仏教・仏事 Q & A [No. 181 〜 No. 200]

(2013年1月10日までの分)

目 次 (新着順)

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番 号 質 問 内 容 分 類
質問 200
 年末年始、カンボジアのアンコールワットに行ってきました。
 日本語勉強中のカンボジア人ガイドさんから聞いたところによると、カンボジアの僧侶の食事は一日一回正午のみ(水分はそれ以外の時の摂っても良い)そうです。
 ガイドさんから「日本の僧侶も一日一回正午のみの食事か?」と聞かれました。修行中だと一日二回だった気もしますが、修行が終わられた方だと違った気もします。結局曖昧な答えしか出来ませんでした。
 どこに質問すればよいか分からずこのサイトを見つけました。お手数ですが、お答え頂けないでしょうか? 質問してくれたガイドさんに教えてあげたいと思います。
仏教 (宗教)
質問 199
 ご教示ください。
 お釈迦さまは、人間の死後について「無記」とされている、と聞いたことがあります。『阿弥陀経』などのサンスクリット語原典はまだ見つかっていないとも聞いています。
 私は54歳です。拙い人生ですが毎日お念仏を称え、「祈り」と、阿弥陀さまに「お任せ」することで救われています。
 私は自分の「無明」を自覚し、み仏の「お導き」を頂いていることを十二分に感じています。また自然や命へのみ仏の働きも自覚しています。しかし、「深信」は修行不足でまだまだ授かっていません。西洋の思想に基づいた教育を受けてきたことが原因だと思います。
 そこでご質問します。
 お釈迦さまが無記とした「死後」について、阿弥陀さまの存在を実感するにはどのように考えてゆけばよいでしょうか。
 またお念仏するときに、私は私なりに、念仏とともに頭上から光明が入り、頭・首・胸・腹と阿弥陀さまの「光明」が降りてくるイメージで称えています。その流れに集中することで、雑念が少しずつ生じなくなりました。
 このようなことでよろしいでしょうか。
 正式なお念仏の称え方があればご教示ください。
浄土宗
質問 198
 23歳、真宗大谷派の一門徒です。
 私は自身を仏教徒であると自覚する一方、全ての宗教にあるような神さまや仏さまといった存在を、具体的なお姿として信じる事ができません。ですから、仏さまに救いを求める事について、どうしても懐疑的に考えてしまうのです。
 仏前に座して、私の目には仏さまは「自身を省みるための鏡」のように映ります。
 それは救いを求める対象ではなく、人としての生き方を問い続ける場所であると私は考えるのです。
 人が本当の救いを得るためには、仏さまに身を委ね導いて頂く事ではなく、自分の力で自分の罪を許す事が必要なのだと思っています。
 同時に、このような考え方は不信心なのではないかと不安に思う事もあります。
 今のような姿勢で、私は仏さまに向かい掌を合わせても良いのでしょうか?
仏教 (宗教)
質問 197
 私は、大変怒りっぽいです。しかも、自分に余裕がないのか、ちょっとしたことでも表情に出て、物にあたったりします。
 毎日、お念仏をしていますが(といっても自己流ですが)、心は平安になっていません。どうすれば、怒りっぽい性格を直すことができるでしょうか?
一般の相談
質問 196
 実家の両親は、熱心な仏教信者です。般若心経を暗記して毎日称えたり、巡礼のお参りも欠かしません。
 しかし、私が思う仏教の本当の「教え」は、殆ど理解していないと思います。『色即是空』なんて意味も知らないです。近所の人の悪口を言ったりして、幸せに心豊かに生きているようには思えません。
 なぜ、日本の仏教はこのように、表面的な教えになってしまったのでしょうか? 形も重要でしょうが、最も重要なのは、人間の生き方を教える宗教ではないでしょうか?
仏教 (宗教)
質問 195
 跡継ぎのいないお寺の娘と結婚しています。
 自分は会社員で、結婚当初から「将来跡継ぎとしてお寺に入れないか」と言われていました。あまり真剣に考えることなく10年以上経ちましたが、最近いろいろ考え、気持ちが傾いてきました。単に跡を継ぐということだけでなく、信仰の気持ちもあり、真剣に考えています。ただしいろいろ障害があり、決断できない状態です。
 ひとつは会社員との両立が不可能(全国に転勤の可能性があり今も義父母とは別居中)であるため、今の会社を退職しなければなりません。私は現在40代です、退職すれば退職金は出ますが再就職も困難ですし、万一再就職できても修行との両立が困難ではないかと思います。
 住職である義父に相談したくても、なにをどう質問してよいか分かりませんし、相談しても「大丈夫だ」と言われそうで、ましてや決断していないのに期待を持たせることになりかねないと思います。今までサラリーマンを20年もしてきた私がつとまるか、またこの年齢で将来きちんとお寺を守っていけるかどうか不安です。
 とりとめもない相談ですがよろしければ助言お願いします。
修行
質問 194
 浄土宗の信徒です。
 2年前に父が亡くなりました。毎日家族で念仏を称えています。
 本を購入し、法然上人のみ教えを勉強しているうちに、親鸞聖人の『歎異抄』を読みました。その一節に、「親鸞は父母の孝養のために念仏したことはない…」とあり、いま自分が行っている念仏に、ふと疑問がわきました。
 浄土門では、念仏はまず、自分の往生のために行うものと知りました。また、「回向」に二種あるとも知りました。浄土宗では、私のような「故人への念仏」は亡き人への「回向」となるのでしょうか?
 父は生前、念仏を称えるような人ではなく、その分、私が念仏しようとの思いで唱えているのですが…。
浄土宗
質問 193
 義父が亡くなり、浄土宗の僧侶に拝んで頂きました。ところが家には、義父の両親から受け継いだ新興宗教の仏壇があり、ご本尊も浄土宗の阿弥陀如来様ではなく、釈迦牟尼世尊を祀っています。葬儀の僧侶は「南無阿弥陀仏」のお経でしたが、義母は毎日、その新興宗教のお経を唱えています。しかも弘法大師のお寺にも熱心にお参りに行ったり、イタコに行ったり。
 理解に苦しむのですが、どういうものでしょうか?
仏事一般
質問 192
「コラム倉庫」を興味深く読ませていただいています。
 2005年3月のコラムの中に次のように書かれていました。
「『自分』という意識が生来のものではなく、借り集めの幻想であると見抜くことによって、『自分』への執着から離れ、苦を乗り越えるわけです。」
 私もこのことがやっとわかりかける年になってきました。というか正直に申し上げると、3年ほどやみくもに坐禅を続けてきてやっと「借り集めの幻想」が見えてきた、というか「自分」という概念が崩れはじめてきた、と言ったほうがいいでしょう。
 浄土門の方々は、「借り集めの幻想」をどのようにして知るのでしょうか?
 私が自分のことを考えるとき、もし坐禅に出会っていなかったらこのことは永遠に理解できなかっただろうと思います。禅宗のお坊様の中にも、自分が無になるまで念仏を唱え続けるとおっしゃり、坐禅と念仏両方を行じている方もいるようです。
仏教 (宗教)
質問 191
 先日母が亡くなり、事情があって位牌を二つ作りました。お寺さんに魂入れをして頂いたのですが、母の魂は二つに分かれて位牌に入っているのでしょうか?
仏事一般
質問 190
 浄土宗のお数珠の使い方について教えてください。
 合掌した親指にかける際、大きな珠の位置がどちらの方向になるようにとか、二連のどちらが(たとえば房がつながっている方が)上になるようにとかの決まりはあるのでしょうか?
浄土宗
質問 189
 念仏の称えかたに「十念」がありますが、なぜ十回なのですか?
(関連項目: Q&A 11及びQ&A 104
浄土宗
質問 188
 歴史上の釈尊は念仏の教えは説かなかったと聞きましたが、どういうことでしょうか?
仏教 (宗教)
質問 187
 「右繞三匝(うにょうさんぞう)」についてお尋ねします。
 インターネットなどでは「仏さまの周りを右回りに3度回ること」といった解説を見かけます。この場合の右回りとは、時計回りのことでしょうか? 仏さまを見ながら自分が右に進むと、反時計回りになるため、本来左回りが正しいようにも思いますが。
 先日、鎌倉の大仏さまにお参りした折りにも、御僧侶が「南無阿弥陀仏」や「四誓偈」を唱えながら大仏さまの周りを回っておられるのをお見かけいたしましたが、反時計回りであったように思います。

 また、浄土宗でも、阿弥陀さまに対して、「右繞三匝」ということを行うのでしょうか?
浄土宗
質問 186
 お念仏は、お経のように節をつけて称えたほうがいいのでしょうか?
 また、お念仏を朝晩のほかに、仕事などで高まった気分を落ち着かせたいときや、お風呂に入っているときにも称えていますが、これでいいのでしょうか?
浄土宗
質問 185
 墓参時に、お経を上げて頂いておりました。先代の住職さんは、お経の最後に、墓石の横に刻んである戒名を見て、「○○の為」とか唱えてくれましたが、次代の息子は修行不足?かそれを省略し、読経時間もごくわずかです。
 以後は、私が自分で『阿弥陀経』を上げています。
仏事一般
質問 184
 私は人間関係が苦手です。世俗的なものごとにもあまり関心がもてず、いっそのこと仏の道に入った方が良いのではないかと思うのですが。
修行
質問 183
 4月(平成19年)のコラムを読みました。
「天上天下 唯我独尊」は、辞書などをみると“宇宙空間に自分より尊いものはない”という風にしか書かれておらず、お釈迦さまが本当に言いたかったことがどういうことなのか、ずっと分りませんでした。
 住職様はこの言葉をどのようにご理解されていますか?
仏教 (宗教)
質問 182
 仏具屋さんで、脇侍の菩薩さまの掛け軸を買いました。お祀りする場所ですが、中央の阿弥陀さまの、向かって右が観音菩薩さま、向かって左が勢至菩薩さま、で宜しいのでしょうか?
浄土宗
質問 181
 自殺・自死について、御宗・貴庵では、どのようなスタンスをお持ちでしょうか?
 近松の心中物などで垣間見えるように、弱い立場の人にとっては、浄土の蓮の上へ赴くことを願って、自ら死を選ぶ行為もギリギリの選択肢の一つ。そういう人たちにとっては、阿弥陀も救済の路を空けている——と本人たちが思い込んでいるような——印象を受けます。
 自殺・自死を絶対悪とはせず——もちろん、生き抜くことを勧めながら——救済の路を説く姿勢って、弱い立場の人たちには、最も説得力のあるものだと思います。
 現代においても、現代においてこそ。
浄土宗



 一気読みコーナー 
※番号の逆順になっています(若いものほど下)



質問 200
 年末年始、カンボジアのアンコールワットに行ってきました。
 日本語勉強中のカンボジア人ガイドさんから聞いたところによると、カンボジアの僧侶の食事は一日一回正午のみ(水分はそれ以外の時の摂っても良い)そうです。
 ガイドさんから「日本の僧侶も一日一回正午のみの食事か?」と聞かれました。修行中だと一日二回だった気もしますが、修行が終わられた方だと違った気もします。結局曖昧な答えしか出来ませんでした。
 どこに質問すればよいか分からずこのサイトを見つけました。お手数ですが、お答え頂けないでしょうか? 質問してくれたガイドさんに教えてあげたいと思います。
〈回答 200〉 日本の僧侶の食事は、修行を終えたら基本的には制限はありません。(一部の僧侶の方は、食事回数の制限や菜食を守られていると思いますが…)
では修行中はどうか。浄土宗の場合は三食です。但し、朝食は「小食(しょうじき)」といい、補佐的なもの。昼食(中食)がメインです。夕食は「薬石」、健康を保つためのものであり、正式の食事ではない、という位置づけです。

一日一食ではなく三食? これだけですとガイドさんがびっくりされると思いますので、付け加えます。 
カンボジアは上座部仏教であり、日本の仏教とは大いに異なっております。私は上座部仏教の経験がございませんので、大ざっぱなことしか申し上げられませんが、上座部仏教では、
「厳格な戒律に則った生活、修行を続ける僧侶と、彼らに布施をすることによって徳を積む信者」
という構図だと思います。
これに対して日本では、
「世俗に近い生活を続けながら、檀信徒の葬儀や法事に関わり、日本的な宗教世界を支える僧侶と、わが家の葬儀や先祖供養を勤めてくれることに対する御礼の意味をこめて彼らに布施を捧げる檀信徒」
という構図、と言えるのではないでしょうか。戒律に厳密でないという点でいえば、日本では明治時代以降、肉食妻帯も公のものとなりました。別の職業をもちながら僧侶をしている人も大勢います。

 とても同じ仏教とは思えない、という見方もできましょうが、宗教意識の根本、すなわち「釈尊という偉大なお方を敬い礼拝し、かの方の亡き後も、われわれはその導き、あるいは救いを頂くことができる」というところは共通です。
 そして釈尊が残された多くのみ教えの内、どの教えを重視して生活にいかしてゆくか、というところからグループが分かれ、時代を経て、さらに多くの宗派に分かれます。
 私自身は、戒律を守る僧侶だけが高い境地にすすめる、というのではなく、僧侶も一般の人も平等に救われる日本仏教(特に浄土教)に関心を持ってこの世界に入りました。


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質問 199
 ご教示ください。
 お釈迦さまは、人間の死後について「無記」とされている、と聞いたことがあります。『阿弥陀経』などのサンスクリット語原典はまだ見つかっていないとも聞いています。
 私は54歳です。拙い人生ですが毎日お念仏を称え、「祈り」と、阿弥陀さまに「お任せ」することで救われています。
 私は自分の「無明」を自覚し、み仏の「お導き」を頂いていることを十二分に感じています。また自然や命へのみ仏の働きも自覚しています。しかし、「深信」は修行不足でまだまだ授かっていません。西洋の思想に基づいた教育を受けてきたことが原因だと思います。
 そこでご質問します。
 お釈迦さまが無記とした「死後」について、阿弥陀さまの存在を実感するにはどのように考えてゆけばよいでしょうか。
 またお念仏するときに、私は私なりに、念仏とともに頭上から光明が入り、頭・首・胸・腹と阿弥陀さまの「光明」が降りてくるイメージで称えています。その流れに集中することで、雑念が少しずつ生じなくなりました。
 このようなことでよろしいでしょうか。
 正式なお念仏の称え方があればご教示ください。
〈回答 199〉「お念仏するときに、私は私なりに、念仏とともに頭上から光明が入り、頭・首・胸・腹と阿弥陀さまの「光明」が降りてくるイメージで称えています。」
 たいへん結構です。口称念仏を助けるために、他力的なイメージを使って頂いても構いません。
 浄土宗では正式な「イメージ」の指導はありません。『観無量寿経』に説かれる瞑想法も具体的には行ないませんが、たとえ自己流であってもお念仏を助ける行として推奨されると思います。
 当庵での念仏会でもときどきイメージを導いております。
 第一の、
「お釈迦さまが無記とした『死後』について、阿弥陀さまの存在を実感するにはどのように考えてゆけばよいでしょうか。」
 というご質問は、現代においては極めて重要な問いだと思います。私の考えを整理して、後日コラム欄にてお答えいたしたく存じます。
 今しばらくお待ち下さい。

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質問 198
 23歳、真宗大谷派の一門徒です。
 私は自身を仏教徒であると自覚する一方、全ての宗教にあるような神さまや仏さまといった存在を、具体的なお姿として信じる事ができません。ですから、仏さまに救いを求める事について、どうしても懐疑的に考えてしまうのです。
 仏前に座して、私の目には仏さまは「自身を省みるための鏡」のように映ります。
 それは救いを求める対象ではなく、人としての生き方を問い続ける場所であると私は考えるのです。
 人が本当の救いを得るためには、仏さまに身を委ね導いて頂く事ではなく、自分の力で自分の罪を許す事が必要なのだと思っています。
 同時に、このような考え方は不信心なのではないかと不安に思う事もあります。
 今のような姿勢で、私は仏さまに向かい掌を合わせても良いのでしょうか?
〈回答 198〉 初めまして。林海庵住職の笠原です。
 自分をはるかに超えた偉大な存在(現象)を感じ、無に等しいこの自分が掌を合わせる、というのが仏前での(心の)ありようです。
 であるならば、理屈ではなく自然に掌が合わさり、深く頭が垂れてくる、という状態が本物、ということになりましょうが、実際にはなかなかそうはいきません。

「仏前に座して、私の目には仏様は自身を省みる為の鏡のように映ります。
 それは救いを求める対象ではなく、人としての生き方を問い続ける場所であると私は考えるのです。
 人が本当の救いを得る為には、仏様に身を委ね導いて頂く事では無く、自分の力で自分の罪を許す事が必要なのだと思っています。」

 結構だと思います。
 ただ、あまり「仏前ではこうあるべき」と態度を固定しないで、「ああ、今日は仏さまを前にして、こんな感じがするなあ。」くらいのゆるい姿勢で宜しいのではないでしょうか。日々の感覚に気づきを向ける、というのも立派な修行です。

「今のような姿勢で、私は仏様に向かい掌を合わせても良いのでしょうか。」

まったく結構です。
まずは日々、仏さまと向き合う時間を作って頂きたいと思います。

ひとこと
以下のようなご返事を頂きました。
 確かに笠原様の仰る通り、私は仏前における自身の姿勢について、少なからず固執している部分があったかも知れません。
 信仰とは、私のような人が考えるのよりも、もっと自由であるべきなのでしょうね。つくづく己の未熟さを感じます。
 親鸞上人も、亡くなるその瞬間まで「私はなんと未熟者なのだろう」と思い続けていたと聞きます。自分を凡夫であると真に受け入れた上で、物事の理を思い続ける事が大事なのかな、と自分なりのヒントを得た気がします。
 本当にありがとうございました。

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質問 197
 私は、大変怒りっぽいです。しかも、自分に余裕がないのか、ちょっとしたことでも表情に出て、物にあたったりします。
 毎日、お念仏をしていますが(といっても自己流ですが)、心は平安になっていません。どうすれば、怒りっぽい性格を直すことができるでしょうか?
〈回答 197〉「怒りの及ぼす害は、猛火よりも激しい」と言われます。だが、その害が著しいことは分かっていても、怒りをセーブすることは難しい─それが人間です。
「あの人が怒っているのを見たことがない」というような方も中にはおられますが、自分も頑張ればそのような人になれる、とはゆめゆめ思わない方が良いでしょう。
「自分は、怒りに振り回される、余裕のない、弱い人間である。」
 これを認めることが第一歩です。

 次に、怒りを断ち切るのは無理として、それが及ぼす害を最小限に留めることを考えます。
 まず、怒りが湧いてくる状況をよく振り返ります。どういうパターンで怒りが湧いてくるのか。それをよく観察する必要があります。例えば、
 自分のこれまでの努力が否定された、と思う。
 自分が侮辱された、と思う。相応に尊重されていない、と思う。
 そんな非常識なやり方は許せない、と思う…etc.
 もしそこに、「自分が傷つけられた」という気持ちがあるようであれば、その場所に留まります。そして、「そういう状況であれば、傷ついて当然だよ」「しばらく引きこもって傷を治したら…」というふうに、「傷ついた」部分にやさしい態度で接してあげましょう。
 意外に多いのが、「他者の怒りを、必要もないのに引き受けてしまう」というパターンです。マスコミの報道などを無防備に真に受けて、カッカと怒り出す人もいます。
 ですから、
  • 怒りが湧いてくる状況をよく振り返り、なるべくその状況につかまらないように工夫する。
  • 怒りが湧いてきたら、自分に対して優しい気持ちでなだめる。あるいは、害にならない形で動物的に発散する。(柔らかいものを叩く、蹴る、唸る、車の中で窓を閉めて大声で叫ぶ…など)
ということが役に立つでしょう。

「怒りは良くない」と頭から押さえつけるよりも、もう少し「怒り」と友達になり、うまくやって行く方が現実的です。彼にも相応の言い分があるはずですから。(言い分をちゃんと聞いてあげれば、彼も気が済んで立ち去ってゆくかもしれません)

 お念仏は、心が平安になろうがなるまいが、続けて下さい。そして、なるべく仏典や法語を読んで、崇高なる世界になじんで下さい。

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質問 196
 実家の両親は、熱心な仏教信者です。般若心経を暗記して毎日称えたり、巡礼のお参りも欠かしません。
 しかし、私が思う仏教の本当の「教え」は、殆ど理解していないと思います。『色即是空』なんて意味も知らないです。近所の人の悪口を言ったりして、幸せに心豊かに生きているようには思えません。
 なぜ、日本の仏教はこのように、表面的な教えになってしまったのでしょうか? 形も重要でしょうが、最も重要なのは、人間の生き方を教える宗教ではないでしょうか?
〈回答 196〉 仏教の世俗化・形骸化ということは、確かに嘆かわしいことです。
    清冽なる精神
    覚りへの渇仰
    熱烈な帰依心
…に出会えることはめったにありません。ときおり書物の中に、先達の、大地に根ざしたような言葉を見出して、ハッとさせられます。
(もっとも、こうした仏教精神は他人に求めるものではなく、私自身に求めるべきなのでしょう。)

 しかし同時に、粛々たる日々の営みの中に、キラキラしたものが光っているのも事実です。あなたのお考えとは違うかも知れませんが、私自身はお経の解説を聞いたり、それを自分で説明したりするよりも、直接自分でお経を称える方が有り難く感じます。掃除した本堂で、佳い香りの香を焚き、ご本尊様に礼拝して…大きく喉を開いて、お腹の底から声を出す…素晴らしい体験です。(この点ではご両親にも親近感を感じます)

 ご両親はご両親なりの仏教への関わり方があるのでしょう。あなたはあなたで、仏教の「表面的」でない部分をも学び、充分に吸収し、仏教そのものを生きて下さい。

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質問 195
 跡継ぎのいないお寺の娘と結婚しています。
 自分は会社員で、結婚当初から「将来跡継ぎとしてお寺に入れないか」と言われていました。あまり真剣に考えることなく10年以上経ちましたが、最近いろいろ考え、気持ちが傾いてきました。単に跡を継ぐということだけでなく、信仰の気持ちもあり、真剣に考えています。ただしいろいろ障害があり、決断できない状態です。
 ひとつは会社員との両立が不可能(全国に転勤の可能性があり今も義父母とは別居中)であるため、今の会社を退職しなければなりません。私は現在40代です、退職すれば退職金は出ますが再就職も困難ですし、万一再就職できても修行との両立が困難ではないかと思います。
 住職である義父に相談したくても、なにをどう質問してよいか分かりませんし、相談しても「大丈夫だ」と言われそうで、ましてや決断していないのに期待を持たせることになりかねないと思います。今までサラリーマンを20年もしてきた私がつとまるか、またこの年齢で将来きちんとお寺を守っていけるかどうか不安です。
 とりとめもない相談ですがよろしければ助言お願いします。
〈回答 195〉 まず年齢の問題ですが、20年間サラリーマンとしてやってこられた方であれば、大丈夫だと思います。修行に関しても、50代半ばでこの道を志し、立派に活躍されている方が何人もおられます。社会人としてのご経験が、必ず生きてくるでしょう。
 それよりも「全く未経験の分野に跳び込む」ことへの不安が大きいのではないでしょうか。しかし、僧侶もあなたと同じ人間であって、途方もない修行をこなしていたり、驚くような能力をもっているわけではありません。またお寺に入られれば、初めのうちは戸惑うことも多いでしょうが、すぐに馴れるでしょう。
 細かいご事情は分かりませんが、長い目で見て、この世を去るときに後悔のないような選択をして下さい。

 それともう一つ。頭の中であれこれ迷うよりも、一度(奥様のご実家の)お寺の本堂に心を落ち着けて坐り、ご本尊さまに尋ねてみることです。まずはそれが出発点です。


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質問 194
 浄土宗の信徒です。
 2年前に父が亡くなりました。毎日家族で念仏を称えています。
 本を購入し、法然上人のみ教えを勉強しているうちに、親鸞聖人の『歎異抄』を読みました。その一節に、「親鸞は父母の孝養のために念仏したことはない…」とあり、いま自分が行っている念仏に、ふと疑問がわきました。
 浄土門では、念仏はまず、自分の往生のために行うものと知りました。また、「回向」に二種あるとも知りました。浄土宗では、私のような「故人への念仏」は亡き人への「回向」となるのでしょうか?
 父は生前、念仏を称えるような人ではなく、その分、私が念仏しようとの思いで唱えているのですが…。
〈回答 194〉『歎異抄』にある親鸞聖人のお考えとは、次のようなものです。

「亡き人への追善供養の念仏は、自力による善行であって、われわれのような凡夫無力の者がなそうとすべきことではない。本当に父母のために孝行しようとするならば、まず自分自身が浄土へ往生し、覚りをひらいて他者を救う力を身につけてから後のことである。」

 一方、法然上人のお考えは、自分自身の浄土往生を第一とする点では同じですが、追善回向に関しては、『無量寿経』を引用しつつ肯定的なこともおっしゃっています。

「亡き人のために念仏を回向し候えば、阿弥陀仏、光を放ちて、地獄・餓鬼・畜生を照らし給い候えば、この三悪道に沈みて苦を受くる者、その苦しみやすまりて、命終わりて後、解脱すべきにて候。」

 私自身、僧侶になり、寺に勤務し始めたときに次のような疑問を持ちました。
「法然上人が命がけで説かれたのは、往生浄土のためのお念仏のはず。だが、一般の浄土宗寺院で日々称えられているお念仏には、その心は薄いのではないか。皆で往生を願うというよりも、自分のことは差し置いた先祖供養のための念仏回向がほとんどであるように思われる。」

 今は私も、多少考えが変わりました。多くの方は、家族との死別を契機としてお念仏に触れることになります。そうであれば、ご先祖に対し、仏道を少しでも前へ進まれますように、と願い、念仏回向をお勤めすることは、自然な心情に適っている。このように思うようになりました。また、浄土信仰に馴染みの薄い方にとっては、初めは「自分の往生を叶えて下さる阿弥陀仏」というよりも、「阿弥陀仏=ご先祖を護り導いて下さる仏さま」という理解の方が具体性があって、手も合わせやすいのです。

 檀信徒とのお付き合いの中でこのように観察するようになってからは、「自分の往生のための念仏か、先祖供養のための念仏か」という対立的な見方ではなく、「ご先祖も自分も、同じ阿弥陀さまのみ光に包まれている。どうか私たちをみな共にお導き下さいますように」の心で、という風にお念仏を勧めるようになりました。

 ご質問は、念仏信仰の根本に関わる大事な内容なのですが、こうしたテーマを一体どう考えたら良いのか─迷ってはまた法然上人のお言葉を読み返してみる─実を申しますと、私ども僧侶もその繰り返しなのです。


ご質問の
方から…
お返事を頂きました。
ご丁寧な回答を拝読しました。本当に有難うございました。
自分も亡父もご先祖様も・・・。そして私の家族も、皆一緒に考えて、阿弥陀様に
「日々お守り頂いて有難うございます。よろしく皆をお導き下さい」
という心を持って念仏に励みます。
何だかスッとしました。また今後ともよろしくお願いいたします。有難うございました。

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質問 193
 義父が亡くなり、浄土宗の僧侶に拝んで頂きました。ところが家には、義父の両親から受け継いだ立正佼成会という宗教の仏壇があり、ご本尊も浄土宗の阿弥陀如来様ではなく、釈迦牟尼世尊を祀っています。葬儀の僧侶は「南無阿弥陀仏」のお経でしたが、義母は毎日、立正佼成会の「南無妙法蓮華経」を唱えています。しかも弘法大師のお寺にも熱心にお参りに行ったり、イタコに行ったり。
 理解に苦しむのですが、どういうものでしょうか?
〈回答 193〉 お義母さまの信仰心に立ち入ることはできませんが、個人的な信仰と、ご家族で先祖を祀ってゆくことは、分けて考えた方がいいように思います。やがては浄土宗の仏壇を祀り、浄土宗によるご供養に統一してゆくことが望ましいでしょう。
 せっかくのお義父さまの追善供養であっても、菩提寺さまが他宗の仏壇の前で、首をかしげながらお経を読むようであれば、決して良い法要になりません。心から読経して頂くためには、最低限の整いが必要です。
 折りをみてご家族、菩提寺さまとよくご相談なさって下さい。
 それともう一つ。せっかく浄土宗にご縁があられるのですから、「念仏だけで良い」と言われる法然上人の懐の深いみ教えを、どうか学んで頂きたいと思います。

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質問 192
「コラム倉庫」を興味深く読ませていただいています。
 2005年3月のコラムの中に次のように書かれていました。
「『自分』という意識が生来のものではなく、借り集めの幻想であると見抜くことによって、『自分』への執着から離れ、苦を乗り越えるわけです。」
 私もこのことがやっとわかりかける年になってきました。というか正直に申し上げると、3年ほどやみくもに坐禅を続けてきてやっと「借り集めの幻想」が見えてきた、というか「自分」という概念が崩れはじめてきた、と言ったほうがいいでしょう。
 浄土門の方々は、「借り集めの幻想」をどのようにして知るのでしょうか?
 私が自分のことを考えるとき、もし坐禅に出会っていなかったらこのことは永遠に理解できなかっただろうと思います。禅宗のお坊様の中にも、自分が無になるまで念仏を唱え続けるとおっしゃり、坐禅と念仏両方を行じている方もいるようです。
〈回答 192〉 実を申しますと、浄土の教え、また行の中では、「無我」についてつきつめてゆく、というプロセスは強調されません。私がコラムに載せましたのは、広く仏教一般の立場から自死について書いたものです。

 では、浄土門ではどのように自分自身と取り組むのでしょうか。浄土門における「自分」観は、「凡夫」という言葉で表現されています。
「自分自身が大した者でも何でもなく、ただの凡夫に過ぎなかった」「何と救いがたい、愚かな自分であることか」——それまでの自我の概念が完全に崩れたときに見えてくる、救いの道が浄土門であると言えるでしょう。
 では浄土門に入るためには、劇的な「自我崩壊」の経験が前提になるのか、といいますと、そういうことでもありません。念仏申すうちに信心(凡夫の自覚を含みます)が育ってくる、というのが、浄土門=広き門である所以なのです。

 凡夫であると自覚することは、禅で重んじる「初心」に通ずるかもしれません。が、あえて申し述べさせて頂きますと、わが身、わが心の程度では涅槃の境地=輪廻転生からの解脱は絶対に不可能だ、と気づく境地が、「凡夫」という言葉の背景にあります。自分を解脱から遠ざける習慣的思考、習慣的行動、エゴ中心の傾向はあまりにも、あまりにも根深く、自力をもってそれを断ち切るのはほとんど不可能である、というわけです。これは、禅の道を歩まれる方にもご理解頂けるのではないでしょうか。
 不遜な言い方になるかも知れませんが、私には、禅から念仏に進まれる方のご心境がよく分かるような気がいたします。


    (参考)●ご質問で引用されている2005年3月のコラム「いわゆる『自殺』について」

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質問 191
 先日母が亡くなり、事情があって位牌を二つ作りました。お寺さんに魂入れをして頂いたのですが、母の魂は二つに分かれて位牌に入っているのでしょうか?
〈回答 191〉 最近、当庵の信徒さんからも同様のご質問を受けました。
 魂が二つに分かれてお位牌に入っているわけではありません。月の光が、多くの池の水それぞれに映るように、お母さまの御霊は減ることも(増えることも)なく、それぞれのお位牌に宿っています。ゆえに、ご心配はご無用です。
 位牌を二つ作るときに、むしろ気をつけなければならないのは、以下のようなことです。
  • 5年先、10年先…のことを考えたとき、それぞれのお位牌をちゃんとお守りしてゆけるのか。
  • お祀りする場所を2カ所にすることによって、ご家族ご親戚のお付き合いが疎遠になってしまわないか。
 いずれも、仏さまの望まれることではありません。身内を亡くすと、(一般に)さまざまな強い感情が起こってきます。慎重さ、冷静さが求められるところだと思います。
 少し話が逸れましたが、そういうわけで、お母さまの魂については全くご心配に及びません。

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質問 190
 浄土宗のお数珠の使い方について教えてください。
 合掌した親指にかける際、大きな珠の位置がどちらの方向になるようにとか、二連のどちらが(たとえば房がつながっている方が)上になるようにとかの決まりはあるのでしょうか?
〈回答 190〉 浄土宗では、主として「日課数珠」という二連の数珠を使います。(他の数珠も使います。)
『浄土宗法要集』という僧侶向けの宗訂のテキストによれば、
 ●「合掌のときは両親指にかける、記子(弟子玉ともいいます─房糸の所)を手前に垂らす。」
 ●「合掌以外のときは、左の腕首にかける。」
とあります。ここには、合掌したときの母珠(大きな珠)の位置については書かれていません。
 私が法式の先生から教わったところでは、「合掌のときは両母珠をそろえて親指にかける」、すなわち、二つの大きな珠を、両親指と両人差し指の間に軽く挟み込むようにかける、ということになります。あまり神経質になることはありませんが、気がついたときにその位置に整えれば良いでしょう。
 尚、合掌の時に二連のどちらかが上、下、という決まりはありません。
(お念仏を称えながら数珠を繰るときは、房糸のついた方が下になるはずです。これが本来の数珠の使い方なのですが、ここでは立ち入りません。)

追記:お数珠については、Q&A 17Q&A 179にも関連の記載があります。興味のある方はご覧下さい)

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質問 189
 念仏の称えかたに「十念」がありますが、なぜ十回なのですか?
〈回答 189〉 お釈迦さまの説かれた浄土の教えによりますと、その昔、阿弥陀仏が仏となられる以前、法蔵菩薩としての修行時代に、四十八の誓いを建てられました。その十八番目が「念仏往生の願」といわれるものです。

「もしわたし(法蔵菩薩)が仏となったとき、あらゆる世界の衆生が、真実の心をもってわが浄土に往生したいと願い、十念したとしても、もし往生がかなわなければ、わたしは仏とならない…」(『無量寿経』)

 法蔵菩薩はこの誓いを成就され、阿弥陀仏となられた─つまり、念仏すれば必ず浄土往生がかなう、これが浄土教の根幹です。
 中国の善導大師(613−681)はこの「十念」を「十声」、つまり十回「南無阿弥陀仏」と称えること、と受け取られました。法然上人も善導大師のお考えをそのまま引き継がれます。

「念仏往生と申すことは、弥陀の本願に、わが名号をとなえんもの、わが国に生まれずといわば、正覚を取らじと誓いて、すでに正覚をなり給えるがゆえに、この名号をとなうるものは、必ず往生することを得。」(法然上人)

 こうしたわけで、浄土宗ではお念仏=南無阿弥陀仏とお称えすることを最も大切にしております。その念仏行の基本となるのが、「十念」です。

H20.8.17 追記:お念仏の称え方については、関連の項目がQ&A 11Q&A 104にもあります。興味のある方はこれらもご覧下さい)


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質問 188
 歴史上の釈尊は念仏の教えは説かなかったと聞きましたが、どういうことでしょうか?
〈回答 188〉「大乗非仏説(だいじょうひぶっせつ)」のことを言われているのでしょう。これは、大乗仏教の経典は、釈尊ご本人の口から説かれた金口(こんく)の教えではなく、後世の大乗仏教徒が創作したものである、という説です。この議論自体は古くからあり、仏教に批判的な人々や、あるいは仏教徒であっても大乗仏教に批判的な人がしばしばこの立場をとります。
 私は、こう考えています。
 仏教には多くの教えがあります。それは山頂に至る道にたとえられます。いずれの道を通っても、登り続けてゆけばやがては山頂(覚り)にいたります。険しい道、なだらかな道、広い道、狭い道、日向を通る道、また木陰にかくれたところを通っている道、古くからある道、そして比較的新しい道…。
 では、ご生前の釈尊がはっきりと示された道はどれか、といえば、それを確認するすべはありません。当時は、そして数百年経っても、教えは口承で語り継がれていました。釈尊ご自身の著作、というものはないのです。初期の経典が釈尊の生のお言葉に近いであろう、という推測しかできません。
「わたしは、過去の覚れる人々のたどった道を発見したのである。」
 釈尊のことばです。これは「八正道」(ごく初期の、間違いなく釈尊の口から説かれたであろう教え)について語られたものですが、それすら、ご自身が切り開いた道とはおっしゃらずに、過去の古道を発見したのだ、と言われているのです。

 さて、「山頂へ至る道」のたとえで申しますと、大乗仏教の教えは比較的新しい道である、とはいえましょう。浄土経典や般若心経、法華経などは皆、この分類に属します。「新しい道」といいましても、それはちゃんと頂上へと続くものです。すでに無数の人々がこれらの道を歩んできたので、堅固に踏みならされた、広い道になっています。
 私たちは今、山の麓にいて、暗闇の中を右往左往しています。
 迷いの中にある私たちに、釈尊はこう示されます。
「ここに山頂がある。ここまでやっておいで」
 肝心な点は、各々の道に評論を加えることではなく、山頂にたどり着くことにあります。そのためには、わたしたちは自分に合った道を選び、自らの脚で、退くことなく歩み続けなければなりません。
「大乗仏教は釈迦金口の教えにあらず」としてそれを切り捨てる事は(少なくとも個人としては)簡単なことですが、それによって残るのは、古く、狭く険しい、ごくわずかの人しか歩めない道だけでありましょう。

 法然上人は、ご自身可能な限り多くの道を歩まれました。その求道の結論が、お念仏の道です。たいそう広くなだらかな道で、だれもが共に歩むことができ、頂上へたどり着くことが約束されている道です。
 私は、法然上人のお言葉を是ととります。
 さて、あなたは如何でしょうか。

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質問 187
 「右繞三匝(うにょうさんぞう)」についてお尋ねします。
 インターネットなどでは「仏さまの周りを右回りに3度回ること」といった解説を見かけます。この場合の右回りとは、時計回りのことでしょうか? 仏さまを見ながら自分が右に進むと、反時計回りになるため、本来左回りが正しいようにも思いますが。
 先日、鎌倉の大仏さまにお参りした折りにも、御僧侶が「南無阿弥陀仏」や「四誓偈」を唱えながら大仏さまの周りを回っておられるのをお見かけいたしましたが、反時計回りであったように思います。

 また、浄土宗でも、阿弥陀さまに対して、「右繞三匝」ということを行うのでしょうか?
〈回答 187〉 「右繞(右遶)三匝」は、インドに由来する礼拝の方法です。礼拝の対象に右肩(右を浄、左を不浄とします)を向けて、三周回ります。つまり、上から見たときに右回り(時計回り)になるように歩みます。
 鎌倉の大仏さまについては確言できませんが、おそらくこの回り方だと思います。

 浄土宗でも、法要儀式中に行うことがあります。たとえば、灌仏会(花まつり)の差定(さじょう─式次第のこと)には、「花御堂を右繞三匝し、」と記されています。日常的には(朝夕の勤行や年回法要では)行いません。
(ご本尊さまのうしろ側が、通り抜けられる構造になっていないと行うことができません。ちなみに当庵の本堂もそのような構造にはなっておりません。)

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質問 186
 お念仏は、お経のように節をつけて称えたほうがいいのでしょうか?
 また、お念仏を朝晩のほかに、仕事などで高まった気分を落ち着かせたいときや、お風呂に入っているときにも称えていますが、これでいいのでしょうか?
〈回答 186〉 浄土宗では、「所求(しょぐ)」「所帰(しょき)」「去行(こぎょう)」といいまして、お念仏を称えることは三番目の「去行」という修行の部分です。いつでもどこでも、誰にでもできる修行がお念仏です。
 「所求」とは求める所、つまり目的です。これは浄土往生。
 「所帰」とは帰する所、すわわち帰依する対象でして、これは阿弥陀如来です。

 仏教は覚りをめざす道です。でも実際のところは、この人生わずか数十年の間にお釈迦さまと同じ覚りを得ることは極めて難しい。しかし浄土往生であれば、お念仏のおかげで必ず叶う。だから浄土往生を目指して(所求)、阿弥陀如来に帰依し(所帰)、お念仏に励みましょう(去行)、というのが浄土宗の教えです。
 これらを踏まえた上でお念仏を称えるのが正しいわけですが、なかには、
「覚りをめざすと言っても、その『覚り』が何なのか、正直よく分かりません」
「『浄土往生』といっても、現実感がありません」
 という方もおられるでしょう。そういう方であっても、多少ともお念仏にご縁をもたれたならば、「仏さま、私をお導き下さい」という心をもってお念仏をお称え下さい。難しい学問は要りません。

 さて、ご質問について、
「お念仏は節をつけて称えたほうがいいのでしょうか」
 どちらでも構いません。続けることが一番大切です。

「朝晩のほかに、仕事などで高まった気分を落ち着かせたいときや、お風呂に入っているときにも称えていますが、これでいいのでしょうか。」
 たいへん結構なことです。法然上人は
「阿弥陀仏(あみだぶ)と 十声(とこえ)となえてまどろまん
 ながきねぶり(眠り)に なりもこそすれ」
と歌っておられます。お風呂だけでなく、お布団の中でも称えて下さい。
 どうぞ、お念仏とのご縁を大切にされますように。

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質問 185
 墓参時に、お経を上げて頂いておりました。先代の住職さんは、お経の最後に、墓石の横に刻んである戒名を見て、「○○の為」とか唱えてくれましたが、次代の息子は修行不足?かそれを省略し、読経時間もごくわずかです。
 以後は、私が自分で『阿弥陀経』を上げています。
〈回答 185〉『阿弥陀経』をご自分でお上げになると知り、感心いたしました。何よりのご先祖供養です。

 さて、現住職に「前のご住職は、このようにして下さいました」とおっしゃってみるのも一法です。

 先年遷化した私の師僧は、よく
「寺の住職は、檀家に育てられるものだ」
 と言っておりました。これは本当のことです。
 檀家さんの立場からすれば、
「指導するのは我々ではなく、住職の方だろう」
 ということになるかも知れません。ですが実際には、檀家さんの反応からさまざまなことを学び、何らかの形で檀家さんにお返しする、という側面があります。これは教師と学生の関係や、医師と患者の関係などにも広く通ずることでしょう。

「そこまで面倒を見ていられない」と思われるかもしれませんが、それが結果的に他の檀家さんやご先祖のためにつながってゆきます。ご質問者さまの長年のご経験から「若い住職を育てる」という観点をおもち頂ければ、と思います。

 少々余計なことながら、私見を書かせて頂きました。

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質問 184
 私は人間関係が苦手です。世俗的なものごとにもあまり関心がもてず、いっそのこと仏の道に入った方が良いのではないかと思うのですが。
〈回答 184〉 人間関係は確かに難しいものです。他人との関係が苦手で仏道に入りたい——もしそうであれば、教えの中から多くの学びを見いだすことができるでしょう。
 私の見るところでは、仏教の大部分は人間関係や世俗的なものごとについて理解を深める教えです。
 苦の原因は我執にあり——我執も人間関係から生まれます。不殺生や不妄語、布施といった教えも、人や自分を傷つけない、嘘をつかない、他者に対して寛大な態度をもつ、ということ。いずれも人間関係についての教えです。
 しかし、「人間関係は苦であるからこれを避けよ」ということではありません。大乗仏教では「上求菩提 下化衆生」といって、自ら覚りを求めつつも、人々とともに生きてゆく道を進みます。人間関係に悩むことも大事な修行のひとつなのです。
 仏教に関心を持って下さるのは嬉しい事ですが、このことも是非心に留めておいて下さい。

H19.8.1 追記:この質問に関連して、「僧侶になりたい、あるいは僧侶になるにはどうすればよいか、とお考えの方へ」というページを新設しました。こちらもご覧下さい)

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質問 183
 4月(平成19年)のコラムを読みました。
「天上天下 唯我独尊」は、辞書などをみると“宇宙空間に自分より尊いものはない”という風にしか書かれておらず、お釈迦さまが本当に言いたかったことがどういうことなのか、ずっと分りませんでした。
 住職様はこの言葉をどのようにご理解されていますか?
〈回答 183〉 この偈文に限らず、「我」「自」という言葉が出てまいりますと、つい立ち止まってしまいます。言うまでもなく、「諸法無我の教えとどう関係するのだろう」という連想がはたらくからです。
 ここで混乱を避けるためには、「唯我」を「唯仏」と読み替えてみたら宜しいと思います。
「天上天下 唯仏独尊」
 これなら分かりやすいのではないでしょうか。
「世間虚仮 唯仏是真」とも通じる観点です。

 お釈迦さまにとっての「我=仏」とは、単なる宗教体験の個人的主体ではなく、自我(=有限の時空)の殻を突き破ってあらゆる方向に広がる「仏陀意識」現象です。この仏陀意識現象より尊い事物は何ひとつ存在しない。
 それが「唯我(仏)独尊」という表現となって迸り出たのではないでしょうか。
 お釈迦さま金口のお言葉ではないにしても、誠に深い境地を感じます。
(重複しますが、Q & A 48でも答えていますのでご参照下さい。)

ご質問の
方から…
すぐにご返事を頂きました。
 「さっそくのご返事ありがとうございました。やっと、もやもやが晴れたような心地です。」
 ありがとうございます。

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質問 182
 仏具屋さんで、脇侍の菩薩さまの掛け軸を買いました。お祀りする場所ですが、中央の阿弥陀さまの、向かって右が観音菩薩さま、向かって左が勢至菩薩さま、で宜しいのでしょうか?
〈回答 182〉 それで結構です。
 仏具屋さんでも、ときどき間違えている場合があります。
「左が観音菩薩」という場合は、中央のご本尊さまから見た左のことですので、注意が必要です。
 釈迦三尊の場合は、一般的には中央お釈迦さまに向かって右が文殊菩薩、向かって左が普賢菩薩です。
 また、脇侍の菩薩さまを新たにお祀りする時も、ご本尊の場合と同じようにお寺さんに開眼供養のお経を上げて頂きましょう。

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質問 181
 自殺・自死について、御宗・貴庵では、どのようなスタンスをお持ちでしょうか?
 近松の心中物などで垣間見えるように、弱い立場の人にとっては、浄土の蓮の上へ赴くことを願って、自ら死を選ぶ行為もギリギリの選択肢の一つ。そういう人たちにとっては、阿弥陀も救済の路を空けている——と本人たちが思い込んでいるような——印象を受けます。
 自殺・自死を絶対悪とはせず——もちろん、生き抜くことを勧めながら——救済の路を説く姿勢って、弱い立場の人たちには、最も説得力のあるものだと思います。
 現代においても、現代においてこそ。
〈回答 181〉 豊かな感受性と洞察力をお持ちの方と拝察いたします。
 私もご意見に同感です。
「自殺・自死を絶対悪とはせず——もちろん、生き抜くことを勧めながら——救済の路を説く姿勢」
 それこそ私が大切にしたいと思っているものです。
 阿弥陀如来は「摂取不捨」——たとえ自殺、自死であっても阿弥陀さまの救いからもれることは決してない。だが、もしあなたが今、まさに自ら命を縮めようとされているなら、ちょっと待って欲しい、本当にそれしか選択肢がないのか、ひと息入れて、私と一緒にもう一度状況に向き合ってみませんか——それが私の取りたいと願うスタンスです。

 私自身が「自殺・自死は絶対悪」と決めつけてしまったら、それは目の前の「苦しくて死にたくなるほどの気持ち」から目をそらし、それをさらに追いつめてしまうことになるでしょう。さらにもう一つ重要なこと——すでに自ら命を縮められた方のご遺族との接点も持てなくなるでしょう。
 もちろん「自殺・自死」を肯定するわけではありません。が、その地点まで追いつめられてしまった一連の複雑なプロセスに対して、離れた距離から「肯定」「否定」「善」「悪」とレッテルを貼りつけるような態度は取りたくありません。

 人の生命や心の動きについて私が理解していることは、ほんのちっぽけな欠片に過ぎません。広大な未知の領域が内外、四方八方に広がっています。何が善いとか悪いとか、一般論で一括りにすることはあまり意味のないこと——自分自身や目の前の人のせっぱつまった状況に直面したとき、私が大切にし、また頼りに出来るのは何かといえば、「摂取不捨」——仏の言葉、先達の助言、それに瞬間瞬間の自身の内的な感覚だけです。


    (参考)自殺・自死については、過去に下記のリンク先でも言及しておりますので、よろしかったらご覧下さい。
      ●>Q & A 22「自死された方の往生について、どう考えますか?」
      ●コラム「いわゆる『自殺』について」

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