、近いうちに夫方のご先祖様のお墓参りに行こうと思うのですが、母の一周忌が終わるまでは行かないほうがいいのですか?
 私の実家には、毎月帰って母のお墓参りに行っています。母のお墓とご先祖様のお墓は少し離れた所にあり、父が(一周忌が終わるまでは)行かなくていいと言うので、母のお墓参りだけ行っています。が、こちらも気になっており、行ってもいいものなら、お彼岸のときくらい参りたいと思っております。
仏事一般
質問 164
最近祖父が亡くなり、お葬式をしていただいたのですが、住職さんの着物の色・袈裟の色が気になりました。数ヶ月前に行った親戚のお葬式のときと違ったのです。(同じ檀家なので、住職さんも同じです。) お布施や戒名の高さで違ってくるんでしょうか?
仏事一般
質問 163
嫁いだ家は浄土宗です。お盆に、伏盤(金属音がしました)のようなものを叩きながら西国33ヶ所巡礼の歌のようなものを唱えて、最後にお経を読んでいたようでした。これはどういう意味でしょうか。どうして阿弥陀様ではなく観音様を拝むのでしょうか。いろいろな方に聞いてみたのですが、「毎年してるから..」という答えでした。意味が分からないのに唱えてるのも疑問ですが... これから、後々の事を考えても心から唱えてゆきたいと思いますので、意味を教えていただけるでしょうか?
浄土宗
質問 162
テレビで、「お墓参りの時に、墓石に水をかけてはいけない」という話をしていました。今まで必ず水をかけてお参りしていたのですが、これはいけないのでしょうか?
仏事一般
質問 161
散骨について新聞で読みました。
「(遺骨を)まいた後に人目に分かるような形で残るのは不快感を与えるので、あらかじめ米粒大以下に砕いてもらう」
「散骨する日については、喪服でなくカジュアルな服を着るようにすすめている。その理由は…海や山に黒い服を着た集団がいることで、周囲に不快感を与えないため」
「夫の遺灰を散骨したある女性(79)は『ずいぶん沖でやるのだなと思いましたが、他人に迷惑をかけずにできました』と静かに語った。」
などと書かれており、読んだあと何だか変な気がしました。散骨は、そういうものなのでしょうか?
仏事一般



 一気読みコーナー 
※番号の逆順になっています(若いものほど下)



質問 180
 以前浄土宗のポスターで、「愚者の自覚を」という言葉を見ました。愚者の自覚とお念仏の教えと、どう関係するのでしょうか?
〈回答 180〉 「愚者の自覚」とは、自分自身の混乱としっかり向き合うことを意味します。誠実な態度をもって自分自身の内面を見つめたとき、そこには多くの混乱がみえてきます。渇望、虚栄心、恐怖、逃避、競争心、攻撃的な心、自己欺瞞、挫折感、言動の不一致…。これらの煩悩は、尽きることがありません。
「いや、私は今、心静かな状態にある。」
 たいへん結構。しかし、その状態はいとも簡単に崩されてしまいます。(かく申す私自身も、ついさきほど、知人が重い病にあると聞き、心乱れているところです。)
 仏教は、覚り=目覚めに導く教えです。しかし、煩悩に満ちたこの身体世界とともにある限り、完全な目覚めを得ることは、少なくとも私には無理である──この自覚から、極楽世界を願い求める道が開けてきます。

「浄土宗のこころは、聖道・浄土の二門をたてて、一代の諸教(お釈迦さまが一生の間に残された諸々の教え)をおさむ。
 聖道門というは、娑婆の得道(この世で覚りを得る教え)なり。自力断惑・出離生死の教えなるがゆえに、凡夫のために修しがたく、行じがたし。
 浄土門というは、極楽の得道(まず極楽に往生し、そこで覚りを得る教え)なり。他力断惑・往生浄土門なるがゆえに、凡夫のためには、修しやすく行じやすし。」

「聖道門の修行は智慧をきわめて生死をはなれ、浄土門の修行は愚痴にかえりて極楽に生まると知るべし。」
(いずれも法然上人)
 自分自身の混乱と誠実に向き合った上で、極楽世界を求めてお念仏の道に進めば、そこに混乱のなかの安心、あるいは大いなる安心に包まれたちょっとした混乱、を見いだすことになるでしょう。

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質問 179
 最近、浄土宗寺院の檀家になりました。せっかくなので浄土宗の二連の数珠を持とうと思ったのですが、近所の仏具屋さんには置いていません。どうすれば入手できるでしょうか?
〈回答 179〉 東京近辺の仏具店でも、宗派別の数珠を揃えていないところが多いようです。
林海庵では、信徒さんからお数珠のご要望があった場合は、林海庵の近所の仏具店で置いているところをご紹介するか、もしくは京都の仏具店に注文することが多いです。なんといっても種類が豊富ですので。(ご参考…大西法衣仏具店:フリーダイヤル0120-002429)

 しかし、一番良いのは、菩提寺さまにご相談なさることです。檀信徒にお数珠をお持ち頂くにあたり、菩提寺さまなりのお考えやご指導があるかもしれないからです。
 お数珠は一生使う大切なもの。とくに法然上人はお数珠を大切に考えておられました。やはり、できればお寺を通じて購入されるのが良いでしょう。

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質問 178
 昨年、父方の祖母が亡くなりました。その際、父の希望で分骨してもらい、わが家でも供養しています。またそれを機に初めて仏壇を購入し、開眼供養もいたしました。
 また、父自身も数年前から病気で入退院を繰り返していたのですが、このところ体調が悪化し、先日、主治医より余命宣告なるものを受けました。
 父の兄夫婦からは、「(父の)病気が悪くなっているのは、祖母の供養を二か所で行なっていて霊が迷っているからだ。また、まだ仏さまがいないのに新たに仏壇を購入したことにより、新仏が出る。早く閉限供養をして仏壇を閉じてしまいなさい」とアドバイスされました。
 私たち家族は、とても気になってお寺に相談しましたが、「閉限供養はできない」といわれました。迷信だとは思うのですが、とりあえず、一週間前から仏壇の扉を閉じています。
 私たちは何か悪いことをしているのでしょうか?
〈回答 178〉 さぞご心配であられることと、拝察いたします。
「『(父の)病気が悪くなっているのは、祖母の供養を二か所で行なっていて霊が迷っているからだ。また、まだ仏さまがいないのに新たに仏壇を購入したことにより、新仏が出る。早く閉限供養をして仏壇を閉じてしまいなさい』とアドバイスされました。」
 お釈迦さまの教えによれば、生老病死の苦しみは人生に必ず伴うものであって、この苦しみとどう付き合ってゆくか、これをどう超えてゆくか、というのがそもそも仏教の仏教たる所以です。
 そして、
  • 分骨は悪いことではありません。お釈迦さまご自身のご遺骨も、分骨して供養されました。
  • 仏壇は、「新しい仏さまが出てから、購入するもの」ではありません。仏さまに手を合わせ、そのみ光をご家庭にも頂くためのものです。いつでも、思い立ったとき、できるだけ早くそなえる方が良いのです。
 伯父さま伯母さまのアドバイスは、もちろんお父さまを思ってのことでしょうが、誤っています。分骨やお仏壇をそなえたことと、お父さまのご病状を結びつけるのは、まったく理に適っておりません。
 病気には、避けられるものとそうでないものがあります。仏さまに手を合わせていれば、避けられる病は避けられ、避けられぬ病も症状が軽くなるものです。(仏さまに手を合わせることによって病状が重くなる、というのはとんでもない話です。)
 すぐにお仏壇を開き、「どうぞみ光をもってお守り下さい」「み心のままにお導き下さい」と手を合わせて下さい。
 あなたご自身が心を落ち着かせ、腰を据えて状況に対することが重要です。

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質問 177
 誰かの意見に共鳴したり、自分で何かを思いついた時に、必ずこう考えてしまいます。
「しかしこういう(別の)考え方もあるのではないか。」
 結局自分にとって何が良いのか、どう考えれば適当なのか、なかなか決まりません。頭の中が堂々巡りになってしまい、またそういう自分が嫌になります。
 どうしたらよいでしょうか?
〈回答 177〉 思うに、あなたはグループのリーダーか、学校のクラス委員のような立場ですね。クラスのみんなの意見をまとめなければならないのですが、どの意見にもそれなりの妥当性があるので、なかなか方向が決まらないわけです。
 一つ言えるのは、この状態は、あなたが一個の人格として成長していることを示している、ということです。あなたは、さまざまな立場の人がそれぞれの考えをもって生きていることを理解しています。そして、もし一つの意見を別の考えをもった人に押し付けたなら、結果として不公平や苦しみを招くことも知っています。(結果的に)誤った選択をするリスクを避けたい、という守りの気持ちもそこにあるでしょう。
 これらは、人格の成長の過程の中で必ず起こってくることですので、まずそれを受け入れましょう。「自分は、たった一つの考え方を盲信するのではなく、より広い立場からものごとを考えることができる。」
 次に、頭の中で考えるだけでなく、自分の全体、とりわけ身体感覚に問いかけてみます。
 今、自分自身に対して正直になっているだろうか。心は開いているか、それとも…?
 その問題は、自分にとって本当に切実なことなのか。
 どういう方向性だと、身体が生き生きと感じられるだろうか。
 その方向は、自分や他の人へのあたたかい理解に基づいているだろうか。

 すぐに答えが出なくても構いません。というよりも、ほとんどの場合、放っておいた方が良いのです。たぶん、必要な時に必要な答えが得られることと思います。答えが出たら、即行動!
 そのときには、流れに乗っている自分、流れと戦わずにそれを楽しんでいる自分を見い出すことができるでしょう。

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質問 176
 私は死ぬのがとても怖いのです。どうすればよいでしょうか?
〈回答 176〉 実は先日、夢の中で師に同じ質問をしました。師はこのように答えてくれました。

「ほう、お前は死ぬのがそんなに怖いか。
よろしい。では、よく考えてみなさい。お前はプライドの強い人間かね。プライドの強い人間はこう考える。
『私は価値のある人間だ。だが、死は敗北だ。自分が敗北するなんて、とても認められない。自分はこれまで勝ち続けてきた。死=敗北は、何としても避けなければならない。』
 だが、心配はいらない。お前よりも価値のある人間は、これまで無数にいた。本当に優秀ですばらしい人々が、満天の星の数ほど生きてきた。だが、彼らの誰一人として、『死にそこなった』人はいない。死のハードルの手前でうろうろして醜態をさらしている人など、一人もいない。どんなに価値があり、どんなに勝ち続けてきた人でも、上手に死をやり遂げている。お前にそれができないはずはない。失敗の可能性はひとつもありはしない。

「それともお前は、美しい肉体とこの上ない美貌の持ち主かね。死によってそれが無に帰すのが惜しいのかね。
 心配ご無用。お前の1000倍美しい人たちが、あっさりと、間違いなく死んでいる。死のハードルの手前で立ち止まり、『この美しい私が失われても良いのですか!』と抗議し続けている人に会ったことがあるかね。そんな人は一人もいない。だから怖れなくても良い。お前も立派に、あっさりと死のハードルを越えることができるだろう。

「あるいは、お前にはやり残したことがたくさんあるのだろうか。そして、『このまま死ぬわけにはいかない』とでも言いたいのだろうか。
 そうだ。もちろん、心配はいらない。お前の1000倍やり残しの人生を生きてきた人たちがこれまでに山ほどいる。彼らは、後悔の心を強烈に残しつつも、みな命を手放してきた。100人中100人がすべて、見事に死のハードルを越えている。やりそこなった人は一人もいない。だから、お前が失敗することはあり得ない。時が来れば必ず、お前もこのハードルを越えることになる。何も怖れることはない。

「なになに、お前はそれほどプライドが強いわけでも、肉体が美しいわけでもない? これまでの人生で大きなやり残しも思い浮かばない? とにかく死が怖いだけだと?
 よろしい。わたしの答えは同じ—そうだ、まったく心配はいらない。お前の1000倍怖がりの人がこれまでに100万人はいた。しかし、死のハードルの前で、恐怖にふるえて縮こまってしゃがんでいる人に会ったことがあるかね。いいや、そんな人は一人もいない。どんなに怖がりの人でも、簡単に、やすやすとこのハードルを越えている。お前が失敗する可能性はゼロだ。だから、心配する必要はまったくない。

「だから、お前が怖れなければならないのは、『死』ではない。むしろ『生』だ。この貴重な、限られた時間を無駄に過ごしているのではないか。本当にやるべきことをせずに、どうでもよいことに一喜一憂して人生を浪費しているのではないか。真に学ぶべきことがたくさんあるというのに、何一つ学んでいないのではないか。お前はこれこそを怖れなければならない。
 そして、もう一つ。死のハードルを越えた後のことだ。そのあとはどうなると思うかね。そうだ、その先のことを怖れなければならない。」

 そして、師はいたずらっぽく片目をつぶって、こうつけ加えました。

「本当のところ、『死のハードル』なんてどこにもないかも知れないね!」


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質問 175
 回答174で、「仏教では執着心やこだわりを嫌い…」とあります。私はむしろ、この執着しない(させない)ということを警戒しています。仏教系の新興宗教は、信心イコール「財産や人間関係、愛情に執着しないことだ」と説いて、信者から財産を巻き上げ、その人の人間関係をズタズタにしますよね。
 私は執着を美徳と考えます。
 僧侶の方々は、僧侶になることに執着したからこそ僧侶という職業についているのだと思いますし、不信心ものから見ますと、さとりを開くことに執着しているようにも見えます。私は、それらはすべて僧侶としての美徳であり、尊敬できることだと思っております。
 かつてアメリカズカップというヨットレースで、カップを米国から失ったデニスコナーは、カップを奪還するために自分自身とチームメイトに徹底させたのは「勝つことに執着することに執着する」です。そしてデニスコナーはカップを奪還しました。これはなまなかことではありません。
 執着という言葉に反応して面倒なメールを送ってしまってすみません。
〈回答 175〉 執着心は本来的にエゴと結びついたものですので、これを捨て去るというのが仏教の基本的な立場です。しかし、言うは易く、行なうは難し。執着を断ち切るというのは容易なことではありません。そこで、日常生活のレベルでは、自分の執着心に対してどういう態度で立ち向かってゆくかということが、実際的な問題になります。
 私自身の経験から、いくつか例を取り上げてみましょう。
  1. 執着の対象を避ける。
      例:テレビを置くとつい見てしまうので、テレビを置かない。タバコを置かない。新聞を取らない。読書は好きだが、蔵書は最低限にとどめる。モノを減らす。
  2. 執着心を理解する。
      例:瞑想や、臨床心理学的なカウンセリングやワークショップを通して、自分に固有のくせやこだわり(コンプレックスに通ずる)を理解しようとする。
  3. 執着する。が、その過程と結果を公益のために捧げる。
      例:寺院活動に関するすべて。良いHPを作りたい、等々。
  4. 執着心を高次のものに向けることによって、低次の執着心から離れる。
      例:念仏信仰。(執着心から離れるために念仏をしているわけではありませんが、結果としてそうなってゆく)
 このように、ひとくちに「執着」と言ってもいろいろです。特に気をつけるべき執着は、性急さを伴う、暗くて熱病的・暴力的なものです。

「私は執着を美徳と考えます。」
 ——人生のある時期に、「執着は美徳」と考えることは構いません。熟した果実は自然に落ちることができます。「執着」を成長への踏み台にすることができるでしょう。
 しかし、いつまでも過去や勝ち負けに執着し、ものごとにこだわり続けてゆくと、偏狭で硬直した生になってしまいます。手放すことによって得られる自由や広がりがある、ということも心のどこかに留めておいて下さい。

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質問 174
 現在フランスに在住していて、なかなかお寺にうかがう機会がないものですから、メールにてご連絡させていただきました。実家が浄土宗ということで、浄土宗関連の本を取り寄せたりして仏教に関する勉強を始めています。
 最近、「仁義礼智」という言葉に出会ったのですが、仏教的観点からするとどういう意味なのでしょうか? もしかすると、これは熟語ではなく、一つ一つに意味があるのでしょうか? もし後者の場合、それぞれどういう意味になるのでしょうか?
〈回答 174〉 「仁義礼智」は、儒教が説く倫理です。それぞれの言葉に意味があります。
  • 仁:あわれみの心
  • 義:すじみちを通し、悪を恥じて憎む心
  • 礼:譲り合い、他人を尊重する心
  • 智:ものごとの善悪をわきまえ、判断する心
 では仏教から見たらどうか、ということですが、以下に私の考えを書きます。
 仏教には様々な側面があります。
  • さとりの世界—善悪や浄不浄という二元性を超えた、究極の境地
  • さとりに到るための修行
  • 日常生活上の規範
 つまり、清らかで正しい日常生活を送り、心を静めて自分の内側に入ってゆく修行を続けていけば、やがて小さくて固く条件づけられた「自我」がほどけ、広大なさとりの世界が開けてくる、と、言葉で説明するとこうなります。(浄土教—お念仏の世界もこの延長上にあるわけですが、今は触れません。)
 仏教から見ますと、仁義礼智は「日常生活上の規範」と共通するところでありましょう。ただし、仏教では執着心やこだわりを嫌い、警戒しますので、時と場合によっては儒教の考え方と対立するかもしれません。

 あるいはこうも言えます。真に他人をあわれみ尊重しようと思うなら、自分自身をしばる「条件付け」と向き合う必要がありましょう。つまり「仁」や「礼」に深く入ってゆこうとするならば、それは正しく仏教の修行であるといっても良いかもしれません。
 大きなテーマですので、探せば文献や論文などがあるのでしょうが、取り急ぎ上記のようにお答えいたします。

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質問 173
 海外で暮らしている者です。
 自宅にはもちろん仏壇はありません。その代わりといっては何ですが、亡くなった祖父の写真と、可愛がっていた犬の写真を置き、毎朝お線香とお水を供え手を合わせています。
 その時心の中でどんなことを思えば良いのでしょうか? 妻であり母である私は、つい家族の健康や商売繁盛などをお願いしているのですが、仏様にはやはり感謝の気持ちだけをこめてお祈りしたほうが良いのでしょうか?
〈回答 173〉 仏、ブッダを礼拝するのは、その覚りの世界に心を開くためです。
 覚りの世界の静寂と深さ…その光と香りに触れ、そこに一歩でも近づきたいと願って、私たちは仏を礼拝します。
 接足作礼(せっそくさらい)といいまして、仏のお御足を両手に頂く礼拝法があります。お御足に触れる姿勢を取るだけで、心が豊かに満たされたいへん有難く感じる、そういう礼拝です。自分を最も低いところにおいて、仏の前に身を投げ出します。

 仏教徒として仏を礼拝するのは、そういうことです。

 わたしたちがご先祖を大切にするのも、ご先祖が仏の導きを受けて、その世界に足を踏み入れられているからです。「ご先祖が仏の世界でみ教えを受けて、より進んだ境地に行かれますように」、「どうぞ私も覚りの世界にお導き下さいますよう」と願って手を合わせます。
 家族の健康や商売繁盛をお願いすることはいけない、とは申しませんが、せっかくでしたらもっと広大な仏の世界に思いを向けていただきたいと思います。

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質問 172
 先日お墓参りに行きましたら、母の三回忌のときに供えたばかりの卒塔婆の文字が、雨のせいでしょう、にじんで流され、全く見えない状況でした。このままで構わないでしょうか? 何だか供養が足りなかったのではないか、と思ってしまうのですが。お寺さんに申し上げたほうがいいでしょうか?
〈回答 172〉 そうですね。墨が十分に乾いていないところを雨に打たれますと、字が流れてしまいます。
 私どもも、卒塔婆の準備はなるべく早めにしていますが、色々な理由でぎりぎりになってしまうことがあります。
「何だか供養が足りなかったのではないか、と思ってしまうのですが。」
とのことですが、卒塔婆を建てた時点でご供養は全うされていますので、その点はお気になさらぬように。
 新たにお寺さんに卒塔婆をお願いする、という方法もないではありませんが、卒塔婆がそのときは美しくなっても、「三回忌法要」の日にご回向したものではなくなってしまいます。また、ご承知のように卒塔婆はいずれ朽ちてゆくものです。
 ですから、次回、卒塔婆をお願いするときは早めにご連絡して頂き、「三回忌の時に、雨でせっかくの字が流れてしまいました。今回は早めに書いて頂けませんでしょうか。」とおっしゃってみて下さい。

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質問 171
 仏陀というのは釈迦一人のことを指すのでしょうか? それとも覚者はみな仏陀なのでしょうか?
〈回答 171〉 これは、文脈によって両方あります。英語でしたら、「Buddha(釈尊…固有名詞)」と「buddha(覚者…一般名詞)」を分けて使うところでしょう。
「仏陀」といえば多くの場合、釈迦一仏を指しますが、大乗経典を開くと無数の仏が出てきます。良く知られたところでは阿弥陀如来、薬師如来、大日如来、多宝如来…。
 有名な「七仏通誡偈」(「もろもろの悪をなすことなく、もろもろの善を行ない、自らの心を浄めること、これが諸仏の教えである」)、も、釈尊と、そして釈尊以前に現れた6人の覚者たち(毘婆尸仏・尸棄仏・毘舎浮仏・拘留孫仏・拘那含牟尼仏・迦葉仏[*])が説いた偈文です。また浄土経典でいいますと、『無量寿経』に説かれる釈尊の説法は、「錠光如来・光遠如来・月光如来…」と、過去53仏の名前を挙げるところから始まっています。
 ですから、文脈による、とご理解下さい。

[*] 読みは順に、
毘婆尸仏—びばしぶつ・尸棄仏—しきぶつ・毘舎浮仏—びしゃぶぶつ・
拘留孫仏—くるそんぶつ・拘那含牟尼仏—くなごんむにぶつ・迦葉仏—かしょうぶつ
 です。

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質問 170
 今般、霊園にお墓を買うことになりました。 最近は、墓石に「○○家(之墓)」というような家の名前ではなく、好きな字や言葉を刻めるようです。それで、どういう言葉を刻もうか、迷っています。
 仏教的に考えると、どういう言葉が良いのでしょうか?
〈回答 170〉 すでに墓石を建てられている方であれば何も申し上げないところですが、「これから建てるにあたり、どうしよう」というご相談ですので、私の考えを述べます。
 墓石は、手を合わせる礼拝の対象です。それは、いわゆる記念碑のようなものではありません。
「○○家(之墓)」という字を刻めば、墓石に手を合わせるとき、ご先祖の諸霊位や仏の世界に対して礼拝することになります。また宗派によって、墓石に「南無阿弥陀佛」「南無妙法蓮華経」「倶会一処」といった字を刻むことも、礼拝する対象として誠に理にかなっていると思います。
 霊園に行きますと、確かにいろいろな言葉が刻まれた墓石をみかけます。(地方によると思いますが、首都圏の霊園では最近特に顕著です。)
 例えば、「感謝」。これは多分、ご遺族の気持ち—故人に対する気持ちであると思われます。分からないでもありませんが、自分の気持ちを表わす言葉に対して手を合わせるというのは、ちょっとおかしくないでしょうか。「慈」「心」「空」「愛」という言葉もよくみかけます。初めは新鮮に感じますが、まわりに同じ言葉が刻まれたお墓が沢山増えてくると、かえって色あせて見えます。「絆」というのもどうでしょうか。仏さまとの絆でしたらまだしも、乗り超えるべき「執着の絆」に見えてしまいます。手を合わせる対象としても、何か漠然とした感じです。べつにオリジナリティーを求める必要はありませんが、かえってオーソドックスな「○○家(之墓)」「南無阿弥陀佛」などの方が、いつまでたっても古さを感じさせません。
 いずれにしましても、墓石は礼拝の対象であるということ、そしていつまでも残ってゆくものであるということをしっかり念頭に置いて、お考え下さい。

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質問 169
 お尋ねいたします。
 私はお寺の出身ではないのですが、結婚を機に浄土宗のお寺を継ぐことになり、そのために僧侶の資格を取ることにいたしました。両親も私の決断を尊重してくれておりました。
 しかし最近になって、私の名前は漢字で3文字なので、名前を変えなくてはいけない、という話を聞きました。これにはさすがに両親も「一所懸命考えて、思いをこめて付けた名前を、変えて欲しくない」と言って、反対しています。今まで、心配しながらも私のことを応援してくれた両親だっただけに、余計に思いが伝わってきました。
 そこでお聞きしたいのですが、お坊さんになるにあたり、名前を変えなくても済む方法はないのでしょうか?
〈回答 169〉 「お坊さんになるにあたり、名前を変えなくても済む方法はないのでしょうか?」
 将来お寺の住職になられるのであれば、少なくともその時点で僧名(僧としてふさわしい漢字2文字)と戸籍名が一致している必要があります。ということは、やはり名前を変えなくてはなりません。
 仏門に入門するということには色々な要素がありますが、その一つは、仏弟子としての名前を師僧から頂戴することです。仏弟子として新しい生き方を始めるにあたり、それまでの世俗の生き方を代表する「自分の名前」を改めるわけです。
 将来お寺を継いだとき、あなたも檀家さんのご葬儀を勤めるようになるでしょう。そのときには、亡くなった方に対して、今度はあなたが仏弟子としてのお名前(お戒名)を授ける立場になります。そこまで考える必要があると思います。

 また私としては、ご両親を説得したいくらいの気持ちです。
「仏門に入るというのは、たいそう価値のあること。ご両親は誇りとすべきことです。僧侶である息子をもてる親は、そうそういません。このご縁に深く感謝する日がいつかきっと来るでしょう。その功徳に比べれば、あなた方がつけられた名前を変えることなど何でしょう」と。

 あなたの意にそぐわない答えになったかもしれません。が、名前は変えてもいずれは慣れてくるもの。また改名する時点で、それなりの心構えも出来てくるでしょう。ご両親にご理解頂けるよう、根気よく努力を続けて下さい。

H19.8.1 追記:この質問に関連して、「僧侶になりたい、あるいは僧侶になるにはどうすればよいか、とお考えの方へ」というページを新設しました。こちらもご覧下さい)

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質問 168
 浄土宗寺院の副住職です。
 先日、ある檀家さんから「浄土宗には輪廻の思想はあるのですか?」という質問を受けました。うちの住職は、「浄土宗には輪廻はありませんよ」というように答えていました。
 しかし私は、今日人として生まれ過ごしているのも輪廻の迷いであり、この世に生まれる前、前世も六道の色々な迷いの世界を輪廻してきた、と解釈しています。したがって、今度浄土に生まれることができなかったら、再び迷い、六道に生まれ、また人に生まれ…というように思っています。
 笠原泰淳上人のご意見をお聞きしたく、質問させていただきます。
〈回答 168〉 「今日人として生まれ過ごしているのも輪廻の迷いであり、この世に生まれる前、前世も六道の色々な迷いの世界を輪廻してきた、と解釈しています。したがって、今度浄土に生まれることができなかったら、再び迷い、六道に生まれ、また人に生まれ…というように思っています。」

 同感です。私の意見、ということではなく、それが善導大師、法然上人のお示しだと思います。
 自分は過去生において恐らく仏教に縁を結ぶこともあったであろう、それなのに現にこうして生死輪廻の苦海から脱け出せずにいる、この身を輪廻から解脱させてくれるのは、もはやお念仏の教えしかない…正しくあなたのお考え通りです。

 ご住職が「浄土宗には輪廻はない」とおっしゃるのは、往生浄土のあかつきには(還相回向=あえて浄土からこの世に還り、衆生を仏道に導くためにはたらくこと、を除いては)もう生まれ変わることはない、お念仏の信者はもうこれ以上輪廻をしませんよ、という意味ではないでしょうか。

「あれまあ、この子はきっと、おじいちゃんの生まれ変わりだよ。」
「いいえ。おじいちゃんは極楽に往生されているので、もう生まれ変わることはありません。」
 はなはだ不粋ながら、こういうことになりますね。

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質問 167
 お尋ねします。「12月16日は『念仏の口止め』の日。正月の神様(年神様)は念仏が嫌いであるとして、この日の翌日から1月16日の『念仏の口明け』までは念仏をとなえないというしきたりがあり、この日にその年最後の念仏を行なう。」
 上記の記載を諸所で見て調べたところ、貴寺では12月16日以降でも念仏会を開催しておいでのことを拝見しました。上記につきましては、昔のこと、または宗派によるものなのでしょうか?
〈回答 167〉 このお話は初めて聞きました。仰天いたしました。
 ご存知かもしれませんが、念仏行は「行住坐臥、時節の久近を問わず、念々に捨てざるもの」(善導大師『観経疏』)でして、本来は、眠るとき以外のすべての時間、1年365日のものです。ですから「念仏をとなえてはいけない期間」はありません。
 12月から1月のその期間、葬儀・法事や修正会ももちろんお念仏を中心にして勤められますし、浄土宗の伝宗伝戒道場(新僧侶養成の道場)は12月上旬から下旬にかけて毎年開かれます。
 私どもからすると「念仏の口止め」というのはまったくあり得ないお話です。「その1ヶ月間は呼吸をするな」と言われるに等しいことです。
 想像するに、
  • 念仏は亡者供養のためのものだから、新年を迎えるおめでたいときにはふさわしくない
  • この期間は、正月の神様にお仕えすることに集中すべきであり、念仏もやめた方がよい
という俗信が、一部の地域にあるのかも知れません。念仏信仰の観点からみれば、この考えはまったく誤っている、と言わざるを得ません。

 私は浄土宗ですが、浄土真宗・時宗にもおそらくそうした考え方はないと思います。
 一部の地域で言われてきたことではないでしょうか。

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質問 166
 極楽浄土について調べますと、「西の方、十万億の仏国土を過ぎた場所で、様々な蓮の花、金銀の宮殿、美しい鳥の声の説法などに満ちた安らぎのあの世の世界」とあります。
 それでは、死後に行く所ではなく、今ある現実を清め、浄土にしようと功徳を積む国造りは、極楽浄土といえますでしょうか?
〈回答 166〉 浄土の「浄」を動詞とした場合に、おっしゃるような意味、すなわち「国土を浄める=世界を清浄にする菩薩行」という意味になります。
 次に、「浄」を形容詞としてみると、「浄らかな世界」ということになり、「穢土(えど=けがれた世界)」に対する言葉になります。
 浄土宗でいう「浄土」は、後者、すなわち「浄」を形容詞とする「浄らかな世界」=西方極楽世界です。したがって「この現実を清め、功徳を積んで国造りを行なってゆく」ことは、もちろん尊い実践ではありますが、浄土宗の「浄土」の本義とは別のものになります。
「かの国に到りおわって六神通を得て、十方界にかえって苦の衆生を救摂せん」(善導大師)
 つまり、極楽往生が第一。人々を救おうとするのは、その後のことである——少し奇妙に思われるかもしれませんが、これが浄土宗の考え方です。

 では、この世で善行に励むことを否定するのか、というと、決してそうではありません。このあたりが微妙なところです。「微妙」といいますのは、ひとつには浄土宗義の人間観察の深さ(われわれは、いまだ輪廻を脱け出せない罪悪生死の凡夫である)と、もうひとつは、では現実の日々の生活にどういう心構えでのぞんでゆけばよいのか、ということの間に「揺れ」が出てくるからです。
 「他人に善を施し、社会を正しい方向に変えていくような力は、迷いの只中にいる自分には到底もち得ない。自分自身ですら自分の力で救うことはできないのだから。」——凡夫であることを自覚し、極楽往生を願ってお念仏をとなえる。そしてまた一方で、阿弥陀さまのみ光に守られながら、誠意と歓びをもってこの世の務めに励んでゆく——それが浄土宗の示す生き方です。

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質問 165
 お墓参りについて教えてください。
 私たち夫婦は二人とも故郷を離れています。夫の両親も故郷を離れ都会に住んでいるので、ご先祖様の墓は田舎にあり、結婚以来、15年間に2回ぐらいしかお墓参りをしていません。
 この3月に私の母が亡くなり、ご先祖様というものを考えたとき、私たちは先祖供養をおろそかにし過ぎていたのではないかと思いました。それで、近いうちに夫方のご先祖様のお墓参りに行こうと思うのですが、母の一周忌が終わるまでは行かないほうがいいのですか?
 私の実家には、毎月帰って母のお墓参りに行っています。母のお墓とご先祖様のお墓は少し離れた所にあり、父が(一周忌が終わるまでは)行かなくていいと言うので、母のお墓参りだけ行っています。が、こちらも気になっており、行ってもいいものなら、お彼岸のときくらい参りたいと思っております。
〈回答 165〉 「一周忌が終わるまでは、ほかのご先祖のお墓参りには行かなくていい」とは、どういう意味でしょうね。お父さまがそうおっしゃるからには、何か理由があるのだと思いますが、文面からは計りかねます。
 一周忌を迎える一年間の間に、盆・彼岸やほかのご先祖のご命日が次々とやって来るわけですよね。「お参りすべきでない」という理由は私には見当たりません。放っておくよりもお参りしたほうが、当然いいと思うのですが。それはお父さまのお考えなのか、それともご郷里の風習なのか…。
 お父さまの言葉に引っ掛かっておられるなら、ご実家の方の菩提寺にご相談されたらどうでしょうか。「私はこう考えているが、父はこう言っている。どうすればよいでしょうか」というふうに...。ご住職のご指導に従うのが一番ですし、そのほうがお父さまも(あなたも)ご納得なさることでしょう。

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質問 164
最近祖父が亡くなり、お葬式をしていただいたのですが、住職さんの着物の色・袈裟の色が気になりました。数ヶ月前に行った親戚のお葬式のときと違ったのです。(同じ檀家なので、住職さんも同じです。) お布施や戒名の高さで違ってくるんでしょうか?
〈回答 164〉 「お布施や戒名によって、ご葬儀のときの法衣や袈裟が違うのか」
 …あり得ない話ではないと思いますが、他にもいろいろな事情が考えられます。
  • 通夜と葬儀告別式では、違うお袈裟をつけることが多い。その場合、同じご住職のお勤めであっても、通夜に出席するのと葬儀告別式に出席するのとでは、違う法衣・袈裟を目にすることになる。
  • 法衣にも袈裟にも、夏物と冬物がある。夏のご葬儀と冬のご葬儀とでは、違うものを身につける。
  • 同じ季節の葬儀であっても、同じ法衣を続けて着ずに、休ませることもある。
  • いつも着るものを修繕や洗濯に出していれば、替わりのものを身につけることになる。
 などが考えられます。(ちなみに私の場合は、お布施や戒名によって法衣・袈裟を変えることはありません。)
「あまり気にしないこと」——これが私からのアドバイスです。そういうことを気にしていたら、よきご供養になりませんから…。

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質問 163
嫁いだ家は浄土宗です。お盆に、伏盤(金属音がしました)のようなものを叩きながら西国33ヶ所巡礼の歌のようなものを唱えて、最後にお経を読んでいたようでした。これはどういう意味でしょうか。どうして阿弥陀様ではなく観音様を拝むのでしょうか。いろいろな方に聞いてみたのですが、「毎年してるから..」という答えでした。意味が分からないのに唱えてるのも疑問ですが... これから、後々の事を考えても心から唱えてゆきたいと思いますので、意味を教えていただけるでしょうか?
〈回答 163〉 それは、お盆の棚経(たなぎょう:お寺さんがみえて読むお経)でしょうか。あるいはご家族で読むのでしょうか。
 棚経ですと、宗訂(浄土宗で定められたもの)のお経があり、そこにはご詠歌や和讃は入っておりません。しかし、どこでも宗訂どおりのお経が読まれているわけでもありません。お寺、また地域によって独特のものが読まれている可能性があります。
 一般に、お盆の行事は「宗派による違い」よりも「地域差」のほうが大きいといえましょう。お盆の期間や、お供え物などに地域それぞれの特色があるのと同じように、お経もそちらの地域独特のものが読まれているのでしょう。
 また、ご家族で読まれる場合、こうも考えられます。ご先祖に熱心な観音信仰の方がおられ、以後「その方に倣って」読まれているのかもしれません。
 観音さまは、弥陀三尊の脇侍として浄土宗でも祀られます。また、お経の中に観音さまを讚えるお経も出てきます。ご承知のように浄土宗では阿弥陀さま、お念仏が中心であり、お念仏だけで救いを頂けますが、観音さまを礼拝することもまた結構なことだと思います。

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質問 162
テレビで、「お墓参りの時に、墓石に水をかけてはいけない」という話をしていました。今まで必ず水をかけてお参りしていたのですが、これはいけないのでしょうか?
〈回答 162〉 墓石に水をかける理由は、
  • 単に墓石を洗い清めるため
  • 「水を供養する」の意味で、水を手向ける
  • 「灌頂(かんじょう)」という、頭頂の部分に水をそそぐ密教の儀式に関連している
などが言われています。
 私が教わったところによれば、「単に墓石を洗い清める」、つまりお墓掃除の総仕上げの意味がもともと。実際に墓石に水をかけて合掌すると、不思議と「ああ、お参りした」という気分になるので、何となく定着したのでしょう。
 水をかけてはいけない、という理由がご質問の文面では分かりませんが、「墓石が傷むから」という話を聞いたことがあります。雨風にさらされることが前提なのに、「傷むから水をかけぬように」というのも妙です。それに石といっても諸行無常、長い年月が経てばいずれは傷んでゆきます。(話は飛びますが、「お線香の煙やロウソクの煤でお仏壇が汚れる」から全部電気式のものにする、という考え方にも私は疑問を感じます)
 また「ご先祖の頭から水をかけるのは失礼」というのも聞いたことがあります。しかし、墓石は別にご先祖の姿の象徴ではありませんから、これも理由にはなりません。

 したがって、結論…今までのように、墓石をきれいに掃除したあと、どうぞたっぷりと水をかけてお参りなさって下さい。

(追記) 知り合いの石材店の方に尋ねてみました。その方のお話を紹介します。
  • 水をかけて、墓石が傷むことはない。但し、すでに相当傷みが進んでいる墓石の場合、冬場などにかけた水がしみ込んで、凍結し、膨張して石の傷みが進む、ということはなきにしもあらず。
  • 水をかける理由は、供養のために水を手向ける、ということと、樒(しきみ)の香りを墓石につける(土葬の場合、狸などがお墓を掘り起こさぬよう、毒素がある樒をお墓の側に植える風習があった)というのが由来であろう。後者の場合、水皿に樒の葉を浸し、葉についた水を墓石にふりかける。
 由来については諸説あるようですが、水をかけること自体は問題なさそうですね。
 但し、石材店の方が教えて下さった注意点。「故人が好きだったから」という理由で、墓石にお酒をかける方がいますが、その場合はお気をつけて。お酒に含まれる糖分が酸化し、石の鉄分と反応して墓石が変色(黄ばむ)することがあるそうです。「お酒をかけてもよいが、あとでよく石を洗っておいたほうが良い」ということでした。

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質問 161
散骨について新聞で読みました。
「(遺骨を)まいた後に人目に分かるような形で残るのは不快感を与えるので、あらかじめ米粒大以下に砕いてもらう」
「散骨する日については、喪服でなくカジュアルな服を着るようにすすめている。その理由は…海や山に黒い服を着た集団がいることで、周囲に不快感を与えないため」
「夫の遺灰を散骨したある女性(79)は『ずいぶん沖でやるのだなと思いましたが、他人に迷惑をかけずにできました』と静かに語った。」
などと書かれており、読んだあと何だか変な気がしました。散骨は、そういうものなのでしょうか?
〈回答 161〉 散骨をすすめる活動は、私の理解するところでは、自然保護の観点から始まっています。緑豊かな山を切り開いて、次々と墓地開発してゆくのを何とか止められないか、という立場です。
 自然保護の観点ももちろん大切ですが、大切な家族の遺骨を葬るのに、「周囲に不快感を与えないように」ことさら気づかいをしなければならないとしたら、悲しいことだと思います。 

 話は変わりますが、こういうことがありました。
 ある葬儀式をおつとめした後、火葬場に向かう車の列が道路を進みます。先頭は霊柩車。私ども僧侶は、たいてい霊柩車の次の車に乗ります。何気なく車外を見ておりますと、ふと独りのご老人が目に留まりました。その方は、道を歩いていて、たまたま葬送の場面に出会われたのでしょう、立ち止まって手を合わせ、頭を垂れて車の列を見送っておられます。そのお姿を見て、私は心動くものを感じました。そのご老人の祈り…見知らぬ亡き方の冥福を願い、遺族をいたわる声なき祈りが聞こえてくるようでした。
 ご質問の新聞記事から目に浮かんでくる散骨光景とは、ずいぶん対照的です。

 背景のひとつに、散骨が「葬送の文化」としてまだ充分に定着していない、だから周囲に対し充分に気づかいをして、トラブルが起こるのを未然に防がなければならない、ということがあるように思います。
 事情はともかく、「周囲に不快感を与えないように」「他人に迷惑をかけずに」気づかいながら葬送しなければならないとすれば…それが本当に故人を尊重し、故人の冥福を祈るものになるのだろうか、遺族感情は充分尊重されるのだろうか…私も疑問を感じます。

 がしかし、疑問を感じたその一方で申し上げますと、新聞記事はあくまでも新聞記事です。
 もしもあなたが散骨に関心をお持ちなら、「こういう側面もある」ということを一つの材料として考え、判断なさればよいのではないでしょうか。
(散骨に関連したご質問と回答はQ & A 82や、Q & A 122にもありますので、よろしかったらご覧ください)

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