仏教・仏事 Q & A [全 文]

(最終更新日: 2013年1月10日)


質問 200
 年末年始、カンボジアのアンコールワットに行ってきました。
 日本語勉強中のカンボジア人ガイドさんから聞いたところによると、カンボジアの僧侶の食事は一日一回正午のみ(水分はそれ以外の時の摂っても良い)そうです。
 ガイドさんから「日本の僧侶も一日一回正午のみの食事か?」と聞かれました。修行中だと一日二回だった気もしますが、修行が終わられた方だと違った気もします。結局曖昧な答えしか出来ませんでした。
 どこに質問すればよいか分からずこのサイトを見つけました。お手数ですが、お答え頂けないでしょうか? 質問してくれたガイドさんに教えてあげたいと思います。
〈回答 200〉 日本の僧侶の食事は、修行を終えたら基本的には制限はありません。(一部の僧侶の方は、食事回数の制限や菜食を守られていると思いますが…)
では修行中はどうか。浄土宗の場合は三食です。但し、朝食は「小食(しょうじき)」といい、補佐的なもの。昼食(中食)がメインです。夕食は「薬石」、健康を保つためのものであり、正式の食事ではない、という位置づけです。

一日一食ではなく三食? これだけですとガイドさんがびっくりされると思いますので、付け加えます。 
カンボジアは上座部仏教であり、日本の仏教とは大いに異なっております。私は上座部仏教の経験がございませんので、大ざっぱなことしか申し上げられませんが、上座部仏教では、
「厳格な戒律に則った生活、修行を続ける僧侶と、彼らに布施をすることによって徳を積む信者」
という構図だと思います。
これに対して日本では、
「世俗に近い生活を続けながら、檀信徒の葬儀や法事に関わり、日本的な宗教世界を支える僧侶と、わが家の葬儀や先祖供養を勤めてくれることに対する御礼の意味をこめて彼らに布施を捧げる檀信徒」
という構図、と言えるのではないでしょうか。戒律に厳密でないという点でいえば、日本では明治時代以降、肉食妻帯も公のものとなりました。別の職業をもちながら僧侶をしている人も大勢います。

 とても同じ仏教とは思えない、という見方もできましょうが、宗教意識の根本、すなわち「釈尊という偉大なお方を敬い礼拝し、かの方の亡き後も、われわれはその導き、あるいは救いを頂くことができる」というところは共通です。
 そして釈尊が残された多くのみ教えの内、どの教えを重視して生活にいかしてゆくか、というところからグループが分かれ、時代を経て、さらに多くの宗派に分かれます。
 私自身は、戒律を守る僧侶だけが高い境地にすすめる、というのではなく、僧侶も一般の人も平等に救われる日本仏教(特に浄土教)に関心を持ってこの世界に入りました。


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質問 199
 ご教示ください。
 お釈迦さまは、人間の死後について「無記」とされている、と聞いたことがあります。『阿弥陀経』などのサンスクリット語原典はまだ見つかっていないとも聞いています。
 私は54歳です。拙い人生ですが毎日お念仏を称え、「祈り」と、阿弥陀さまに「お任せ」することで救われています。
 私は自分の「無明」を自覚し、み仏の「お導き」を頂いていることを十二分に感じています。また自然や命へのみ仏の働きも自覚しています。しかし、「深信」は修行不足でまだまだ授かっていません。西洋の思想に基づいた教育を受けてきたことが原因だと思います。
 そこでご質問します。
 お釈迦さまが無記とした「死後」について、阿弥陀さまの存在を実感するにはどのように考えてゆけばよいでしょうか。
 またお念仏するときに、私は私なりに、念仏とともに頭上から光明が入り、頭・首・胸・腹と阿弥陀さまの「光明」が降りてくるイメージで称えています。その流れに集中することで、雑念が少しずつ生じなくなりました。
 このようなことでよろしいでしょうか。
 正式なお念仏の称え方があればご教示ください。
〈回答 199〉「お念仏するときに、私は私なりに、念仏とともに頭上から光明が入り、頭・首・胸・腹と阿弥陀さまの「光明」が降りてくるイメージで称えています。」
 たいへん結構です。口称念仏を助けるために、他力的なイメージを使って頂いても構いません。
 浄土宗では正式な「イメージ」の指導はありません。『観無量寿経』に説かれる瞑想法も具体的には行ないませんが、たとえ自己流であってもお念仏を助ける行として推奨されると思います。
 当庵での念仏会でもときどきイメージを導いております。
 第一の、
「お釈迦さまが無記とした『死後』について、阿弥陀さまの存在を実感するにはどのように考えてゆけばよいでしょうか。」
 というご質問は、現代においては極めて重要な問いだと思います。私の考えを整理して、後日コラム欄にてお答えいたしたく存じます。
 今しばらくお待ち下さい。

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質問 198
 23歳、真宗大谷派の一門徒です。
 私は自身を仏教徒であると自覚する一方、全ての宗教にあるような神さまや仏さまといった存在を、具体的なお姿として信じる事ができません。ですから、仏さまに救いを求める事について、どうしても懐疑的に考えてしまうのです。
 仏前に座して、私の目には仏さまは「自身を省みるための鏡」のように映ります。
 それは救いを求める対象ではなく、人としての生き方を問い続ける場所であると私は考えるのです。
 人が本当の救いを得るためには、仏さまに身を委ね導いて頂く事ではなく、自分の力で自分の罪を許す事が必要なのだと思っています。
 同時に、このような考え方は不信心なのではないかと不安に思う事もあります。
 今のような姿勢で、私は仏さまに向かい掌を合わせても良いのでしょうか?
〈回答 198〉 初めまして。林海庵住職の笠原です。
 自分をはるかに超えた偉大な存在(現象)を感じ、無に等しいこの自分が掌を合わせる、というのが仏前での(心の)ありようです。
 であるならば、理屈ではなく自然に掌が合わさり、深く頭が垂れてくる、という状態が本物、ということになりましょうが、実際にはなかなかそうはいきません。

「仏前に座して、私の目には仏様は自身を省みる為の鏡のように映ります。
 それは救いを求める対象ではなく、人としての生き方を問い続ける場所であると私は考えるのです。
 人が本当の救いを得る為には、仏様に身を委ね導いて頂く事では無く、自分の力で自分の罪を許す事が必要なのだと思っています。」

 結構だと思います。
 ただ、あまり「仏前ではこうあるべき」と態度を固定しないで、「ああ、今日は仏さまを前にして、こんな感じがするなあ。」くらいのゆるい姿勢で宜しいのではないでしょうか。日々の感覚に気づきを向ける、というのも立派な修行です。

「今のような姿勢で、私は仏様に向かい掌を合わせても良いのでしょうか。」

まったく結構です。
まずは日々、仏さまと向き合う時間を作って頂きたいと思います。

ひとこと
以下のようなご返事を頂きました。
 確かに笠原様の仰る通り、私は仏前における自身の姿勢について、少なからず固執している部分があったかも知れません。
 信仰とは、私のような人が考えるのよりも、もっと自由であるべきなのでしょうね。つくづく己の未熟さを感じます。
 親鸞上人も、亡くなるその瞬間まで「私はなんと未熟者なのだろう」と思い続けていたと聞きます。自分を凡夫であると真に受け入れた上で、物事の理を思い続ける事が大事なのかな、と自分なりのヒントを得た気がします。
 本当にありがとうございました。

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質問 197
 私は、大変怒りっぽいです。しかも、自分に余裕がないのか、ちょっとしたことでも表情に出て、物にあたったりします。
 毎日、お念仏をしていますが(といっても自己流ですが)、心は平安になっていません。どうすれば、怒りっぽい性格を直すことができるでしょうか?
〈回答 197〉「怒りの及ぼす害は、猛火よりも激しい」と言われます。だが、その害が著しいことは分かっていても、怒りをセーブすることは難しい─それが人間です。
「あの人が怒っているのを見たことがない」というような方も中にはおられますが、自分も頑張ればそのような人になれる、とはゆめゆめ思わない方が良いでしょう。
「自分は、怒りに振り回される、余裕のない、弱い人間である。」
 これを認めることが第一歩です。

 次に、怒りを断ち切るのは無理として、それが及ぼす害を最小限に留めることを考えます。
 まず、怒りが湧いてくる状況をよく振り返ります。どういうパターンで怒りが湧いてくるのか。それをよく観察する必要があります。例えば、
 自分のこれまでの努力が否定された、と思う。
 自分が侮辱された、と思う。相応に尊重されていない、と思う。
 そんな非常識なやり方は許せない、と思う…etc.
 もしそこに、「自分が傷つけられた」という気持ちがあるようであれば、その場所に留まります。そして、「そういう状況であれば、傷ついて当然だよ」「しばらく引きこもって傷を治したら…」というふうに、「傷ついた」部分にやさしい態度で接してあげましょう。
 意外に多いのが、「他者の怒りを、必要もないのに引き受けてしまう」というパターンです。マスコミの報道などを無防備に真に受けて、カッカと怒り出す人もいます。
 ですから、
  • 怒りが湧いてくる状況をよく振り返り、なるべくその状況につかまらないように工夫する。
  • 怒りが湧いてきたら、自分に対して優しい気持ちでなだめる。あるいは、害にならない形で動物的に発散する。(柔らかいものを叩く、蹴る、唸る、車の中で窓を閉めて大声で叫ぶ…など)
ということが役に立つでしょう。

「怒りは良くない」と頭から押さえつけるよりも、もう少し「怒り」と友達になり、うまくやって行く方が現実的です。彼にも相応の言い分があるはずですから。(言い分をちゃんと聞いてあげれば、彼も気が済んで立ち去ってゆくかもしれません)

 お念仏は、心が平安になろうがなるまいが、続けて下さい。そして、なるべく仏典や法語を読んで、崇高なる世界になじんで下さい。

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質問 196
 実家の両親は、熱心な仏教信者です。般若心経を暗記して毎日称えたり、巡礼のお参りも欠かしません。
 しかし、私が思う仏教の本当の「教え」は、殆ど理解していないと思います。『色即是空』なんて意味も知らないです。近所の人の悪口を言ったりして、幸せに心豊かに生きているようには思えません。
 なぜ、日本の仏教はこのように、表面的な教えになってしまったのでしょうか? 形も重要でしょうが、最も重要なのは、人間の生き方を教える宗教ではないでしょうか?
〈回答 196〉 仏教の世俗化・形骸化ということは、確かに嘆かわしいことです。
    清冽なる精神
    覚りへの渇仰
    熱烈な帰依心
…に出会えることはめったにありません。ときおり書物の中に、先達の、大地に根ざしたような言葉を見出して、ハッとさせられます。
(もっとも、こうした仏教精神は他人に求めるものではなく、私自身に求めるべきなのでしょう。)

 しかし同時に、粛々たる日々の営みの中に、キラキラしたものが光っているのも事実です。あなたのお考えとは違うかも知れませんが、私自身はお経の解説を聞いたり、それを自分で説明したりするよりも、直接自分でお経を称える方が有り難く感じます。掃除した本堂で、佳い香りの香を焚き、ご本尊様に礼拝して…大きく喉を開いて、お腹の底から声を出す…素晴らしい体験です。(この点ではご両親にも親近感を感じます)

 ご両親はご両親なりの仏教への関わり方があるのでしょう。あなたはあなたで、仏教の「表面的」でない部分をも学び、充分に吸収し、仏教そのものを生きて下さい。

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質問 195
 跡継ぎのいないお寺の娘と結婚しています。
 自分は会社員で、結婚当初から「将来跡継ぎとしてお寺に入れないか」と言われていました。あまり真剣に考えることなく10年以上経ちましたが、最近いろいろ考え、気持ちが傾いてきました。単に跡を継ぐということだけでなく、信仰の気持ちもあり、真剣に考えています。ただしいろいろ障害があり、決断できない状態です。
 ひとつは会社員との両立が不可能(全国に転勤の可能性があり今も義父母とは別居中)であるため、今の会社を退職しなければなりません。私は現在40代です、退職すれば退職金は出ますが再就職も困難ですし、万一再就職できても修行との両立が困難ではないかと思います。
 住職である義父に相談したくても、なにをどう質問してよいか分かりませんし、相談しても「大丈夫だ」と言われそうで、ましてや決断していないのに期待を持たせることになりかねないと思います。今までサラリーマンを20年もしてきた私がつとまるか、またこの年齢で将来きちんとお寺を守っていけるかどうか不安です。
 とりとめもない相談ですがよろしければ助言お願いします。
〈回答 195〉 まず年齢の問題ですが、20年間サラリーマンとしてやってこられた方であれば、大丈夫だと思います。修行に関しても、50代半ばでこの道を志し、立派に活躍されている方が何人もおられます。社会人としてのご経験が、必ず生きてくるでしょう。
 それよりも「全く未経験の分野に跳び込む」ことへの不安が大きいのではないでしょうか。しかし、僧侶もあなたと同じ人間であって、途方もない修行をこなしていたり、驚くような能力をもっているわけではありません。またお寺に入られれば、初めのうちは戸惑うことも多いでしょうが、すぐに馴れるでしょう。
 細かいご事情は分かりませんが、長い目で見て、この世を去るときに後悔のないような選択をして下さい。

 それともう一つ。頭の中であれこれ迷うよりも、一度(奥様のご実家の)お寺の本堂に心を落ち着けて坐り、ご本尊さまに尋ねてみることです。まずはそれが出発点です。


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質問 194
 浄土宗の信徒です。
 2年前に父が亡くなりました。毎日家族で念仏を称えています。
 本を購入し、法然上人のみ教えを勉強しているうちに、親鸞聖人の『歎異抄』を読みました。その一節に、「親鸞は父母の孝養のために念仏したことはない…」とあり、いま自分が行っている念仏に、ふと疑問がわきました。
 浄土門では、念仏はまず、自分の往生のために行うものと知りました。また、「回向」に二種あるとも知りました。浄土宗では、私のような「故人への念仏」は亡き人への「回向」となるのでしょうか?
 父は生前、念仏を称えるような人ではなく、その分、私が念仏しようとの思いで唱えているのですが…。
〈回答 194〉『歎異抄』にある親鸞聖人のお考えとは、次のようなものです。

「亡き人への追善供養の念仏は、自力による善行であって、われわれのような凡夫無力の者がなそうとすべきことではない。本当に父母のために孝行しようとするならば、まず自分自身が浄土へ往生し、覚りをひらいて他者を救う力を身につけてから後のことである。」

 一方、法然上人のお考えは、自分自身の浄土往生を第一とする点では同じですが、追善回向に関しては、『無量寿経』を引用しつつ肯定的なこともおっしゃっています。

「亡き人のために念仏を回向し候えば、阿弥陀仏、光を放ちて、地獄・餓鬼・畜生を照らし給い候えば、この三悪道に沈みて苦を受くる者、その苦しみやすまりて、命終わりて後、解脱すべきにて候。」

 私自身、僧侶になり、寺に勤務し始めたときに次のような疑問を持ちました。
「法然上人が命がけで説かれたのは、往生浄土のためのお念仏のはず。だが、一般の浄土宗寺院で日々称えられているお念仏には、その心は薄いのではないか。皆で往生を願うというよりも、自分のことは差し置いた先祖供養のための念仏回向がほとんどであるように思われる。」

 今は私も、多少考えが変わりました。多くの方は、家族との死別を契機としてお念仏に触れることになります。そうであれば、ご先祖に対し、仏道を少しでも前へ進まれますように、と願い、念仏回向をお勤めすることは、自然な心情に適っている。このように思うようになりました。また、浄土信仰に馴染みの薄い方にとっては、初めは「自分の往生を叶えて下さる阿弥陀仏」というよりも、「阿弥陀仏=ご先祖を護り導いて下さる仏さま」という理解の方が具体性があって、手も合わせやすいのです。

 檀信徒とのお付き合いの中でこのように観察するようになってからは、「自分の往生のための念仏か、先祖供養のための念仏か」という対立的な見方ではなく、「ご先祖も自分も、同じ阿弥陀さまのみ光に包まれている。どうか私たちをみな共にお導き下さいますように」の心で、という風にお念仏を勧めるようになりました。

 ご質問は、念仏信仰の根本に関わる大事な内容なのですが、こうしたテーマを一体どう考えたら良いのか─迷ってはまた法然上人のお言葉を読み返してみる─実を申しますと、私ども僧侶もその繰り返しなのです。


ご質問の
方から…
お返事を頂きました。
ご丁寧な回答を拝読しました。本当に有難うございました。
自分も亡父もご先祖様も・・・。そして私の家族も、皆一緒に考えて、阿弥陀様に
「日々お守り頂いて有難うございます。よろしく皆をお導き下さい」
という心を持って念仏に励みます。
何だかスッとしました。また今後ともよろしくお願いいたします。有難うございました。

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質問 193
 義父が亡くなり、浄土宗の僧侶に拝んで頂きました。ところが家には、義父の両親から受け継いだ新興宗教の仏壇があり、ご本尊も浄土宗の阿弥陀如来様ではなく、釈迦牟尼世尊を祀っています。葬儀の僧侶は「南無阿弥陀仏」のお経でしたが、義母は毎日、その新興宗教のお経を唱えています。しかも弘法大師のお寺にも熱心にお参りに行ったり、イタコに行ったり。
 理解に苦しむのですが、どういうものでしょうか?
〈回答 193〉 お義母さまの信仰心に立ち入ることはできませんが、個人的な信仰と、ご家族で先祖を祀ってゆくことは、分けて考えた方がいいように思います。やがては浄土宗の仏壇を祀り、浄土宗によるご供養に統一してゆくことが望ましいでしょう。
 せっかくのお義父さまの追善供養であっても、菩提寺さまが他宗の仏壇の前で、首をかしげながらお経を読むようであれば、決して良い法要になりません。心から読経して頂くためには、最低限の整いが必要です。
 折りをみてご家族、菩提寺さまとよくご相談なさって下さい。
 それともう一つ。せっかく浄土宗にご縁があられるのですから、「念仏だけで良い」と言われる法然上人の懐の深いみ教えを、どうか学んで頂きたいと思います。

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質問 192
「コラム倉庫」を興味深く読ませていただいています。
 2005年3月のコラムの中に次のように書かれていました。
「『自分』という意識が生来のものではなく、借り集めの幻想であると見抜くことによって、『自分』への執着から離れ、苦を乗り越えるわけです。」
 私もこのことがやっとわかりかける年になってきました。というか正直に申し上げると、3年ほどやみくもに坐禅を続けてきてやっと「借り集めの幻想」が見えてきた、というか「自分」という概念が崩れはじめてきた、と言ったほうがいいでしょう。
 浄土門の方々は、「借り集めの幻想」をどのようにして知るのでしょうか?
 私が自分のことを考えるとき、もし坐禅に出会っていなかったらこのことは永遠に理解できなかっただろうと思います。禅宗のお坊様の中にも、自分が無になるまで念仏を唱え続けるとおっしゃり、坐禅と念仏両方を行じている方もいるようです。
〈回答 192〉 実を申しますと、浄土の教え、また行の中では、「無我」についてつきつめてゆく、というプロセスは強調されません。私がコラムに載せましたのは、広く仏教一般の立場から自死について書いたものです。

 では、浄土門ではどのように自分自身と取り組むのでしょうか。浄土門における「自分」観は、「凡夫」という言葉で表現されています。
「自分自身が大した者でも何でもなく、ただの凡夫に過ぎなかった」「何と救いがたい、愚かな自分であることか」——それまでの自我の概念が完全に崩れたときに見えてくる、救いの道が浄土門であると言えるでしょう。
 では浄土門に入るためには、劇的な「自我崩壊」の経験が前提になるのか、といいますと、そういうことでもありません。念仏申すうちに信心(凡夫の自覚を含みます)が育ってくる、というのが、浄土門=広き門である所以なのです。

 凡夫であると自覚することは、禅で重んじる「初心」に通ずるかもしれません。が、あえて申し述べさせて頂きますと、わが身、わが心の程度では涅槃の境地=輪廻転生からの解脱は絶対に不可能だ、と気づく境地が、「凡夫」という言葉の背景にあります。自分を解脱から遠ざける習慣的思考、習慣的行動、エゴ中心の傾向はあまりにも、あまりにも根深く、自力をもってそれを断ち切るのはほとんど不可能である、というわけです。これは、禅の道を歩まれる方にもご理解頂けるのではないでしょうか。
 不遜な言い方になるかも知れませんが、私には、禅から念仏に進まれる方のご心境がよく分かるような気がいたします。


    (参考)●ご質問で引用されている2005年3月のコラム「いわゆる『自殺』について」

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質問 191
 先日母が亡くなり、事情があって位牌を二つ作りました。お寺さんに魂入れをして頂いたのですが、母の魂は二つに分かれて位牌に入っているのでしょうか?
〈回答 191〉 最近、当庵の信徒さんからも同様のご質問を受けました。
 魂が二つに分かれてお位牌に入っているわけではありません。月の光が、多くの池の水それぞれに映るように、お母さまの御霊は減ることも(増えることも)なく、それぞれのお位牌に宿っています。ゆえに、ご心配はご無用です。
 位牌を二つ作るときに、むしろ気をつけなければならないのは、以下のようなことです。
  • 5年先、10年先…のことを考えたとき、それぞれのお位牌をちゃんとお守りしてゆけるのか。
  • お祀りする場所を2カ所にすることによって、ご家族ご親戚のお付き合いが疎遠になってしまわないか。
 いずれも、仏さまの望まれることではありません。身内を亡くすと、(一般に)さまざまな強い感情が起こってきます。慎重さ、冷静さが求められるところだと思います。
 少し話が逸れましたが、そういうわけで、お母さまの魂については全くご心配に及びません。

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質問 190
 浄土宗のお数珠の使い方について教えてください。
 合掌した親指にかける際、大きな珠の位置がどちらの方向になるようにとか、二連のどちらが(たとえば房がつながっている方が)上になるようにとかの決まりはあるのでしょうか?
〈回答 190〉 浄土宗では、主として「日課数珠」という二連の数珠を使います。(他の数珠も使います。)
『浄土宗法要集』という僧侶向けの宗訂のテキストによれば、
 ●「合掌のときは両親指にかける、記子(弟子玉ともいいます─房糸の所)を手前に垂らす。」
 ●「合掌以外のときは、左の腕首にかける。」
とあります。ここには、合掌したときの母珠(大きな珠)の位置については書かれていません。
 私が法式の先生から教わったところでは、「合掌のときは両母珠をそろえて親指にかける」、すなわち、二つの大きな珠を、両親指と両人差し指の間に軽く挟み込むようにかける、ということになります。あまり神経質になることはありませんが、気がついたときにその位置に整えれば良いでしょう。
 尚、合掌の時に二連のどちらかが上、下、という決まりはありません。
(お念仏を称えながら数珠を繰るときは、房糸のついた方が下になるはずです。これが本来の数珠の使い方なのですが、ここでは立ち入りません。)

追記:お数珠については、Q&A 17Q&A 179にも関連の記載があります。興味のある方はご覧下さい)

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質問 189
 念仏の称えかたに「十念」がありますが、なぜ十回なのですか?
〈回答 189〉 お釈迦さまの説かれた浄土の教えによりますと、その昔、阿弥陀仏が仏となられる以前、法蔵菩薩としての修行時代に、四十八の誓いを建てられました。その十八番目が「念仏往生の願」といわれるものです。

「もしわたし(法蔵菩薩)が仏となったとき、あらゆる世界の衆生が、真実の心をもってわが浄土に往生したいと願い、十念したとしても、もし往生がかなわなければ、わたしは仏とならない…」(『無量寿経』)

 法蔵菩薩はこの誓いを成就され、阿弥陀仏となられた─つまり、念仏すれば必ず浄土往生がかなう、これが浄土教の根幹です。
 中国の善導大師(613−681)はこの「十念」を「十声」、つまり十回「南無阿弥陀仏」と称えること、と受け取られました。法然上人も善導大師のお考えをそのまま引き継がれます。

「念仏往生と申すことは、弥陀の本願に、わが名号をとなえんもの、わが国に生まれずといわば、正覚を取らじと誓いて、すでに正覚をなり給えるがゆえに、この名号をとなうるものは、必ず往生することを得。」(法然上人)

 こうしたわけで、浄土宗ではお念仏=南無阿弥陀仏とお称えすることを最も大切にしております。その念仏行の基本となるのが、「十念」です。

H20.8.17 追記:お念仏の称え方については、関連の項目がQ&A 11Q&A 104にもあります。興味のある方はこれらもご覧下さい)


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質問 188
 歴史上の釈尊は念仏の教えは説かなかったと聞きましたが、どういうことでしょうか?
〈回答 188〉「大乗非仏説(だいじょうひぶっせつ)」のことを言われているのでしょう。これは、大乗仏教の経典は、釈尊ご本人の口から説かれた金口(こんく)の教えではなく、後世の大乗仏教徒が創作したものである、という説です。この議論自体は古くからあり、仏教に批判的な人々や、あるいは仏教徒であっても大乗仏教に批判的な人がしばしばこの立場をとります。
 私は、こう考えています。
 仏教には多くの教えがあります。それは山頂に至る道にたとえられます。いずれの道を通っても、登り続けてゆけばやがては山頂(覚り)にいたります。険しい道、なだらかな道、広い道、狭い道、日向を通る道、また木陰にかくれたところを通っている道、古くからある道、そして比較的新しい道…。
 では、ご生前の釈尊がはっきりと示された道はどれか、といえば、それを確認するすべはありません。当時は、そして数百年経っても、教えは口承で語り継がれていました。釈尊ご自身の著作、というものはないのです。初期の経典が釈尊の生のお言葉に近いであろう、という推測しかできません。
「わたしは、過去の覚れる人々のたどった道を発見したのである。」
 釈尊のことばです。これは「八正道」(ごく初期の、間違いなく釈尊の口から説かれたであろう教え)について語られたものですが、それすら、ご自身が切り開いた道とはおっしゃらずに、過去の古道を発見したのだ、と言われているのです。

 さて、「山頂へ至る道」のたとえで申しますと、大乗仏教の教えは比較的新しい道である、とはいえましょう。浄土経典や般若心経、法華経などは皆、この分類に属します。「新しい道」といいましても、それはちゃんと頂上へと続くものです。すでに無数の人々がこれらの道を歩んできたので、堅固に踏みならされた、広い道になっています。
 私たちは今、山の麓にいて、暗闇の中を右往左往しています。
 迷いの中にある私たちに、釈尊はこう示されます。
「ここに山頂がある。ここまでやっておいで」
 肝心な点は、各々の道に評論を加えることではなく、山頂にたどり着くことにあります。そのためには、わたしたちは自分に合った道を選び、自らの脚で、退くことなく歩み続けなければなりません。
「大乗仏教は釈迦金口の教えにあらず」としてそれを切り捨てる事は(少なくとも個人としては)簡単なことですが、それによって残るのは、古く、狭く険しい、ごくわずかの人しか歩めない道だけでありましょう。

 法然上人は、ご自身可能な限り多くの道を歩まれました。その求道の結論が、お念仏の道です。たいそう広くなだらかな道で、だれもが共に歩むことができ、頂上へたどり着くことが約束されている道です。
 私は、法然上人のお言葉を是ととります。
 さて、あなたは如何でしょうか。

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質問 187
 「右繞三匝(うにょうさんぞう)」についてお尋ねします。
 インターネットなどでは「仏さまの周りを右回りに3度回ること」といった解説を見かけます。この場合の右回りとは、時計回りのことでしょうか? 仏さまを見ながら自分が右に進むと、反時計回りになるため、本来左回りが正しいようにも思いますが。
 先日、鎌倉の大仏さまにお参りした折りにも、御僧侶が「南無阿弥陀仏」や「四誓偈」を唱えながら大仏さまの周りを回っておられるのをお見かけいたしましたが、反時計回りであったように思います。

 また、浄土宗でも、阿弥陀さまに対して、「右繞三匝」ということを行うのでしょうか?
〈回答 187〉 「右繞(右遶)三匝」は、インドに由来する礼拝の方法です。礼拝の対象に右肩(右を浄、左を不浄とします)を向けて、三周回ります。つまり、上から見たときに右回り(時計回り)になるように歩みます。
 鎌倉の大仏さまについては確言できませんが、おそらくこの回り方だと思います。

 浄土宗でも、法要儀式中に行うことがあります。たとえば、灌仏会(花まつり)の差定(さじょう─式次第のこと)には、「花御堂を右繞三匝し、」と記されています。日常的には(朝夕の勤行や年回法要では)行いません。
(ご本尊さまのうしろ側が、通り抜けられる構造になっていないと行うことができません。ちなみに当庵の本堂もそのような構造にはなっておりません。)

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質問 186
 お念仏は、お経のように節をつけて称えたほうがいいのでしょうか?
 また、お念仏を朝晩のほかに、仕事などで高まった気分を落ち着かせたいときや、お風呂に入っているときにも称えていますが、これでいいのでしょうか?
〈回答 186〉 浄土宗では、「所求(しょぐ)」「所帰(しょき)」「去行(こぎょう)」といいまして、お念仏を称えることは三番目の「去行」という修行の部分です。いつでもどこでも、誰にでもできる修行がお念仏です。
 「所求」とは求める所、つまり目的です。これは浄土往生。
 「所帰」とは帰する所、すわわち帰依する対象でして、これは阿弥陀如来です。

 仏教は覚りをめざす道です。でも実際のところは、この人生わずか数十年の間にお釈迦さまと同じ覚りを得ることは極めて難しい。しかし浄土往生であれば、お念仏のおかげで必ず叶う。だから浄土往生を目指して(所求)、阿弥陀如来に帰依し(所帰)、お念仏に励みましょう(去行)、というのが浄土宗の教えです。
 これらを踏まえた上でお念仏を称えるのが正しいわけですが、なかには、
「覚りをめざすと言っても、その『覚り』が何なのか、正直よく分かりません」
「『浄土往生』といっても、現実感がありません」
 という方もおられるでしょう。そういう方であっても、多少ともお念仏にご縁をもたれたならば、「仏さま、私をお導き下さい」という心をもってお念仏をお称え下さい。難しい学問は要りません。

 さて、ご質問について、
「お念仏は節をつけて称えたほうがいいのでしょうか」
 どちらでも構いません。続けることが一番大切です。

「朝晩のほかに、仕事などで高まった気分を落ち着かせたいときや、お風呂に入っているときにも称えていますが、これでいいのでしょうか。」
 たいへん結構なことです。法然上人は
「阿弥陀仏(あみだぶ)と 十声(とこえ)となえてまどろまん
 ながきねぶり(眠り)に なりもこそすれ」
と歌っておられます。お風呂だけでなく、お布団の中でも称えて下さい。
 どうぞ、お念仏とのご縁を大切にされますように。

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質問 185
 墓参時に、お経を上げて頂いておりました。先代の住職さんは、お経の最後に、墓石の横に刻んである戒名を見て、「○○の為」とか唱えてくれましたが、次代の息子は修行不足?かそれを省略し、読経時間もごくわずかです。
 以後は、私が自分で『阿弥陀経』を上げています。
〈回答 185〉『阿弥陀経』をご自分でお上げになると知り、感心いたしました。何よりのご先祖供養です。

 さて、現住職に「前のご住職は、このようにして下さいました」とおっしゃってみるのも一法です。

 先年遷化した私の師僧は、よく
「寺の住職は、檀家に育てられるものだ」
 と言っておりました。これは本当のことです。
 檀家さんの立場からすれば、
「指導するのは我々ではなく、住職の方だろう」
 ということになるかも知れません。ですが実際には、檀家さんの反応からさまざまなことを学び、何らかの形で檀家さんにお返しする、という側面があります。これは教師と学生の関係や、医師と患者の関係などにも広く通ずることでしょう。

「そこまで面倒を見ていられない」と思われるかもしれませんが、それが結果的に他の檀家さんやご先祖のためにつながってゆきます。ご質問者さまの長年のご経験から「若い住職を育てる」という観点をおもち頂ければ、と思います。

 少々余計なことながら、私見を書かせて頂きました。

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質問 184
 私は人間関係が苦手です。世俗的なものごとにもあまり関心がもてず、いっそのこと仏の道に入った方が良いのではないかと思うのですが。
〈回答 184〉 人間関係は確かに難しいものです。他人との関係が苦手で仏道に入りたい——もしそうであれば、教えの中から多くの学びを見いだすことができるでしょう。
 私の見るところでは、仏教の大部分は人間関係や世俗的なものごとについて理解を深める教えです。
 苦の原因は我執にあり——我執も人間関係から生まれます。不殺生や不妄語、布施といった教えも、人や自分を傷つけない、嘘をつかない、他者に対して寛大な態度をもつ、ということ。いずれも人間関係についての教えです。
 しかし、「人間関係は苦であるからこれを避けよ」ということではありません。大乗仏教では「上求菩提 下化衆生」といって、自ら覚りを求めつつも、人々とともに生きてゆく道を進みます。人間関係に悩むことも大事な修行のひとつなのです。
 仏教に関心を持って下さるのは嬉しい事ですが、このことも是非心に留めておいて下さい。

H19.8.1 追記:この質問に関連して、「僧侶になりたい、あるいは僧侶になるにはどうすればよいか、とお考えの方へ」というページを新設しました。こちらもご覧下さい)

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質問 183
 4月(平成19年)のコラムを読みました。
「天上天下 唯我独尊」は、辞書などをみると“宇宙空間に自分より尊いものはない”という風にしか書かれておらず、お釈迦さまが本当に言いたかったことがどういうことなのか、ずっと分りませんでした。
 住職様はこの言葉をどのようにご理解されていますか?
〈回答 183〉 この偈文に限らず、「我」「自」という言葉が出てまいりますと、つい立ち止まってしまいます。言うまでもなく、「諸法無我の教えとどう関係するのだろう」という連想がはたらくからです。
 ここで混乱を避けるためには、「唯我」を「唯仏」と読み替えてみたら宜しいと思います。
「天上天下 唯仏独尊」
 これなら分かりやすいのではないでしょうか。
「世間虚仮 唯仏是真」とも通じる観点です。

 お釈迦さまにとっての「我=仏」とは、単なる宗教体験の個人的主体ではなく、自我(=有限の時空)の殻を突き破ってあらゆる方向に広がる「仏陀意識」現象です。この仏陀意識現象より尊い事物は何ひとつ存在しない。
 それが「唯我(仏)独尊」という表現となって迸り出たのではないでしょうか。
 お釈迦さま金口のお言葉ではないにしても、誠に深い境地を感じます。
(重複しますが、Q & A 48でも答えていますのでご参照下さい。)

ご質問の
方から…
すぐにご返事を頂きました。
 「さっそくのご返事ありがとうございました。やっと、もやもやが晴れたような心地です。」
 ありがとうございます。

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質問 182
 仏具屋さんで、脇侍の菩薩さまの掛け軸を買いました。お祀りする場所ですが、中央の阿弥陀さまの、向かって右が観音菩薩さま、向かって左が勢至菩薩さま、で宜しいのでしょうか?
〈回答 182〉 それで結構です。
 仏具屋さんでも、ときどき間違えている場合があります。
「左が観音菩薩」という場合は、中央のご本尊さまから見た左のことですので、注意が必要です。
 釈迦三尊の場合は、一般的には中央お釈迦さまに向かって右が文殊菩薩、向かって左が普賢菩薩です。
 また、脇侍の菩薩さまを新たにお祀りする時も、ご本尊の場合と同じようにお寺さんに開眼供養のお経を上げて頂きましょう。

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質問 181
 自殺・自死について、御宗・貴庵では、どのようなスタンスをお持ちでしょうか?
 近松の心中物などで垣間見えるように、弱い立場の人にとっては、浄土の蓮の上へ赴くことを願って、自ら死を選ぶ行為もギリギリの選択肢の一つ。そういう人たちにとっては、阿弥陀も救済の路を空けている——と本人たちが思い込んでいるような——印象を受けます。
 自殺・自死を絶対悪とはせず——もちろん、生き抜くことを勧めながら——救済の路を説く姿勢って、弱い立場の人たちには、最も説得力のあるものだと思います。
 現代においても、現代においてこそ。
〈回答 181〉 豊かな感受性と洞察力をお持ちの方と拝察いたします。
 私もご意見に同感です。
「自殺・自死を絶対悪とはせず——もちろん、生き抜くことを勧めながら——救済の路を説く姿勢」
 それこそ私が大切にしたいと思っているものです。
 阿弥陀如来は「摂取不捨」——たとえ自殺、自死であっても阿弥陀さまの救いからもれることは決してない。だが、もしあなたが今、まさに自ら命を縮めようとされているなら、ちょっと待って欲しい、本当にそれしか選択肢がないのか、ひと息入れて、私と一緒にもう一度状況に向き合ってみませんか——それが私の取りたいと願うスタンスです。

 私自身が「自殺・自死は絶対悪」と決めつけてしまったら、それは目の前の「苦しくて死にたくなるほどの気持ち」から目をそらし、それをさらに追いつめてしまうことになるでしょう。さらにもう一つ重要なこと——すでに自ら命を縮められた方のご遺族との接点も持てなくなるでしょう。
 もちろん「自殺・自死」を肯定するわけではありません。が、その地点まで追いつめられてしまった一連の複雑なプロセスに対して、離れた距離から「肯定」「否定」「善」「悪」とレッテルを貼りつけるような態度は取りたくありません。

 人の生命や心の動きについて私が理解していることは、ほんのちっぽけな欠片に過ぎません。広大な未知の領域が内外、四方八方に広がっています。何が善いとか悪いとか、一般論で一括りにすることはあまり意味のないこと——自分自身や目の前の人のせっぱつまった状況に直面したとき、私が大切にし、また頼りに出来るのは何かといえば、「摂取不捨」——仏の言葉、先達の助言、それに瞬間瞬間の自身の内的な感覚だけです。


    (参考)自殺・自死については、過去に下記のリンク先でも言及しておりますので、よろしかったらご覧下さい。
      ●Q & A 22「自死された方の往生について、どう考えますか?」
      ●コラム「いわゆる『自殺』について」

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質問 180
 以前浄土宗のポスターで、「愚者の自覚を」という言葉を見ました。愚者の自覚とお念仏の教えと、どう関係するのでしょうか?
〈回答 180〉 「愚者の自覚」とは、自分自身の混乱としっかり向き合うことを意味します。誠実な態度をもって自分自身の内面を見つめたとき、そこには多くの混乱がみえてきます。渇望、虚栄心、恐怖、逃避、競争心、攻撃的な心、自己欺瞞、挫折感、言動の不一致…。これらの煩悩は、尽きることがありません。
「いや、私は今、心静かな状態にある。」
 たいへん結構。しかし、その状態はいとも簡単に崩されてしまいます。(かく申す私自身も、ついさきほど、知人が重い病にあると聞き、心乱れているところです。)
 仏教は、覚り=目覚めに導く教えです。しかし、煩悩に満ちたこの身体世界とともにある限り、完全な目覚めを得ることは、少なくとも私には無理である──この自覚から、極楽世界を願い求める道が開けてきます。

「浄土宗のこころは、聖道・浄土の二門をたてて、一代の諸教(お釈迦さまが一生の間に残された諸々の教え)をおさむ。
 聖道門というは、娑婆の得道(この世で覚りを得る教え)なり。自力断惑・出離生死の教えなるがゆえに、凡夫のために修しがたく、行じがたし。
 浄土門というは、極楽の得道(まず極楽に往生し、そこで覚りを得る教え)なり。他力断惑・往生浄土門なるがゆえに、凡夫のためには、修しやすく行じやすし。」

「聖道門の修行は智慧をきわめて生死をはなれ、浄土門の修行は愚痴にかえりて極楽に生まると知るべし。」
(いずれも法然上人)
 自分自身の混乱と誠実に向き合った上で、極楽世界を求めてお念仏の道に進めば、そこに混乱のなかの安心、あるいは大いなる安心に包まれたちょっとした混乱、を見いだすことになるでしょう。

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質問 179
 最近、浄土宗寺院の檀家になりました。せっかくなので浄土宗の二連の数珠を持とうと思ったのですが、近所の仏具屋さんには置いていません。どうすれば入手できるでしょうか?
〈回答 179〉 東京近辺の仏具店でも、宗派別の数珠を揃えていないところが多いようです。
林海庵では、信徒さんからお数珠のご要望があった場合は、林海庵の近所の仏具店で置いているところをご紹介するか、もしくは京都の仏具店に注文することが多いです。なんといっても種類が豊富ですので。(ご参考…大西法衣仏具店:フリーダイヤル0120-002429)

 しかし、一番良いのは、菩提寺さまにご相談なさることです。檀信徒にお数珠をお持ち頂くにあたり、菩提寺さまなりのお考えやご指導があるかもしれないからです。
 お数珠は一生使う大切なもの。とくに法然上人はお数珠を大切に考えておられました。やはり、できればお寺を通じて購入されるのが良いでしょう。

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質問 178
 昨年、父方の祖母が亡くなりました。その際、父の希望で分骨してもらい、わが家でも供養しています。またそれを機に初めて仏壇を購入し、開眼供養もいたしました。
 また、父自身も数年前から病気で入退院を繰り返していたのですが、このところ体調が悪化し、先日、主治医より余命宣告なるものを受けました。
 父の兄夫婦からは、「(父の)病気が悪くなっているのは、祖母の供養を二か所で行なっていて霊が迷っているからだ。また、まだ仏さまがいないのに新たに仏壇を購入したことにより、新仏が出る。早く閉限供養をして仏壇を閉じてしまいなさい」とアドバイスされました。
 私たち家族は、とても気になってお寺に相談しましたが、「閉限供養はできない」といわれました。迷信だとは思うのですが、とりあえず、一週間前から仏壇の扉を閉じています。
 私たちは何か悪いことをしているのでしょうか?
〈回答 178〉 さぞご心配であられることと、拝察いたします。
「『(父の)病気が悪くなっているのは、祖母の供養を二か所で行なっていて霊が迷っているからだ。また、まだ仏さまがいないのに新たに仏壇を購入したことにより、新仏が出る。早く閉限供養をして仏壇を閉じてしまいなさい』とアドバイスされました。」
 お釈迦さまの教えによれば、生老病死の苦しみは人生に必ず伴うものであって、この苦しみとどう付き合ってゆくか、これをどう超えてゆくか、というのがそもそも仏教の仏教たる所以です。
 そして、
  • 分骨は悪いことではありません。お釈迦さまご自身のご遺骨も、分骨して供養されました。
  • 仏壇は、「新しい仏さまが出てから、購入するもの」ではありません。仏さまに手を合わせ、そのみ光をご家庭にも頂くためのものです。いつでも、思い立ったとき、できるだけ早くそなえる方が良いのです。
 伯父さま伯母さまのアドバイスは、もちろんお父さまを思ってのことでしょうが、誤っています。分骨やお仏壇をそなえたことと、お父さまのご病状を結びつけるのは、まったく理に適っておりません。
 病気には、避けられるものとそうでないものがあります。仏さまに手を合わせていれば、避けられる病は避けられ、避けられぬ病も症状が軽くなるものです。(仏さまに手を合わせることによって病状が重くなる、というのはとんでもない話です。)
 すぐにお仏壇を開き、「どうぞみ光をもってお守り下さい」「み心のままにお導き下さい」と手を合わせて下さい。
 あなたご自身が心を落ち着かせ、腰を据えて状況に対することが重要です。

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質問 177
 誰かの意見に共鳴したり、自分で何かを思いついた時に、必ずこう考えてしまいます。
「しかしこういう(別の)考え方もあるのではないか。」
 結局自分にとって何が良いのか、どう考えれば適当なのか、なかなか決まりません。頭の中が堂々巡りになってしまい、またそういう自分が嫌になります。
 どうしたらよいでしょうか?
〈回答 177〉 思うに、あなたはグループのリーダーか、学校のクラス委員のような立場ですね。クラスのみんなの意見をまとめなければならないのですが、どの意見にもそれなりの妥当性があるので、なかなか方向が決まらないわけです。
 一つ言えるのは、この状態は、あなたが一個の人格として成長していることを示している、ということです。あなたは、さまざまな立場の人がそれぞれの考えをもって生きていることを理解しています。そして、もし一つの意見を別の考えをもった人に押し付けたなら、結果として不公平や苦しみを招くことも知っています。(結果的に)誤った選択をするリスクを避けたい、という守りの気持ちもそこにあるでしょう。
 これらは、人格の成長の過程の中で必ず起こってくることですので、まずそれを受け入れましょう。「自分は、たった一つの考え方を盲信するのではなく、より広い立場からものごとを考えることができる。」
 次に、頭の中で考えるだけでなく、自分の全体、とりわけ身体感覚に問いかけてみます。
 今、自分自身に対して正直になっているだろうか。心は開いているか、それとも…?
 その問題は、自分にとって本当に切実なことなのか。
 どういう方向性だと、身体が生き生きと感じられるだろうか。
 その方向は、自分や他の人へのあたたかい理解に基づいているだろうか。

 すぐに答えが出なくても構いません。というよりも、ほとんどの場合、放っておいた方が良いのです。たぶん、必要な時に必要な答えが得られることと思います。答えが出たら、即行動!
 そのときには、流れに乗っている自分、流れと戦わずにそれを楽しんでいる自分を見い出すことができるでしょう。

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質問 176
 私は死ぬのがとても怖いのです。どうすればよいでしょうか?
〈回答 176〉 実は先日、夢の中で師に同じ質問をしました。師はこのように答えてくれました。

「ほう、お前は死ぬのがそんなに怖いか。
よろしい。では、よく考えてみなさい。お前はプライドの強い人間かね。プライドの強い人間はこう考える。
『私は価値のある人間だ。だが、死は敗北だ。自分が敗北するなんて、とても認められない。自分はこれまで勝ち続けてきた。死=敗北は、何としても避けなければならない。』
 だが、心配はいらない。お前よりも価値のある人間は、これまで無数にいた。本当に優秀ですばらしい人々が、満天の星の数ほど生きてきた。だが、彼らの誰一人として、『死にそこなった』人はいない。死のハードルの手前でうろうろして醜態をさらしている人など、一人もいない。どんなに価値があり、どんなに勝ち続けてきた人でも、上手に死をやり遂げている。お前にそれができないはずはない。失敗の可能性はひとつもありはしない。

「それともお前は、美しい肉体とこの上ない美貌の持ち主かね。死によってそれが無に帰すのが惜しいのかね。
 心配ご無用。お前の1000倍美しい人たちが、あっさりと、間違いなく死んでいる。死のハードルの手前で立ち止まり、『この美しい私が失われても良いのですか!』と抗議し続けている人に会ったことがあるかね。そんな人は一人もいない。だから怖れなくても良い。お前も立派に、あっさりと死のハードルを越えることができるだろう。

「あるいは、お前にはやり残したことがたくさんあるのだろうか。そして、『このまま死ぬわけにはいかない』とでも言いたいのだろうか。
 そうだ。もちろん、心配はいらない。お前の1000倍やり残しの人生を生きてきた人たちがこれまでに山ほどいる。彼らは、後悔の心を強烈に残しつつも、みな命を手放してきた。100人中100人がすべて、見事に死のハードルを越えている。やりそこなった人は一人もいない。だから、お前が失敗することはあり得ない。時が来れば必ず、お前もこのハードルを越えることになる。何も怖れることはない。

「なになに、お前はそれほどプライドが強いわけでも、肉体が美しいわけでもない? これまでの人生で大きなやり残しも思い浮かばない? とにかく死が怖いだけだと?
 よろしい。わたしの答えは同じ—そうだ、まったく心配はいらない。お前の1000倍怖がりの人がこれまでに100万人はいた。しかし、死のハードルの前で、恐怖にふるえて縮こまってしゃがんでいる人に会ったことがあるかね。いいや、そんな人は一人もいない。どんなに怖がりの人でも、簡単に、やすやすとこのハードルを越えている。お前が失敗する可能性はゼロだ。だから、心配する必要はまったくない。

「だから、お前が怖れなければならないのは、『死』ではない。むしろ『生』だ。この貴重な、限られた時間を無駄に過ごしているのではないか。本当にやるべきことをせずに、どうでもよいことに一喜一憂して人生を浪費しているのではないか。真に学ぶべきことがたくさんあるというのに、何一つ学んでいないのではないか。お前はこれこそを怖れなければならない。
 そして、もう一つ。死のハードルを越えた後のことだ。そのあとはどうなると思うかね。そうだ、その先のことを怖れなければならない。」

 そして、師はいたずらっぽく片目をつぶって、こうつけ加えました。

「本当のところ、『死のハードル』なんてどこにもないかも知れないね!」


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質問 175
 回答174で、「仏教では執着心やこだわりを嫌い…」とあります。私はむしろ、この執着しない(させない)ということを警戒しています。仏教系の新興宗教は、信心イコール「財産や人間関係、愛情に執着しないことだ」と説いて、信者から財産を巻き上げ、その人の人間関係をズタズタにしますよね。
 私は執着を美徳と考えます。
 僧侶の方々は、僧侶になることに執着したからこそ僧侶という職業についているのだと思いますし、不信心ものから見ますと、さとりを開くことに執着しているようにも見えます。私は、それらはすべて僧侶としての美徳であり、尊敬できることだと思っております。
 かつてアメリカズカップというヨットレースで、カップを米国から失ったデニスコナーは、カップを奪還するために自分自身とチームメイトに徹底させたのは「勝つことに執着することに執着する」です。そしてデニスコナーはカップを奪還しました。これはなまなかことではありません。
 執着という言葉に反応して面倒なメールを送ってしまってすみません。
〈回答 175〉 執着心は本来的にエゴと結びついたものですので、これを捨て去るというのが仏教の基本的な立場です。しかし、言うは易く、行なうは難し。執着を断ち切るというのは容易なことではありません。そこで、日常生活のレベルでは、自分の執着心に対してどういう態度で立ち向かってゆくかということが、実際的な問題になります。
 私自身の経験から、いくつか例を取り上げてみましょう。
  1. 執着の対象を避ける。
      例:テレビを置くとつい見てしまうので、テレビを置かない。タバコを置かない。新聞を取らない。読書は好きだが、蔵書は最低限にとどめる。モノを減らす。
  2. 執着心を理解する。
      例:瞑想や、臨床心理学的なカウンセリングやワークショップを通して、自分に固有のくせやこだわり(コンプレックスに通ずる)を理解しようとする。
  3. 執着する。が、その過程と結果を公益のために捧げる。
      例:寺院活動に関するすべて。良いHPを作りたい、等々。
  4. 執着心を高次のものに向けることによって、低次の執着心から離れる。
      例:念仏信仰。(執着心から離れるために念仏をしているわけではありませんが、結果としてそうなってゆく)
 このように、ひとくちに「執着」と言ってもいろいろです。特に気をつけるべき執着は、性急さを伴う、暗くて熱病的・暴力的なものです。

「私は執着を美徳と考えます。」
 ——人生のある時期に、「執着は美徳」と考えることは構いません。熟した果実は自然に落ちることができます。「執着」を成長への踏み台にすることができるでしょう。
 しかし、いつまでも過去や勝ち負けに執着し、ものごとにこだわり続けてゆくと、偏狭で硬直した生になってしまいます。手放すことによって得られる自由や広がりがある、ということも心のどこかに留めておいて下さい。

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質問 174
 現在フランスに在住していて、なかなかお寺にうかがう機会がないものですから、メールにてご連絡させていただきました。実家が浄土宗ということで、浄土宗関連の本を取り寄せたりして仏教に関する勉強を始めています。
 最近、「仁義礼智」という言葉に出会ったのですが、仏教的観点からするとどういう意味なのでしょうか? もしかすると、これは熟語ではなく、一つ一つに意味があるのでしょうか? もし後者の場合、それぞれどういう意味になるのでしょうか?
〈回答 174〉 「仁義礼智」は、儒教が説く倫理です。それぞれの言葉に意味があります。
  • 仁:あわれみの心
  • 義:すじみちを通し、悪を恥じて憎む心
  • 礼:譲り合い、他人を尊重する心
  • 智:ものごとの善悪をわきまえ、判断する心
 では仏教から見たらどうか、ということですが、以下に私の考えを書きます。
 仏教には様々な側面があります。
  • さとりの世界—善悪や浄不浄という二元性を超えた、究極の境地
  • さとりに到るための修行
  • 日常生活上の規範
 つまり、清らかで正しい日常生活を送り、心を静めて自分の内側に入ってゆく修行を続けていけば、やがて小さくて固く条件づけられた「自我」がほどけ、広大なさとりの世界が開けてくる、と、言葉で説明するとこうなります。(浄土教—お念仏の世界もこの延長上にあるわけですが、今は触れません。)
 仏教から見ますと、仁義礼智は「日常生活上の規範」と共通するところでありましょう。ただし、仏教では執着心やこだわりを嫌い、警戒しますので、時と場合によっては儒教の考え方と対立するかもしれません。

 あるいはこうも言えます。真に他人をあわれみ尊重しようと思うなら、自分自身をしばる「条件付け」と向き合う必要がありましょう。つまり「仁」や「礼」に深く入ってゆこうとするならば、それは正しく仏教の修行であるといっても良いかもしれません。
 大きなテーマですので、探せば文献や論文などがあるのでしょうが、取り急ぎ上記のようにお答えいたします。

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質問 173
 海外で暮らしている者です。
 自宅にはもちろん仏壇はありません。その代わりといっては何ですが、亡くなった祖父の写真と、可愛がっていた犬の写真を置き、毎朝お線香とお水を供え手を合わせています。
 その時心の中でどんなことを思えば良いのでしょうか? 妻であり母である私は、つい家族の健康や商売繁盛などをお願いしているのですが、仏様にはやはり感謝の気持ちだけをこめてお祈りしたほうが良いのでしょうか?
〈回答 173〉 仏、ブッダを礼拝するのは、その覚りの世界に心を開くためです。
 覚りの世界の静寂と深さ…その光と香りに触れ、そこに一歩でも近づきたいと願って、私たちは仏を礼拝します。
 接足作礼(せっそくさらい)といいまして、仏のお御足を両手に頂く礼拝法があります。お御足に触れる姿勢を取るだけで、心が豊かに満たされたいへん有難く感じる、そういう礼拝です。自分を最も低いところにおいて、仏の前に身を投げ出します。

 仏教徒として仏を礼拝するのは、そういうことです。

 わたしたちがご先祖を大切にするのも、ご先祖が仏の導きを受けて、その世界に足を踏み入れられているからです。「ご先祖が仏の世界でみ教えを受けて、より進んだ境地に行かれますように」、「どうぞ私も覚りの世界にお導き下さいますよう」と願って手を合わせます。
 家族の健康や商売繁盛をお願いすることはいけない、とは申しませんが、せっかくでしたらもっと広大な仏の世界に思いを向けていただきたいと思います。

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質問 172
 先日お墓参りに行きましたら、母の三回忌のときに供えたばかりの卒塔婆の文字が、雨のせいでしょう、にじんで流され、全く見えない状況でした。このままで構わないでしょうか? 何だか供養が足りなかったのではないか、と思ってしまうのですが。お寺さんに申し上げたほうがいいでしょうか?
〈回答 172〉 そうですね。墨が十分に乾いていないところを雨に打たれますと、字が流れてしまいます。
 私どもも、卒塔婆の準備はなるべく早めにしていますが、色々な理由でぎりぎりになってしまうことがあります。
「何だか供養が足りなかったのではないか、と思ってしまうのですが。」
とのことですが、卒塔婆を建てた時点でご供養は全うされていますので、その点はお気になさらぬように。
 新たにお寺さんに卒塔婆をお願いする、という方法もないではありませんが、卒塔婆がそのときは美しくなっても、「三回忌法要」の日にご回向したものではなくなってしまいます。また、ご承知のように卒塔婆はいずれ朽ちてゆくものです。
 ですから、次回、卒塔婆をお願いするときは早めにご連絡して頂き、「三回忌の時に、雨でせっかくの字が流れてしまいました。今回は早めに書いて頂けませんでしょうか。」とおっしゃってみて下さい。

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質問 171
 仏陀というのは釈迦一人のことを指すのでしょうか? それとも覚者はみな仏陀なのでしょうか?
〈回答 171〉 これは、文脈によって両方あります。英語でしたら、「Buddha(釈尊…固有名詞)」と「buddha(覚者…一般名詞)」を分けて使うところでしょう。
「仏陀」といえば多くの場合、釈迦一仏を指しますが、大乗経典を開くと無数の仏が出てきます。良く知られたところでは阿弥陀如来、薬師如来、大日如来、多宝如来…。
 有名な「七仏通誡偈」(「もろもろの悪をなすことなく、もろもろの善を行ない、自らの心を浄めること、これが諸仏の教えである」)、も、釈尊と、そして釈尊以前に現れた6人の覚者たち(毘婆尸仏・尸棄仏・毘舎浮仏・拘留孫仏・拘那含牟尼仏・迦葉仏[*])が説いた偈文です。また浄土経典でいいますと、『無量寿経』に説かれる釈尊の説法は、「錠光如来・光遠如来・月光如来…」と、過去53仏の名前を挙げるところから始まっています。
 ですから、文脈による、とご理解下さい。

[*] 読みは順に、
毘婆尸仏—びばしぶつ・尸棄仏—しきぶつ・毘舎浮仏—びしゃぶぶつ・
拘留孫仏—くるそんぶつ・拘那含牟尼仏—くなごんむにぶつ・迦葉仏—かしょうぶつ
 です。

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質問 170
 今般、霊園にお墓を買うことになりました。 最近は、墓石に「○○家(之墓)」というような家の名前ではなく、好きな字や言葉を刻めるようです。それで、どういう言葉を刻もうか、迷っています。
 仏教的に考えると、どういう言葉が良いのでしょうか?
〈回答 170〉 すでに墓石を建てられている方であれば何も申し上げないところですが、「これから建てるにあたり、どうしよう」というご相談ですので、私の考えを述べます。
 墓石は、手を合わせる礼拝の対象です。それは、いわゆる記念碑のようなものではありません。
「○○家(之墓)」という字を刻めば、墓石に手を合わせるとき、ご先祖の諸霊位や仏の世界に対して礼拝することになります。また宗派によって、墓石に「南無阿弥陀佛」「南無妙法蓮華経」「倶会一処」といった字を刻むことも、礼拝する対象として誠に理にかなっていると思います。
 霊園に行きますと、確かにいろいろな言葉が刻まれた墓石をみかけます。(地方によると思いますが、首都圏の霊園では最近特に顕著です。)
 例えば、「感謝」。これは多分、ご遺族の気持ち—故人に対する気持ちであると思われます。分からないでもありませんが、自分の気持ちを表わす言葉に対して手を合わせるというのは、ちょっとおかしくないでしょうか。「慈」「心」「空」「愛」という言葉もよくみかけます。初めは新鮮に感じますが、まわりに同じ言葉が刻まれたお墓が沢山増えてくると、かえって色あせて見えます。「絆」というのもどうでしょうか。仏さまとの絆でしたらまだしも、乗り超えるべき「執着の絆」に見えてしまいます。手を合わせる対象としても、何か漠然とした感じです。べつにオリジナリティーを求める必要はありませんが、かえってオーソドックスな「○○家(之墓)」「南無阿弥陀佛」などの方が、いつまでたっても古さを感じさせません。
 いずれにしましても、墓石は礼拝の対象であるということ、そしていつまでも残ってゆくものであるということをしっかり念頭に置いて、お考え下さい。

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質問 169
 お尋ねいたします。
 私はお寺の出身ではないのですが、結婚を機に浄土宗のお寺を継ぐことになり、そのために僧侶の資格を取ることにいたしました。両親も私の決断を尊重してくれておりました。
 しかし最近になって、私の名前は漢字で3文字なので、名前を変えなくてはいけない、という話を聞きました。これにはさすがに両親も「一所懸命考えて、思いをこめて付けた名前を、変えて欲しくない」と言って、反対しています。今まで、心配しながらも私のことを応援してくれた両親だっただけに、余計に思いが伝わってきました。
 そこでお聞きしたいのですが、お坊さんになるにあたり、名前を変えなくても済む方法はないのでしょうか?
〈回答 169〉 「お坊さんになるにあたり、名前を変えなくても済む方法はないのでしょうか?」
 将来お寺の住職になられるのであれば、少なくともその時点で僧名(僧としてふさわしい漢字2文字)と戸籍名が一致している必要があります。ということは、やはり名前を変えなくてはなりません。
 仏門に入門するということには色々な要素がありますが、その一つは、仏弟子としての名前を師僧から頂戴することです。仏弟子として新しい生き方を始めるにあたり、それまでの世俗の生き方を代表する「自分の名前」を改めるわけです。
 将来お寺を継いだとき、あなたも檀家さんのご葬儀を勤めるようになるでしょう。そのときには、亡くなった方に対して、今度はあなたが仏弟子としてのお名前(お戒名)を授ける立場になります。そこまで考える必要があると思います。

 また私としては、ご両親を説得したいくらいの気持ちです。
「仏門に入るというのは、たいそう価値のあること。ご両親は誇りとすべきことです。僧侶である息子をもてる親は、そうそういません。このご縁に深く感謝する日がいつかきっと来るでしょう。その功徳に比べれば、あなた方がつけられた名前を変えることなど何でしょう」と。

 あなたの意にそぐわない答えになったかもしれません。が、名前は変えてもいずれは慣れてくるもの。また改名する時点で、それなりの心構えも出来てくるでしょう。ご両親にご理解頂けるよう、根気よく努力を続けて下さい。

H19.8.1 追記:この質問に関連して、「僧侶になりたい、あるいは僧侶になるにはどうすればよいか、とお考えの方へ」というページを新設しました。こちらもご覧下さい)

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質問 168
 浄土宗寺院の副住職です。
 先日、ある檀家さんから「浄土宗には輪廻の思想はあるのですか?」という質問を受けました。うちの住職は、「浄土宗には輪廻はありませんよ」というように答えていました。
 しかし私は、今日人として生まれ過ごしているのも輪廻の迷いであり、この世に生まれる前、前世も六道の色々な迷いの世界を輪廻してきた、と解釈しています。したがって、今度浄土に生まれることができなかったら、再び迷い、六道に生まれ、また人に生まれ…というように思っています。
 笠原泰淳上人のご意見をお聞きしたく、質問させていただきます。
〈回答 168〉 「今日人として生まれ過ごしているのも輪廻の迷いであり、この世に生まれる前、前世も六道の色々な迷いの世界を輪廻してきた、と解釈しています。したがって、今度浄土に生まれることができなかったら、再び迷い、六道に生まれ、また人に生まれ…というように思っています。」

 同感です。私の意見、ということではなく、それが善導大師、法然上人のお示しだと思います。
 自分は過去生において恐らく仏教に縁を結ぶこともあったであろう、それなのに現にこうして生死輪廻の苦海から脱け出せずにいる、この身を輪廻から解脱させてくれるのは、もはやお念仏の教えしかない…正しくあなたのお考え通りです。

 ご住職が「浄土宗には輪廻はない」とおっしゃるのは、往生浄土のあかつきには(還相回向=あえて浄土からこの世に還り、衆生を仏道に導くためにはたらくこと、を除いては)もう生まれ変わることはない、お念仏の信者はもうこれ以上輪廻をしませんよ、という意味ではないでしょうか。

「あれまあ、この子はきっと、おじいちゃんの生まれ変わりだよ。」
「いいえ。おじいちゃんは極楽に往生されているので、もう生まれ変わることはありません。」
 はなはだ不粋ながら、こういうことになりますね。

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質問 167
 お尋ねします。「12月16日は『念仏の口止め』の日。正月の神様(年神様)は念仏が嫌いであるとして、この日の翌日から1月16日の『念仏の口明け』までは念仏をとなえないというしきたりがあり、この日にその年最後の念仏を行なう。」
 上記の記載を諸所で見て調べたところ、貴寺では12月16日以降でも念仏会を開催しておいでのことを拝見しました。上記につきましては、昔のこと、または宗派によるものなのでしょうか?
〈回答 167〉 このお話は初めて聞きました。仰天いたしました。
 ご存知かもしれませんが、念仏行は「行住坐臥、時節の久近を問わず、念々に捨てざるもの」(善導大師『観経疏』)でして、本来は、眠るとき以外のすべての時間、1年365日のものです。ですから「念仏をとなえてはいけない期間」はありません。
 12月から1月のその期間、葬儀・法事や修正会ももちろんお念仏を中心にして勤められますし、浄土宗の伝宗伝戒道場(新僧侶養成の道場)は12月上旬から下旬にかけて毎年開かれます。
 私どもからすると「念仏の口止め」というのはまったくあり得ないお話です。「その1ヶ月間は呼吸をするな」と言われるに等しいことです。
 想像するに、
  • 念仏は亡者供養のためのものだから、新年を迎えるおめでたいときにはふさわしくない
  • この期間は、正月の神様にお仕えすることに集中すべきであり、念仏もやめた方がよい
という俗信が、一部の地域にあるのかも知れません。念仏信仰の観点からみれば、この考えはまったく誤っている、と言わざるを得ません。

 私は浄土宗ですが、浄土真宗・時宗にもおそらくそうした考え方はないと思います。
 一部の地域で言われてきたことではないでしょうか。

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質問 166
 極楽浄土について調べますと、「西の方、十万億の仏国土を過ぎた場所で、様々な蓮の花、金銀の宮殿、美しい鳥の声の説法などに満ちた安らぎのあの世の世界」とあります。
 それでは、死後に行く所ではなく、今ある現実を清め、浄土にしようと功徳を積む国造りは、極楽浄土といえますでしょうか?
〈回答 166〉 浄土の「浄」を動詞とした場合に、おっしゃるような意味、すなわち「国土を浄める=世界を清浄にする菩薩行」という意味になります。
 次に、「浄」を形容詞としてみると、「浄らかな世界」ということになり、「穢土(えど=けがれた世界)」に対する言葉になります。
 浄土宗でいう「浄土」は、後者、すなわち「浄」を形容詞とする「浄らかな世界」=西方極楽世界です。したがって「この現実を清め、功徳を積んで国造りを行なってゆく」ことは、もちろん尊い実践ではありますが、浄土宗の「浄土」の本義とは別のものになります。
「かの国に到りおわって六神通を得て、十方界にかえって苦の衆生を救摂せん」(善導大師)
 つまり、極楽往生が第一。人々を救おうとするのは、その後のことである——少し奇妙に思われるかもしれませんが、これが浄土宗の考え方です。

 では、この世で善行に励むことを否定するのか、というと、決してそうではありません。このあたりが微妙なところです。「微妙」といいますのは、ひとつには浄土宗義の人間観察の深さ(われわれは、いまだ輪廻を脱け出せない罪悪生死の凡夫である)と、もうひとつは、では現実の日々の生活にどういう心構えでのぞんでゆけばよいのか、ということの間に「揺れ」が出てくるからです。
 「他人に善を施し、社会を正しい方向に変えていくような力は、迷いの只中にいる自分には到底もち得ない。自分自身ですら自分の力で救うことはできないのだから。」——凡夫であることを自覚し、極楽往生を願ってお念仏をとなえる。そしてまた一方で、阿弥陀さまのみ光に守られながら、誠意と歓びをもってこの世の務めに励んでゆく——それが浄土宗の示す生き方です。

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質問 165
 お墓参りについて教えてください。
 私たち夫婦は二人とも故郷を離れています。夫の両親も故郷を離れ都会に住んでいるので、ご先祖様の墓は田舎にあり、結婚以来、15年間に2回ぐらいしかお墓参りをしていません。
 この3月に私の母が亡くなり、ご先祖様というものを考えたとき、私たちは先祖供養をおろそかにし過ぎていたのではないかと思いました。それで、近いうちに夫方のご先祖様のお墓参りに行こうと思うのですが、母の一周忌が終わるまでは行かないほうがいいのですか?
 私の実家には、毎月帰って母のお墓参りに行っています。母のお墓とご先祖様のお墓は少し離れた所にあり、父が(一周忌が終わるまでは)行かなくていいと言うので、母のお墓参りだけ行っています。が、こちらも気になっており、行ってもいいものなら、お彼岸のときくらい参りたいと思っております。
〈回答 165〉 「一周忌が終わるまでは、ほかのご先祖のお墓参りには行かなくていい」とは、どういう意味でしょうね。お父さまがそうおっしゃるからには、何か理由があるのだと思いますが、文面からは計りかねます。
 一周忌を迎える一年間の間に、盆・彼岸やほかのご先祖のご命日が次々とやって来るわけですよね。「お参りすべきでない」という理由は私には見当たりません。放っておくよりもお参りしたほうが、当然いいと思うのですが。それはお父さまのお考えなのか、それともご郷里の風習なのか…。
 お父さまの言葉に引っ掛かっておられるなら、ご実家の方の菩提寺にご相談されたらどうでしょうか。「私はこう考えているが、父はこう言っている。どうすればよいでしょうか」というふうに...。ご住職のご指導に従うのが一番ですし、そのほうがお父さまも(あなたも)ご納得なさることでしょう。

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質問 164
最近祖父が亡くなり、お葬式をしていただいたのですが、住職さんの着物の色・袈裟の色が気になりました。数ヶ月前に行った親戚のお葬式のときと違ったのです。(同じ檀家なので、住職さんも同じです。) お布施や戒名の高さで違ってくるんでしょうか?
〈回答 164〉 「お布施や戒名によって、ご葬儀のときの法衣や袈裟が違うのか」
 …あり得ない話ではないと思いますが、他にもいろいろな事情が考えられます。
  • 通夜と葬儀告別式では、違うお袈裟をつけることが多い。その場合、同じご住職のお勤めであっても、通夜に出席するのと葬儀告別式に出席するのとでは、違う法衣・袈裟を目にすることになる。
  • 法衣にも袈裟にも、夏物と冬物がある。夏のご葬儀と冬のご葬儀とでは、違うものを身につける。
  • 同じ季節の葬儀であっても、同じ法衣を続けて着ずに、休ませることもある。
  • いつも着るものを修繕や洗濯に出していれば、替わりのものを身につけることになる。
 などが考えられます。(ちなみに私の場合は、お布施や戒名によって法衣・袈裟を変えることはありません。)
「あまり気にしないこと」——これが私からのアドバイスです。そういうことを気にしていたら、よきご供養になりませんから…。

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質問 163
嫁いだ家は浄土宗です。お盆に、伏盤(金属音がしました)のようなものを叩きながら西国33ヶ所巡礼の歌のようなものを唱えて、最後にお経を読んでいたようでした。これはどういう意味でしょうか。どうして阿弥陀様ではなく観音様を拝むのでしょうか。いろいろな方に聞いてみたのですが、「毎年してるから..」という答えでした。意味が分からないのに唱えてるのも疑問ですが... これから、後々の事を考えても心から唱えてゆきたいと思いますので、意味を教えていただけるでしょうか?
〈回答 163〉 それは、お盆の棚経(たなぎょう:お寺さんがみえて読むお経)でしょうか。あるいはご家族で読むのでしょうか。
 棚経ですと、宗訂(浄土宗で定められたもの)のお経があり、そこにはご詠歌や和讃は入っておりません。しかし、どこでも宗訂どおりのお経が読まれているわけでもありません。お寺、また地域によって独特のものが読まれている可能性があります。
 一般に、お盆の行事は「宗派による違い」よりも「地域差」のほうが大きいといえましょう。お盆の期間や、お供え物などに地域それぞれの特色があるのと同じように、お経もそちらの地域独特のものが読まれているのでしょう。
 また、ご家族で読まれる場合、こうも考えられます。ご先祖に熱心な観音信仰の方がおられ、以後「その方に倣って」読まれているのかもしれません。
 観音さまは、弥陀三尊の脇侍として浄土宗でも祀られます。また、お経の中に観音さまを讚えるお経も出てきます。ご承知のように浄土宗では阿弥陀さま、お念仏が中心であり、お念仏だけで救いを頂けますが、観音さまを礼拝することもまた結構なことだと思います。

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質問 162
テレビで、「お墓参りの時に、墓石に水をかけてはいけない」という話をしていました。今まで必ず水をかけてお参りしていたのですが、これはいけないのでしょうか?
〈回答 162〉 墓石に水をかける理由は、
  • 単に墓石を洗い清めるため
  • 「水を供養する」の意味で、水を手向ける
  • 「灌頂(かんじょう)」という、頭頂の部分に水をそそぐ密教の儀式に関連している
などが言われています。
 私が教わったところによれば、「単に墓石を洗い清める」、つまりお墓掃除の総仕上げの意味がもともと。実際に墓石に水をかけて合掌すると、不思議と「ああ、お参りした」という気分になるので、何となく定着したのでしょう。
 水をかけてはいけない、という理由がご質問の文面では分かりませんが、「墓石が傷むから」という話を聞いたことがあります。雨風にさらされることが前提なのに、「傷むから水をかけぬように」というのも妙です。それに石といっても諸行無常、長い年月が経てばいずれは傷んでゆきます。(話は飛びますが、「お線香の煙やロウソクの煤でお仏壇が汚れる」から全部電気式のものにする、という考え方にも私は疑問を感じます)
 また「ご先祖の頭から水をかけるのは失礼」というのも聞いたことがあります。しかし、墓石は別にご先祖の姿の象徴ではありませんから、これも理由にはなりません。

 したがって、結論…今までのように、墓石をきれいに掃除したあと、どうぞたっぷりと水をかけてお参りなさって下さい。

(追記) 知り合いの石材店の方に尋ねてみました。その方のお話を紹介します。
  • 水をかけて、墓石が傷むことはない。但し、すでに相当傷みが進んでいる墓石の場合、冬場などにかけた水がしみ込んで、凍結し、膨張して石の傷みが進む、ということはなきにしもあらず。
  • 水をかける理由は、供養のために水を手向ける、ということと、樒(しきみ)の香りを墓石につける(土葬の場合、狸などがお墓を掘り起こさぬよう、毒素がある樒をお墓の側に植える風習があった)というのが由来であろう。後者の場合、水皿に樒の葉を浸し、葉についた水を墓石にふりかける。
 由来については諸説あるようですが、水をかけること自体は問題なさそうですね。
 但し、石材店の方が教えて下さった注意点。「故人が好きだったから」という理由で、墓石にお酒をかける方がいますが、その場合はお気をつけて。お酒に含まれる糖分が酸化し、石の鉄分と反応して墓石が変色(黄ばむ)することがあるそうです。「お酒をかけてもよいが、あとでよく石を洗っておいたほうが良い」ということでした。

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質問 161
散骨について新聞で読みました。
「(遺骨を)まいた後に人目に分かるような形で残るのは不快感を与えるので、あらかじめ米粒大以下に砕いてもらう」
「散骨する日については、喪服でなくカジュアルな服を着るようにすすめている。その理由は…海や山に黒い服を着た集団がいることで、周囲に不快感を与えないため」
「夫の遺灰を散骨したある女性(79)は『ずいぶん沖でやるのだなと思いましたが、他人に迷惑をかけずにできました』と静かに語った。」
などと書かれており、読んだあと何だか変な気がしました。散骨は、そういうものなのでしょうか?
〈回答 161〉 散骨をすすめる活動は、私の理解するところでは、自然保護の観点から始まっています。緑豊かな山を切り開いて、次々と墓地開発してゆくのを何とか止められないか、という立場です。
 自然保護の観点ももちろん大切ですが、大切な家族の遺骨を葬るのに、「周囲に不快感を与えないように」ことさら気づかいをしなければならないとしたら、悲しいことだと思います。 

 話は変わりますが、こういうことがありました。
 ある葬儀式をおつとめした後、火葬場に向かう車の列が道路を進みます。先頭は霊柩車。私ども僧侶は、たいてい霊柩車の次の車に乗ります。何気なく車外を見ておりますと、ふと独りのご老人が目に留まりました。その方は、道を歩いていて、たまたま葬送の場面に出会われたのでしょう、立ち止まって手を合わせ、頭を垂れて車の列を見送っておられます。そのお姿を見て、私は心動くものを感じました。そのご老人の祈り…見知らぬ亡き方の冥福を願い、遺族をいたわる声なき祈りが聞こえてくるようでした。
 ご質問の新聞記事から目に浮かんでくる散骨光景とは、ずいぶん対照的です。

 背景のひとつに、散骨が「葬送の文化」としてまだ充分に定着していない、だから周囲に対し充分に気づかいをして、トラブルが起こるのを未然に防がなければならない、ということがあるように思います。
 事情はともかく、「周囲に不快感を与えないように」「他人に迷惑をかけずに」気づかいながら葬送しなければならないとすれば…それが本当に故人を尊重し、故人の冥福を祈るものになるのだろうか、遺族感情は充分尊重されるのだろうか…私も疑問を感じます。

 がしかし、疑問を感じたその一方で申し上げますと、新聞記事はあくまでも新聞記事です。
 もしもあなたが散骨に関心をお持ちなら、「こういう側面もある」ということを一つの材料として考え、判断なさればよいのではないでしょうか。
(散骨に関連したご質問と回答はQ & A 82や、Q & A 122にもありますので、よろしかったらご覧ください)

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質問 160
将来、実家の寺を継ぐつもりです。周囲の友人はほとんど「無宗教」だといいます。このままでは、寺院・仏教の将来が心配になってきます。私はどういう心構えをもってゆけばよいでしょうか?
〈回答 160〉 「無宗教」ということばには、いくつかのニュアンスを感じます。どういう方が、どういうふうにこの言葉を使っているのでしょうか。
  • お墓やお仏壇にはお参りするが、仏教のことはよく分からない。「私は仏教徒です」というにはおこがましい。
  • 旅行先で、神社仏閣にはよくお参りする。が、特定の宗派に属しているわけではない。
  • 先祖のことは大切に思っている。だが、古くさい形式で先祖供養するのは嫌だ。
  • 特定の宗教や宗派にしばられるのは嫌だ。
  • 宗教に熱心な人は、自分たちの考えを押し付けてくるので、関わりたくない。
 よくよく話を聞いてみますと、案外宗教心を大切にしている方が多い—私はそういう印象をもっています。
「自分の中の純粋で微妙な部分は、そっとしておいて欲しい。宗教団体に関わると、その微妙なところが冒されるような気がする」
 私から見ますと、まことに宗教的にみえる(ことがあります)。
 あなたの周囲のご友人は、おそらく大人たちが「無宗教」という言葉を使うのを聞いて、どこかしらに魅力を感じたのでしょう。その言葉に、「自由」で、「開かれた」「新鮮な」、それでいて「守られている」感じがあるのかもしれません。宗教について充分に理解したうえで、「これは自分の取るところではない」と判断しているわけではないと思います。

 では、そういう方々に、どういう心構えで関わってゆけばよいのでしょう。
 以下は私の考えです。もし上に書きました通りであるならば、私たちの寺院・仏教に、「無宗教」という言葉を超える魅力を創ってゆかなければなりません。「無宗教」といっても宗教心そのものを否定したり、宗教自体が無意味であると言っているわけではない。ですから、檀信徒の方々の心の「純粋で微妙な部分」に、何かを押し付けるのでもそれを無視するのでもなく、ソフトに関わってゆく、また仏教やお寺と関わる中で「自由で、開かれた、新鮮な、それでいて守られている」ように感じて貰えるように工夫してゆく…そこに活路があるように思います。

「私たちの寺院・仏教に『無宗教』という言葉を超える魅力を創ってゆく」と書きましたが、これは何も「とにかく新しいこと始めなさい」と言っているわけではありません。そうではなく、今の時代に生きるあなたご自身が、仏教・お寺にどういう魅力を見いだすか、それがきっと架け橋になるだろう、と申しているわけです。

 人が生きているかぎり、そこには苦悩があり、救いを求める心があります。その心を土台から支えてくれるのは、やはり仏教です。
 自信をもって、時代に立ち向かって下さい。

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質問 159
友だちと呼べる人がいません。どうすれば友だちができるでしょうか?
〈回答 159〉 あなたがここにいて、誰かがそこにいて、2人が突然友だちになる…そういうものではありません。友人関係が生まれるのは、まず2人に「共通の場」があることが前提です。
 それは、学校などの「学びの場」であったり、「仕事の場」「趣味の場」であるかもしれません。共通の場をともにする仲間としての意識、あるいは同じ目的に向けて努力する同朋としての意識—ここから友情が生まれます。
 私はあるボランティア団体で長く活動をしていました。そこでは、男女・年齢や、職業・家族の有無を問わず、さまざまな方々が善き仲間として友情をはぐくんでいました。
 純粋な友情は素晴らしいものです。友情は性愛と違い、嫉妬心や独占欲に冒される危険が少ないのです。お互いに支えとなり、人間としての成長を促しあうことができます。

 あるとき仏弟子アーナンダが、師であるお釈迦さまに尋ねました。
「お釈迦さま。よくよく考えてみますと、私どもが善き友をもち、善き仲間と共にあるということは、すでにこの聖なる道のなかばを成就したに等しい、といえるのではないでしょうか。どのように思われますか。」
 お釈迦さまの答えは、このようなものでした。
「アーナンダよ、それは違う。その考えは正しくない。われらが善き友をもち、善き仲間と共にあるということは、この聖なる道のなかばにあたるのではなく、この道のすべてなのである。」

 そのゆえに、私たち仏教徒は共に歩む仲間(仏教徒の集い)を大切にします。善き仲間に出会えるのも、私たちが道を同じくするからです。

 これは仏道の話でした。
 他の道も同じだと思います。まず2人(3人、4人…)に共通の場があり、そこから自然に友情が育ちます。
 あなたにとって、それはどういう場でしょうか。

 もう一つ。人為的にそういう場をつくり、人間関係のトレーニングを体験できるようなワークショップがあります(エンカウンターグループなど)。そういうグループに参加してみるのも一つの方法です。

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質問 158
職業について悩んでいます。親は「やりたいことをしなさい」と言ってくれるのですが、やりたいことがなかなか見つかりません。テレビを見ていると、自分以外の誰もが楽しそうに生きているように思えてきてしまいます。でも自分は今は無職です
〈回答 158〉 「やりたいこと」が見つからないのなら、「できること」「できそうなこと」から始めることです。最初に高い目標、理想を設定する、という方法もありますが、日常生活の中で実感をもって取り組める目標でなければ、たいていの場合うまくいきません。「できること」「できそうなこと」というふうに考えれば、その対象はたくさんあるはずです。
 お給料を頂く仕事ではありませんが、今のあなたであれば、例えば部屋を掃除する、整理する、身の回りのことを自分でやってみる、というのもひとつです。料理・洗濯…今まであまりやってこなかったことに取り組んでみる。恐らく、多くの発見があることでしょう。とりわけ掃除や整理に取り組んでいると、自分の内面も整理されてゆくのが分かります。

 家事は一つの例です。もしやったことがなければ、ぜひやってみて下さい。一見したところでは「何気ないもの」「つまらないように見えるもの」によって私たちの生活は成り立っています。しかし、その中に発見や歓び、やりがいや幸せが隠れています。職業もまたしかり、だと思います。
 テレビなどを見ていると、あたかも面白おかしい世界の中で生きていく道があるように思えますが、それは見かけだけです。そのような世界を演出して、視聴者に見てもらうのがテレビの仕事なのですから。

 「できること」「できそうなこと」に取り組んでゆくうちに、「やりたいこと」に出会うことは大いにあり得ます。少なくとも、「できること」に取り組むことで、得るものはあっても失うものはほとんどないでしょう。「やりたいことを見つけよ」というのがかえってプレッシャーになってしまい、身動きが取れなくなるという場合もあるのではないでしょうか。「できること」「できそうなこと」—というふうに発想を変えることをお勧めします。

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質問 157
うちのお墓のすぐ近くに親戚のお墓があります。(それぞれ違う霊園なのですが、車で5分くらい。)一緒にお参りしてはいけませんか。「ついで参り」は良くない、といいますが...
〈回答 157〉 構いません。どうぞお参りなさって下さい。
 確かに「ついで参り」は良くない、といいますが、この場合は別に構わないと思います。そのときは、ご親戚のお墓の方にもどうぞお花・お線香を上げて下さい。
「ついで参り」はいけない、といいましても、それは「ついで」の中身にもよります。
 ご先祖や、そのお墓を守っておられる方などに対して失礼になるような「ついで」は確かに良くないでしょうね。
(例1)大切なご縁のある方のお墓に、「近所に来たついでに、ふと思い出して」お花もお線香も持たずに立ち寄る。
(例2)法事の施主をつとめ、出席者全員でお墓参りをしている最中に、施主だけがフラッとよそのお墓に「ついで参り」する。
(例3)府中競馬場に遊びに行ったついでに、近くの多磨霊園に寄ってお墓参りをする。

…というわけで、どうぞ常識でご判断なさって下さい。

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質問 156
教えてください。お寺の名前で“〜寺”“〜院”“〜庵”などありますが、何か違いはあるのでしょうか?
〈回答 156〉 それぞれに由来があります。
「寺」は、中国でむかし官庁をあらわす言葉でした。西域から来た仏教僧を庁舎に滞在させた関係から、僧のいるところを「寺」と呼ぶようになりました。
「院」は、垣をめぐらした建物、の意味。お寺のほかにも「病院」「医院」「学院」「議院」などがありますね。
「庵」は、草葺きの小さな家。僧侶や尼僧が仏さまをお祀りして住む小さな建物、の意味にも使います。

 また多くのお寺は、「○○山△△寺□□院」のように、山号・寺号・院号をもっています。
 浄土宗総本山は京都の知恩院として知られていますが、「華頂山大谷寺知恩院」といいます。東京芝の増上寺は、「三縁山廣度院増上寺」です。
 寺号・院号については上の通りです。山号は、中国で寺院が山中に建てられたことに由来します。

 浄土宗の寺院名鑑を開いてみますと、「〜寺」「〜院」「〜庵」の他にもいろいろな名称のお寺があります。
 「○○堂」「○○軒」「○蓮社(れんじゃ)」「○○窟」「○○教会」「○○坊」…
 それぞれのお寺の歴史の中で、これらの名前がついています。現在、宗教法人としてはどれも同じ一寺院であって、特に区別はありません。

 ちなみに、当林海庵は、新しいお寺—開教寺院—ですので、私(住職)が命名いたしました。マンションの中の小さなお寺としてスタートしたところから、「庵」といたしました。

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質問 155
義父の祖母の代から浄土真宗です。ご先祖をおまつりしたいのですが、改宗できるでしょうか? お墓は一般の墓地にあります
〈回答 155〉 メールアドレスがありませんでした。サイト上でお答えするしかないのですが、これだけですと状況がよく分かりません。
 改宗はできないことはありませんが、それしか方法がないのか、またそれをどういうふうに進めるかなど、お話をもう少し伺う必要があります。
 ご家族ご兄弟の状況はどうなのか、お仏壇はどこにあるのか、菩提寺とのおつき合いはどうされてきたのか、改宗についての周囲の方のご意見はどうなのか。
 また「一般の墓地」とは、霊園墓地のことでしょうか。
 もう少し詳しくお願いします。
 (Q & A 153Q & A 96も関連のご質問です。ご参考になるかもしれません)

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質問 154
友だちが、奇妙な写真を見せてくれました。5人くらいの人が写っている中に、ぼんやりと人の顔のようなものが見えています。光の加減のようにも見えます。
 「心霊写真」というのは本当にあるのでしょうか?
〈回答 154〉 不思議なことに対して開かれた感性をもつことは大切です。しかし、「霊」に関係することは、心を不健全にする場合が多いものです。
 「霊的な現象」に接して、そこから何か善き連想が起こり、あなたの心を温め開かせてくれるならまだ良いでしょう。しかし、そうでないならば——不安やコワイ気持ちが起こったり、単なる興味本位のお話ならば、一切気にしないことです。
 でないと、あなたは自分自身の心を弱くすることになります。

 心は清らかに、そして強く保つように心がけましょう。

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質問 153
一身上の都合で養子に入ります。現在手を合わせている仏壇は、どの様にすればよろしいですか? 私以外にその仏壇に手を合わせる者は居りません
〈回答 153〉 何らかの形でご先祖のご供養を継続する、という立場に立って考えましょう。可能性としては、
  1. 養子に入られる家の了解を頂いて、お仏壇を移動する(持ち込む)。
  2. お位牌だけを、今度の家のお仏壇に入れさせて頂き、もとのお仏壇は処分する。
  3. お仏壇ではなく、小さなお厨子を求めてそこに祀る。
  4. 菩提寺に位牌を預け、菩提寺にご供養をお願いする。
 のいずれかになるのではないでしょうか。

 かつては「違う宗派や別の家の仏壇を一緒に祀るのはよくない」とされていましたが、少子化時代の今日、もっと柔軟に対応しても構わない、というのが私の意見です。(そこにこだわっておりますと、結局のところ「ご供養できない」ということになってしまいます。)

 菩提寺と先方の家の双方とご相談なさって、最良の道を見つけて下さい。その際、あなたご自身のご希望をしっかりとお伝え下さい。

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質問 152
浄土宗の場合、お仏壇にお参りするときに、お線香を何本立てればよいのですか。調べてみますと、「浄土宗は三本立てる」「二本と決まっています」「一本をふたつに折って立てる」など色々あって、どれが本当なのかよく分かりません
〈回答 152〉 浄土宗では、「お線香を立てるときの本数は、ご焼香をするときの回数に準ずる」とされています。
 そして、ご焼香の回数は次の通りです。——「一回、二回、三回、いずれでもよい」
 さらに、これらのそれぞれに意味づけがあります。
  • 一回:一心不乱の心をもって(お念仏する)の意。
  • 二回:戒香と定香を焚く。(お念仏による滅罪と、念仏三昧の心を、香に託して焚く)
  • 三回:戒香と定香に解脱香(阿弥陀さまの光明を頂く)を加える。
    または、三毒の煩悩(貪欲、怒り、愚かさ)を焼き尽くす。
    あるいは、三宝(仏・法・僧)に供養する。
    または、三世(過去・現在・未来)の諸仏に捧げる。
 少々難しい説明になりましたが、要するに、一回、二回、三回いずれでも構わない、ということです。
 したがって、お線香を立てる場合も、一本でも二本でも、三本でもよいのです。

 以上が原則です。
 ご法事などで複数の方がお参りする場合は、心をこめて一回(一本)で宜しいでしょう。

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質問 151
浄土宗では、死後の世界、霊魂の存在を認めていますか?
〈回答 151〉 「死後の世界がある」「霊魂は存在する」という宗の公式見解はありません。(同様に、「存在を認めない」ということも聞いたことはないですが)
 そこで、一僧侶としての見解を書きます。

 浄土宗は「命が終わるとき、六道輪廻を超えて極楽浄土へ往生しましょう。そのために本願のお念仏をとなえましょう」という教えです。従って、ある意味で「死後の世界はある」といえます。死後おもむく先として、さまざまな迷いの世界があり、またさまざまな仏の世界があります。その仏の世界の中のひとつである極楽浄土を選び、そこに往生することを願います。
 極楽浄土は仏道を修行・完成するための場所です。我欲を満たしたり、感覚的な悦びにひたるための場所ではありません。「我執にまみれたこの世の延長にある世界」ということでその世界をとらえるならば、随分と見当違いなことになります。
 また、臨終時には来迎(らいこう=仏さまのお迎え)がある、という教えですので、来迎の対象となる何かがあるはずです。私たちの意識か、あるいは何らかの心理状態が、お迎えをいただいて死の境を超えて続いていく、ということも認められると思います。
 あえて言えば、「菩提心」「極楽往生を願う心」が来迎を頂いて極楽浄土に生まれる、ということになりましょうか。この「願往生心(がんおうじょうしん)」は、アートマンの思想とは無関係です。また、霊能力や心霊現象、霊障とも関係ありません。ですからそれを「霊魂」と呼ぶのはふさわしくないように思います。

 まとめますと、
  • 死後の世界はある。ただし、そこにはさまざまな可能性がある中、浄土宗では「極楽浄土」を選び、そこに生まれる(往生する)ことを目的とする。
  • 死の境を超えて継続する意識(心理状態)を認めるが、それを「霊魂」とは呼べない。
 一般的に「私たちの中に『霊魂』があって、その霊魂は死後別の世界におもむく」と言うだけですと、そこには浄土宗が説くところの信仰心も、念仏行も見当たりません。そこで、私の中には次のような疑問が生じます。
「その『霊魂』とは何ですか? 今、あなたの中にそれがあるのですか?」

 そして実を言いますと、この問いこそが最も重要なものです。
 今現在の自分の中に、肉体の死を超えて存続するような何ものかが存在するのだろうか?
「明晰な意識」?「静寂心」?「悟りを求める不動の決意」?「絶対の信心」?「永遠の愛」?…はたして今の自分の中にそれがあるのか…私たちはそれをこそ自問すべきではないでしょうか。
 この問いに確たる答えが得られないとき…(ほとんどの方が明解に答えられないと思いますが)そのときに私たちは再び、「『自分は愚者である』と自覚せよ」「他力を頼むべし」という浄土宗の教えのスタート地点に還ってくることになります。

「聖道門の修行は智恵をきわめて生死をはなれ、浄土門の修行は愚痴にかえりて極楽に生まると知るべし」
「われらは信心おろかなるがゆえに、今に生死(迷いの世界)に留まれるなるべし」
「智者の振る舞いをせずして、ただ一向に念仏すべし」
                                 (法然上人)

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質問 150
お坊さんはどういう暮らしをしているのですか? 一日の時間の使い方は?
〈回答 150〉 本山で集団生活をおくって修行しているときは、早朝から夜までびっしりスケジュールが詰まっています。勤行・掃除・食事・講義・実習・勤行…といった具合です。
 自坊(所属の寺。住職であれば、ほとんど自宅を兼ねているか、近接している)に戻りますと、各寺院また各自のやり方で時間を使うことになります。

 私の場合はどうかと言いますと、勤行・掃除のほかは、メールを書いたり、手紙を書いたり、電話を受けたり、来客に対応したり…人さまに対応する時間がかなりの割合を占めています。また、法話やサイトに載せる原稿をつくったり、信徒さんに郵送する印刷物の準備をしたり…。宛名書き・封筒詰めなどの雑務もあります。
 お花やお香、炭やロウソクなどの消耗品(?)をチェックしたり、ご法事の準備(卒塔婆を書いたり)もあります。また総務や経理などの管理業務も、わずかながらあります。
 週末はご法事を勤めます。外に出る日は、移動時間もかなりの割合を占めます。

 小さな寺ですので、それぞれの仕事量は大したことはありません。ただ、ほとんど一人でやります。大変といえば大変、また仕事に変化がありますので、内容豊かといえば豊か、というところでしょうか。
 このようにせわしくしておりますが、中心はやはりご本尊さまを前にした勤行—読経、念仏、礼拝です。勤行といういわば「重心」の周辺に、ほかのさまざまな仕事が漂っている、という暮らしです。これは、私にとってはたいへんありがたい、何ものにも代えがたい環境です。

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質問 149
仏教関係の本が次から次へと出版され、また実際に売れています。かたや「仏教離れ」ということが言われ、(一部の観光寺院を除けば)お寺に足を運ぶ人は少なくなっています。どうしてでしょうか?
〈回答 149〉 いくつかのことが言えます。
 まず、仏教に関心をもつ人は多いですが、それは「お寺」に結びついた関心ではない、ということ。
 ある人々は、日常生活を生きる上でのヒントや、ものごとの考え方の基準を仏教書の中に求めます。しかし「お寺」はそういったこととは別の場—先祖供養の場であり、それ以上の役割をお寺には期待していない。だから、お寺に足を運ぶ人はなかなか増えません。
 これについては、われわれお寺の側にも問題があります。一般の方々が仏教や寺院に何を期待しているか、ということをもっと知ろうとする努力が必要でしょう。(もちろん、先祖供養が大切だということも強調しておきたいのですが…どうぞ誤解なきようにお願いします)

 また一方、いくらたくさん仏教書を読んでも、それだけでは「仏教徒である」ことになりません。本から学び、「これまでの私+α(=仏教の知識)」というスタンスで仏教に接して「それについては人より多少詳しいんです」と頭で思うだけであれば、かえって良くありません。
 仏教が求めるのは、「これまでの私−(マイナス)α」です。仏に礼拝し、余計なものを手放していくことが仏教の修行。教えを学ぶことが修行や生き方にまで発展せず、読書体験が通勤電車の中やリビングルームのソファーの上だけの出来事で終わってしまうのであれば、推理小説を読むのとあまり変わりません。
 せっかく仏教に触れるのであれば、寺院の本堂の荘厳に身を置き、良質のお香に身心を薫じ、実際に声を出して読経・念仏などをとなえ、仏さまを感じて下さい。その光明、聖なる沈黙の中に身を浸して下さい。やがて仏の光明があなたにも映り、あなたの「在りよう」や人間関係まで変化してくるでしょう。

 仏教は「読むもの」「考えるもの」ではなく、「感じる」ものであり、「それ(仏教)を生きる」もの、「そのように在る」ものです。
 私はそう思います。

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質問 148
昨年身内を亡くしました。菩提寺(浄土宗)のご住職が、「とにかくお念仏をとなえなさい。それが一番のご供養だから」と教えて下さいました。それでその通りにしてみるのですが、なかなか気持ちが安まりません。どうすればよいでしょうか?
〈回答 148〉 「お念仏が一番のご供養」というのは本当です。しかし、お念仏をとなえたら直ぐに救われた気持ちになる、とも限りません。
 浄土宗では「他力の念仏」と申しまして、「なむあみだぶ、なむあみだぶ…」とおとなえするのは、仏さまが「わが名をとなえよ。そうすれば必ず極楽浄土に救い導こう」とお約束をされているからです。このお約束(「本願」といいます)を信頼して、そのお言葉に応えてお念仏をとなえるわけです。ですから、心を静めるため、気持ちを安らかにするためにとなえるわけではありません。(もしそれらが第一の目的ならば、お念仏で心が静まらない場合「お念仏では目的がかなわない」「お念仏の効果がない」ことになってしまいます)

 では、お念仏では心安らかになれないのかと言いますと、決してそうではありません。私は多くのご遺族とお付き合いをして参りましたが、お念仏の力には絶大なるものがあります。

 今はまだ「気持ちが安まらない」かも知れません。それだけお悲しみが深いのでしょう。
 が、どうぞお念仏をお続け下さい。胸の辺りで合掌し、お仏壇の阿弥陀如来に向かって、全てをお任せをする心でとなえます。(お念仏のとなえ方については、Q&A11をご覧下さい)
 そうすればいつか必ずお導きと救いがあるでしょう…それがお釈迦さま、阿弥陀さまのお約束です。 

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質問 147
はじめまして。お墓参りのことで質問があります。
 私は結婚以前からお墓が近かったので、月に1度は家族でお墓参りをしていました。よくテレビなどで、「女の人は結婚後、自分の実家のお墓参りよりも、旦那の家のお墓参りをしなくてはいけない」と聞きます。その理由もよくわかるのですが、主人のお墓が遠方にあり、なかなか行けません。
 それと、環境の違いか主人の方はお墓参りなどはあまり気にかけていないようです。代行サービスなどもあるようですが、少し違和感を感じます。主人のほうに行けないのだから私の実家のお墓参りも控えなければいけないのでしょうか?
 又、主人はうちの実家のお墓参りをあまりしないほうがよいのでしょうか?
〈回答 147〉 「主人のほうに行けないのだから私の実家のお墓参りも控えなければいけないのでしょうか?」ということについてですが、それは気になさらなくて結構です。同じような距離に両家のお墓があって、ご実家の方だけお参りするというのならともかく、ご主人の方のお墓はご遠方なわけですから、やむを得ないでしょう。そちらは行けるときにお参りなさって下さい。

 それと、ご主人の方のお墓は、他にどなたか守る方がおられるのでしょうか。お仏壇はどちらにあるのしょう。そのあたりがちょっと気になりました。
 もしお墓やお仏壇をちゃんと守る方が他におられるのなら、あなた方は出来る範囲のことをなさればそれで充分です。

 そして、「主人はうちの実家のお墓参りをあまりしないほうがよいのでしょうか?」とのご質問については、もしご主人がお参りして下さるのでしたら、まったく構いません。別に、それを見てご主人方のご先祖がやきもちを焼くわけではありません。むしろ、仲良くされているのを見て安心なさるでしょう。どうぞお気になさらぬように。

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質問 146
今年の初めに、彼氏が交通事故で亡くなりました。
それまで彼の家族とは面識がなかったのですが、葬儀の時に最後のお別れをさせてくれたり、四十九日まで毎週お参りさせてくれました。今は彼のお母さんと時々連絡をとったり、彼の家に行ったりしています。
今年彼の初盆なのですが、どのようにしようか迷っています。提灯などを送ってもよいのか、それとも飲食物を送った方がよいのか…。
個人的にはずっと使える物をお供えしたいと思いますが、私は彼の親族ではないのでそういう物を送っていいものなのか…と考えてしまいます。
葬儀の時、友人と連名でお花をしたので連名でするか一人でするか…色々考えたりしてキリがありません。
こんな質問ですみませんが、何かアドバイスを宜しくお願いします。
〈回答 146〉 交通事故だったのですね。それは大変でした。お悔やみ申し上げます。
 初盆もお参りされたら、ご家族も喜ばれることと思います。
「個人的にはずっと使える物をお供えしたいと思いますが、私は彼の親族ではないのでそういう物を送っていいものなのか…と考えてしまいます。」
 そうですね。提灯でないほうが良いような気がいたします。10年、20年と残るものよりは、お花や菓子、果物が良いでしょう。
 また、彼の写真はありますか。もしあなたのお手元にあって、ご家族がお持ちでない写真があれば、(焼き増しできるのであれば)お持ちになっては如何でしょうか。ご仏前に飾って頂けるかも知れません。
 また連名にするかどうかですが、おつき合いのことをご家族がご存知ならば、もう連名にする必要はないでしょう。

 良きご供養になることを祈念しております。

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質問 145
母が亡くなって丸7年。毎月月命日にはお寺さんに来ていただいておりましたが、私も仕事をはじめたため毎月家にきてもらうのは大変なので、そろそろ祥月命日だけにしたいのですが、そんなことを言うのははお寺さんに失礼でしょうか? ふつうは何年くらい続けるものなのでしょう?
〈回答 145〉 月命日のお参りは、地方によってずいぶん差があります。その習慣がない地方もあります。
 いずれにしましても、「お寺さんに失礼」ということはないでしょう。正直にご相談なさってみてはいかがですか。
 もし「失礼では」とご心配ならば、「大変失礼かと思うのですが…」と前置きなさればよいでしょう。言いにくければ、「大変申し上げにくいのですが…」と切り出せば、いくらか話しやすくなるはず。

 あまりご心配なさらず、菩提寺さまに、正直に、丁寧にご相談なさってみて下さい。

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質問 144
先日お彼岸のお墓参りのとき、亡き母が私にくれたクリスマスローズの花がとても綺麗に咲いたので、どうしても供えてあげたくて他のお花に混ぜてお参りしました。が、一週間ほどしてから、お墓にはよくなかったのでは?と心配しています。
ちなみにこの花には、いやな香りもなくトゲもありません。
〈回答 144〉 クリスマスローズをお供えされたとのこと、たいへん結構だと思います。
「クリスマス」とついていますが、別にキリスト教のお花というわけではありませんし…。
 どうぞご安心を。お母さまもきっと悦ばれたことと思います。
質問4に関連のご質問があります)

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質問 143
仏さまが実際にいるということがなかなか信じられないときは、どうすればいいでしょうか? 「沢山の仏さまがいる」とお経には書いてありますが、実際会ったことがないので、なかなか信じることが難しいです
〈回答 143〉 思うに、仏の存在を信じるには、いくつかの道筋があります。
 まず、何かしらの宗教的な体験をして、「仏の世界は真実であり、それが実際に存在している」と実感した場合です。
 また、そのようなはっきりとした体験はなくとも、「仏さま」に子供の頃から慣れ親しんでいて、自然にそれを自分のよりどころにして成長した場合。
 あるいは、家族との死別の経験をへて、追善供養をしながら仏の世界になじみを深めていく場合…などです。

「仏さまが実際にいるということがなかなか信じられないときは、どうすればいいでしょうか?」
 私がまだ学生のときのこと。ある仏教系の新興宗教団体に勧誘されたことがあります。
 そのとき、メンバーの人が言うには、
「これだけ長い間、多くの人によって信じられてきた教えなのだから、(この教えは)真実である。」
 私は、
「そんなことは私には関係ない。私にとってそれが真実だと思えるのでなければ、たとえ何百万人の人が信じていようと、私は信じない。」
と言って断わりました。
 当時私は「仏さまとその世界がある」ことを確信していましたが、その宗教団体が説く「仏の存在」には何のリアリティーも感じませんでした。

 ですから、「なかなか信じられない」のであれば、仕方ありません。それで構わないでしょう。それが今のあなたなのですから。
 でも、「いつかは信じられるかもしれない」ということを頭の隅に置いておいて下さい。
 そして、ご自分を閉ざすことなく、日々の体験に心を開いておいて下さい。

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質問 142
僧侶になりたいと思い、師僧になって下さる方を探しているところです。お寺の出身でない者が僧侶になるためには、何か条件がありますか?
〈回答 142〉 熱意!—それが第一の条件です。
 他にも、「こうだといいなあ」と思うことは沢山あります。たとえば「人を惹きつける話ができる」とか、「声が良い」だとか、「毛筆が達者」、「優しくて人間的な魅力がある」、「地道な努力を嫌がらないでコツコツ続ける」、「頭が良く、すぐに故事などから引用してその場に合ったことが言える」、「一緒にいるだけで心が安らかになる」、「肝が据わっている」、「その姿を見るだに有難い」(初めからそんなわけありませんね)とか…。
 それはあくまでも理想。私自身もまだまだ修行中です。
 反対に、初めは何の素養もなくても、燃えるような熱意さえあれば、それぞれの分野でそこそこの能力が育ってゆくことでしょう。

 一般の方が伝統仏教の教師資格を取得して、教師として宗教活動をするようになるには、いくつものハードルがあります。それらを越えさせてくれるのは、一にも二にも熱意、それも自分だけの思い込みではなく、「仏の声に従おう」「社会に奉仕しよう」という熱意です。

H19.8.1 追記:この質問に関連して、「僧侶になりたい、あるいは僧侶になるにはどうすればよいか、とお考えの方へ」というページを新設しました。こちらもご覧下さい)

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質問 141
浄土宗においては、商売繁盛や合格祈願、病気平癒といったいわゆる現世利益をあまり重視していないようにみえます。宗門としては、そして笠原師としては現世利益をどのようにお考えでしょうか?
一般の浄土宗寺院では見られないご祈祷が、大本山の増上寺では行われているようですね。これもおもしろい(と言っては不謹慎ですが)ことだと思います。
〈回答 141〉 これまでに何度か取り上げましたが、浄土宗の教えの基本は、
  • 「浄土」と呼ばれる仏の国へ往き、そこに新たな命を得ることを願う。
  • そのために、その国を構えられた仏である「阿弥陀如来」に帰依をする。
  • そして、阿弥陀如来の示された行=お念仏=「なむあみだぶつ」を専らとなえる。
というものです。
 かの国が「浄土」であるのに対して、こちら側の世界は「穢土(えど)」すなわち、けがれた世界です。ですから、功徳を積んで(穢土における)現世利益を得る、ということは重視しません。あなたのおっしゃる通りです。
 それでは「現世利益」を否定するのか、というと、そういうことでもありません。

「ただ念仏ばかりこそ、現当の祈祷とはなり候え」
(ただお念仏の行だけが、現世を幸せに過ごし、来世にも浄土往生を遂げる祈りになるのです)

「弥陀の本願を深く信じて、念仏して往生を願う人をば、弥陀仏よりはじめたてまつりて、十方の諸仏菩薩、観音勢至、無数の菩薩、この人を囲繞して、行住坐臥、夜昼をも嫌わず、影のごとくにそいて、もろもろの横悩をなす悪鬼悪神の便りをはらいのぞき給いて、現世にはよこさまなる煩いなく安穏にして、命終の時は極楽世界へ迎え給うなり」
(阿弥陀さまの本願を深く信じて、念仏して往生を願う人を、阿弥陀さまをはじめ十方の仏さま、観音菩薩・勢至菩薩ほか無数の菩薩さまがたが取り囲んで下さいます。そして、いかなるときにも影のように付き添い、さまざまな悩みをもたらそうと忍び寄る悪鬼悪神の手を払いのけて下さいます。おかげで現世は不当な悩みに煩わされることなく安穏に過ごし、命終わるときは極楽世界へ迎え取っていただけるのです)

 いずれも法然上人のお言葉です。お念仏のご功徳により、現世の悩みを除き安心して過ごすことができる、と説かれています。
 こうしたことから、浄土宗のご利益を「不求自得(ふぐじとく)」、すなわち、求めずして自ずから得られる利益、といいます。私自身もその通りだと思います。お念仏をおとなえしていますと、驚くような不思議なことが起こります。が、決してそれを目的としてお念仏をとなえるのではない、目指すところははあくまでも浄土=仏の世界である、ということです。

 また、こういうふうにも言えます。
「もし、一瞬でも仏の世界に触れる経験をしたならば、現世的な利益を仏教(宗教)に求めることはなくなるだろう。」
 なぜなら、それ—「現世利益を求める心」が、崇高な仏の世界にあまりにそぐわないものだと実感できるからです。一瞬でも仏の世界に触れることができ、その上でなお仏に願うことがあるとすれば、「いつまでも仏と接していたい」ということだけです。それ以外の願いはすべて、卑小なものに感じられるでしょう。

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質問 140
得度式とは、具体的にはどのようなことをするのですか? 浄土宗では、髪の毛を剃らないでいいと聞いたことがありますが、それは本当ですか?
〈回答 140〉 「得度式」は、出家剃髪しお袈裟を頂く儀式でして、正式には髪を剃ります。浄土宗教師を目指す方は、まず師僧について得度を受けることからスタートします。
 私の場合は、師僧のもとで帰敬式を受けた後、本山(増上寺)で得度式を受けました。そのときは剃髪しませんでした。(「正式」ではなかったことになりますね。ちなみに、加行を受けるときは全員剃髪です。)
 しかし、「浄土宗の得度式では髪を剃らないでいい」ということではありません。ご師僧のお考え次第かと思います。どうぞご師僧にご相談下さい。

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質問 139
私の父は「自分が死ぬときは、戒名はいらない」と言っています。戒名がなくても構わないのでしょうか?
〈回答 139〉 仏教のご葬儀であれば、基本的に戒名が必要です。
 場合によっては、ご俗名でご葬儀をすることもあります。「菩提寺が遠いため、葬儀には来ていただけない。後日、菩提寺から戒名を頂く」または「まだ納骨するお墓が決まっていない、決まってから戒名を受ける」という場合には、ご俗名でご葬儀をあげることもあります。が、いずれにしましても後で戒名を受けます。

 戒名は仏弟子としての名前です。俗界から離れて仏の道を歩むということは、いわば新たな生を受ける、ということ。そこで身体を清め髪を剃り、仏弟子たる誓いをたてて、新たな名前を頂きます。これを「没後作僧(もつごさそう)」といいます。亡くなられた後ではありますが、僧侶になる作法を受けるわけです。
 ですから、戒名を受けて仏弟子になるということが、仏教の葬儀の大きな眼目なのです。

 私たちが人生で負わなければならない重荷は、実にたくさんあります。  自分自身の身体、家族、責任、仕事、おつきあい…これらは愛着の対象であると同時に、重荷でもあります。また自分の名前も、大きな重荷のひとつです。他の荷物と一緒にこの「名前」という重荷を下ろし、仏弟子としての新たな名前を受けて仏の世界に足を踏みだす…これが戒名を受けるということです。

 戒名の意味(即ち仏式の葬儀の意味)をよくご存知ないまま、「戒名不要」とおっしゃる方がおられるのは、実に残念なことです。

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質問 138
健康に強い関心をもっています。「玄米が良い」というので玄米食を続けていますが、最近「玄米は身体に良くない」とも聞きました。どちらが本当なのか、とても悩んでいます。ご住職はどう思われますか?
〈回答 138〉 すすんで身体に悪いものを摂取するのはどうかと思いますが、かといって「あれは身体にいい」「今度はこれだ」といって右往左往するのも愚かなことです。
 人生長くても80年か90年。玄米を食べたり食べなかったりして寿命が5年延びたとします。あなたはその5年間をどう生きますか。きっと右往左往しているうちに過ぎてしまうことでしょう。そうではありませんか?

 健康も大切ですが、「どう生きるか」ということの方がはるかに重要です。それは、将来の話ではなく、たった今、現在のことです。
 身体の栄養だけでなく、心の栄養、魂の栄養を充分に摂るように心がけて下さい。

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質問 137
先日、祖母の四十九日に出席しました。本堂の敷居をまたぐ際、お寺の方から「男性の方は右足から踏み出さないように。女性の方は左足から踏み出さないように」というような説明を受けました。これにはどのような意味があるのでしょうか。このお寺は浄土宗です。些細なことで申し訳ありませんが、教えてください。
〈回答 137〉 これは男左女右(なん・さ・にょ・う)といいます。男性は左足から本堂に入り、女性は右足からになります。
 象の形をした香炉が敷居の手前に置いてあることもあります。その場合は香炉を、男性は左足で、女性は右足でまたいで身体を浄め、本堂に入ります。
 この由来は、中国の陰陽道です。男—陽—左を対応づけ、女—陰—右を対応づける考え方です。インド仏教のものではなく(インドでは左を低く見ます)、中国仏教の習慣が伝わったのでしょう。

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質問 136
最近、良くないことが立て続けに起こります。先祖のたたりか、あるいは成仏していない先祖がいるのでしょうか?
〈回答 136〉 ご先祖はすべて、あなたの成長を願っておられます。どうして「良くないことが先祖のせいで起こる」ということがありましょうか。
 人生、晴れの日があれば、雨が続くこともあります。
 どうか「これは先祖のせいか」とご先祖に結び付けないで下さい。それよりも、あなたご自身のありようを虚心に振り返りましょう。
  • 自分だけの考えにとらわれ、せまい世界に閉じこもっていないか。
  • 考えても仕方がないことで頭を一杯にしていないか。
  • 深くゆったりとした呼吸をしているか。
  • 自分や他人を責める気持ちで、身動きがとれなくなっていないか。
  • 今現在していること(自分の動作や言葉、目・耳に入ってくること)をしっかりと自覚しているか。
  • 周囲の人に、その人に対するあなたの好意や配慮を伝えているか。
 先祖供養についてひとこと——心をこめて先祖供養をすれば、それはあなたにゆとりと豊かさをもたらしてくれます。ご先祖のせいで良くないことが起こることはありませんが、ご先祖を供養したおかげでものごとが好転する、ということはあります。
 そこをしっかりと区別して頂きたいと思います。

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質問 135
先日、悲しく、また腹の立つ話を聞きました。祖母の友人である老婦人の話です。
 このご婦人は舅と姑、そしてご主人に先立たれ、お子さんもいないため、現在独り暮らしをされています。そこでご自分が亡くなられた後のことを考え、菩提寺に永代供養をお願いされたところ、一霊につき100万円支払うことを求められたそうです。このご婦人は現在、年金だけでつつましやかに生活を送られています。当然ながら、ご自分も含めて400万円を支払う余裕などありません。
 世間の人が考えているほど、寺院経営も楽ではないということは私も聞いていますが、年金暮らしの老人に400万円支払いなさいというのはあまりにも酷な話ではないでしょうか。これは戒名料の話にも通じますが、お寺に関することは全般的にお金がかかりすぎているように思います。そして、そのことが一般の人々のお坊様に対する尊敬の念を低下させている大きな要素になっていると思います。
 どのようにお考えになりますか?
〈回答 135〉「お寺に関することは全般的にお金がかかりすぎているように思います。そして、そのことが一般の人々のお坊様に対する尊敬の念を低下させている大きな要素になっていると思います。」
 そういう部分は確かにあります。
 と同時に、それは一面的な見方に過ぎません。

 お寺側にも運営上の事情はあります。が、檀信徒の側にも(皆さんではありませんが)それぞれ、いろいろな期待や思惑があるわけです。
 たとえば、
  • うちのお寺は格式が高い、と思いたい。
  • お寺やお墓は、いつもきれいで設備が調っているほうが良い。
  • 住職には、立派な法要を勤めて欲しい。
  • お寺の維持のために相応の負担はするつもりだが、かといって払いすぎるのはいやだ。
  • お布施などの負担額は「お気持ちで」ではなく、金額を明示して欲しい。
  • 安定した経営をして、檀信徒に不安を与えないで欲しい。…などなど。
 このように檀信徒側の思いもあるわけで、お寺側の一方的な都合によって問題が生じているわけではありません。
 私が見るに、多くの寺院は良心的な運営をしています。マスコミなどでしばしば極端なケースが取り上げられるため、それをそのまま受け取る方には、「お寺はどこもそうだ」というかたよった印象を与えている…そう思っております。

 そのご婦人が本当に困られているのであれば、ご住職にご事情をよく話し、どういう方法が可能なのか、ご相談されることをお奨めします。話がうまく進まないのであれば、総代さんや世話人さんに中に入ってもらったらいかがでしょうか。

 ていねいなコミュニケーションを重ねてゆくことが、遠回りに見えても一番の近道です。私がここでそのお寺を非難したり、逆にそのお寺を擁護したりしても、何の解決にもなりません。
 もし可能でしたら、そのご婦人と菩提寺のあいだのコミュニケーションが円滑に進むように、あなたも助けてあげて頂きたいと思います。

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質問 134
わが家は浄土宗だと思っておりましたところ、良く聞きましたら、西山浄土宗だとわかりました。素朴な質問ですが、浄土宗、浄土真宗、西山浄土宗は何が違うのですか?
〈回答 134〉 浄土宗・浄土真宗・西山(せいざん)浄土宗は、いずれも法然上人の流れをくむ教団です。
 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍された法然上人は、唐の善導大師の教えに強い影響を受け、「極楽浄土に救われることを心から願い、信をもって口に『なむあみだぶつ』ととなえれば、必ず極楽に往くことができる」というお念仏の教えを広められました。無学な者であっても、また罪深い者であっても必ず救われるというので、この教えは様々な階層の人々から強い支持を受けました。
 門弟の数も多かったわけですが、これらの門弟のうち、聖光(しょうこう)上人の流れをくむのが現在の浄土宗です。(この流れを、「鎮西(ちんぜい)派」といいます。「鎮西」は、聖光上人のご出身が九州であり、法然上人の教えを受けられたあと故郷九州に帰って布教されたことに由来します)
 また、門弟親鸞聖人の流れが今日の浄土真宗です。
 そして、門弟証空(しょうくう)上人(西山上人)の流れが西山浄土宗です。
 このほかにも隆寛・幸西・長西・源智等といった門弟がおられました。

 これらのお弟子さん方は基本的に法然上人の教えを継がれたのですが、やはりそれぞれのお考えを加えながら後代に教えを伝えられました。交通・通信も現代とは比較にならない時代のことですので、これらは歴史的に別々の教団として展開してゆきます。
 鎮西派は聖光上人のあと、良忠上人を経て六派が残りました。その六派のなかの「白幡(しらはた)派」が今日の浄土宗(総本山は京都・知恩院)に続いています。
 浄土真宗は親鸞聖人のあと、関東地方の門徒の流れと、親鸞聖人の廟所を守るご血縁の流れが発展しました。現在は後者の本願寺派(京都・西本願寺)と大谷派(京都・東本願寺)が大きな派であり、他に高田派・興正派・仏光寺派・木辺派など多くの派があります。
 西山派は証空上人のあと四流が残りますが、現在続いているのは西山浄土宗(京都長岡京市・光明寺)、浄土宗西山禅林寺派(京都・禅林寺)、浄土宗西山深草派(京都・誓願寺)の二流三派です。

 「それにしても、同じお念仏の教えなのに、どうしてこんなに多くの派に分かれているのだろう」という疑問が起こると思います。
 法然上人の時代は、「お念仏だけで良い」という新しい教えと、既存の仏教各宗との違いが問題になりました。その後、さまざまな議論が起こってきます。
「ただ1回だけのお念仏でも往生できるのか」
「信心と念仏行と、どちらが大切か」
「信心はどうあるべきか」
「自力と他力をどう考えるか」
「『浄土三部経』をどう解釈するか」
「救いは今あるのか、それとも臨終の時か」などなど。
 これらの解釈の違いや、師から弟子へとつながる系譜の特殊性(それぞれが正統性を主張します)によって、宗派が分かれている。そうお考え頂ければよいかと思います。

 …「素朴な質問」へのお答えが、まったく素朴でなくなってしまいましたね。
 一番大切なのは、宗派の相違点を知的に理解することよりも、各宗派に共通する「信と行」を体験することです。
 阿弥陀さまに心を開き、お念仏をとなえる——この素晴らしさを、どうぞご体験下さいますよう。

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質問 133
念仏をとなえれば極楽浄土に往生できる根拠となる経典と、その文言を教えて下さい
〈回答 133〉 『無量寿経』の第十八願、「設我得仏十方衆生至心信楽欲生我国乃至十念若不生者不取正覚」です。
「わたし(法蔵菩薩)がさとりを得たあかつきには、このような仏国土を建設しよう。すなわち、十方の人々がわたしの仏国土に生まれたいと、真実心から、また深く信ずる心をもって願い、百千万回から下は十回であってもお念仏をとなえる者は、一人残らず生まれることができるような国、そのような仏国土を—。もしも生まれることができない者があるならば、わたしは正覚を取らない」
 法蔵菩薩は後にこの誓いを成就して「阿弥陀仏」となられました。したがって、お念仏をとなえれば必ず阿弥陀仏の仏国土—極楽浄土へ往生できる、というわけです。
 経文中の「十念」を「『南無阿弥陀仏』を十回となえる」と解釈したのは中国の善導大師です。この解釈は『観無量寿経』下品下生の「令声不絶具足十念称南無阿弥陀仏」という経文に基づきます。
 コラム倉庫の『四誓偈』の解説もご参照下さい。(その1その2その3その4と分かれています)
 また、原典にあたるのが何よりですので、詳しくは本でお調べ下さい。(岩波文庫『浄土三部経』、浄土宗『浄土三部経講座』坪井俊映師など)

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質問 132
お坊さんになるには、専門の大学に通うだけではだめですか?
〈回答 132〉 Q&Aの5に「どうすればお坊さんになれますか?」という質問があります。(回答の要点を以下に転記します。)

「浄土宗の場合でお答えします。浄土宗では、僧侶には三者(宗徒・助教師・教師)があります。ふつう、『お坊さん』と呼ばれている人はこの中の『教師』です。  ではどうすれば『教師』になれるのか。決められた段階があります。
  1. 師僧(しそう)を決める。(浄土宗教師の資格があれば誰でも師僧になれます。)
  2. 得度(とくど)する。
  3. 度牒(どちょう——得度した証明書)を受け、僧籍登録する。
  4. 教師養成機関で所定の科目を修得し、教師検定に合格する。
  5.   ※教師養成機関にはいくつかの種類があります。
  6. 伝宗伝戒道場(毎年十二月、三週間行われる)に入る。
  7. 宗務庁に僧階叙任の申請を行ない、僧階を受ける。」
 この中の4. ※の「教師養成機関」のひとつが「専門の大学」です。その大学に入学すればよい、というわけではなく、入学して「5. 伝宗伝戒道場」に入行するのに必要な科目をすべて履修しなければなりません。
(また、大学に通わずに入行の資格を取る方法もあります。)

 ご質問の背景が今一つよく分かりませんが、もしあなたが「お坊さんになりたい」のであれば、ご自分の宗派に問い合わせるなどして、事前に充分に調べて下さい。

H19.8.1 追記:この質問に関連して、「僧侶になりたい、あるいは僧侶になるにはどうすればよいか、とお考えの方へ」というページを新設しました。こちらもご覧下さい)

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質問 131
お墓の建替えの際、おしょうぬきしていただくのは、どの宗派のお坊さんでも構いませんか?
〈回答 131〉 (おしょうぬきとは「お性抜き」と書き、魂抜き(たましいぬき)・発遣(はっけん)などとも言います。)
 菩提寺にお願いするのが原則です。菩提寺が遠方の場合であれば、電話や手紙でご相談なさって下さい。もし菩提寺が「ご近所のお寺に頼んで下さい」とおっしゃるのであれば、同じ宗派のお寺を探します。(菩提寺にご紹介いただくのがベストです)
 万一同じ宗派のお寺がご近所になければ、他の宗派のお寺にお願いすることもあり得ますが、それも菩提寺にご相談しながら決めて下さい。
 もしも菩提寺がない場合は、家の宗派のお寺を探します。霊園墓地でしたら霊園の事務所に相談してみて下さい。
(ご質問の背景のご事情がわかりませんので、一般的なところでお答えしました。)

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質問 130
知人に誘われ、ある集まりに連れて行かれました。そこでお経本やお札などを買いました。
 先祖供養や、訳あって生まれてくることの出来なかった子の供養などは大切だと思っています。が、その知人と言葉を交わすたびに『○○に○千円』、『お経は毎日上げているか』などと言われ、次第に会うことが苦になりました。今は縁を切っている状態です。
 そのとき買ったもの一式を返したいのですが、正直もう会いたくありません。処分という言い方は失礼かもしれませんが、どうして良いものか分からずにいます。神社やお寺などに持って行けば良いのでしょうか?またその場合どのように持っていけば良いのでしょうか?
〈回答 130〉 気になるお気持ち、お察しします。
 お近くの寺院や神社に依頼すれば、「お焚き上げ」をして下さるはずです。「古いお札や経本のお焚き上げをお願いしたいのですが」という風にご相談なさってみて下さい。(お気持で、若干のお礼をお包み下さい)
 このようなお話はよくあることですので、快く引き受けて下さると思います。ご心配無用です。

 万一引き受けて下さるお寺等が見つからないときは、またご相談下さい。(最近は、町中のお寺ですと「ものを燃やせない」という場合もありますので)

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質問 129
将来は私たちが跡継ぎになるのですが、今、先祖代々のお仏壇が置いてある家から、私たちが住んでいるマンションにお仏壇を移動する場合、どのように進めたらよいのでしょうか?また現在、法要などをお願いしている浄土宗のお寺から、私たちの住む近くの浄土宗のお寺に替わりたいと思うのですが、お世話いただいているお寺を、替わるのはよくないのでしょうか?
〈回答 129〉 お仏壇の移動については、必ずしもお寺さんに読経してもらう必要はないでしょう。もちろん読経を頂くのが丁寧ですが、今は幾度もお引っ越しをされるお宅もあり、その度に読経するのは大変です。私は「必ずしも必要ではない。気になるのでしたら、読経して頂きなさい」とお答えしています。菩提寺がおありになるようですから、どうぞご住職にご相談なさって下さい。
 (Q&A 23に、引っ越しも含めて仏壇に関する全般的なお話を掲載しておりますので、そちらもご覧下さい)

 また、お寺を替わることについてですが、お墓はどのようになっているのでしょうか。
 寺院墓地にあるお墓を移すということであれば、離檀・改葬ということになります。移すこと自体は可能ですが、今の菩提寺さまとのご関係は慎重に考えられた方が良いでしょう。お宅のご事情を説明して、菩提寺さまによくご理解頂くことです。(菩提寺さまからすれば、檀家さんが離れていくことは決して悦ばしい状況ではありません。中にはトラブルに発展する場合もあります)
 お墓が寺院墓地でない場合は、比較的簡単にお寺を替わることができます。しかしその場合も、長いおつき合いのお寺であれば、丁寧にご事情を説明された方が良いでしょう。
 (Q&A 77、及びQ&A 96にも、お寺を替わることに関連したご質問を掲載してあります。ご事情はそれぞれ異なりますが、参考になさって下さい)

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質問 128
先日、母親がわりでもあった、最愛の祖母を亡くしました。祖母の家には息子が住んでいますが、お経はわからなくて(気持ちはあるのですが)となえる事ができません。他の親族(私たちを含む)も供養したい気持ちはとてもあるのですが、毎日行く事ができません。お経のテープを流すだけでも違いますか?
〈回答 128〉 それは大変なことでした。お悔やみ申し上げます。
 お経のテープですね。流して頂いて結構です。そのときは、どうぞご一緒にとなえるようにして下さい。
 テープのお経は録音するためにとなえられたものであって、お祖母さまのご供養のため読経されたものではありません。仏の教えですからご供養にならないということはありませんが、ご身内の方が心をこめてご一緒にとなえれば、なお宜しいでしょう。
 上手にとなえる必要はないのです。しかし、繰り返してゆくうちに自然に慣れてきます。またお経全部をとなえるのが大変でしたら、一部だけでも結構です。どの部分を読めば良いか、その辺りは菩提寺のご住職(あるいはご葬儀をお勤めくださった僧侶の方など)にご指導いただいたら良いでしょう。

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質問 127
カウンセリングを勉強しています。仏教の立場からは、カウンセリングをどう考えますか。 カウンセリングは、自我を支えることが目的のような気がします。仏教が説く「無我」と対立しませんか?
〈回答 127〉 私はカウンセリングの専門家ではありませんが、仏教者の立場から答えさせて頂きます。
 助けを求める方々の相談相手になることは、とても大事なことです。そこでは自分自身が厳しく試されます。「今、自分はどういう気持ちでこの方に対しているだろうか。」「どういう対応が、この方の助けになるだろうか。」「今、どういう可能性があるだろうか。限界についてはどうだろうか。」…といったようなことを常に自問しなければなりません。頭で相手の状況を考えるだけでなく、相談を受けている自分自身の感情や身体の感じに注意を向けたり、相手の今現在の様子を観察することも大切です。仏教で大切にしている「慈悲」と「智慧」が正に求められるところです。

 ご質問は、「自我を支える」ことと「無我」が対立しないか、ということですね。
 私自身は「対立しない」と考えています。実際のカウンセリングの場面では、単純には言えないいろいろなことが起こるでしょう。中には「無我を体験した」といえるような場合もあるかもしれません。また、「熟した果実は落ちる」の譬えのように、充分に強い自我を育てることがやがては「無我」を体験することにつながる、ということもあります。
 ですから、カウンセリング=仏教実践の場である、とは単純に言えないにしても、仏教的な観点をもってカウンセリングに取り組むことは充分に可能です。というよりも、とても重要なことです。
 私自身はそのように考えています。

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質問 126
仏さまのお像に手を合わせるとき、どういう気持ちでお参りすれば良いのですか。澄んだ心でないとお参りしてはいけませんか?
〈回答 126〉 いえいえ、私自身も常に澄んだ心で手を合わせられるわけではありません。そういうときは「いつかは澄んだ心がもてるようにお導き下さい」と念じて手を合わせています。
 私たちの心は常に動いています。澄んだり汚れたり…それが現実ですね。また、その心を眺めている視点—たとえば「今の心の状態は、濁っている」と気づく心もあるわけです。同時に「こんな気持ちでいるのは嫌だなあ」と思う心もあるでしょう。このように幾層にもわたっているのが私たちの内面です。それが現実。仏さまはすべてご存知ですので、自分の良いところだけを見せようと思ってもそうはいきません。

 崇敬の気持ちをもって合掌していただければ、それで結構です。たとえ心がきれいに澄んでいなくとも、仏さまはあたたかい慈悲の心で包んで下さるでしょう。

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質問 125
現在、浄土宗の僧階を取得中です。Q&Aの6にあるように、正座は確かに厳しいです。加行(註:けぎょう。僧階を受けるために入らなければならない伝宗伝戒道場)についてゆけるかどうか心配です。どうしたらいいのでしょうか?
〈回答 125〉 「正座が苦手」という方は今や多数派。テーブルに椅子、という洋式の生活をしておりますと、そうなるのもごもっともです。
 「どういうふうに苦手か」ということになると、人によってさまざまです。「5、6分でもしびれてしまう」「しびれはしないが、膝が痛くなる」「足首が痛くなる」「足の甲が痛くなる」…

 これは、冷たい言い方ですが、慣れて頂くしかありません。僧侶を志す以上、正座は必須です。
 毎日畳にじかに正座し、勤行をします。読むお経を少しずつ増やしてゆきます。初めは「10分がやっと」だった方が、「1時間くらいは大丈夫」というようになるものです。

 正座は優れた坐法のひとつです。小さいスペースで済み、しかも身体がしっかりと安定します。正座をするときは、背筋を伸ばしてあごを少し引き、胸を開きます。胸とお腹にたっぷりと新鮮な空気を満たせるようにして、声を出すときには下腹を締めて声を支える感じにします。足のしびれ(痛み)だけでなく、全身に気を配ります。のどを充分開き、圧迫したり絞ったりしないようにします。
 背中が丸まっていますと、内臓を下方に圧迫するので血行不良になり、下半身がうっ血してきます。背筋を伸ばしますと、呼吸が自然に深くなります。
 「外から見て美しい」ことと、「身体が楽である」ことが両立するように工夫します。これは坐法だけに限らず、着付けや立ったり坐ったりなど、すべてに通ずることです。

 とにかく、ご自分で慣れるように努力する、ということが第一。そして、「正座が苦手」という方はあなたの他にもたくさんおられます。「何とかなる!」と思って下さい。

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質問 124
私は現在、僧偕を取得すべく仏教系の大学に通っています。一般の学生は「坊主丸儲け」「葬式仏教」などと批判的な意見の学生が多いです。たしかにそのような部分もあると思います。しかし、これから資格をとっていくのに、そのようなことを言われると残念な気持ちになります。自分はそう言われたくないのですが、本当の僧侶はどうあるべきでしょうか? またどういった返答をすればいいでしょうか?
〈回答 124〉 「一般の学生は『坊主丸もうけ』『葬式仏教』などと批判的な意見の学生が多いです」ということですが、これは学生に限らず、大人たちにもある(否、もともと大人たちの)意見ですね。私も、よく言われるのは「お寺さんは税金がかからなくていいですね。」という言葉です。私が、
「私たちは、宗教法人(団体)の職員として、給与を受けています。給与にかかる所得税はちゃんと納めていますよ。法人の方には法人税がかからなかったり、固定資産税等がかからなかったりはしますが。」
と言いますと、びっくりされます。
 つまり、布施などの収入を、「無税で個人に入るお金」だと思っている方々がいるのです。

 宗教法人は、学校法人や社会福祉法人と同じく、公益法人のひとつです。「公益」を目的としており、「収益をあげる」ことが目的ではありません。ということは、公益のために必要なことであれば、その事業を行なっても100%持ち出しで、まったく収入もなかったとしても、お金を集めてその事業を行なう場合もあるわけです。
 収益事業ですと、この逆になりますね。収益が上がる(儲かる)からその事業を行なうわけです。収益を上げて、出資者に分配します。
 固い話になりましたが、ここが大事なところ。つまり私たちは、仏教を広め、お念仏の教えを伝えてゆくことで人々の心に安らぎを与えるという、公益のための活動を行なっているわけです。その活動のためにはお金がかかります。宗教施設の維持管理、人件費…。それらを(主として)お布施の収入でまかなっているわけです。
 そして、「公益事業を保護する」という政策的な観点から、法人税等について税法上の優遇を受けているのです。ですから「坊主丸もうけ」という非難(?)は、ちょっとピントがずれています。

 では、私たち僧侶はどうあるべきか? 上に書きました「公益事業」という点も含めて考えてみますと、
  • 私たちは「広く社会に奉仕する」という立場を基本にする。
  • 社会が寺院・僧侶に何を期待しているか、を常に考える。
  • あたたかい心をもって人々に接する。私たちは「死別」に関わることが多いので、傷ついた方や、弱い立場の方への思いやりの心が特に大切です。
  • この仕事に誇りと自信をもち、また同時に高慢にならぬように気をつける。
 というようなことではないでしょうか。
 昔から「僧侶は一に掃除、二に勤行、三に学問」といわれますね。大事にすべき戒めです。この戒めに加えて、上に書いたことも考えて下さい。

 では、一般の学生の批判にどう答えるか…。
 ——実は、私が仏門に入るずっと前、お寺の息子さんの友人がいました。彼は上京し、「ミュージシャンになる!」と頑張っていたのですが、住職であるお父様が病気になられたのをきっかけに、田舎に帰り寺を継ぐことになりました。そのとき私は「坊主丸もうけでいいなあ」とは決して思いませんでした。むしろ、「希望する職業が選べなくて気の毒だなあ」と思いました。
 「一般学生の批判」は、もしかしたら「安定した将来の展望があって羨ましい」気持ちの裏返しではないでしょうか。自分の将来をしっかり見据えている人であれば、寺を継ぐ立場の友人を批判している暇はないと思います。
 「自分は自分。君は君。道は違うがお互いに頑張ろう。」というのが健全な友情ではないでしょうか。
 またこの時代、お寺を継ぐ側にも苦悩はあるはずです。そうしたことも共に語り合える友だちがいると良いですね。

H19.8.1 追記:この質問に関連して、「僧侶になりたい、あるいは僧侶になるにはどうすればよいか、とお考えの方へ」というページを新設しました。こちらもご覧下さい)

ひとこと
現役のご住職からだと思いますが、ご質問者に宛てて以下のような励ましの「ひとこと」を戴きました。掲載いたします
 残念ながら、上記のように見られてもしょうがない状況もあるでしょう。しかし、あなた自身がこれから宗教者としていかに生きていくか、また檀信徒をはじめ、一般の方々にどう寄り添っていくかということの方が大事なのではないでしょうか? 批判されることはつらいですが、あなたのご宗旨のお祖師様のご苦労と比較したらどうでしょう? お祖師様がたは、まさに命がけであったはずです。あなたは、そのお祖師様の教えに基づいて宗教活動をしていくわけですから、逆に「一般の人々はこういう風に私たちを見ているんだ」と勉強できただけでもありがたいといえるかもしれません。
 いかに、あなた自身が胸を張れるか。僧籍をいただいてからが本当のスタートです。お互いに頑張りましょう!

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質問 123
知り合いに「霊が見える」という人がいて、先祖供養の仕方など、あれこれ言われます。こういうことは本当にあるのでしょうか。仏教ではどう考えますか?
〈回答 123〉 この頃、「誰々さんには霊が見える」「先祖の霊が…だと言っている」という話をよく聞きます。
 よく話を聞いてゆきますと、このような構図が見えてきます。
 ——Aさんは「霊が見える」とか「霊障を取り除く」という特殊な能力を持っている。その能力を使うことによって、他人の病気を治したり、不幸を取り払ったりすることができる。
 Bさんはこういう能力を持っていない。今、悩みを持っているので、それを解決するためにAさんの忠告に従うようになった。Aさんは自信をもって指導してくれるので、すべてAさんに任せることにした。——

 人さまの悩みを解決する最良の方法は、その方が自分で問題を解決できるように援助することです。私はそう思っておりますので、AさんとBさんのような支配—依存の関係は健全ではないと考えます。
 「霊が見える」という現象が本当にあるかないかについては、何とも言えません。「見える」というのであれば、少なくともその人にとっては見えるのでしょう。しかし、霊が本当に私たちの生活の幸不幸の鍵を握っているのなら、何年も学校へ行って勉強したり、仕事に力を注いだりする必要などないでしょう。霊と対話して、「どうすれば幸せになれるか」を指導してもらうことだけ考えていれば良いことになります。
 仮に「霊」が見えたとしても、それは儚(はかな)い存在です。私たちの身体ですら、かりそめのもの。「霊」が、私たちの身体や精神がなす以上のことをする力をもっているはずがありません。「霊の指導によって幸せになれる」という考えは、煩悩以外の何ものでもありません。
 「霊」「悪霊」…これらはいわば「影」のようなもの。仏教では「影」に取り組むのではなく、「光」の方に眼を向けます。
「光」とは、仏の智慧であり、慈悲です。私たちは心を仏に向け、口に仏の名を呼ぶことによって、「光」を頂くことを願います。光に照らされれば、影は自ずと消えてゆきます。
 ですから、あなたに「霊が見えない」のであれば、「霊」についての話には耳を貸さないことです。それよりも、仏の智慧、仏の慈悲の方向に心を向けて下さい。

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質問 122
自分が死んだあとは、冷たく狭い石の部屋(お墓)には入りたくありません。広々とした海に骨を撒いてもらい、自然の中に還っていきたいと思います。どうしてお骨をお墓に納めてしまって、自然に還さないのでしょうか?
〈回答 122〉 お釈迦さまが亡くなられたのち、そのご遺骨(舎利)は仏塔に納められ、崇拝されました。日本のお墓は、この仏舎利をお祀りする伝統を直接受け継いでいるわけではありません。が、やはり仏教の影響もあって、いつの頃からかお墓を造り、ご先祖の遺骨をお祀りするようになりました。
 今日では、ご承知のようにほとんど火葬して、お骨をお墓や納骨堂に納めます。最近、散骨や自然葬ということがいわれますが、私の周囲では実例をあまり聞きません。件数はまだ少ないと思われます。

 ところで、このごろ体脂肪率や骨量を計れる体重計がありますね。先日、私自身の「骨量」を測ってみました。2.8kg、と出ました。あまりに軽いのでびっくり(体重は64kgです)。火葬した場合、残るのは、この2.8kgのさらに一部分です。
 身体中に水分が占める割合は、50〜60%くらいあるそうです。水分はじめ、身体を構成する物質の大部分は、火葬により蒸発?して大気中に拡散してゆくことになるでしょう。水分はやがて雨となって海や大地に降り注ぎます。つまり、わずかな遺骨以外は、すべて自然に還ることになります。また、残った遺骨もいつかは骨壷から空けられて、土に還されます。
 目に見える形としては遺骨しか残りませんので、私たちは遺骨を大切にしてお祀りします。が、身体の大部分はすでに自然に還っているわけです。地球の引力圏の中を、さまざまな形をとって循環してゆくことになります。
 ですから、あなたの目的が「自然に還ること」でしたら、何も「お骨を海に撒く」ことにこだわらなくても良いのではありませんか。

 大切なことは、身体の構成要素がどこへゆくか、ではなく、意識や心がどうなってゆくか、ではないでしょうか。そのためには、この限られた人生をどういう心で生きてゆくか—そちらの方がはるかに重要です。

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質問 121
お葬式をなるべく手作りで、自分たちが主体となってできないものでしょうか?
〈回答 121〉 それは可能だと思います。そのためにはまず、現行のご葬儀がどのように行われているのかを知ることが大切です。
 ご葬儀と一口に言いましても、それはいろいろな内容を含んでいます。
 第一に、それは宗教儀礼です。僧侶や神主などの宗教者が関わることになり、高価であるか簡素であるかは別として、祭壇や仏具などの設備が使われ、花や供物を供えます。
 第二に、葬儀は故人との別れの場です。その際、焼香や玉串奉奠・献花・弔辞などの形式を取りますので、その準備が必要です。
 第三に、葬儀は故人のご遺体を荼毘に付す儀式です。棺・骨壷・火葬許可の手続き・火葬の手配・霊柩車の手配が必要です。
 このほか、遺影(写真)の準備、場所—葬儀をどこで行なうのか、火葬場への移動をどうするか、通夜振る舞いや精進落とし(会食)をどうするか、などを考えなければなりません。
 地域によっては町会が葬儀を仕切ることもありますが、大都市圏ではほとんどの場合、葬儀社がこれらの手配を行ないます。ご遺族はある意味でたいへん楽ですが、一方で「葬儀屋さんのペースで全てが進んでしまう」という印象も生じることになります。何せ限られた時間の中で多くのことを決め、行なっていかなければならないわけですから、葬儀屋さんの考える枠内でことが進むのも無理からぬことです。
 また、同じような流れで行われた葬儀でも、葬儀社の担当者がどれほど親身に相談に乗ってくれたかによって大きく印象が変わってきます。つまり、特別なことをしないごく普通のご葬儀であっても、「主体的に関わることができた」と思えることもあります。
 冒頭に書きましたように、「自分たちが主体となって葬儀を出す」ことは可能ですが、そのためには前もって心構えをして、これらのこまごまとしたことを各々どうしてゆくのかを考えておく必要があるのではないでしょうか。
 葬儀のどの部分で主体性を発揮したいのか。どの部分を葬儀社に任せるのか—。
 また、事前相談に応じてくれる葬儀社も多いので、親身になってくれるところを探されたら良いでしょう。

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質問 120
先月母が亡くなりました。病院から知らせが来て、飛んでいったのですが、間に合いませんでした。 「死に目にあえない」とよく言いますが、死に目にあえないと、何か問題があるのでしょうか?
〈回答 120〉 死は個人的な現象です。その瞬間を一人で迎えることになったとしても、何も問題はありません。ご遺族の気持ちからすれば、「死に目にあえず心残りだ」と思われるのも無理ありませんが、それはご遺族の側のこと。家族がそばについていたり、いなかったりすることで、死のプロセスに影響を与えるわけではありません。
 それよりももっと大切なことは、その瞬間に仏のお導きを頂けるかどうか、ということです。この教え(浄土宗)によれば、「ふだんよくお念仏を申すことによって、臨終のときに必ず阿弥陀仏のお導きを頂ける。仏のお姿を拝すれば心落ちついていられるので、念仏者はたいてい安らかな臨終を迎えることができる。」とあります。

——「まめやかに往生のこころざしありて、弥陀の本願疑わずして念仏申さん人は、臨終悪きことは、大方候まじきなり。そのゆえは、仏の来迎したもう事は、もとより行者の臨終正念のためにて候なり。…ただの時に、よくよく申しおきたる念仏によりて、臨終にかならず仏来迎したもう。仏の来たり現じたまえるを見たてまつりて、正念には住すと申し伝えて候なり。」(法然上人)

 万一母上が浄土に往かれていない場合でも、ご遺族の皆さんがお念仏をとなえてご回向をされれば、母上は阿弥陀仏の光明に照らされて解脱することができます。『無量寿経』というお経に書かれている通りです。
 ですから、どうぞお気になさらぬように。そして、母上が速やかに仏の道を歩まれるよう、よくお念仏のご回向をして差し上げて下さい。

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質問 119
これはよく見る夢の話です。
——平安時代のようです。京都御所のような造りの屋内に私がいます。障子を開けると、裏手に小高くゆるやかなジグザグに歩く道があり、そばには小さな供養塔か墓石のようなものが沢山あります。そこを、十二単衣を着た優雅な女性達が歩きながら、一つ一つお供えをしているのです。それも、そのお供えというのは、『炭』なのです。普通は、お神酒とかお水、果物・お菓子などですよね。とても不思議でなりません。それに、同じ夢を何度となく見るので、とても気になっっています。
 先祖にまつわる事なのか、それとも、何か他のメッセージなのか、どう解釈すれば良いのか戸惑っています。それから、炭をお供えする信仰等、ご存知であればお教え頂けないでしょうか?
〈回答 119〉 鮮やかなイメージの夢ですね。
 私が今言えることを書いてみます。
 夢が伝えてくれるメッセージを探るには、相応の手法が必要です。私の経験では、臨床心理学関係の手法—「プロセス指向心理学(POP)」や「フォーカシング」の手法が役に立ちます。これらを使えば、きっと重要なメッセージを受け取ることができるでしょう。お近くに経験者や専門家がいれば、きっと助けになってくれると思います。
「炭のお供え」については、何かあなたご自身にとって意味のあるものだと思います。「炭」ということでピンと来なければ、それがきっと何か別のものを象徴しているのでしょう。
 有償になりましょうが、個人セッションを受けられたらどうかと思います。これほどの夢であれば、その価値があるのでは…。

 いささか不完全な返答ですみません。ただ、メールのやりとりを通して夢のメッセージを探ってゆくのは難しいと思います。

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質問 118
親戚の法事に出席しました。ご住職が法話の中で、「仏教の宗派はいろいろありますが、目指すところは同じ『悟り』です。あまり宗派にこだわる必要はありません」とおっしゃいました。
 浄土宗の家に生まれ、両親がお念仏をとなえているのを見ながら育った私としましては、どうも納得できません。「お念仏だけで良いのだから、浄土宗はありがたい」と日頃言っていた亡き父の面影が浮かびます。私自身、阿弥陀様には、他の仏様にない特別のものを感じます。
 これも宗派へのこだわりでしょうか?
〈回答 118〉 こだわりと言っても、それは良い意味でのこだわりです。こだわりの気持ちを完全に取り去ってしまうのはほとんど不可能です。自分の身体や心を守ったり、家族の幸せを願ったり、仕事に打ち込む…それらも「こだわり」と言えばそう言えるでしょう。私たちはそれらをすべて否定するのではなく、そのエネルギーを少しずつ信仰の対象に向けてゆきます。それによって心安らかになり、結果的に余計なもの—地位や財産などへの強い執着—が落ちてゆきます。捨てきれない「こだわり」の心に、良いはたらきをしてもらう、といえましょう。
 ご住職が「宗派にこだわる必要はない」というのは(前後の関連が分かりませんので何とも言えませんが)一つの考え方です。宗派を超えた境地に辿り着いた方でしたら、そうおっしゃれるかも知れません。が、私ども凡夫はなかなかそうはいきません。一つの宗派の教えを究めてゆくことでさえ、たいへんなことです。
 どうぞあまり気になさらず、いま目の前にある道=お念仏に励んで下さい。

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質問 117
幼なじみの親友が亡くなりました。葬儀はもちろん、四十九日の法事にも出席させて頂きました。家でも供養したいと思うのですが、わが家の過去帳に記載しても良いでしょうか?
〈回答 117〉 お気持ちはお察ししますが、お宅の過去帳に記載することはあまりお奨めしません。その理由は、子孫の方が混乱するもとになるからです。過去帳は先祖代々の記録ですから、もし外の方の名前が入ってくると、ご子孫が「この人はどういう方だろう。供養しなくてはならないのだろうか」と困られるかもしれません。またあなた以外のご家族が「私も亡くなった友人の名を載せよう。前例があるのだから構わないだろう」と思ってそうされたら、ますます混乱してきます。
 ご供養したいのでしたら、ご友人のお戒名をご遺族から教えて頂き、それを朝晩のお勤めのときに読み上げて差し上げて下さい。
「○○○○(戒名)、追善菩提(ついぜんぼだい)」
 という具合です。
 それで充分なご供養になります。

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質問 116
娘が流産をしまして、しばらく実家である私どもの家に帰ることになりました。母としてどう迎えたらよいのか、分かりません。どうすればよいでしょうか?
〈回答 116〉 「どう迎えたらよいのか、分からない」—そうかもしれません。
 まず、ご自分のお気持ちに焦点を合わせましょう。おそらく、かなり混乱されていることと思います。
 「早く元気になって」「もしこのまま別居、離婚ということになったらどうしよう」「もっと強い子に育てた積もりなのに」…これらの言葉が浮かんでくるかも知れません。が、もしそうだとしても、それらを口にすべきではありません。
 そうではなく、「自分も母として深く傷ついている」ということ、その事実に留まりましょう。そこから抜け出そうとすると、上記のような色々な言葉が出てきます。あなたの心の傷が娘さんに由来する以上、あなたのどこかに「娘が流産さえしなければ、私がこんなに苦しむことはないのに…」という気持ちがあるかもしれません。その気持ちを充分に自覚せずに言葉を出すと、どんな慰めの言葉であってもそこに娘さんを否定する響きがこもります。

 余計なことは言わず、そっとしておいてあげること。娘さんが話したいときには充分に耳を傾けてあげること。娘さんと、そしてあなたご自身を温かく見守ることです。ただ、それだけ—難しく考えることはありません。

 但し、娘さんが鬱状態になるなど、困難を感じるときは、早めに専門家の助けを仰ぐようにして下さい。

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質問 115
本を見ながら浄土宗のお経を音読しています。おりんを打つタイミングや木魚の叩き方など、とても難しく感じます。全部指定通りにやらなければならないのでしょうか?
〈回答 115〉 おりんや木魚を打つ意味は何でしょうか。その主な目的は、大勢の僧侶が一緒に読経する際に、声をそろえたり、礼拝のタイミングなど身体の動作をそろえたり、次のところへうつるきっかけの合図にしたりする、ということなのです。
 おりんの音を聴くと心が静まる、ということも大切ですが、お経の途中で鳴らす場合は上記のような意味があります。ですからお一人で読経するときには、すべて鳴らさなくても構わないのです。

 私ども僧侶は細かい指導を受けます。それは必ず、先生について学びます。本を読んで独学、ということはありません。それをやろうと思えばとても大変です。
 もし「せっかく読むのだからちゃんとやってみたい」というのでしたら、本山などでお経の勉強会を主催していますので、そういった場に参加することをお勧めします。やはり先生について学ぶのが一番です。お近くのお寺に尋ねてみて下さい。

 お近くにお寺がないときは、お経のテープやCDが助けになるでしょう。それに合わせてできる範囲でお稽古なさって下さい。お念仏のときも、木魚の合間打ちが難しければ、頭打ち(*注)で結構です。頭打ちでもリズミカルに叩けるようになれば、気持ち良くお念仏できると思います。

(*注)頭打ちは、「なむあみだぶ」の「な」「あ」「だ」の発声の時に木魚を叩くこと。正式には合間打ち—「なーむ」「あーみ」「だーぶ」の長音部分で叩く

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質問 114
半年前に主人を亡くしました。本人の希望通り無宗教葬にしましたが、何となく私の気持ちがおさまりません。子供たちは「お父さんの思うようにして上げたんだから、もういいじゃない」と言います。このままだと一周忌もお墓参りだけになってしまいます。独りで鬱々として考え込んでいる毎日です。
〈回答 114〉 本当にお気の毒なことです。
 私どもがご葬儀をお勤めする意味は、いろいろあります。故人を仏弟子として阿弥陀さまのお導きに委ねる、ということが最大の意味合いです(この意味合いは宗派によって違います)。一方、宗教儀式の中で故人をお送りすることによって、ご遺族の心が慰められる、という意義も大きいと思っています。また仏事は四十九日、百カ日、初盆、一周忌…と続きます。法事を営むことは大変といえば大変ですが、それらに一つ一つ取り組んでゆくことによって、「故人に対して誠意を尽くしている」という実感も得られます。
 「無宗教」ですと、これらすべてが欠落することになってしまいます。「何となく気持ちがおさまらない」「鬱々と考え込む」のも無理もありません。
 こうされたらどうでしょうか。ご葬儀に関してはご主人の思い通りにして差し上げたわけですから、その後のことについては奥さまの思うように進める、というふうに—。お寺さんに相談して、ご供養していただくのも良いでしょう。それは決して、ご主人を裏切ることにはなりません。なぜなら、もし無宗教葬でご主人がすでに「安楽の境地」に往かれたのであれば、仮にこちら側の世界で仏事を営んだとしても、(執着から離れた)ご主人の心を乱すことにはなりません。そしてもし、ご主人がまだ迷いの中におられるのであれば、仏事を営むことによって、ご主人を大いに助けることになります。
 いずれにしても、ご主人を大切に思うお気持ちあってのことですから、ご主人はきっと感謝されることと思います。
 よくお考えになって、また何かございましたらご相談下さい。

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質問 113
子供に宗教心を学ばせたいと思うのですが、どうすれば良いでしょうか?
〈回答 113〉 真の宗教心は、親から教わるものではありません。自分自身の力で人生を切り開いてゆくときに、苦しみや惨めさのどん底で出会うものです。ですから、宗教心を学ばせようと思うなら、否、学んでもらいたいと思うならば、まず自分自身の力で人生を歩めるように助けるべきだと思います。「宗教心」も含め、親の生き方をお子さんに押し付けるべきではありません。
 あなた自身が宗教的な生き方をされているなら、それで充分です。子供は親のことを実に良く見ていますから、そこから何かを学ぶはずです。
 あなたが自分自身に対して真実であること、嘘をつかないこと—それが子どもに与えられる一番の恩恵ではないでしょうか。

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質問 112
私は浄土宗の檀家です。私には資格も学も無く、食うのが精一杯でここまで来ました。ところがこの度「次期契約はしない」と会社に言われ、職安に通う毎日です。面接に行っても、届くのは不採用通知ばかり・・・ 失業保険も切れるし、少しの蓄えも切れる所です。このままだと餓死せざるを得ない状態、切羽詰まってしまいました。両親は早くに亡くなり、妹も去年他界してしまいました。天涯孤独の身なもので、どうしようもなくてメールを差し上げた次第です。この時代、なかなか仕事もあるわけが無く、抜け殻状態で毎日を過ごしてます。どうか良きアドバイスをお願いします。
〈回答 112〉 今のあなたにどのような言葉が届くか分かりませんが、やってみようと思います。
 まずひとつ。ご自身の心理的な状態はいかがでしょうか。
 ある程度(といっても難しいかもしれませんが)健全な心理状態で求職活動ができているのか。
 鏡をのぞいて見ましょう。どのような顔が写っていますか。あなたが採用する側だとしましょう。「この人と一緒に仕事をしたい」という顔がそこにありますか。
 もしもそうでないならば—そしてあなたの心理状態が健全とは言えないならば、医療や福祉関係に助けを求める方法があります。

 それともうひとつ。
 37歳とおっしゃいますと、仮に60歳まで働くとしても、あと23年あります。それだけあれば、ひと仕事もふた仕事もできます。その期間を「23年どうやってやり過ごしていこうか」とみるか、「この23年をどういうふうに使おうか」とみるか…。
 辛い時期にこそ、新たな変革の可能性が潜んでいる、というのが私の持論です。
 ご両親、妹さんも亡くなられたとのこと。今回の失業は、あなたにとっては大変お辛いことだと思います。悪条件を数え上げてご自分を追いつめてしまうこともできますが、
「さあて、こいつは新しい状況だ。自分がどういうふうに取り組んでいくのか、じっくり見てやろうじゃないか。」
と言うことも出来るかもしれません。
 良きアドバイスになったかどうか分かりませんが、ご健闘を切に祈ります—どうか道が開けますように。

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質問 111
どこへ相談したらよいか困っていたところ、このHPに出会いました。私はある会社の事務員をしております。リストラ後失踪してしまった前従業員のご家族の位牌を、彼が見つかるまで会社で預かることになりました。どんなふうに保管、ご供養してあげればよいでしょうか。また、彼が見つからない場合はどうすればよいでしょうか。お寺さんのほうで燃やしてもらって大丈夫なのでしょうか。たたりとか心配です。
〈回答 111〉 花・灯・香でご供養できれば理想ですね。が、常時そうすることが難しければ、お線香を焚いて手を合わせたあと、白いきれいな布に包んで、箱に入れてしまっておけば良いでしょう。
 前従業員の方が見つからない場合等のご質問については、お寺さんにお持ちになるときに、「こういう事情だけど、お焚きあげして頂けますか」というふうにご相談なさって下さい。あとはお寺さんが判断なさるでしょう。ご心配には及びません。

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質問 110
初盆について、お教えいただけませんでしょうか。 去年の夏に実父が亡くなりました。今年が初盆となるかと思うのですが、作法等、何を準備すれば良いのかわかりません。白磁の陶器のものを用いるとか、塗りのもので良いとか、葬儀屋さんとお寺さんからお聞きしたことが違っていて困っています。お寺さんのおっしゃるとおりにするのが良いとは思うのですが、ご相談させていただきました。よろしくお願いいたします。
〈回答 110〉 お盆の準備ですね。
 お盆は、亡きご先祖にお家にお帰りいただきご供養をする、という行事(コラム倉庫もご参照下さい。お盆について幾つか過去にコラムを書いています)。初盆(新盆)では、そのご先祖さまに初めてお盆のご供養を受けて頂きます。
  1. 期間:迎え火・送り火をいつ焚くか。
     これは地方によって異なります。8月13〜15または16日、つまり13日に迎え火を焚き、15日または16日に送り火を焚く、というところが多いようです。私の住む東京(7月盆が主)でも場所によって違います。
     お墓参りに行った時にお墓で迎え火を焚き、それを提灯に移して持ち帰ったり、お寺のご本尊さまの灯明を移して持ち帰ったりするところもある、と聞きました。
     火を焚くのは、ご先祖様の霊をご案内するという意味で、ふつうは玄関先で、おがらを燃やします。
  2. 飾り:お盆のお飾りをどうするか。
     仏壇からお位牌を出し、小机にならべる。小机には真菰(まこも—おがらと一緒にスーパーや花屋さんに売っています)を敷き、その上にお位牌のほか、ロウソク立て(右側)や香炉(中央)、おりん(右側)も置いておき、いつでもお参りができるようにしておく。
     お花(左側)・お供物を飾る。お供物は季節の野菜・果物・お水・お膳など(ご無理のないところで…) お供物には地域差があります。東京の場合でも、お宅によってまちまちです。(キュウリの馬、ナスの牛など。また特別な飾りをしないお宅もあります)
     あと盆提灯ですね。ご親戚から贈られる、というケースが多いです。新盆(初盆)の時には白い提灯を飾る、という習慣もあります。(必須のこととは思いませんが、お気持ちで飾られるなら、それも良いでしょう)
  3. 菩提寺さまに来ていただき、お盆のお経を上げてもらう。
     ご親戚にもお寺さんの予定を伝えておけば、一緒にご供養できますね。
 以上が主なところでしょうか。
 お盆は、宗派による違いというよりも、それぞれの地域の習慣として伝わっている部分が大きいので、近隣のお年寄りに教えて頂くのが一番かもしれません。
 「白磁の陶器のものを用いるか、塗りのもので良いか」とのご質問について…これは、お供物をお飾りするお皿のことでしょうか?
 もしそうでしたらどちらでも良いように思いますが、菩提寺さまが読経にみえるのであれば、お寺さんのおっしゃったことに従って下さい。

 いずれにしても、あまりむずかしく考えず、ご自分なりになさってみることが大切です。お寺さんがみえたら、「これで良いでしょうか」と尋ねてごらんなさい。それは決して恥ずかしいことではありません。何かあれば、そのときにお寺さんにお教え頂けることでしょう。

お盆について(2)
お棚経、お施餓鬼時にお寺にお出しする費用の袋には何と書いたら良いのでしょうか。やはり“お布施”でいいのでしょうか?
 表書きについてのご質問ですね。「お布施」で結構です。(費用というよりも、布施行の一つとしてとらえて頂いた方が、私ども僧侶としてはありがたくお受けできます)

お施餓鬼について
両親が亡くなって三回忌を済ませたところです。今月お盆のお施餓鬼があり、塔婆を上げます。両親が健在の時には「先祖代々」で塔婆を上げていましたが、亡き両親はいつの時期から「先祖」の扱いになるのですか?
 施餓鬼会塔婆の件ですね。(お寺によって若干違うかもしれませんが)私が思うに、
  1. 先祖代々で一本お上げする
  2. ご両親それぞれのお戒名で一本ずつお上げする
  3. 1. と 2. 合わせて計三本お上げする
のいずれでも良いと思います。
「いつの時期から先祖の扱いになるか」—古来の考え方に従えば三十三回忌ないし五十回忌ということになりましょうが、これにこだわらなくても良いでしょう。
 以上は私の意見です。菩提寺さまのお考えもあるかと思いますので、どうぞお尋ねになってみて下さい。

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質問 109
父が亡くなって、初めてわが家の宗派が浄土宗である、と知りました。お寺さんにいろいろ質問しても、「こうでなければいけない、ということはありません」と答えが返ってきます。浄土宗とは…と興味を持ち、本も借りてきて読みました。寓話集の中に、知恩院の本殿のふき残しの話を見つけました。完璧を求めず、適当にずぼらである、という話でした。
 でも家族としては、愛する父に何かしてあげたいし、後で「知らなかった」と後悔したくない—そんな思いでおります。
 お寺さんを身近に感じていきたいと、いろいろ教えて頂きたくて質問をするのですが、決まってこう答えられてしまうと、質問すること自体が恥ずかしい事のように思えてきます。
 質問の仕方がいけないのでしょうか?どこでもそのようなお答えから始まるのでしょうか?教えてください。
〈回答 109〉 初めに、お悔やみを申し上げます。
 お寺さんが「こうでなければいけない、ということはありません」とおっしゃるのですね。それは多分、「こうでなければいけない」と言うことで、仏事を難しいものだと思ってほしくない、という配慮だと思います。(私自身も同じように対応する場合があります。) 実際、仏事を構成する要素の多くの部分は、「仏教によればこうだ」「お釈迦さまはこのように教えられた」というよりも、習慣として伝えられたものが多いのです。ですから地域差があったり、時代によっても変わってくる。そうすると、「こうでなければならない」とも言えなくなってきます。
 しかし、あなたのように「質問すること自体が恥ずかしい事のように思えてきます」ということであれば、たとえお寺さんが「仏事は決して難しくないのですよ。ご安心下さい。供養する心さえあれば、それで充分なのですよ」という気持ちで「こうでなければいけない、ということはないのですよ」と言って下さったとしても、あなたのお気持ちとはずれてきますね。

 「具体的にどうしたらよいのか」を尋ねたいときには、思いきってこうおっしゃってみては如何ですか。
 「そうおっしゃって下さるのはありがたいのですが、『それについては、こうしたらよいでしょう』と具体的に教えて下さいませんでしょうか。そのほうがかえって安心です。父に対しては、後悔の残らないように、きちっと仏事を勤めたいものですから。」
 そうすれば、あなたのお気持ちがお寺さんに伝わるのではないでしょうか。

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質問 108
先日、京都に行って感じた疑問です。
いろいろなお寺を巡り、知恩院や金戒光明寺といった浄土宗のお寺にもお参りをさせていただきましたが、いずれもそのお寺の中心に位置し、一番大きなお堂は法然上人をおまつりしたお堂でした(東西本願寺も阿弥陀堂よりも親鸞聖人のお堂の方がはるかに巨大でした)。
浄土宗や浄土真宗の経典を直接読んだ経験はほとんどありませんが、法然上人や親鸞聖人が「私に手を合わせなさい」と説いたとは到底思えません。お二人の教えは阿弥陀さまへの集中した信頼と感謝だと私は理解しています。阿弥陀さまのお堂より、上人様方のお堂が信仰の中心になってしまっていることに非常に疑問を覚えました。
なぜ、このような状態になっているのでしょうか?
〈回答 108〉 ご質問を読んで、私も初めて京都にお参りしたときに、ちょうど同じような疑問を感じたことを思い出しました。教えの上からは、おっしゃるとおり、やはり阿弥陀さまを中心にお祀りすべきではないか、と思いました。

 しかしながら、現在の姿もまた、現実です。今は私自身、このような姿を歴史的事実、信仰の現実だと思っており、「こうあるべきではない」というふうには考えなくなりました。ここは阿弥陀さまに手を合わせる場、そしてここは法然上人に手を合わせる場、とそれぞれに捉えて、比較もしません。
 そんなわけで、「なぜこのような状態になっているのか?」というご質問に対し、理由を明確に説明することができません。ご質問の回答としてはまことに不充分で、申し訳ありません。

 機会がありましたらあなたのお考えをお聞かせ下さい。

ひとこと(1)
ご質問を下さったハンドルネーム「苦沙弥」さんから、この後以下のようなメールを頂きました。感謝とともに掲載させていただきます。
 質問にお応えいただきありがとうございます。
 私も質問をお送りした後、自分なりに調べてみましたが、ひとつ気付いたことがあります。それは、いわゆる鎌倉仏教は「宗祖重視主義」だということです。
 今回の質問で、私は浄土系宗派のみを取り上げましたが、宗祖が信仰の中心であるような扱いをしているお寺は他宗派にもありました。例えば、日蓮宗大本山の池上本門寺の本尊は日蓮聖人ですし、曹洞宗大本山の中心に位置する太祖殿の本尊は瑩山禅師・道元禅師です。平安仏教の弘法大師は日本で最も崇拝されている宗教の開祖ですが、宗派を超えた信仰をあつめており、これは別格と考えた方が考えた方が良いでしょう。
 では、なぜ鎌倉仏教が「宗祖重視主義」なのかということについて、私の考えは次のとおりです。
 奈良仏教・平安仏教までは、仏教は程度の差はあっても「総合的」でした。日本天台宗を筆頭に、成仏の「方法」についてある程度の幅がありました。ですから、宗祖後も教義理論的に新たな考えを提示する自由があったため、天台宗には円仁や円珍、真言宗には覚鑁といった優れた理論家を産み出す素地があったのではないかと思います。
 一方、鎌倉仏教は、その総合性を備えた仏教から、宗祖が選択した方法に信頼を寄せることが信仰の第一歩であり、宗祖の判断に異議を唱えることはその宗派の大前提を覆すことになります。浄土系宗派であれば、法然・親鸞のお二人の解釈を経た阿弥陀信仰であり、日蓮の解釈を経由した法華経信仰なのです。そのため、必然的に平安仏教以前の仏教よりも宗祖の存在感が大きくなります。そして、その結果として現在のような伽藍の形式に至ったのではないかと思います。考えてみれば、本願寺は元々親鸞聖人の廟所が起源ですので御影堂の方が大きいのも当然と考えることもできますが、基本的に鎌倉仏教にはこのような特徴があるのではないかというのが私の結論です。

ひとこと(2)
続いて、ある浄土宗僧侶の方から以下のようなコメントを頂きました。
 浄土宗の僧侶として、このご質問に一言添えさせていただきます。確かに阿弥陀仏を信仰する浄土宗の総・大本山の本尊が法然上人であるということに違和感を感じられたということは素直なご感想でしょう。
 しかし、我々信仰を持つ者にとって、宗祖の教えは絶対であります。ましてや、わが法然上人におかれましては、それまでの仏教の教えには無かった(埋もれていた)、「どんな人でもお念仏をお称えすれば、阿弥陀様はお称えした全ての人をお救い下さる」という万人が救われる御教えを広められました。法然上人の御教えの原点は、「私達は、この世において、仏になることは難しい。私達は罪深く愚かな存在であるから」というところです。ご自身の命をかけてまで、全ての人が救われる御教えを広められた宗祖を仰ぐことは、ごくごく自然な事なのですが…。

庵主より
ご感想、ありがとうございます。私自身にとっても、宗祖は最も身近な師であり、宗祖を仰ぐことはごくごく自然なことです。
 一方、苦沙弥さんのご質問も、「法然上人をお祀りするべきではない」「宗祖を仰ぐことは自然ではない」という意図ではないと思うのですが…。
 表現のニュアンスもありますし、お互い顔を見ながらのお話でもありませんので、この場では二つのお立場から頂戴したご意見を掲載するところまでとし、これ以上の議論は避けたいと思います。
 悪しからず、ご了承下さいませ。

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質問 107
浄土宗の信徒には、誰でもなれるのでしょうか? 出家する必要はありますか。私はまだ高校生ですが、年齢制限とか、家の宗派(浄土宗ではない)とかはやはり関係してくるのでしょうか?
〈回答 107〉 在家信徒ということで、どなたでも大丈夫です。あなた個人の信仰として浄土宗を選びたいというのであれば、家が他の宗派であっても問題ありません。(当庵の「お念仏の会」にも、家の宗派が浄土宗でない方もみえています。)年齢制限もありません。
 また「信徒になる」ということに関して申しますと、浄土宗の本を読んでただお念仏をとなえる、ということでも構わないのですが、もしお近くに浄土宗のお寺がございましたら、ぜひご縁を結び、ご住職からあなたに合ったご指導を頂くのが宜しいでしょう。

 人が自分の人生の柱になる信仰と出会うというのは、並大抵のことではありません。年若くしてそういう信仰と出会う、ということもあるでしょう。あなたの場合どうなのか、メールだけでは分かりません。が、若いうちは色々なことを吸収するべきです。浄土宗だけでなく色々なことを学び、他者に耳を傾け、あなたの実生活上の経験と照らし合わせ、あるときには謙虚に頭を垂れ、またあるときには批判精神をもって他者や自己の矛盾に気づいてゆく—そしてあなたなりの答えを探し続けて下さい。
 例えば、「善とは何か、悪とは何か」「心が澄んでいる、とはどんな状態か」「どうしたら他人さまの役に立てるか」「自分が心底から歓びを感じるのはどういうときか」…これらのことには繰り返し立ち戻り、思索を深めて頂きたいですね。

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質問 106
浄土宗について知りたいと思い、いろいろと調べてみました。調べた結果、浄土宗とは「ただひたすらに念仏をとなえれば必ず極楽浄土へ行ける」ということが分かったのですが、阿弥陀さまは極楽浄土へ導いて下さるだけで、今我々が生きている世界を救っては下さらないのでしょうか?
〈回答 106〉 宗祖法然上人は、あるときこういう質問を受けます。
「摂取の益をこうぶる事は、平生(へいぜい)か、臨終か、いかん」
つまり、阿弥陀仏のみ光をいただき、お救いを頂くのは、普段日常においてなのか、それとも臨終のときなのか。
 それに対して、法然上人は
「平生の時なり」
普段日常の時である、とはっきり答えておられます。そして、「お念仏の信者を阿弥陀仏は光明でお照らしになる」、それは、
「平生の時、照らしはじめて、最後まで捨てたまわぬなり。」
平生の時から光明のお導き、お守りを頂くことができる、それが臨終まで続くのだ——
 これが法然上人の教えです。

 また浄土宗の利益を「不求自得(ふぐじとく)」と言います。これは、お念仏を信じる者は、この現実世界での救いを直接求めなくても、自ずと得られる、という意味です。

 浄土宗の教えは、現世利益を旗印にする宗教・宗派とは明らかに一線を画しますが、かといって死後の救いだけを説く教えでもありません。そこに宗教としての深みがあります。
 またそこには、「生老病死」を避けられない苦しみと認識し、その苦からの解脱をめざす仏教の原点があります。

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質問 105
仏滅にお墓を建ててはいけないのですか? 仏滅は宗教となにか関係があるのでしょうか。個人的にはただの占いみたいなものととらえていますが、やはりお寺の行事や法事とか棟上げとかは仏滅は避けるのですか?
〈回答 105〉「仏滅」等をさだめている六曜は、もともと中国が発祥です。日本で日の吉凶を見るものとして良く使われるようになったのは、わりに最近のことです。
 六曜によれば、仏滅は「仏も滅亡するほどの最悪の日」の意味で、大凶とされています。「仏事以外はすべて凶」または「祝い事にも仏事にも凶」などと言われております。しかし、これにはもちろん、仏教的な根拠はまったくありません。
 また「仏滅」といいますと、「仏滅後○○年に…」というような言い方でお釈迦さまが亡くなられた時を示すことがありますが、六曜の仏滅はこれとも無関係です。

 というわけで、お寺では仏滅をまったく気にしませんが、友引の影響は受けます。友引の日を休みにしている火葬場が多いからです。火葬場が休みですと、葬儀式ができないことになります。(通夜式や、年回の法事などは友引の日であっても問題ありません) つまり、仏滅や友引を気にしてその日を避けるのは、お寺の側ではなく、一般社会の側、というわけです。
 地球は一年365日かかって太陽の周りを一周巡ります。その365回転のひとつひとつを「仏滅だ」「大安だ」「友引だ」とか言っているわけです。おかしなものですね。きっと、幸せや無事を願う人の心(「欲望」といってもよいですね)が、「日の吉凶」を求める、ということなのでしょう。そういった点では、おっしゃるようにまさに占いのようなものです。

 「わが徒は、アタルヴァ・ヴェーダの呪法と夢占いと観相と星占いを行なってはならない。」(『スッタニパータ』927)
 お釈迦さまは、このように占いを禁じておられます。
 占いは、心を静める役には立ちません。それがこのように禁じられる理由です。

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質問 104
お念仏の唱え方についてお教え下さい。「ナムアミダブ」と「ナムアミダブツ」の二種類の唱え方があるようですが、繰り返し唱える時には「ナムアミダブ」のほうが言いやすいように思います。中国からお念仏が伝わって来た時に「ナムアミダブ」という言い方であったのか、あるいは日本に来てから、念仏修行者が唱えやすいように「ナムアミダブ」と変化したのでしょうか?
〈回答 104〉 浄土宗のお念仏の唱え方は、大きく分けて二種類あります。(Q&A 11もごらん下さい)
 まず「十念」といいまして、十回のお念仏を唱える方法です。初めに、「ナムアミダブ」と八回唱えます。
    ナムアミダブ ナムアミダブ ナムアミダブ ナムアミダブ
    ナムアミダブ ナムアミダブ ナムアミダブ ナムアミダブ」
ここで息継ぎをして、一回だけ「ナムアミダブツ」と、「ツ」を加えます。十回目は「ナームアミダブー」と、ゆっくりめに唱えて終ります。(このとき礼をします。)初めの八回で息が続かないときは、四回、四回と区切って息継ぎをします。
 これが十念です。

 次に念仏一会(ねんぶついちえ)といって、数をたくさん重ねて唱える方法です。
    ナームアーミダーブナームアーミダーブナームアーミダーブナームアーミダーブ……
と、木魚に合わせて(木魚があれば、ですが)リズミカルに唱えます。
 このように、繰り返し唱えるときは「ナムアミダブ」になります。
(これ以外にも、節をつける特殊な唱え方があります。また浄土真宗ですと、少し違う唱え方になります。)

 「ナムアミダブ」と「ナムアミダブツ」の発音の仕方が歴史上いつどこで分かれてきたのかは私もよく知りませんが、「念仏」と一口にいいましても、それをどういうふうに発音するかは確かに大きな問題ですね。
 以前に香港のお寺の勤行テープを聴いたときは、節をつけて「ナムアミターバ」と唱えていました。これは、サンスクリットの「アミターバ(無量光仏)」から来ているのでしょう。
 「阿弥陀仏」という仏名自体は、経典が漢訳されるときに作られた言葉だと考えられています。もとの言葉は「アミターバ(無量光仏)」、「アミターユス(無量寿仏)」。中国に浄土経典が入る前は、「ナムアミダブツ」という言葉はなかったのではないでしょうか。
 また、「アミトート」という風な発音もあるようにききました(ベトナム、でしたか…)。
 おそらく「南無阿弥陀仏」の発音をテーマにした研究もあると思います。

 私自身は、「法然上人は、どのようなお念仏を唱えられたのだろう」とよく思います。「どのように発音されたのか」ということもそうですが、そのお声には深い信頼、固い決意がこめられていたに違いありません。人の心を動かさずにはいられないお力があったはず…。
 そのお力を少しでも頂きたい、と思います。

追 記■ 知人の浄土宗僧侶の方から、次のようなご教示を頂きました。感謝とともに載せさせて頂きます。
もともとサンスクリットでは、お念仏は「ナム」ではなく、「ナモ」であったそうです。どこで「ナム」に変わったかは分からないのですが、原語から考えれば、「ナモ」が正しいそうです。
 また、黄檗宗などでは、「ナムオミトーフ」と唱えます。また山口県の一部では、十念の全てに「ツ」が入るそうです。

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質問 103
浄土宗のお墓を建てる場合、「墓石の上部に梵字を刻むといい」とききましたが、あまり 見たことがありません。本当に梵字を刻んだ方がいいのでしょうか?
〈回答 103〉 五輪塔様式以外の墓石で、棹石に梵字を刻んであるものは、私も見たことがありません。もし棹石に入れるとすれば、浄土宗でしたらキリーク(阿弥陀仏を表わす梵字)でしょうが…。

 墓石を「礼拝の対象」として見るならば、梵字が入っていても良いはずですね。お位牌ではそういう形式のものをよく見ます。
 地方や、お寺によっては梵字を入れた墓石があるかもしれません。もしそうした情報がありましたら、追加してお知らせします。

(東京のさる石材店の方に尋ねてみたところ、「浄土宗では見かけませんね。日蓮宗では墓石上部に『妙法』と小さく入れる場合がありますが…。」というお話でした)

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質問 102
戒名を自分でつけても良いのでしょうか?
〈回答 102〉 あなたは僧侶(教師)資格をお持ちでない、一般の方だと思いますので、その前提でお答えします。
 戒名は、仏弟子となった証しとして師から授かるものです。各宗派には、開宗以来連綿と続く師弟関係がありまして、今日正式の僧侶資格を持つ方たちは、皆その流れを受け継いでいます。戒名は、その流れの延長として授かるものだ、とご承知下さい。
 「戒名らしい」漢字を並べてお名前を作っても、それは戒名とはいえません。

 このご質問の背景には、おそらく「葬儀のとき、戒名を頂くのにお金がかかる」あるいは「僧侶は信頼に足らない」というようなご心配やご不満があるのではないでしょうか。それはそれで、私たち僧侶の側がきちんと受け止め、説明をしてゆかねばならぬことであり、また信頼感を得るように努力すべきことであります。
 しかし、「戒名を自分で考える」ということになりますと、それはもはや仏教の流れ(=師から弟子への相承の流れ)から外れてしまいます。

 もしあなたに、「自分の戒名にはこういう字を入れて欲しい」というようなご希望があるならば、あらかじめ菩提寺のご住職に相談なさって下さい。また、これを機に「生前戒名(これが本来なのですが)」を受けることもよいでしょう。
 いずれにしましても、戒名は僧侶(教師)から受ける、これが大原則です。

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質問 101
お経のことです。浄土宗では三つの代表的なお経があると聞きましたが、どういう風に使い分けるのでしょうか? お墓を新規に建てたときとか、逆に古いお墓を処分するとき、又はお葬式とか年忌法要とか、そのときに応じて使い分けるのですか? 『般若心経』というのをよく聞きますが、浄土宗では読むことはないのですか?
〈回答 101〉「三つの代表的なお経」というのは、『浄土三部経』のことです。これは、『無量寿経(むりょうじゅきょう)』『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』『阿弥陀経(あみだきょう)』という三部のお経です。これらのお経に説かれているのは、「阿弥陀仏」という仏のことや、阿弥陀仏が構えられた「極楽」という名の仏国土のこと、極楽に生まれる方法などです。一番長いのが『無量寿経』、その次が『観無量寿経』。一番短い『阿弥陀経』は、10分〜20分くらいで音読できるお経です。この『浄土三部経』は、岩波文庫に収められていますので、ご興味がおありでしたらどうぞお読み下さい。
 実際の法要では、『無量寿経』のなかの一部分である『四誓偈(しせいげ)』や『歎仏頌(たんぶつじゅ)』、それから『観無量寿経』のなかの『真身観文(しんじんかんもん)』、また『阿弥陀経』(全巻もしくは半巻)をお上げします。
 浄土宗の読経は3つの部分から構成されています。「序分(お経の導入部といえます)」、「正宗分(中心部)」、「流通分(結び)」の3つです。このうち、「正宗分」のところで、上に挙げたお経の何れかをお読みするわけです。年忌法要やご葬儀のときにどのお経をお上げするかは、地方によって異なったり、また法要の導師が判断したりします。(地方によっては、法事のときに『三部経』を全巻上げる、と聞きます。かなり長時間になるでしょう。)浄土宗の決まりでも、たとえば潅仏会(花まつり)のときは『歎仏頌』、十夜会のときは『阿弥陀経』というふうな定めが一応ありますが、実際は必ずしも一定しておりません。
 また、『三部経』以外のお経では、
  • 涅槃会(お釈迦さまのご命日の法会)では、『遺教経』を上げる。一般の通夜で『遺教経』を上げることもある
  • 盂蘭盆会では、やはり三部経以外の『盂蘭盆経』を上げる
  • 火葬の収骨のときや、墓前の読経では『舎利礼文(しゃりらいもん)』という短いお経を上げる
という場合もあります。
 『般若心経』も、『三部経』とは別のお経です。法要でお上げすることはあまりありませんが、食作法(食前の読経)ではお上げしますし、まったく読まない、ということではありません。(浄土真宗や日蓮宗では、まったく読まないと思います)
 いささかややこしい話になりましたが、ご説明すると以上のようになります。

 当サイトのコラム(毎月初更新)で浄土宗のお経の解説を続けています。今までのコラムを収めた「コラム倉庫」もご参照下さい。

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質問 100
仏教の本を読んでいます。六波羅蜜のなかに「忍辱(にんにく)」ということが出てきます。これは、どんなことをされても耐え忍ばなければならない、ということなのでしょうか?
〈回答 100〉 あなたが自分を抑えたり、怒りをコントロールすることが難しい性質の人であるならば、この「忍辱」の行を実践することが役に立ちます。
 ある人が、あなたに対してひどく侮辱したとしますね。あなたが怒りを(粗っぽい形で)投げ返さないですむ一つの方法として、「相手の立場を思いやる」というやり方があります。あなたに対してひどい態度をとらざるを得ないような事情が、その人にあったわけです。もしかしたらそれは、あなたには関わりのない、その人自身の過去の内的な事情かもしれません。
 あるいは逆に、その人の言葉にも一理ある、のかも知れません。客観的に見れば、正しいのはその人で、自分の方に落ち度があったのかもしれない。その人はそれを教えてくれた。ほかの人は中々教えてくれないことを、その人は教えてくれたわけです。
 また、あなたの中に起こった怒りのエネルギーを、他所に向ける、という方法もあります。自然の中を歩いたり、運動、筋力を通してエネルギーを発散させる、というのも良い方法です。
 誰かに話を聞いてもらう、というのもたいへん有効です。第三者の立場の方に話を聞いてもらえば、それだけで「怒りの袋小路」から出られるかもしれません。
 これらの方法をもちいて、自動的に怒りを爆発させることを抑えられるようになれば、それは大きな進歩です。

 あなたがもし「いつも自分を抑えてしまう人」であり、「忍辱なんて当たり前」の人であるならば、むしろ注意したほうが良いと思います。自分のどこか(肉体的、心理的部分)に、知らないうちに無理をため込んでいたり、周囲の人に対して微妙な形で高圧的に振る舞っている可能性があります。「怒りを抑えている」のではなく、「怒りをうまく表現できない」だけなのかもしれません。もしあなたがそういう人なら、(必要な時には)適切な形で怒りを表現することを学んだほうが良いでしょう。

 どちらのケースにおいても、「自分自身や相手に対して、また周囲の人に対して暴力的にならぬように、怒りの感情と付きあう」ことが修行になります。やみくもに耐え忍ぶことで、身体を壊してしまうようではいけません。

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質問 99
僧侶になりたいです。どうすればいいでしょうか?
〈回答 99〉 あなたの詳しい状況が分かりませんので、何とも答えにくいところがあります。
「僧侶になりたい」というお気持ちはどのようなものでしょうか。たとえば、
  1. 伝統仏教の何れかの宗派に属し、その宗派の僧侶(教師)資格を取得して、「○○宗の僧侶」という社会的地位を得たい。僧侶として活動し、その立場で生計を立ててゆきたい。
  2. 伝統仏教の僧侶資格を取得して、僧侶として活動したいと思っている。が、そこから主たる収入を得ようとは思っていない。
  3. 伝統仏教の僧侶資格を取得できればそれでよい。僧侶として活動することまでは考えていない。
  4. 今の自分に満足できない。出家するしか生きていく道がないように思える。
  5. 自分には宗教体験がある。その体験に基づいた教えを人々に伝えたい。そのための道筋をどうつければよいのだろうか。
  6. 将来のことは、まだはっきりと考えていない。ただ仏教の勉強・修行を始めたい。
 伝統仏教の僧侶資格を取得するためには、まず師僧になって下さる方を探すところから始めます。あなたのお考えやご希望、環境が、師のお考えにかなえば、入門が許されるでしょう。(ちなみに私自身は、菩提寺の住職に弟子入りをしました。)
 また、各宗派には僧侶資格を取るための課程があります。それは、(少なくとも浄土宗では)上に書きました「1.」または「2.」の方が対象であるようなカリキュラムです。つまり、浄土宗の僧侶(教師)として、浄土宗の教えを広める活動をしてゆこうとする方に向けた養成教育がなされるということです。そこのところをご承知おき下さい。

《関連 Q & A》
  • 質問 5... 僧侶になる手順を簡単にまとめてあります
  • 質問 26... 私自身の経験を書きました
  • 質問 85... ご結婚に関わるご相談ですが、やはり僧侶になることに関するご質問です

H19.8.1 追記:この質問に関連して、「僧侶になりたい、あるいは僧侶になるにはどうすればよいか、とお考えの方へ」というページを新設しました。こちらもご覧下さい)

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質問 98
新しく過去帳を作ることになりました。菩提寺(浄土真宗)にお願いするのですが、出来上がって受け取るときに、お礼(お布施)をした方が良いものなのでしょうか?
〈回答 98〉 そうですね。お布施をして頂く良い機会だと思います。大きな金額でなくとも、お気持ちでなさったら宜しいでしょう。 余計なことながら、このお布施は「労力への対価」ではございませんので、「どうぞお受け下さい」というお心でなさって下さい。

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質問 97
十数年前に同僚だった方が亡くなりました。最近は、年賀状のやりとりくらいのおつき合いでした。お線香でも…と考えていますが、ご家族の方とは一面識もありません。どの様に訪問し、何を持参したらよいのでしょうか?
〈回答 97〉 別に難しいことはありません。事前に連絡をして、あなたと故人とのご関係と「お参りさせて頂きたい」というあなたの意向を伝え、日時のご都合を調整して下さい。
 そのお宅が仏教でしたら、御仏前(四十九日より以前は御霊前・御香典)と、お気持ちでお線香、お花、お菓子などを添えてお供えなさればよいでしょう。
 神道やキリスト教の場合もありましょうから、連絡されるときにお尋ね下さい。

 思い立ったときには、お参りされるのが一番です。また十数年も前におつきあいのあった方が訪ねて下されば、ご遺族もさぞかし喜ばれると思います。
 あまり形式を気になさらず、是非ご弔問下さい。

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質問 96
郷里のお墓(曹洞宗)を家の近くのお寺さん(浄土宗)に移すことを考えています。位牌堂に預けてある位牌も移します。改宗は大変でしょうか? また、どんな注意点が必要でしょうか。曹洞宗と浄土宗の違いは何でしょうか?
〈回答 96〉 改宗についてですね。
 いろいろな要素があります。ご本尊・教え・ご先祖の供養の仕方・戒名…これらが宗派によって違ってきます。
 先祖代々の宗派を自分の代で変える、ということにはそれなりの覚悟が必要です。
 もしあなたが、これらについて承知したうえで「大丈夫」ということであれば、改宗は可能です。手順としては、
  1. 新しく入檀を希望するお寺に相談に行く。(戒名を変えて下さい、と言われる可能性もあります)
    入檀が認められたら、お墓の改葬やお仏壇についても相談する
  2. これまでお世話になった菩提寺さまに改宗(離檀)したい旨ご相談をする。丁重にお礼をする
  3. お墓を移す場合は改葬許可証が必要になるので、その手続きを進める
 もちろんご家族・ご親戚にも事前に了解をもらっておくべきでしょう。
 改宗の決心がしっかりしていること、関係する方々に丁寧に説明してご理解頂くこと、分からないことは独断で決めずに相談しながら進めていくこと…そのあたりがポイントです。
 曹洞宗と浄土宗ではご本尊(釈迦如来と阿弥陀如来)、宗祖(道元禅師と法然上人)、教えの伝わった系譜、宗旨(坐禅と念仏)、よりどころとする経典、本山などが違います。仏教—お釈迦さまに発する教え、という点では同じですが、宗派の違いは大きなものです。ぜひ勉強なさってみて下さい。

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質問 95
葬儀で出棺する時に、親族が「釘打ち」というのをしますね。祖母の時も葬儀社の人に「この石で軽く二度打って下さい」と言われました。あれは何か意味があるのですか?
〈回答 95〉 棺(ひつぎ)の蓋(ふた)に釘を打つのは、言うまでもなく運ぶときに蓋がずれないようにするためです。ではなぜ石で二度打つのでしょう。
 まず石について。これは「三途の川の河原の石」と言われます。石に宿る霊力が、それで釘を打つことによって死霊を封じ込める、という意のようです。また遺族の手で釘打ちを行なうのは、故人に対する執着を断つ、という意味。
 なぜ二度打つのか、といいますと、ひとつには故人がこの迷いの世界に帰ってこないようにという願い、そしてもうひとつは故人が極楽浄土に無事に往生して欲しいという願いを表わします。これらは、死霊がもたらす不幸や危害を恐れ、それから逃れたい、という心にも通じます。
 私自身は、実は「死霊を恐れる」心理が理解できません。亡くなられた方は極楽に往生され、子孫を見守っておられるわけですから、何も恐れることないと思うのですが…。ただ葬儀をお勤めしたときに、故人のご親戚の方が「自分も(あの世に)連れていかれたら困る」と言われるのを(たまに)耳にしますと「ああ、このことかな」と思うわけです。
 最近は、遺族の希望で釘打ちをしない、という場合も増えています。習慣的なことですし、地域差もあります。

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質問 94
実父の七回忌を機に、母がお墓を建てました。嫁いだ娘の気持ちとして、お祝いをしよう思います。母もそれでいいと言っています。しかし母は以前、「お墓は子供と一緒に建てるものだと聞いている」と言っており、金額について迷っています。お墓の値段の1/4位が一般的なのでしょうか?(私には弟が一人います)
〈回答 94〉 一般的な基準はありません。あなたが「1/4くらいが適当」とお考えであれば、それでよいでしょう。
 弟さんはどうなのですか。文面だけでは分かりませんが、(弟さんがすでに社会人であるなら)弟さんとのバランスも考慮した方がよいでしょうね。
 お墓は高価なものですから、1/4といってもかなりの金額になるはず。せっかくのことですので、気持ちの行き違いが起こらないようにしたいところです。
 それと余計なことかもしれませんが、文面にある「お祝い」と「一緒に建てる」というのは随分ニュアンスが違います。「一緒に建てる」となりますと、将来、継承の問題が出てくる可能性があります。「お祝い」であればその時のことだけですよね。金額の大小に関わらず、どういう意識でお金を出すか、ということをお互いに了解していないと、あとで誤解が出てきます。「○○のつもりでお金を出したのに…」「○○のつもりで受け取ったのに…」ということにならないよう、そのことだけお気をつけ下さい。

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質問 93
お仏壇に向かって、「うちの商売がうまくいきますように」とお願いしてもよいのでしょうか?
〈回答 93〉 お願いなさっても構わないでしょう。そして、どんな感じがするかをよく味わって頂きたいと思います。
 静かにお念仏をおとなえしていると、仏さまが何かを示して下さる(ような感じがする)ときがあります。私自身、「商売…」ではありませんが、迷ったときや、何かを決断しなければならないとき、アイデアが欲しいときなど、ご本尊さまにお示し頂くことが多々あります。そのようなときは、「自分の力で道を切り開く」というよりも、「大きな流れに乗って行く、導いていただく」という感じがします。これはとても力強い感じです。
 反対に、いざお願いしてみると、「やっぱりこういうことをお願いすべきではなかった」と感じられるかもしれません。それはそのときのこと。仏さまに懺悔し、今後気をつけて頂ければそれで大丈夫です。
 あなたの願いが真に切実なものであるならば、決して間違った方向にはいかないと思います。

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質問 92
「寺院墓地」というのは、どういうお墓のことをいうのでしょうか?
〈回答 92〉 「寺院墓地」とは、寺院が檀家のためにお寺の境内地に設けた墓地をいいます。寺院墓地にお墓があるということは、そのお寺の檀家である、ということです。そのお寺の宗派に属し、そのお寺に仏事をお任せすることになります。
 「お寺とのおつき合いは大変」とお考えの方もいますが、多くの長所—例えば、仏教・仏事などについて親身になって相談にのってもらえる、お寺の行事に参加できる、檀家同士の親睦を深める機会が得られる、などがあります。またご法事をお寺の本堂で行なえば、すぐにお墓参りに行けますよね。

 寺院墓地の他にも、どこが経営管理するかによって、いろいろな種類のお墓があります。
 墓地の経営は、大きく分けると公営と民営の二つになります。
  • 公営墓地は、都道府県や市区町村の自治体が経営・管理する墓地です。その多くは大きな霊園で、全国に500カ所以上あります。
  • 民営墓地は、それ以外の墓地です。寺院墓地もここに入ります。寺院墓地の他に、次のようなものがあります。
    1. 財団法人や社団法人が経営管理する霊園。
    2. 宗教法人が経営する霊園。寺院墓地と異なり、「宗旨・宗派不問」としています。ひとつのお寺が寺院墓地のほかにこの霊園墓地をもっていることもあるので、注意が必要です。
    3. 村落墓地。昔から村の住民が共有している共同墓地のことです。各地には多くのこうした墓地が残り、そのまま認められています。しかし、新規利用者の公募はありませんし、こうした墓地を新たに造ることもできません。
    4. 個人墓地。村落墓地と同様に、「墓地や埋葬に関する法律」が制定される以前から個人の土地に造られていた墓地のことです。

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質問 91
このQ&Aで、ペットについて「人間と同じように解脱できる」というような回答がありました。仏教の六道思想では、上から2番目の「人」だけが輪廻から解脱できるので、どんなに可愛がってもペットは解脱できない、せめて来世で「人界」に生まれて、それから解脱できるということではないでしょうか?

質問/回答31に関連していただいたご質問です》
〈回答 91〉 おっしゃる通り、「人身受け難し」つまり、私たちは人間として生まれてくることは極めてまれである。仏道に入る機会はこのときしかないのだから、しっかり修行を積みなさい、という教えがあります。
 一方、『無量寿経光明歎徳章』には「若在三塗勤苦之処、見此光明、皆得休息、無復苦悩、寿終之後、皆蒙解脱。」とあり、Q&A31はこの教えに基づいた回答です。この経文は、
「もし三塗、つまり六道の中の地獄・餓鬼・畜生の3つの世界で苦しみを受ける者でも、この(阿弥陀仏の)光明を見奉れば、皆その苦しみが休まり、命終わったあと、解脱する」
という意味です。ここでは「人間だけが救われる」ということでなく、「動物も同じように救われる」と説かれています。
 一体どちらなのでしょうか。「人間だけが救われる」のか「動物はそのままでは救われない。いったん人間に生まれ変わってからなら救われる」のか—。

 私はこのように思います—重点の置き所の違いが、このような教えの差になっている、と。
 「人間だけが救われる」という教えでは、「人間に生まれてくることは稀なこと。この貴重な瞬間を無駄に過ごしてはいけない。この人生を無為に終えたら、次にいつチャンスが巡ってくるか分からない。だから、後悔のないようにしっかり仏道を歩みなさい」というところに重点があります。
 また一方「動物も救われる」という教えの中には、まず「人間の命も動物の命も同じように大切である」というように、私たち人間という存在を特別扱いせずに相対的にとらえよ、という意味がある。そして、ここが大切なのですが「たとえ動物でも救われる」という阿弥陀仏の救いの力(本願力)の強さ、素晴らしさを強調する意味があります。法然上人も上に引いた経文をもとに、次のように言っておられます。
「亡くなられた人のために、お念仏を回向しなさい。そうすれば阿弥陀仏が光を放って3つの苦しみの世界を照らし、たとえそこにいる者でも苦しみが休まり、命終ったあと解脱する」

 ですから「どちらの教えが正しいのか」ということではなく、どちらも尊い教えです。Q&A31では救済がテーマですので、『無量寿経』の経文に基づいたお答えをしました。

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質問 90
私は法然上人を崇敬しています。宗教家として本当に素晴らしい方だと思います。それで私もお念仏をとなえてみるのですが、どうもしっくりきません。自分のお念仏の声に違和感を感じるのです。法然上人に対する自分の思いとずれているというか…。何かアドバイスを頂けますでしょうか?
〈回答 90〉 法然上人に崇敬の念を感じられる—誠に尊いことです。そのお心をどうか大切になさって下さい。
 また実際にお念仏をとなえることが、その崇敬の心と一致しない、ということがあるのも分かります。もちろん、初めからそれが一致すれば、素晴らしいことなのですが…。
 私ども僧侶は、大きな声でお念仏をおとなえする、ということを、当然のこととして行なっています。集団の中で、身体から自然にお念仏の声が出るような教育を受けているわけです。
 しかし、僧侶になる教育を受けなければ自然なお念仏が身に付かない、ということでは決してありません。

 私からできるアドバイスは二つです。
 ひとつは、お近くで念仏会を行なっているお寺を探して、そこに参加してみること。ご自分ひとりでとなえるお念仏とは随分違った印象を受けられると思います。また、そこでご住職の法話を聞いたり、他の参加者のお話を聞くことも大いにプラスになるでしょう。
 そしてもうひとつは、「法然上人の真のお心を理解できますように」と願ってお念仏をとなえることです。あなたが法然上人を崇敬される心は、真実のお気持ちだと思います。その真実のお気持ちを、お念仏の声にこめてみるのです。こうしてお念仏を続けるうちに、次第に法然上人の言われる「三心具足のお念仏」に近づいてゆくでしょう。

 法然上人の説かれた尊い教えは、あなたのお念仏の声に具現します。どうかお念仏をお続け頂きますように、切にお願いいたします。

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質問 89
ある方に「あなたは前世で、生きてゆくために人をだますようなことをした。今、その報いを受けている」と言われ、たいへんショックでした。前世のことを本当に知ることができるのでしょうか?
〈回答 89〉 前世のことを知る力については、昔から「宿命通(しゅくみょうつう)」として知られています。悟りを開かれた方はこの能力を得ることができる。浄土宗では、浄土に往生したのちにこの力を得ることができる、と教えられています。
 しかし、誰かから「あなたの前世は○○」と言われ、もしそれが納得できないならば、まったく気になさる必要はありません。多くの場合、そういうことをおっしゃる方が人々を混乱させています。
 私たちはこの複雑な現代社会に生きています。前世のことを持ち込んで、これ以上人生を複雑にする必要はないでしょう。それに、もし前世を知ることが生きてゆくために必要なものならば、その力が私たちに生まれつき備わっているはずで、わざわざ他の方に教えてもらう必要はないでしょう。
 また、「前世で、生きてゆくために人をだますようなことをした」という話ですが、よく考えてみれば、私たちは皆、「生きてゆくために人をだます」ことを多かれ少なかれ行なっています。自分に対しても他人に対しても完全に正直でいる、ということはとても難しいことです。その方に言われたことを敢えてプラスに受け取るとすれば、このように「罪深い自分」を自覚することで仏道に入る扉が開ける、ということになりましょうか。

 いずれにしましても、ご自分にとってプラスのこととして受け取れるものだけを受け取れば良いのです。そうでないものは、忘れてしまいましょう。

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質問 88
五輪塔の上の部分の文字についてです。いろいろ本を読んだところ、浄土宗は上から南無阿弥陀仏を刻むと書いていたり、梵字で4面刻むとか正面だけ梵字を刻むとかありました。墓地で見たところ、南無阿弥陀仏と刻んであるものは無く、みな梵字でした。梵字も、正面だけのものと、4面刻んであるものとありました。どちらでも良いのでしょうか?
〈回答 88〉 五輪塔といいますと、ふつう石塔のことです。ご質問に「五輪塔の上の部分の文字」とありますから、おそらく五輪塔を木で表わした塔婆(卒塔婆)のことをおっしゃっているのだと思います。
 五輪塔も塔婆も本来、大日如来のお心を表わすものです。地・水・火・風・空の五大(万物を構成する5つの要素)を、方形、球形等の5種類の形で表現します。塔婆にも同様に、五大のそれぞれを表わす梵字を書くのが本来の形です。
 しかし、浄土宗のご本尊は大日如来ではなく阿弥陀仏。それで「南無阿弥陀仏」と書かれるご住職もおられます。
 塔婆本来の意義からすると梵字を書くのが正当、いっぽう浄土宗の教えからいえば「南無阿弥陀仏」と書くべき、ということになりましょうか。どちらを選ぶかはご住職の考え方次第だと思います。私自身は梵字を書いています。
 また、角塔婆に梵字を書くときは、地・水・火・風・空を表わす梵字を4面に書きますが、1面1面少しずつ違えた梵字にする、と私自身は教わりました。ただ、正面だけに書く場合もあるようですね。このあたりもご住職のお考えや、あるいは各お寺に伝わるやり方によるようです。

ひとこと
この質問の方が言われている五輪塔というのは、お墓の事を言っているのではないでしょうか? 私のところの墓地にも五輪塔型のお墓がありますけれど…。
 上のQ&Aをごらんになった方がコメントを下さいました。ご指摘、ありがとうございました。
 回答にも書きましたように、ご質問に「五輪塔の上の部分の文字」とあったこと、そして五輪塔の墓石に「南無阿弥陀仏」と刻んであるものを見たことがないことから、「これは卒塔婆のことだろう」と思ってお答えしました。
 ご質問を下さった方、もし違っているようでしたら再度ご連絡下さい。

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質問 87
娘の婚家先の仏壇にお参りすることになりました。私の実家は真言宗で婚家は浄土宗ですが、作法の違いはありますか? お供えのお菓子はどのようなものがよろしいのですか? また、お参りの仕方について順を追って詳しくお教え下さい
〈回答 87〉 お参りの作法に大きな違いはないと思います。お供えのお菓子についても、特に決まりはありません。和菓子が無難ですが、洋菓子や果物でも構わないでしょう。
 お参りの仕方を詳しく書きますと、
  • 向こうの家の方がたに一礼する
  • 仏壇の前に出る
  • お供え物を供える
  • ロウソクに火をつける(お家の方がつけておいて下されば良いのですが、気がつかれなかった時は自分でつけます)
  • 右手でお線香を取って灯し、左手に持ち替えて、右手で軽くあおいで火を消し、また右手に持ち替えて香炉に立てる(1本でよいでしょう)
  • おりんを鳴らす
  • 合掌—みぞおちの辺りで、指を真直ぐのばしてぴったりと両手を合わせます。手の角度は横から見て45度くらい
  • 礼をする(仏さまに対し、心をこめて頭を下げ、数秒保ちます。)
  • 仏壇から下がり、家の方に一礼する
 浄土宗では合掌して十回のお念仏(なむあみだぶ〜)をとなえますが、浄土宗信徒としてお参りされるわけではないので、そこまでなさらなくても良いでしょう。またお線香は、浄土宗では本来、1〜3本いずれでも結構です。
  (なお、十念(十回のお念仏)のとなえ方をお知りになりたければ、Q & A の No. 11をごらん下さい)
 いつもなさっているやり方と大差ないと思います。ご心配でしたら何度か実際にお身体を動かして、練習なさったらいかがでしょうか。
 そして、少し慣れられたら、「ご先祖のおかげで娘も良いご縁に恵まれました。どうぞ若い二人をお見守り下さい」というお気持ちをこめて手を合わせて下さい。
 それがあなたさまのお心かと思います。細かい作法を気にするよりも、ここ(真実の心をもってお参りすること)が一番大切です。

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質問 86
『般若心経』には「一切は空である」と書いてあります。もしそうならば「浄土」も「念仏」も本来「空」であって、浄土を求めて念仏をとなえるのは一種の執着なのではないでしょうか?
〈回答 86〉 確かに「一切は空である」という見方に徹すれば、すべての執着を断つことができるでしょう。しかし、私たちは生身の人間。一切が空である、と一時的に達観できたとしても、そこに徹し続けることはなかなかできません。  浄土の教えは「自分を鍛えて執着を断っていこう」というものではありません。それは仏さまや菩薩さまだからできること。自分にはとても無理だ、というところから出発します。
「一切衆生は、みな仏性あり。遠劫よりこのかたまさに多仏にあうべし。何によりてか、今に至るまですなわち自ら生死に輪廻して火宅を出ざるや…」
 つまり、こう考えます。
「私は輪廻転生——限りない生死の繰り返しの結果、解脱できずに今ここにこうして生きている。悟りを求める気持ちをおこすのは、たぶん今生が始めてのことではないであろう。過去生においても同じようなことを考えたはずだ。また、悟りを開いた方にお会いしたこともあっただろう。しかし、過去生においていくら悟りを求めて努力しても、悟りは開けなかった。だからこそ、現に今ここで迷っているのだ。」
「今生もまた同じ。どんなに頑張ったとて、自分の力では到底悟りには達しないであろう。自分の力を遥かに超えた阿弥陀仏の本願力——浄土の教えにすがるしかない。」
 ですから、執着心・煩悩をもったありのままの自分を導いて頂く道——それが浄土の教え、というわけです。
 浄土宗も仏教ですから、究極の目標は仏道成就、すなわち悟りを開くことです。ただし「執着を断ち、悟りを開く」ことができるのは、今生においてではありません。浄土にお導きを頂いたあとのことです。
 浄土へのお導きを信じてお念仏をとなえる——そこにこそ、この濁世に生きる真実があります。

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質問 85
私の彼女は、東海地方の曹洞宗のお寺の娘さんです。お寺の跡継ぎがいないため、私が跡継ぎとしてなんとかしたいと思います。お父様の後を継ぐにはどうしたらいいのでしょうか。ちなみに、私は現在会社員で、僧侶になることは今まで考えたこともありませんでした。彼女のお父様には聞きづらいので、ぜひとも教えてください
〈回答 85〉 師僧(師匠)について得度を受ける、というところから始まります。浄土宗ではその後、僧籍登録の手続きを経て、宗門の大学や養成講座などで必要な科目を修得し、本山で加行を受けます。こうして僧侶(教師)資格を取得します。「お寺を継ぐ」というのはその後の話です。
 曹洞宗の場合は詳しく存じ上げませんが、同じように定められたルートがあるはずです。(東海地方でしたら愛知学院大で学ぶ方法もあるようですね)
 いずれにしましても、どなたかに師匠になって頂く、というところから始まるわけです。やはり、彼女のお父様に師匠になって頂くのが一番スムーズでしょうから、まず、お父様にご相談なさることです。
 「お父様には聞きづらい」ということですが、あなたが寺を継ぐということは、お父様や檀家さんにとっても大きなこと(歓ぶべきこと!)。ですから、最初からきちっと相談なさりながら進めたほうがよいでしょう。もしこの話をお父様に相談せずに進め、お父様の耳に、彼女やあなたでなく別の方面から入ってきたら、トラブルにもなりかねません。
 お寺の世界も、一般社会と同じく「ホウレンソウ(報告・連絡・相談)」が大切です。

H19.8.1 追記:この質問に関連して、「僧侶になりたい、あるいは僧侶になるにはどうすればよいか、とお考えの方へ」というページを新設しました。こちらもご覧下さい)

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質問 84
1ヶ月前に父が亡くなり、浄土宗の葬儀を済ませました。そこで質問があります。戒名には、本名(俗名)から字を取って入れるものなのですか?(父の戒名には本名の字が入っていません)
〈回答 84〉 お戒名は仏弟子としての名前です。真の仏弟子となられた証しとして、授けられるもの。従って、それにふさわしい名前でなければなりません。
 多くの場合、お父上のように亡くなられたあとでお戒名を受けることになります。
 私どもがお戒名をお授けするにあたっては、いろいろな要素を意識します。仏の教えをあらわす字を選ぶ、速やかに安らかな境地に至って欲しいという願いを字にこめる、故人ご生前のお人柄を偲べるような字を選ぶ、などです。俗名から字を頂く、というのもその一つですが、必ずそうするというわけではありません。このあたりはご住職によります。
 「俗名はあくまで俗の世界の名前。俗世への執着を断つ、という意味では俗名から字を取るべきでない」という考え方もあります。
 何れにしましても、菩提寺のご住職がお父上にふさわしいお名前を授けられたと思いますので、気になさる必要はないでしょう。

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質問 83
5年ほど前、ある方のお誘いで1回だけ新興宗教の集まりに出席しました。その際、「せっかく来たのだから」ということで経本と袈裟を頂きました。後になって「処分したい」と気になりながらも、今日まで来てしまいました。どうすればよいでしょう?
〈回答 83〉 菩提寺など、おつき合いのあるお寺はおありですか? もしあるならば、そちらにご相談下さい。お焚き上げをお願いできると思います。もしそういうお寺がないならば、お線香の香煙に薫じて手を合わせ、ふつうに処分していただいて構いません。
 信仰をもつ者にとっては、お経本もお袈裟も大切なものです。が、それ以上の意味はありませんから、丁寧に処分して頂ければそれで充分です。

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質問 82
私の父は海が大好きな人です。ヨットや釣り…若いころはダイビングもよくやったそうです。そんな父が最近「もし僕が死んだら、相模湾に散骨して欲しい」と言い始め、少し戸惑っています。父の言う通りにするべきでしょうか?
〈回答 82〉 散骨については、法的には「節度をもって葬送の一つとしておこなわれる限り違法ではない」とされています。
 しかし、ご遺骨をお墓に納め、節目ごとにお墓参りをして手を合わせる、という習慣にはいろいろな意味があります。
  • 手を合わせ、語りかける対象がそこにある。
  • お墓参りには(小さな)儀式としての意味合いがあり、お参りをすると「何か良いことをした」安心感がある。
  • 「お墓を守る」という仕事をすることで、ご先祖への感謝の念を形にすることができる。
  • 寺院墓地であれば、お墓参りのたびにお寺さんと交流をもつことができる。
 これらはいずれも、心理的・宗教的な意味合いが大きいことです。散骨した場合、そのあたりはどうなのだろうか、と気にかかります。
 遺骨との距離感というのは、遺族の心に大きな意味をもつのではないでしょうか。お墓に納めればはっきりとした距離感、遺骨の存在を実感することができますが、海となると、漠然としてしまい、心の置き場に困ってしまうような気がします。
 一方、散骨をした場合、もしもご本人がそれを強く希望していたならば「本人の望む通りにしてやれた」という満足感が得られるでしょう。ご本人の希望にも関わらず散骨できなければ、「申し訳ない」という心をいつまでも引きずることになりかねません。
 ですから、これらのことを踏まえて、一度お父さまやご家族とよく話し合ってみることをお奨めします。例えば以下のような項目について確認なさってはいかがでしょうか。
  • ご本人は真剣にそれを望んでいるのか。
  • ご家族は本当にそれで良いのか。(いざというときには、家族の心は大きく揺れます。それを承知で「散骨」を約束できるのか)
  • 分骨して一部を散骨する、という選択についてはどうか。

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質問 81
インド旅行の時に、ブッダガヤの土産物屋でお釈迦さまの仏像を買いました。最初はただの置物だったのですが、いつも見ているうちに仏様になってこられたような気がして、なんとなく手を合わせ、お念仏申すようになりました。
 しかしこの釈迦像は、他人から見ればただの土産物、置物。ましてやお性根も入っていない仏像に手を合わせるのもどうかなと思い続けておりました。
 うちは浄土宗ですが、仏壇とは別にお釈迦さまをお祀りしても構わないでしょうか。また、開眼供養をしないとその仏像は仏さまではないのでしょうか?
〈回答 81〉 お釈迦さまをお祀りいただくことは、もちろん構いません。開眼については、もし、おつき合いのあるお寺さんがあるのならば、何かの機会に相談し、開眼供養をして頂いたらよいでしょう。そうしたお寺さんがないのであれば、急がなくてもよいと思います。
 ご質問を拝見し、林海庵を開く前、私が最初に身近において手を合わせていた仏像のことを思い出します。それは、私の亡父が出張先の香港で買い求めてきたものです。私が仏門に入るずうっと前のこと…。最初はおっしゃるように「ただの置物」でしたが、確かにだんだん「ほとけさま」になってこられたような気がしました。
 最初に縁を結んだ仏像で、今もとても気に入っております。林海庵を開くときに、「この仏像をモデルにしたご本尊仏を作成できないだろうか」と仏具屋さんに相談したほどです。
 「他人から見れば…」 その通りなのですが、「自分にとってどうか」を大切にするのが宗教の根本です。永年人々の信仰を集めてきた尊い仏像もあれば、土産物、置物から仏さまになられる仏像もあると思います。
 どうぞ自信をもって、お手をお合わせ下さい。

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質問 80
人が他界するとどうなるのか—宗教・宗派によって教えは違いますが、私はきっと真実はひとつなのだろうと思います。神様・仏様の存在を否定しません、信じたいです。しかしどの宗教・宗派を信じて良いのか、どの宗教・宗派が正しいのかわかりません。自分自身で真実をつかみ取り、亡き人に対する納得できる供養を行いたいと思っておりますが、なかなかそこまで到達できません。何か良いお言葉がありましたらお聞かせください。
〈回答 80〉 私は浄土宗ですので、まず、浄土宗のお話を少し…。
 先祖供養ということに関して、浄土宗を開かれた法然上人はこのように言っておられます。
「亡き人のためには、お念仏をとなえて回向しなさい。そうすれば、阿弥陀仏が光明を放って苦しみ多き三つの世界をお照らしになるので、もしこれらの世界で苦しんでいる者でも、この光明を見ればその苦しみが安らいで、やがては解脱することができる。『無量寿経』に書いてある通りです。」
 また、すでに極楽に往生されているご先祖は、極楽で「仏への道」を歩んでおられますので、お念仏をとなえて仏道成就を願うのが先祖供養である、と私は心得ています。
 このように、仏教の供養は「直接ご先祖に何かをして差し上げる」のではなく、まず仏や僧への供養を行ない読経・念仏をして、次にその功徳を先祖のためにふり向ける(回向する)という形です。他の宗派も(浄土真宗以外は)大体この構造になっているはずです。もっとも上記のように「阿弥陀仏の光明がご先祖を救う」というほどには、明確な構造ではないかもしれません。
 納得できる供養にたどり着くには時間がかかるかもしれませんが、これを機にいろいろと勉強なさってみるのも良いと思います。また、どちらにお住まいか存じ上げませんが、もしお念仏を体験したい、とお考えでしたらご来庵頂ければご一緒させて頂きます。

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質問 79
新しくお墓を建てました。開眼供養をお寺さんにお願いするつもりですが、その時の準備やしきたりがあれば教えてください。家の新築祝いと同じようなことをしなければいけない、と聞いたのですがどうなんでしょうか? また、開眼法要への出席者に赤飯などの御礼をしなければいけないと聞いておりますが如何でしょうか?
〈回答 79〉 私どもがお墓の開眼供養を依頼されたときは、
1)焼香ができるようにする。つまり、焼香台・香炉を用意する。たいてい石材店が用意してくれますが、場合によってはお寺の香炉を持参します。
2)お供えするお供物(お菓子、果物などご随意)・お花・お線香をご用意いただく。
これで開眼のおつとめはできます。
 お米、塩やお酒を供える場合もありますが、私は「別になくても構わないですよ」と申しています。
 ただし、お寺によっては若干ちがうと思いますし、地方によってもお供え物に差があります。私が経験した九州長崎の例では、お墓の四隅にお餅を飾りました。そして季節の野菜(そのときは大根・人参など)と海産物(昆布など)を数種ずつ、それに米と塩を供えるというもので、とても丁寧でした。
 そういうこともありますので、やはりお願いするお寺さんにご相談なさるのがいちばんです。
 なお、開眼に併せて納骨をされる場合には、お位牌もご持参下さい。

 追ってご質問下さったお赤飯の件についても、「おめでたいことだから」ということなのでしょうが、私自身は施主が開眼法要でお赤飯を振る舞われていたという経験はありません。お住まいの地域の習慣でしょうか? 背景のご事情が今ひとつつかめません(あなた様ご自身が施主なのか、どなたからお赤飯を用意するように聞いたのか、それに対してあなた様がどう感じられたのか、...など)ので、一般的なお話ということになってしまいますが、ご出席下さった方にお礼として菓子折りなどを準備なさっている方はあります。いずれにせよ、仏教的に決まったしきたりがある、ということではありません。地方によって、あるいはお宅によって、考え方もやり方も変わってくることでしょうから、上に書きましたようにお寺さんや、あるいはご家族ご親戚の方などに相談なさるのもよろしいでしょうし、その上で最終的には施主が決めることだと思います。

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質問 78
今年の夏、同居している弟が亡くなりました。喪中欠礼にしようかどうか迷っています。どうしたものでしょうか?
〈回答 78〉 喪中欠礼に関するご質問ですね。仏教的に何かルールがあるということはなく、あくまで習慣としてお考え下さい。
 今日では、1親等(親、子、配偶者)と同居の2親等(兄弟姉妹、祖父母、孫)のときに喪中欠礼にするようです。それに従えば、あなたの場合は喪中欠礼、ということになりましょうが、私はあなたのご判断で宜しいと思います。たとえば葬儀の喪主をあなたがつとめたのでなければ、喪中にしなくても構わないでしょう。
 また、喪中欠礼にするときの通知について申し上げますと、「喪中欠礼のはがきは出さなくても良い。喪中を知らずに年賀状を下さった方だけに、寒中見舞いを出す。」という考えの方もおられますので、必ず出さなくてはならない、ということもありません。
 亡くなられたのが夏以降であれば、葬儀に来て下さった方は喪中であると覚えておられるでしょう。欠礼のはがきを出すのもくどいかもしれません。もし欠礼のはがきを出される場合は、「葬儀のときはありがとうございました」と添え書きすれば、より丁寧ですね。
 喪中欠礼にするかどうか、通知のはがきを出すかどうか。ご自分のおつきあいの状況や、地域の習慣なども聞いてみて、お決めになって下さい。

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質問 77
宗派内もいろいろ分派があると思うんですが、遠くのお寺から自宅近くのお寺を紹介してもらうことってできるものですか?
〈回答 77〉 各宗派ごとに『寺院名鑑』のようなものがあり、それを見て紹介してくれる場合もあります。また「寺院名鑑には出ているが、そこの住職を直接知らない」という理由で、紹介をためらわれる場合もあると思います。そのときは、宗派を統括するところ(宗務庁)に問い合わせれば、ご近所の同じ宗派のお寺がわかるでしょう。
 私のほうからひとつお尋ねしたいことがあります——どのような経緯でご紹介を望まれているのですか? 最近のご相談で多いのは、「郷里にあるお墓を、今住んでいる都市部に移したい」というものです。お墓の移転にともない、菩提寺も近所のお寺に変えたい、というご相談。そうされている方、つまりお墓もお寺も都市部に移されている方が増えてきています。もしあなたがこのような例にあたられるようでしたら、ご注意いただきたいことをお知らせしておきましょう。
 ご郷里の菩提寺さまは、何十年、何百年にわたってあなたのご先祖をご供養されています。寺院墓地であれば、あなたの家の先祖代々のお墓を永年お守り頂いてきた、ということになります。そのような菩提寺さまに対して、ほかのお寺へ移りたい、とお願いするわけですから、ご先祖にさかのぼったお付き合いがあったということについてよくよくご配慮頂いた上でお話を進めなければ、菩提寺さまに失礼なことになりかねません。
 いずれにしても「自宅近くのお寺を紹介して欲しい」という状況になった経緯を、ていねいにご説明なさることをおすすめします。

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質問 76
お坊さんへの呼びかけは「住職」でいいのでしょうか? 宗派によっては肩書きがいろいろあると思うんですが。また逆に若い坊さんにはなんて呼びかけをするんでしょう?
〈回答 76〉 ご住職、ご住職さま、住職さん、という呼び方でしたら宗派を問わず無難ですね。ただ「住職」という立場の方は一ヶ寺に一人ですので、そうでない方には、それぞれのお立場(例えば「副住職さん」、先代の「ご老僧」など)で呼ぶ方がいいでしょう。
 また、○○寺さん、(姓)+上人、和尚さま、お坊さま、などは住職、副住職などの立場やお坊さんの年齢に関係なく使ってよいと思います。
 宗派の肩書きは、たとえば浄土宗ですと律師・少僧都・僧都・大僧都・僧正…などの僧階がありますが、呼びかけの時に使うことは、まずありません。
 私自身は、「笠原上人」「ご住職」「林海庵さん」「笠原先生」「笠原さん」などと呼ばれています。例えばAさんは「笠原上人」と呼んで下さいます。Aさんが「笠原上人」と呼んで下さることに慣れているので、それはそれで自然な感じがします。またBさんはふだん「笠原さん」と呼んで下さっているので、Bさんから「笠原上人」と呼ばれたらちょっと慣れない感じがするでしょうね。
「何とお呼びすればいいですか?」と尋ねられたときには、私は「『笠原さん』でいいですよ」と答えています。

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質問 75
人は死んだら一体どうなるのでしょうか? 星になるとか、生まれ変わるとかよくきくのですが。どうなるか教えてください
〈回答 75〉 人は死んだらどうなるのか。
 大きく分けると、二つの流れのどちらかに入ってゆきます。この流れは、水の流れのようなものです。
 一つの流れは、ぐるぐると同じところを回っています。この流れにつかまると、私たちは流れに浮かぶ小枝か枯葉のようです。流れの勢いに翻弄されるばかりで、気の休まるひまがありません。少し景色の良い場所に出たかと思うと、直ぐに流れの底のほうに押し込まれてしまいます。岩や小石にごつごつと当たって傷だらけ。自分は大したこともないのに、同じように流されている小枝や枯葉を見ると、「自分より劣っている」だの「偉そうにしている」だのと、言い合っています。決して安らかな心地はしないのですが、「その流れに流されている」ことに慣れきっているため、もうひとつ別の流れがあるなんて、思ってもみません。せいぜい、どこかで噂を聞いたことがある、という程度です。
 もう一つの流れは、真直ぐ大海に通じています。この流れは、ゆったりとした流れであり、大きな船も浮かんでいます。大海…そこが素晴らしいところであることをあなたは知っています。そこはものごとの真実を見通せる世界であり、慈しみに満ちた世界であり、光あふれる世界です。  この流れに入るためには、いくつかの方法があります。まず、よほど運がいい場合。気づいたらこの流れに浮かんでいた…が、これはめったにありません。次に、この流れに入るための努力を必死になって積む、という方法。これも並大抵のことではない。よほど環境と能力に恵まれなければ、まず無理です。3番目は、大きな船に乗り込む、という方法。これでしたら、信頼と決断さえあれば誰にでも可能です。いったんこの船に乗れば、ゆったりとした流れに乗り、自然に大海へと至ることができます。
 「大きな船」に乗り、「真直ぐ大海に通じた流れ」に入ることです。そのためには、今から準備をしておかなくてはなりません。そのときになってから慌てても、遅すぎます。
 そしてもしあなたが、先に逝かれた方の心配をされているなら、まずあなたが「大きな船」に乗り込んで下さい。そうすればいつか、逝かれた方と「大海」での再会を期することができましょう。

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質問 74
菩提寺(浄土宗)の住職さんは、「念仏だけでよい」といわれます。大きな書店に行くと仏教関係の本がたくさん並んでいますし、『般若心経』の解説本などを読むと「仏教は深遠だなあ」と思います。それなのに「念仏だけでよい」とはどういうことなのでしょうか?
〈回答 74〉「念仏だけでよい」というのは、誠に文字通りだと思います。仏教書に精通しなくとも、人生にはさまざまな出来事が起こります。死別・病気・失恋・失業・人間関係の破綻…それらがそのまま仏道を歩む教材になる。「おのれのはからいを手放すしかない」と気づけば、ほどなく念仏の生活に入ることができましょう。
 ただし「本を読んではいけない」ということではありません。あなたの人生を、仏教書を読みながら吟味してみて下さい。それはきっとあなたにプラスになるでしょう。浄土宗の教えにしましても、「なぜ念仏だけでよいのか」「念仏にはどういう意味があるのか」「念仏をとなえるとどうなるのか」というようなことを読書から学ぶことができれば、それだけ親しみを感じると思います。
 注意していただきたいのは、頭でっかちにならないこと。例えば、読書を重ねて「色即是空」の意味を頭で理解できたとしても、身体感覚で「空」を知るのは並大抵のことではありません。「分かった!」と思った瞬間、「執着」という名の落とし穴が脇にポッカリと穴をあけています。仏教に興味を持ち、「仏教通」になったが、かえって仏教から遠ざかってしまった、なんていうことにもなりかねません。
 くれぐれもご用心、ご用心(自戒を込めながら…)。

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質問 73
家の仏壇ではなく、自分自身の仏壇がほしいと思っています。どうしたらよいでしょうか?
〈回答 73〉 家のお仏壇、はあるのでしょうか? 「家の仏壇はあるが、それとは別の仏壇が欲しい」ということになりますと、信仰上の問題というよりも、家族関係の問題、あるいは家の継承(あなたのお立場は分かりませんが)の問題、という気もいたします。もしそうであるなら、信仰上の問題、ととらえて私がお答えしますと、ポイントがずれてしまうかもしれません。
 今は「家の宗教」から「個人の宗教」へと変わりつつある時代、といわれています。人々と仏教との関わり方も変化しつつある。かといって、個人個人で信仰のあり方を自由に選択してよいのか、といいますと、周辺の状況や、それに伴う影響も考えた方がいいですね。
 例えば——仏さまをお祀りすること自体は尊いことです。が、個人の仏壇を持つことによって、家族の絆がますます弱くなってしまう、ということもあり得ますよね?
 また一方、ご自身の心の支えとして、ご家族から離れたところに仏壇をを求めたいという切実な思いがある、という場合もあるでしょう。個人の信教の自由は尊重されなければなりません。
 ですから、「個人の仏壇をもつ」ということについての私の意見は、ケースバイケースです。一家にお仏壇がひとつある、というのはたいへん結構だと思いますが、個人個人で仏壇を持つ、ということになりますと、慎重にならざるを得ません。
 お家のお仏壇がなく、例えば「家族は仏教には無関心。でも自分は仏壇をお祀りしたい。家族も了承済み」ということでしたらぜひお仏壇をお求め下さい。その際、宗派は?ご本尊の開眼供養は?ということもしっかりご確認下さい。
 また、お仏壇ではなくても、仏さまをお祀りする方法はあります。それについてはこのすぐ下の Q & A 72 をご参考になさって下さい。

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質問 72
最近父が亡くなりました。私はマンションに一人住まいをしています。ワンルームですし、仏壇を置くことは考えていません(実家には仏壇があります)。でも、日々のお勤めとして、仏像や絵像など何かをおまつりしたいと思っています。絵像は壁に掛けても良いのでしょうか。アドバイスをお願いします
〈回答 72〉 仏像・絵像などをおまつりされるのは大変結構だと思います。また絵像を壁にかけても構いません。
「日々のお勤めとして」とのお話です。せっかくでしたら、坐って手を合わせ、お参りできる空間をお作りになってはいかがでしょうか。
 例えば、小机や花置き台のようなものに、小さな仏像とお父上のお写真、お花などを飾り、お線香をあげられるようにする。仏像・画像などは慎重にお選び下さい。値段に関係なく、心にぴったりくる、ということのほうが大切です。
 また「お厨子」というコンパクトなものもあります。これはいろいろな種類のものが出ているようです。小さな厨子の中に小さな仏像をお祀りするわけです。
 花立てや香炉にしても、必ずしも仏具屋さんで求める必要はありません。今はいろいろなお店で探すことができるでしょう。
 たとえ30センチ四方であっても、「お仏壇」とはまた違った、あるいはお寺の本堂にも負けない、あなただけの「聖なる空間」を作ることもできるはずです。自由な発想で取り組んでみてはいかがでしょうか。

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質問 71
夫を亡くしました。葬儀は何とか終えましたが、四十九日の法事の準備をしなければなりません。何から手をつけたら良いのでしょうか。さっぱり頭が回りません。
〈回答 71〉 ごもっともです。精神的に強いショックを受けた中で、不慣れな仏事を準備しなければならないわけですから、「さっぱり頭が回らない」のも当然だと思います。
 こういうときは、「ひとつずつ」というふうに考えましょう。そして、先に延ばせることは先に延ばして、どうしても必要なことにだけ取り組む。人さまに多少の失礼があったとしても、許されることです。また人の助けを借りる、好意に甘える、ということも大切です。ご自分独りですべてを抱え込まないようにしましょう。
 さて、四十九日の法事です。まず決めなければならないのが、日時と場所、そしてどの範囲の方々をお呼びするか、ということです。
  • 日時について…亡くなられた日を1日目と数え、49日目に法要をするのが本来です。「土曜・日曜でなければ親戚が来られない」というのであれば、その(49日目の)直前の土曜日曜か、そのまた前の土曜日曜を候補にします。ご住職のご都合を聞きながら決めましょう。
  • 場所について…(1)お寺(2)ご自宅(3)墓前(4)どこか場所を借りて、などが考えられます。四十九日法要の当日にご納骨も併せて行なうのであれば、法事を行なう場所からお墓までの移動のことも考えましょう(マイクロバスを借りる、とか)。また法事のあと会食するのかどうか。これらも含めて法要の場所を決めます。
  • どの範囲の方々をお呼びするか…ご親戚が中心になろうと思います。ご友人や仕事関係の方をお呼びしても構いません。このあたりはご随意です。日時と場所が決まったら、お呼びする方々に早めにお知らせしましょう。
 そして、お位牌(本位牌)を作る手配をします。今は白木のお位牌をお祀りされていると思いますが、この白木位牌は四十九日までの仮のものです。四十九日以降、ご自宅では本位牌をお祀りします。
 このお位牌については、ご住職に相談なさってみて下さい。ご自分で仏具屋さんに手配されても結構ですが、ご住職が仏具屋さんを紹介して下さるかもしれません。
 お位牌についての注意点です。まず、作るのに日数がかかりますので、早めにご手配頂いたほうが宜しいです。次に、お仏壇に合った大きさのお位牌をお選び下さい。これについては仏具屋さんが相談にのってくれるでしょう。
 お位牌ができたら、四十九日法要のときにご住職に開眼(かいげん)をして頂きます。(万一間に合わなければ、別の日に開眼だけお願いしてもいいのです)

 当日必要なものについては、前もってご住職に尋ねておきましょう。お寺の方は慣れていることですから、何なりと相談にのってくれるはずです。
 また、法要とは別のことですが、いわゆる「ご香典返し」を送られるのであれば、その手配も考えておきましょう。(品物・あいさつ状・送付先など)
 一日にできることは限りがあります。心のバランスに気をつけながら、ひとつずつ進めてゆきましょう。はじめにも書きましたが、人にお願いできる部分はお願いして下さい。
 こちらでもご相談をお受けします。小さなことでも構いませんので、メールをお送り下さい。

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質問 70
お経に興味があります。浄土宗でも「お経を読む」ことは重要なのでしょうか?
〈回答 70〉 浄土宗の教えでは、お経を読むことはお念仏を助ける行である(助業)、という位置づけです。あくまでもお念仏をとなえることが第一。助業はその次、ということですね。
 ちなみに助業は、お経を読むことの他に、阿弥陀仏や極楽浄土のありさまを観想(イメージ)する、五体投地などの礼拝をする、阿弥陀仏を供養したたえる、の三つがあります。
 これらの助業に対し、お念仏をとなえることを「正定業(しょうじょうごう)」といいます。

 お寺の本堂やお仏壇の前で浄土宗のおつとめをするときは、この五つの行をすべて行なうことになります。浄土宗のおつとめの中には、読経、お念仏、礼拝、仏を供養したたえる、が含まれています。またお寺の本堂やお仏壇の様子は、極楽浄土をこの世にかたどったものですので、そこに観想も含まれます。

 このサイトでも「浄土宗のおつとめ」の解説をコラム欄で続けています。また一般向けのお経の本、カセットやCDも手に入ります。興味をお持ちでしたら、ぜひ実践なさって下さい。体験し、感じてみる、ということが大切です。
  *コラム欄はトップページにあります。また、過去のコラムでお経を扱ったものは、コラム倉庫にしまってあります。

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質問 69
近々、母の四十九日法要を行ないます。まだお墓を購入しておりません。お墓を建てるまでお寺にお骨を預かっていただくことになっているのですが、お布施と一緒にお骨の保管料をお渡しするとき、封筒の表書きはどう書けばよろしいのでしょうか?
〈回答 69〉 ご遺骨の保管料ですね。
 特に決まってはおりません。お包みの内容がお寺さんに伝わればよいでしょう。
「遺骨保管料」「遺骨保管御礼」「御布施(保管料)」「御礼(保管料)」などでよいと思います。

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質問 68
最近「密葬」ということをよく耳にします。密葬とはどういう葬儀なのでしょうか?
〈回答 68〉 密葬といいますと、本来は、いろいろな事情ですぐに葬儀告別式ができない場合に行なう内々の葬儀のことをいいます。たとえば、
  • 社会的に活躍された方の場合。いったん内々で火葬してから、日を改めて、大規模な葬儀式・告別式(本葬)を行なう。
  • 年末に亡くなられた場合。内々で火葬して、年明け、松が取れてから葬儀告別式を行なう。
  • 外国や旅先で亡くなられた場合。
などが考えられます。この場合「内々で」といっても、ご家族だけで、という決まりがあるわけではありません。ご親戚やご親友がいらしても構わないのです。

 一方、最近では、内々で葬儀を済ませることを「密葬」と呼ぶ場合が増えています。本来は上に書きましたように何らかの理由があるときの「本葬」に先立つ「密葬」であったわけですが、こちらは「本葬」のない密葬、ということになります。「家族葬」というのも同じ意味です。少人数でゆっくりと故人を偲びながらお送りできる反面、後日縁ある方々にどうお伝えするか悩んだり、葬儀のあと自宅に個別にお参りにみえる方々への対応など、たいへんな面もあるようです。

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質問 67
親戚の四十九日の法事に出席します。お包みの上書きは「ご霊前」でしょうか、「ご仏前」でしょうか?
〈回答 67〉 四十九日の法要からは「ご仏前」で結構です。結構なのですが、よくいただくご質問ですので、少し補足でご説明します。
 四十九日から上書きを「ご仏前」とする理由は、「故人は四十九日に仏になるから」というものです。  が、仏教の立場から申しますと、「四十九日目に仏になる」というよりも、「四十九日の間に、次の世界に生まれ変わる」という方が正しいでしょう。生命は生まれ変わりを重ねながら、いろいろな世界を輪廻してゆく…その中でひとつの生命が終わり、四十九日の間に次の世界に生まれ変わることになる。(ですから、枕経や通夜に始まるこの四十九日間のご供養は、特に大切にされてきました。心をこめてご供養することで、故人がよりよい世界に生まれ変わると信じられてきたからです。)
 さらに、浄土宗の教えによれば、「次の世界に生まれ変わる」、その「次の世界」について次のように言われています。
 「是人終時 心不顛倒 即得往生 阿弥陀仏 極楽国土(『阿弥陀経』)」
 つまり、「お念仏をとなえる人の命が終わるとき、心が迷うことはない。命終わってすぐに、阿弥陀仏の極楽浄土に往生することができる」という。「命終わってすぐに、」ですから、四十九日を待たずして極楽に往くことができるわけです。そして、仏になるのは極楽へ往ってからあとのこと。極楽は苦しみのない世界なので、そこでは修行がはかどり、迷いの世界に戻ることなくスムーズに悟りを開く(仏になる)ことができる、と説かれています。
 さて、では最初の話に戻りましょう。「四十九日目に仏になる」? つまり極楽で仏になるのがこの世の四十九日目にあたるのかどうか、ということについては…私にもはっきりとはわかりません。
 いささかややこしい話になりましたが、要するに、四十九日法要のお包みの上書きを「ご仏前」にするのは、「仏に成ってほしい」という願いのあらわれだと思います。その上書きでなくてはいけない、というほどのことではなく、ひとつの習慣だとご理解下さい。

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質問 66
葬儀のときに戒名を受ける意味を教えて下さい。
〈回答 66〉 戒名は「仏弟子」としての名前です。
 浄土宗の葬儀では、枕経かもしくはお通夜の読経の中で、故人に仏弟子になっていただく儀式(10分程度)を行ないます。
 まず仏の前で懺悔をし、髪を剃ります(剃度作法—ていどさほう)。次に「戒」を受け、まことの仏弟子になります。「戒」とは、仏弟子として守るべき誓い、と考えてよいでしょう。この誓いをたてるわけです。
 そして、仏弟子となった証し、仏教の「戒」を受けられた証しとして「戒名」を受けます。
 名は体を表わす、といいますね。私たちにとってとても重要なものです。周りの方々も、私たち自身も、「名前」でもって自分を「自分」と定めています。試しに、自分から名前が失われたところを想像してみて下さい…。自分が「無」になったような感じがしませんか。それほど私たちは名前=自分、と思い込んでいます。
 仏弟子になる、とはこれまでの俗世、つまり名前=自分をあとにして、仏の世界に入ってゆくということ——。仏の世界から見れば「新たな弟子の誕生」です。それで新たな名前を受けるわけです。私も僧侶になるにあたって、俗名は「泰」と言いましたが、師僧から「泰淳」という戒名を授かりました。
 私ども僧侶も、そのような大切なお名前をお授けするのですから、故人様を偲びながら最もふさわしいと思われるお名前を考えています。すでに受けられた戒名の字の意味をお知りになりたい場合には、授けて下さった僧侶の方にお尋ね下さい。由来、意味など説明して下さると思います。

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質問 65
父が7月の末に亡くなりました。四十九日はカレンダーで見ると9月になります。四十九日の法事が命日から数えて3ヶ月にまたがる(7、8、9月)のは良くないと聞きましたが、なぜでしょうか?
〈回答 65〉 まずはお悔やみ申し上げます。
 四十九日のご法事がご命日から数えて3つの月にまたがると、「始終、苦が身につく(しじゅうく—四十九—がみつき—三月—)」また「身(三)に及ぶ」というところから来ているようです。だから「縁起が悪い」、つまり、語呂合わせの一種ということです。
 元来四十九日という期間は「人は生まれ変わりを重ねて輪廻の世界をめぐっている。死を迎えると、四十九日経ってから次の世界に生まれる」というインドに発する考え方によるものです。しかし、この「3つの月にまたがるのは良くない」という言い伝えには仏教的な根拠は何もありません。ですからまったく気になさる必要はありません。
 もしあなたが9月に法事をなさるおつもりで、ご親戚でこだわる方がおられるなら、以上のことをお話しになってみて下さい。

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質問 64
法然上人を開祖とする浄土宗では仏壇にお位牌がありますが、弟子の親鸞上人を開祖とする浄土真宗ではお位牌は禁止、過去帳のみです。一方的に各派のしきたりを述べるだけでなく、同じ系統の宗旨を持っていながら何故基本的なことが違うのか教えていただきたい。
〈回答 64〉 浄土宗も浄土真宗も、他力(阿弥陀仏の救いの力)を信仰する宗派です。ですから、修行を積んで、自分自身の境地を高めていく(自力)、という教えではありません。阿弥陀仏を信仰し、その救いを信じてお念仏をおとなえするという最も重要なところは、両宗派に共通しています。
 しかし、浄土真宗では「他力」の解釈がより徹底しています。例えば、浄土真宗以外の宗派(浄土宗も含む)では、先祖供養、すなわち功徳を積んでそれを先祖のために回向する(まわしむける)ということを行ないます。ところが浄土真宗の他力信仰の立場に立てば、「ご先祖は阿弥陀仏にすでに救われている。そのうえ回向が必要だというのは、阿弥陀仏の救いを信じていないことになる」のです。法事を行なうのも「功徳を積んで先祖に回向するため」ではなく、「聞法(もんぽう)—阿弥陀仏の教えに接する場を頂く」ため、ということになります。総ては「仏の側から」私たちの側へ頂く、という考え方なのです。「信心」でさえも、自分の中に育てるものではなく、阿弥陀さまから頂くもの、という解釈です。ですから浄土真宗では「卒塔婆回向」もしませんし、「施餓鬼供養」もしません。これらは浄土真宗からみれば自力の供養であって、阿弥陀仏の信仰と相いれないものなのです。
 前置きが長くなって恐縮ですが、お位牌についても同様。位牌に戒名(法名)を書いてそれに礼拝するのは、自力の供養(私たちの側から、気持ちをご先祖の方へ向けること)になる、という解釈です。総ては阿弥陀仏の方から私どもの方へ頂く、という他力の教えに反することになってしまいます。
 これに対し、浄土宗は緩やかというか、浄土真宗ほど徹底していません。お位牌もありますし、卒塔婆も建てますし、施餓鬼も行ないます。こちらからご先祖に回向する、ということを認めているのです。その点では他の宗派、すなわち禅宗や、日蓮宗、天台真言などと同じです。
 ですから先祖供養、という観点からしますと、浄土真宗だけが特別、といえるかもしれません。浄土真宗が位牌を作らない理由としては、他に「位牌のルーツはもともと儒教にあり、仏教とは無関係」「仏教では霊魂の存在を認めない(無我説)。位牌を祖霊の依り代(よりしろ)のようにして拝むのは、仏教に反する」ということもあるようです。
 仏教の「教義」と「先祖供養」…これは時に緊密に結びつくものであったり、また時に矛盾するものであったりするわけです。それが、浄土宗と浄土真宗の考え方の違いによく現われていると思います。

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質問 63
遺影を仏壇の上に飾ってもよいものでしょうか? 仏壇の上には何も置いてはいけないというようなことを聞いたのですが。遺影は仏壇正面でなく、長押のある壁につり下げたりするのがよいのでしょうか? また、飾るのは遺影に使った写真でないといけないでしょうか? 少し、微笑んでいるような写真ではいけませんか?
〈回答 63〉 お仏壇の中心はご本尊さまです。従って、お仏壇の上にご遺影を飾りますと、ご本尊さまの上(かみ)座にご遺影を置くことになってしまいます。
 大きなお写真でしたら、仏壇の真上を避けて飾られたらいかがでしょうか。適当な場所がありますか? 小さなお写真でしたら、仏壇の脇もしくは中(手前の方)にお飾りしても構わないでしょう。
 要点は、「お参りの中心は仏壇中のご本尊さまであり、ご本尊さまを一番上座(奥、上、中心)に安置しなければならない」、ということです。ご先祖さまは、ご本尊さまに導かれる存在ですから、お位牌などもご本尊さまの一段下に飾ります。ご遺影は、ご先祖さまを表すものとしてはお位牌や過去帳に比べて下位のものですので、仏壇の世界では、上座には置きません。
「仏壇の世界」の外では、どこにご遺影をお飾りになってもご自由です。
 実を申しますと、私自身、ご質問を受けないかぎり、ふだんあまり細かい指導はしていません。せっかくご質問いただいたので、以上のような原則的な考え方をご紹介しました。ご参考になさって下さい。

 それから、「飾るのは遺影に使った写真でないといけないでしょうか? 少し、微笑んでいるような写真ではいけませんか?」とのご質問について。
 結構です。ご葬儀のときに、一番ぴったりくる写真を選べるとは限りません。手を合わせてみて、しっくりくる写真を選ばれたらよろしいと思います。

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質問 62
昨年父が亡くなり、菩提寺に少なからぬ額のお布施を包みました。こんなことを言うのも何ですが、菩提寺の次男坊が、最近、高級外車を乗り回しています。お布施が外車に化けたかと思うと、虚しい気持ちになってしまいます。どう受け取ればよいのでしょうか?
〈回答 62〉 う〜む、何かがっくりと力が抜けてしまうようなお話ですね。「虚しい気持ちになる」というのもそれはそれとして理解できます。
 あなたがふだん、菩提寺さまをどう見ておられるのか、文面だけでは詳しく分かりませんが、もしかしたら肝心なのは「高級外車」よりも「菩提寺と信頼関係ができているのか」ということかもしれませんね。

 ただ、「布施行」の本来の目的から言うと、虚しい気持ちになる必要はないのです。それはなぜか? お布施は「布施すること」で完結する修行です。大切なもの(お金など)を、見返りを求めずにただ差し出す。受け取って頂ければ、それで布施行が成満し、功徳を積むことになります。金品と一緒にあなたの「執着心」の一部を差し出すところが、布施の「行」たる所以です。お布施を差し出した時点ですでにあなたは功徳を積み、行は完結したのです。
 ですから、布施したお金のその後の使い道をあなたが気にかける、というのは本来は筋が違う話なのです。それに、もしかしたら、その車は別の檀家さんが寄贈されたものかもしれないし、「次男坊」さんがバイトをして手に入れたものかもしれませんよね。いずれにしても、あなたの「布施行」はすでに完結しているわけですから、大丈夫。「布施の功徳は必ず仏さまに届いている」と信じ、こだわりを捨てましょう。

 もしも檀家さんから頂いたお布施の収入が適正に使われていないとすれば、それはお寺の問題、または「次男坊」さんの問題です。あなたの問題ではありません。その結果は、やがてお寺や次男坊さんに返ることになるでしょう。

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質問 61
東京で生活しています。母が亡くなり故郷の佐渡の浄土宗のお寺より信女の戒名をいただきました。お布施の金額をお寺さんに聞きましたが、「お気持ちで」と言われました。インターネットで調べると「5万位」とありました。浄土宗は金額が低いようですが、相場はおいくら位でしょうか?
〈回答 61〉 布施というのは、一つの「行」です。お金をお包みすることが多いのですが、これは商品やサービスの対価ではありません。「対価」であるならば、相場というものもでてきましょうし、同じ商品を入手したり、同じサービスを受けたりするのであれば、「安いほうがいい」という考えも出てきます。しかし、「布施行」はこれとは違います。
 布施行の意義——それは、お金や安定への執着、自己の所有欲に対する執着を手放し、寛大さを培うことにあります。何かを手に入れるためにお金を差し出すのではなく、ただ、差し出す。「ただ、差し出すだけ」——これが布施行の意義であり、功徳でもあります。日常のお金のやり取りとは全く異なります。

 実際には、家族を亡くし、葬儀を出したり法事を営む場合にお布施をお包みすることが多いですね。しかし、この布施行の意義や精神を欠いたお布施は、虚しいものです。寛大さを培う、というのは個人の意識の成長の問題ですから、いくらの金額が適当か、というのは他人が示せることではありません。たとえ資産家であっても吝嗇な資産家であれば、小さい金額でも「ただ差し出す」ことに苦痛を感じるでしょう。であれば、その資産家にとってはわずかな金額でも「有意義な」布施行になるでしょう。また逆に、すでに寛大なところがある人は、例え豊かでなくても大きな金額を布施することになるかもしれません。

 「インターネットで相場を調べる」のも結構ですが、あなたご自身の「お気持ち」を十分お考えになったうえで、もしもっと大きな金額を布施できるのであれば、そうして下さい。それによってあなたは何の「得」もしないかもしれません。が、得ようと思っても容易には得られないもの——つまり寛大な心、豊かな心に一歩近づけるかもしれません。

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質問 60
仏教にはいろいろな宗派がありますね。日本の仏教を勉強しようとすると、まず「何宗?」という事になります。何宗でも結局目指すところは同じだと思うのですが...。宗派にこだわる必要があるのでしょうか?
〈回答 60〉 「結局目指すところは同じ」といえば、確かにそうかもしれませんね。
 と同時に、「ではお釈迦さまは実際にはどういう教えを説かれたのか」を学ぼうとするとき、どうなさいますか? 直接その教えに触れようとするなら、まず経典を読んでみる、ということになりましょう。ところが、これが大変です。ご存知かもしれませんが、莫大なボリュームなのです。
 『大正新修大蔵経』という全100巻の本があります。日本で編集された仏典の全集です。図像等を除くと85巻。一巻は平均900ページくらいです。
 これで例えば『般若心経』を調べますと、たった1ページの、そのまた三分の一くらいの分量です。全体が80000ページくらいありますから、 『大蔵経』がいかに大部かお分かりになる思います。これだけの量の仏典を前にして「結局目指すところは同じ」と言ってしまいますと「何も学ばない」というのと同じになってしまいます。
 お釈迦さまは多数の教えを残された。その後仏教史上偉大な高僧が多く現われ、それぞれ「お釈迦さまの真意はこうであった」と説かれた。それが宗派のはじまりであったはずです。
 例えば、浄土宗の場合は法然上人です。法然上人が命を懸けて説かれた念仏の教え——これは私ども浄土宗僧侶(信徒)にとっては、他の教えとはまったく違う、特別な教えです。「私たちはこの道を通じてしか、目指すところにたどり着けない」という特別な意味があるのです。それぞれの宗派にこのような独自の教えがあるわけです。
 目指す山頂は同じかもしれませんが、山頂に到るにはまず何らかのルートに沿って登ることを始めなければなりません。山の麓をぐるぐる回っているだけでは、何も始まらない。そうではありませんか? そのルートというのがそれぞれの宗派だというふうに考えれば、「宗派=こだわり」ではないことがわかっていただけるでしょう。

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質問 59
今日の僧侶・寺院は、結局はお金が目的で、宗教というよりも商売といった方が近いと思います。また所定の勉強なり、修行をすれば僧侶の資格がもらえ、当人の宗教性は問われない。それで真の宗教家といえるでしょうか。お釈迦さまやキリストは、全く違っていたのではないでしょうか?
〈回答 59〉 伝教大師(最澄)の言葉に「道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし」とあります。つまり、真剣に仏道を極めようとすれば、おのずと衣食はやってくる。だが、衣食を目的とするならば、そこにはもはや真の求道心はあり得ない。おそらくあなたの言いたいことと同じだと思います。私もこの言葉に賛同します。
 そして私が思うには、「悟り」「完成」「人類救済」というようなことでなくとも、例えば亡き家族のために手を合わせるといった小さな行為の中に、宗教的なきらめきがあります。そのような場に立ちあうことができ、自分は僧侶として幸せだと思います。
 ご質問が「あなたは宗教家といえるのか」という事であれば、「はい」とも「いいえ」とも答えられません。言葉で説明するようなことではないと思います。言われるまでもなく、この問いを私自身に向けながら、一歩一歩進んでゆくより他はありません。

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質問 58
身体の病気で悩んでいます。「病気が治るから」と、ある宗教団体から勧誘を受けています。入信によって本当に病気が治るでしょうか?
〈回答 58〉 さぞおつらいことでしょう。お気持ちも弱っていらっしゃるかもしれませんね。
 おっしゃるように、信仰をもつことによって病気が治る場合もあります。真に信仰に「目覚め」たならば、あなたは内的に統合され、大きな力が湧いてきます。いわゆる「免疫力」も増大することでしょう。重い病が治ることもあり得ます。
 しかし、ここは注意していただきたいことなのですが、もし病気を治そうとして何かの信仰に入るならば、そこには大きな落とし穴があるかもしれません。何かの宗教に入信して、健康に加えて、財産、信用、人間関係、精神的自立といったものまで失うこともあります。また、「私は入信して病気が治った」という話を前面に出して勧誘する宗教は、「入信しても治らなかった」という話は絶対に出しません。その辺りのことは冷静に考えて下さい。そもそも信仰で病気が治るのであれば、人の病を治すために専門の医学教育を長期間受ける必要がどこにありましょうか。
 また信仰に「取り引き」する気持ちがある——信仰と引きかえに、寄付やお布施と引きかえに健康を下さい、というのであれば、真の信仰とはかけはなれたものになってしまうでしょう。仏教は、(取り引きではない)信仰を大切にします。そして仏教は、生老病死の苦の克服を目指します。苦の克服を目指しますが、けっして「老いない」「病気にならない」「死なない」ことを教えるものではありません。人の肉体は必ず、老い、病み、死んでゆくもの…お釈迦さまとてその例外ではありませんでした。では、その肉体が老い、病み、死ぬという現実にどう向きあえばよいのか。それをどう受けとめればよいのか。大切なのはそこのところです。

「宿業(免れられない業(ごう))かぎりありて受くべからん病は、いかなる諸々の仏、神に祈るとも、それによるまじき事なり(効き目はない)。祈るによりて病もやみ、命ものぶる事あらば、たれかは一人として病み、死ぬる人あらん。
 いわんや又、仏の御力は、念仏を信ずる者をば、『転重軽受(てんじゅうきょうじゅ)』といいて、宿業限りありて重く受くべき病を、軽く受けさせたまう。いわんや、非業をはらい給わんこと、ましまさざらんや。
 されば、念仏を信ずる人は、たといいかなる病を受くれども、皆これ宿業なり。これよりも重くこそ受くべきに、仏の御力にてこれほども受くるなりとこそは申す事なれ。我らが悪業深重なるを滅して、極楽に往生するほどの大事をすら遂げさせ給う。まして、この世にいくほどならぬ命を延べ、病をたすくる力、ましまさざらんやと申す事なり。」(法然上人)

 仏の力は偉大であるから、免れ得る病は治して下さる。免れ得ない病は軽くして下さる。されば、念仏をとなえていて病になるなら、それはすべて免れ得ない病である。「仏の御力のお蔭でこれほどの症状で済んでいるのだ」と考え、いよいよ信心を深め、念仏に励みなさい——これが法然上人の教えです。

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質問 57
曹洞宗を熱心に信仰する祖母が、先日亡くなりました。祖母の子は私の母だけ。私の両親は浄土真宗の門徒です。事情があって、両親が建てた墓か、もしくは同じ敷地内に別の墓を建てて、祖母のお骨を入れてあげたいのです。宗派が違う上、姓も違うとなると、無理でしょうか?
〈回答 57〉 まず、お悔やみを申し上げます。大切なおばあさまであられたこととお察しします。
 一般的にいいますと、納骨をする場合は(埋葬許可証、改葬許可証など法的な点がクリアされていれば)
  ・ご家族の同意、および
  ・墓地管理者の同意
があれば、トラブルの心配はないでしょう。あなたの場合は前者——ご家族の同意の点は大丈夫のようですので、問題は後者、つまり墓地管理者の同意が得られるかどうか、ということになります。
1)お墓が寺院墓地、つまりあなたの家の菩提寺(浄土真宗)の境内にあるお墓である場合...
 残念ながら、他宗(曹洞宗)の方のご遺骨を埋葬するのはまず難しいとお考えになったほうがよいと思います。お寺の立場から見ると、ただ単に墓地を提供しているわけではなく、その宗派の教え(あなたの場合には浄土真宗の教え)を広める宗教活動のひとつとして、信徒(門徒)さんのお墓をおまもりしているからです。ですから、浄土真宗への改宗が納骨する際の条件になると思われます。
(なお、姓の違う方の納骨に関しては、お寺によって対応はさまざまです。)
 以上のことを踏まえたうえで菩提寺にご相談になるのもひとつでしょう。ご住職の考えを直接聞いてみるのもよいかもしれません。
2) 霊園墓地、共同墓地などの場合...
 ご家族の同意さえあれば、宗派や姓が違っていても大丈夫でしょう。一応、墓地管理者に相談なさってみて下さい。この場合、納骨のときに曹洞宗のお寺さんに来ていただくことになります。そのお寺さんにも納骨の経緯を話しておかれたほうがいいですね。また菩提寺にも事前によく事情を話しておきましょう。
 以上でご質問の答えになっているでしょうか? わかりにくいところがありましたら、遠慮なくお尋ね下さい。

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質問 56
仏教はお釈迦さまが開祖といわれています。お経によりますと、西方に浄土ありて阿弥陀如来がおられ、南無阿弥陀仏を唱えるとお迎えに来て下さると説かれています。阿弥陀如来がおられるということは、お釈迦さまがそのことを悟られて、初めて阿弥陀如来が居られるということが分かったのでしょうか? それとも、お釈迦さまの生まれる以前の時代から阿弥陀如来という方が居られるという言い伝えがあったのでしょうか?
〈回答 56〉 このテーマについては、いくつかの見方があると思います。
1)浄土経典によれば…
 ご存知のように、「阿弥陀如来は成仏されて十劫経っている」とお釈迦さまは言っておられます。また、法然上人も「お釈迦さまが世に出られたのは、阿弥陀さまの教え(浄土教)を人々に伝えるためである」とおっしゃいました。従って、ご質問の前者のように、「お釈迦さまが阿弥陀如来のことを悟られて、初めてそれを人々に説いた 」ということになりましょう。
 一方、仏教学者たちは「浄土経典は大乗経典の一部であり、お釈迦さまが直接説かれた教えではない」という歴史的事実を指摘します。その方面の研究によれば、
2)阿弥陀信仰の起源
 イランの古代宗教(太陽崇拝)にそのルーツがある、という説や、インドのヴェーダに出るヤマ天(安穏不死の世界)が極楽浄土の起源であるという説、同じくインドのヴィシュヌ神信仰がその起源であるという説など、諸説あります。(しかし、いずれも決め手があるというわけではなさそうです。)ですから、ご質問の後者「お釈迦さまが生まれる以前から阿弥陀信仰があった」か、又はそれに類する信仰があった可能性はあるわけです。お釈迦さまの人格ならぬ「仏格」に、これらの信仰が結びついて、悟りを得られた存 在としての「阿弥陀如来」が語られるようになった、とも言えましょう。
 このように、見方によってどちらとも言えるわけです。

 私自身は、こう考えています。「歴史的事実」は、「宗教性」という偉大な輝ける鉱脈が、ほんのわずか地上に顔を出したものに過ぎない。だから、それはもちろん無視できないが、真実のごく一部に過ぎない。それがすべてだと思ってしまってはいけない。
 ですから、私自身は阿弥陀信仰の歴史的起源はあまり問題にしていないのです。心をこめて「なむあみだぶつ」と発声することが大切だと考えています。

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質問 55
菩提寺が「本堂を建て直す」そうで、「寄付のお願い」が来ました。気が進みません。寄付をしなければいけないのでしょうか。ふだん盆暮れの付け届けやお彼岸でお参りするたびにお布施を包んでいます。その上に多額の寄付をする経済的余裕はうちにはありません。
例えば一般の商店が店を改装するときに、お客さんに寄付をお願いしますか? そんなことはあり得ません。お寺だけが特別なのでしょうか?
〈回答 55〉 お寺の経営面をみますと、多くの場合、檀家の方々のお布施等が収入の主たるものだと思います。また檀家さんも「お寺のためならば」と、功徳を積む機会として、また責任感をもってお寺を支えてきました。ですから、「一般の商店」とは確かに事情が違います。
 一般の商店がお店を改装する場合、その資金はどこからやってくるでしょうか。それまでの利益を蓄積したものが充当されるか、あるいは今後の売り上げ増を見込んだ中から(銀行から借りるなどして)手当てをすることになるでしょう。いずれにしてもその資金は商品の価格の中に含まれていることになります。
 しかし、お寺の場合はそうではありません。本堂を建て直す、という大きな事業であれば多額の資金が必要ですが、それを全額、ふだん頂くお布施などから出すことは困難です。もちろんお寺の側もある程度は負担するでしょうが、不足分は檀家さんに頼らざるを得ません。
 ふだんお寺とどういう関係を持たれていますか? 住職さんと親しくお話をされたことがありますか? ご先祖の供養でお世話になっているという感じを持っておられますか? そういったことも、「寄付のお願い」が来たときの印象に大きく影響するでしょう。
 私としては、お寺の側は「こういう時代に檀家さんに負担をお願いするのは本当に申し訳ないが、お寺を維持するためにはどうしても必要なことなので、なんとかお願いしたい」という気持ちで、また檀家さんの方は「今までお世話になってきたし、これからもお世話になるのだから、ここは何とかして差し上げたい」という気持ちでことが運べばいいのだがなあ、と思います。
 ただ、檀家さんの側にもそれぞれの経済事情がおありでしょうから、「いくらいくらお願いします」と割り当てがきて、どうしてもそんなに寄付できないということであれば、率直にお寺にご相談されてよいと思います。

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質問 54
私のとても親しい友人が、私の母の葬式のとき都合が悪くて出られませんでした。「お母さまの四十九日法要のときに、是非お参りさせてほしい」と言ってくれたのでそのつもりでいましたら、親戚の一人から「法事や納骨は、身内だけでするものだ」と言われました。身内でない者の参列はまずいでしょうか?
〈回答 54〉 かまいません。「とても親しい」ご友人でしたら、是非お参りして頂いて下さい。
「身内だけでするもの」というのは、どういうことでしょうね。多分、あまり広い範囲に声をおかけすると、法事を主催するほうも大変、呼ばれたほうも負担ということになりかねない、という理由によるのだと思います。そして、「身内だけ」ということに統一しておけば、「あの人は呼ばれたのに、うちは呼ばれなかった」というようなトラブルも避けられます。
 でも、ご質問のケースでは、そのような心配は無用だと思われます。むしろ母上も喜ばれるでしょうし、良いご供養になるでしょう。
 どなたにいらして頂くかは、最終的には施主がお決めになればよいのです。ただ、せっかくアドバイスを下さったご親戚と角が立つのも宜しくないので、うまくご説明下さい。「僧侶の方に相談したらこう言われた」と、この回答の内容を利用して頂いても結構です。

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質問 53
人は宗教がなくても生きてゆけるのではないでしょうか?
〈回答 53〉 その通り、人は宗教がなくても生きてゆける、と思います。私は「すべての人は、宗教がなくては生きてゆけない」とは決して思いません。
 「宗教」をどう定義するかにもよるでしょうが、○○教、△△宗に属する必要は、必ずしもないと思います。
 朝起きて、ご飯を食べて、学校や会社に行き、勉強したり遊んだり、仕事をしたりして、夜家に帰る。ご飯を食べて、お風呂に入って寝る。
 学校を卒業して、就職して、結婚して、子どもを作って、育て、社会に送りだす。幸せがあり、時に不幸があり、泣いたり笑ったり、喜んだり悲しんだりして、年老いてゆく。時に哲学的になることがあったとしても、「まあ、人生はこんなものだ」と納得しながら生きてゆく…そこに何も問題はないでしょう。まして、あなたが健康な身体をもち、不安のない(少ない)環境で生活なさっているのであれば、「宗教がなくても…」と思われるのもごもっともです。

 私自身はどうか、といいますと、例えば、
 「私たちの日常生活の奥には、もっと深く豊かな世界が開けているのではないか」
 というようなことを子どもの頃からずっと感じ続けてきました。あるいは、
 「真の幸せは、この世界と背中合わせに存在している別の次元にあるのではなかろうか」
 「『死』によって、すべてに終止符がうたれてしまうのだろうか」
 というようなことですね。僧侶を志した背景のひとつには、このような感覚があったように思います。そして、宗教は——私の場合は仏教ですが——これらの問いに答えてくれると思います。
 とりわけ「死」の問題は大きい。家族の死、友人の死、自分の死…人間にとって「死」が大した問題でなかったとしたら、仏教は生まれなかったのではないでしょうか。

 お釈迦さまは、出家されるときの心境を次のように語っておられます。
 「愚かな者は、自分が死にゆく身であり、死をのがれる方法を知らないのにも関わらず、他人が死ぬのを見ると、自分のことは忘れてそれを厭い嫌う。考えてみると、わたしも死にゆく身であり、死をのがれることはできない。それなのに他人の死を厭い嫌うというのは、わたしにふさわしいことではない。
 そのように考えたとき、わたしの青春のおごりはすべて断たれてしまった。」

 しかし、けっして無理をすることはないと思います。お釈迦さまはお釈迦さま、私は私、あなたはあなたです。もしあなたに(宗教への)関心が出てきたならオーケー、出てこなくてもオーケーです。

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質問 52
人には定められた運命というものがあって、いくら頑張ってもどうにもならない、と思うことがあります。仏教の考え方を教えて下さい
〈回答 52〉 ものごとは、決して独立して存在するものではありません。直接の原因があって、そしてさらに周辺の条件が整って、初めてものごとが生じてきます。
 たとえば、私たちの存在... 私たちは両親を介してこの世に生まれてきます。両親が直接の原因、といえるでしょう。では、両親はどうして出会ったのでしょうか。なぜ、父親は他の女性でなく母親を選んだのでしょうか。母親はなぜ父親と結ばれることを選んだのでしょうか。その背景にはいろいろなことがあったはず。また、もし両親が健康に育たなければ、(どちらかが命を失っていれば)その出会いはなかったことでしょう。
 さて、あなたはこの世に生まれてきました。これまでどういう経過をたどられましたか。あなたの身体を形作っているのはご両親ばかりではありません。あなたの食べた食べ物、水、空気、環境... 無数の条件が、今のあなたを形作っています。あなたの精神生活はいかがですか。あなた自身の体験、思索、友との出会い、いろいろな方々からの影響(テレビや映画の影響もあるでしょうね!)、... ここでも無数の条件が関わっています。
 そしてまた、あなた自身もいろいろなものごとの原因となり、周辺の条件を作っています。ご両親が「親」であるのはあなたが「子」であるからです。あなたの周囲の方々があなたに大きな影響を与えているのと同じように、あなたもまた、周囲の方々や環境に大きな影響を与えています。一刻としてとどまることなく、この「相互依存の巨大かつ複雑なながれ」が続いています。これは、ものごとのありようの、客観的な真実のすがたといってよいでしょう。

 さて、実人生ではときに「いくら頑張ってもどうにもならない」というふうに感じますね。「他人と過去は変えられない」といいますが、本当にその通り。また、自分を変えようと努力しても遅々として進歩しない、逆戻りしているようにさえ見える、ということもあるかもしれません。しかし、「相互依存の巨大かつ複雑なながれ」の中では、ひとつとして無意味なことはありません。無駄に消え去っていくものはありません。この「巨大なながれ」はいつも動いていて、しかもこのながれのある部分は、他の部分と関連しあっています。あなたが夜空の星を眺めているときは、夜空の星もあなたを眺めています。一輪の花に微笑みを送れば、その花も微笑みを返してくれるでしょう。

 ですから、努力が無駄になることはありません。「すべては運命として定まっていて、努力することは虚しい」... 決してそうではありません。そうではないからこそ、「仏の教えにしたがって生きていこう」と努力する仏道が尊いものでありうるのです。

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質問 51
母が亡くなり、四十九日法要の予定を検討しています。直前の休日はご住職の都合が悪いということで、その次の週の休日を指定されました。本来の四十九日よりも過ぎて執り行うのはよくないと人から聞いたのですが、いかがなものなのでしょうか?
〈回答 51〉 四十九日法要は、四十九日当日に行なうのが一番良いのですが、参列される方々のご都合を考えて、土曜、日曜などに日にちをずらして行われることが多い、というよりも、今はほとんどそうなっています。
 そこで、手前にずらすか、後にずらすかということになりますね。どちらかを選べる場合は(仏さまに失礼にならないように、というような理由付けで)手前にずらす、というのが一般的です。
 しかし、ご住職の都合が悪い、というのは「どちらかを選べる場合」には該当しないと思います。ですから、お寺さんが「この日で」と言われたのであれば、後にずらすことになっても宜しいでしょう。
 どうしても手前に、ということであれば、三十五日前後に行なうという方法もあります。このあたりはご家族、お寺さんに相談してみて下さい。

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質問 50
念仏をとなえるとき「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と言います。「南無阿弥陀仏」という言葉には、何か意味があるのでしょうか?
〈回答 50〉 まず「南無」というのは、昔のインドの言葉「ナマス」の音に漢字をあてた言葉です。「南」とか「無い」とかいう意味があるわけではありません。「ナマス」とは、「帰依いたします」「よりどころといたします」という意味です。ですから、「南無阿弥陀仏」は、「阿弥陀仏に帰依いたします」「阿弥陀仏をよりどころといたします」という意味になる。
 では「阿弥陀仏」とは...? これも「南無」と同じように、インドの言葉に中国で漢字をあてたものです。
 「ミダ」は、「量(はか)る」という意味。英語に「meter」(計量器—ガスや水道のメーター、また長さや距離を計るときのメートル)という言葉がありますね。これらに通ずる単語です。この「ミダ」の前に否定をあらわす「ア」がついて、「アミダ」つまり、「はかれない」「はかりしれない」「限りない」という意味になります。
 「ブツ」は仏です。これも、もとはインドの言葉「ブッダ」からきています。「目覚めた者」「真理をさとった聖者」の意味。
 したがって、「アミダブツ」とは、「限りないほとけ」の意味です。では、この仏さまのどういうところが「限りない」のかといいますと、お経、つまりお釈迦さまの教えによれば、
 「この仏の放っておられる『救いの光』が限りない(無量光)」
 「この仏の『命(寿命)』が限りない(無量寿)」
 ということなのです。
 どうでしょう。ちょっとややこしくなりましたね。

 まとめますと「南無阿弥陀仏」とは、
 「限りない『救いの光』を放っておられ、また限りない『寿命』をもっておられる仏である『アミダブツ』に、ナーム、帰依いたします。」
 という意味になります。

 そしてこの浄土の教えによれば、「南無阿弥陀仏」ととなえれば、かの仏の救済力によって、この世の命終ってのち必ず「極楽浄土」という仏の世界に新たな命を得ることができる。念仏さえとなえれば、難しい学問をおさめなくても、厳しい修行を積まなくても、仏の世界へ往き、そこでさとりを開くことができる。また「南無阿弥陀仏」ととなえるときに、いちいち上記のような意味を考えなくても構いません。ただひたすら、浄土への導きをお任せしてとなえればそれでよい、というのが宗祖法然上人の教えです。

 そうですね、例えばこのような疑問を持たれたことがおありですか。
 「私は何のために生きているのだろう」
 「人生に意味や目的はあるのだろうか」
 「自分にとって、真の幸せとは何だろうか」
 「人間は死んだらどうなるのか」
 浄土の教えはこれらの疑問に答えてくれます。自ずと答えがやってくる。というより、これらの疑問が消滅する、といったほうがいいかもしれません。

 この教えは仏の力に「極楽浄土」への導きをお任せすることから、「他力」の信仰であると言われています。しかし、これは自己努力を放棄するものではありません。
 この世における自己努力はしなければなりません。今月分の家賃を阿弥陀さまが払ってくれるわけではないですし、好きな人への気持ちを阿弥陀さまが伝えてくれるわけでもありません。自分で感じ、自分で考え、自分の力を活用して、また人さまの力も借りながら、何とか生きていかなければならないでしょう。
 (「他力本願」という言葉がありますが、本来の意味とまったく違うように使われています。本来の「他力本願」は、この世の努力を放棄して、自分ですべきことを他人任せにするという意味ではなく、死後の救い、つまり自分の力の限界を超えたところ、しかも自分にとって最も大切なところをすべて仏にお任せする、という意味です。他力本願については、このQ & Aのページの「質問 27」でも扱っていますので、そちらもごらん下さい。)
 努力は必要です。しかし、ひとたび「仏のお導きはまちがいない」という信仰が生まれたら、この世の努力は苦にならないでしょう。エゴへのこだわりも緩んでくる。溶けてくる。「何だ、『自分が、自分が』と思い込んで頑張ってきたけど、たいしたことないじゃないか」と思えてくる。ここが不思議なところです。こだわりが緩んでくると、かえってものごとがスムーズに進んだりする。今まで10のエネルギーが必要だったことが、半分くらいのエネルギーでできるようになる。
 私はこれを「念仏の功徳」だと思っています。

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質問 49
ここのところ、身内に良くないことが続いています。ある人を紹介してもらって相談したところ、「先祖の祟(たた)りです。きちっと先祖供養をなさい」と言われました。そのようなことがあるのでしょうか?
〈回答 49〉 仏教では、ご先祖を供養することを大事にしています。もちろんご先祖だけではありません。私たち仏教徒は、あらゆる命あるものの幸せを願います。しかし、私たちがこの世に生まれ育った条件の多くは両親、先祖によっています。この世に生まれ育ったことに感謝できるならば、自然に両親、先祖への感謝の気持ちも起こってくる。また、仮に感謝の気持ちが起こらないとしても、仏事など折りあるごとにご先祖に手を合わせていれば、いつかは素直な気持ちになれると思います。
 「気にかかっていた先祖供養をして、心がさっぱりした」
 という言葉を聞きますと、私どもも「よかったなあ」「いいご供養ができたなあ」と思います。
 ですから、もしあなたが仏事から遠ざかっていて、これを機にご供養をしてみよう、と思われるのであれば、たいへん結構なことです。

 ただし、先祖供養が善いことだからといって、「供養しなければ祟りがある」「供養すれば祟りがとれる」というのはどうかと思います。私でしたら、そう言われると嫌な感じがします。あなたはいかがですか?
 もしそう言われたら、私はこのように考えるでしょう。
 「ご先祖は、子孫の幸せを願いこそすれ、祟るなどということがあるのだろうか。」
 「仮に自分が死んだあと、子孫が供養をおろそかにしたからといって、祟ってやろうと思うだろうか。」
 「生老病死は世の常、『先祖供養で苦しみが除かれる』というのはお釈迦さまの教えに反していないだろうか。」

 浄土宗を開かれた法然上人は、
 「祈ることで病気が治り、命も延びるならば、病気になり死ぬ人などいないであろう。
 念仏を信じとなえる者は、病にかかったときは『この病は避けることのできない宿業である。本来はもっと重い病であるところを、仏のお力によってこのように軽く済んでいるのだ』と思い、信心を深めてこの世を厭(いと)い、浄土を願うべきである。」
 と教えておられます。

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質問 48
お釈迦さまが生まれたとき、「天上天下唯我独尊」と言われたという話があります。ちょっとピンと来ないような、何となくお釈迦さまらしくないような、そんなふうにずっと感じていたのですが...
〈回答 48〉「天上天下(てんじょうてんげ)、唯我独尊(ゆいがどくそん)」——これは誕生の偈(げ)として知られています。お釈迦さまが生まれると間もなく、東西南北の四方に向かって七歩ずつ歩き、やがて右手で天を指さし、左手で地を指さすと、この誕生の偈を宣言された、といいます。
 これは歴史的事実ではないでしょうが、仏教の本質に近いものを表現しているように思います。
 お釈迦さまが生まれられたときにどうであったかは知るべくもありません。が、35歳で悟りを開かれたときは、まさしくこの偈文のような心境であられたことでしょう。
 「自分にとって、すべての問題は解決した」——自己の強烈な存在感。時空を超える明晰な知性。ものごとのありさまが今やはっきりと理解できる。「わたしは目が覚めた。」と同時に、他者がすべて、ぐっすりと眠りこけているのがよく分かる。彼らとの間に横たわる、絶望的なまでの距離感...。
 唯我独尊——これは、他人と比較して自分が抜きんでている、ということではありません。量的な差ではなく、質的な差を語った言葉です。そこには一片の驕りもありません。「この状態は、そうとしか言い表わしようがない」ということなのです。そして、この直後に、「眠りこけて苦しみに喘いでいる人々」に対する大いなる慈悲心が起こってくるのだと思います。
 このような見方でこの言葉を読み直すと、少しまた違った印象になるのではないでしょうか?

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質問 47
家には仏壇があり、位牌をお祀りしています。お墓へ行けば、お墓に手を合わせます。先日ふと疑問に思ったのですが、先祖の魂はどちらにいるのでしょうか?
〈回答 47〉 このご質問も、よく頂きます。
 ご先祖のおられる本国は、極楽浄土です。そして、お位牌もお墓も、ご先祖と通ずるためのいわば通路のようなもの。通路のようなものであって、しかも礼拝の対象です。どちらも、新しく求められた時には「開眼式(かいげんしき)」といって、いわば魂をお入れする儀式を行ないます。
 ですから、「先祖はお位牌の中にいる」「お墓にいる」というよりも、お仏壇やお墓にお参りすることで、ご先祖と通じ合うことができる、というふうにお考えになったら宜しいと思います。
 お花を飾り、(お供物を上げて)お線香を焚く。合掌し、心からお念仏をとなえます。そのときのお気持ちをどうか大切にして下さい。

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質問 46
浄土宗では念仏が中心と聞き、少しずつ実践しています。しかし自分でいくら念仏してみても、何か表面的というか、浅い感じがしています。仏教の勉強をもっとした方がよいのでしょうか?
〈回答 46〉 ご興味があるならば、勉強を積まれるのも結構です。そこに新たな発見があるかもしれません。私自身も、勉強から得たことは沢山あります。しかし同時に、このことも知っておいて下さい。
 心からの念仏——極楽浄土へのお導きを阿弥陀仏にすべてお任せして称(とな)える念仏であれば、そこに深い浅いはありません。これを他力(たりき)の念仏といいます。たとえ仏教学の奥義を極めた人の念仏であっても、素朴な信心から出た念仏であっても、阿弥陀仏の救いを信仰しての念仏であれば、どちらが深いとか、優劣などはありません。自分を開き、明け渡して、お任せをする... そこに「比較」が入りこむ余地はありません。
 おのれの世間的な器がどれほどのものであろうと、どれほど仏教に通じていようと、あるいは教団や社会にどれほど貢献していようと、また逆に、まったく救いがたい自分であろうと... いったんすべてを明け渡してしまえば、自分はゼロです。そこにあるのは阿弥陀仏の救いだけ——平等に降り注ぐ光明の慈雨だけです。
 ですから、ご自分の念仏が深いか浅いか、というようにはお考えにならない方がよいでしょう。それよりも、お念仏を称えながら「自分自身のすべてを開き、明け渡している」というふうに感じてみて下さい。そうすれば、少しずつ、しっくりした感じが湧いてくると思います。

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質問 45
私は浄土宗の一僧侶です。笠原上人が携わっておられる「国内開教」、その林海庵としての実績についてお教え下さい
〈回答 45〉「浄土宗寺院の不足する地域に浄土宗の教えを広めてゆく。やがては寺院建立を目指す」という意図で、浄土宗東京事務所の指導・監督のもと、平成13年春から開教の準備を開始しました。自分自身、ほとんど縁のない土地にやって来ましたので、まず、この開教活動について多くの方がたに知って頂くことが肝要と考えました。
 そのために、タウンページに載せる、リーフレットを配布する、またこうしてサイトを立ち上げるなど、これまで経験のなかったことなのですが、多くの方にご協力を頂きながら宣伝活動を行なっています。
 また、浄土宗内の多数の上人がたから応援を頂戴しています。所属寺院・宗務所・東京教区内のみなさんの力に負うところは甚大です。信徒さんをご紹介いただくこともございます。このサイトからはあまり伝わらないかもしれませんが、私が一人で行なっている部分はほんの僅かにすぎません。
 おかげさまで信徒の方も徐々に増えています。実績、となりますと一口では言えませんが、仏事相談、人生相談、法事や葬儀の依頼、参拝ご希望など、開教活動の成果といえる確実な手応えを感じています。
 昨今は家庭崩壊、宗教離れなど、社会が急速に変化しているといわれます。しかし、どんな方でも宗教的感性を失うことなく持ち続けている。この実感が私の中で大きく育ちつつあることが、今回の開教活動の最大の成果かもしれません。

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質問 44
僧侶になられるにあたって、なぜ「浄土宗」という宗派を選ばれたのですか?
〈回答 44〉 私は二十代からヨーガをやっています。今も続けていて、そこから大変多くのことを学んでいると思っています。ただ、自分のヨーガに「他者との関わり」という点が抜けているのが以前から不満でした。それはどういうことかというと、たとえば知人との間で宗教に関する話題が出ても、ある地点で「このことは、ヨーガをしている人にしか分からない」ということになる。それでいいんだ、やむをえない、という見方もあるでしょうが、私には不満でした。もっと自分の幅を広げ、たくさんの人と宗教的な関わりを持ちたい、と思っていたのです。
 ふとしたことで法然上人の教えについて書かれた本を読みまして、「ああ、探していたものがここにあった」と思いました。ちょうど良い具合に家の宗派が浄土宗だったので、菩提寺の門をたたきました。

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質問 43
四十九日法要とお墓への納骨を同じ日に行なうのですが、お布施はひとまとめにして渡してもいいのですか?
〈回答 43〉 ひとまとめで構いません。私の経験では、「お車代」「御膳料」などを分けてお包みになる方はおられますが、お布施を分けて包まれた方はいません。お位牌の開眼も一緒にされることでしょうが、これもお布施を分ける必要はありません。

 もしお塔婆を立てる場合は、塔婆回向料(たいてい、一本いくら、と決まっています)は分けて包んだほうがよいでしょう。

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質問 42
仏壇の前に(向かい合って)水やガラス、鏡などを置いてはいけない、と以前何かのテレビで見たのですが... 霊道ができるとかで。本当はどうなのでしょうか? 教えて下さい
〈回答 42〉 お寺の本堂の正面には、ガラス戸が入っていることが多いですよね。つまり本尊様の向かいがガラスになっているわけです。うちの仏間も同じです。私は霊道には詳しくありませんが、一般にお寺で本尊様とガラス戸との位置関係が問題になることはありません。
 ご家庭の仏壇はお寺の本堂のミニチュアですから、同様にガラスがあっても大丈夫です。鏡についても全く問題はありませんが、気になるなら位置を変えても構いません。

 ところで、あなたは何かご信仰をもっておられますか? もしそうであれば、その信仰を高めることに焦点を当てて下さい。そうすれば、ネガティブな気掛かりは自然に落ちてゆくでしょう。
 また、特に信仰をお持ちでないなら、何か宗教的な実践をされたらいかがでしょうか。何でもいいのです。お念仏やお題目を称える、お経を上げる、写経をする... など。こつこつと積み上げていくことです。そうすれば、テレビや他人の話はそれとして、ご自分で判断する力がついてくるでしょう。

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質問 41
私の祖母はあの世のことを「冥土、冥土」と言っていました。浄土とはずいぶん雰囲気の違う言葉だと思いますが、何か違いがあるのですか?
〈回答 41〉 冥土は「冥途」とも書き、死者の霊魂がゆくといわれる地下の世界です。冥(くら)い、つまり光のない暗黒の世界。これは、中国の他界観に由来する言葉です。
 それに対し西方浄土は、お釈迦さまが説かれた光明の世界。仏教の「浄土」は実は沢山あるのですが、ここでは念仏によって往生できる西方極楽世界のことを言っています。この世で仏にお会いすることはかないませんが、命終ってからは無量の光を放たれている西方浄土の阿弥陀仏にお会いすることができる。
 また、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)といえばこれも、輪廻転生を続けながらめぐる六つの世界ですから、死後に赴く可能性のある世界です。では、冥土と六道はどう関係しているのか?というと、よく分かりません。「六道の下から三つめまで、すなわち地獄・餓鬼・畜生の三つの世界を『冥土』という」という話も聞いたことがありますが、根拠は不明です。
 ひとくちに中国の他界観といっても、道教や山岳信仰に仏教の影響があったりと、いろいろあるようです。もう少し詳しいことが分かりましたら、またお載せします。

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質問 40
仏教ではなぜ「人生の実相は苦である」と説いているのでしょうか?
〈回答 40〉 「苦」は、仏教の教えの出発点です。四門出遊の話をご存じでしょうか。お釈迦さまが出家される前、東南西北四つの城門の外でそれぞれ老人・病人・死人・沙門を見かけ、出家へと心惹かれるようになった、というあの話です。
 人は、その生涯がどんなに華やかで栄光に満ちていようとも、やがては老い、病気になり、死んでゆく。それは苦しみそのものである。身体的、心理的な苦しみはもちろんのこと、つかの間の楽しみも、それが失われるときには苦に転ずる。ものごとは常に流れ動いている(無常)から、生は本質的に不安定なものである。よって「人生の実相は苦である。」
「では、その『苦』を乗り越えることができるのか。」...「できる、我執を離れることによって。」
「ではどうすれば我執を離れることができるのか。」...「さまざまな方法によって。」
 そこから多くの修行法、教え、宗派が生まれてきた——と、私は仏教をそのように理解しています。
 ですから、お釈迦さまが「苦」を説かれたのは、何も人を悲観的な気分にさせるのが目的ではありません。人々がおのれの人生の現実を直視し、そこから成長するのを促すためです。ご自身が体験された「悟り」は苦の超克でもありました。

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質問 39
僧侶になられて一番辛かったことは何ですか?
〈回答 39〉 辛かったことはほとんどありませんが、強いていえば、僧侶の不祥事や寺院の醜聞が報道されたとき... でしょうか。そうしたとき僧服を着て電車に乗っていますと、何となく他の乗客の視線を感じる... ような気がしてしまいます。不祥事を起こした僧侶や寺院の檀家・信徒さんはもっと深く傷つく思いをされることでしょう。同じ僧侶として責任を感じますが、かといって私が謝る立場でもないので、とても複雑な感じがしてしまいます。
 多くの人と関わり、またその方々の心、信仰に触れる活動ですから、責任は重いです。

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質問 38
僧侶になられて一番嬉しかったことはどんなことですか?
〈回答 38〉 いろいろありますが、一所懸命お勤めしたご葬儀が終わり、遺族の方に「おかげさまで故人も極楽に往けたと思います」と感謝の言葉を頂戴したとき... これに優る嬉しさ(ありがたさ、の方が近い感じです)はありません。
 ご葬儀は、大変神経を使う場でありますし、悲しく、胸の痛む思いもします。同時にそこには何というか、あふれんばかりの真実があります。そうした場に僧侶として精一杯関わるわけです。もちろん故人を導くのは仏ご自身であって、私は教えをお伝えしてお送りするだけなのですが、先のような言葉を頂戴すると、しみじみありがたさを感じます。

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質問 37
仏さまに恋愛成就をお祈りしても構わないでしょうか?
〈回答 37〉 私どもが受けた教えによりますと、
「妻子も従類も、自身助けられて念仏申さんためなり。念仏の障りになるべくば、ゆめゆめもつべからず... 自身安穏にして、念仏往生を遂げんがためには、何ごともみな念仏の助業なり」
 つまり、念仏中心の生活を送ることが第一であるので、その助けになるのであれば恋愛、結婚も構わない。もし念仏の妨げになるのであれば、恋愛も結婚もいけません——これが法然上人の教えです。もしあなたがすでに念仏信仰に入っておられるならば、このお言葉をじっくり味わっていただきたいと思います。
 もしあなたが念仏信仰にまだあまり馴染んでおられないならば... こうお伝えしましょう。あなたの愛の対象が何であれ、その愛があなたの自我を超えて広がってゆくならば、それは宗教心の萌芽... 仏の世界に通ずるものだ、と。
 古来、恋愛関係や肉体関係を禁じ、欲望を断じて自覚を研ぎ澄ましてゆくという修行があり、それが出家の本道でもありました。また一方、恋愛や結婚を否定せずに、(出家生活からみて)世俗的な生活の中で初めて起こってくる苦悩、気づきを大切にする修行もあります。そこでは恋愛は、あなたをかき乱す「敵」ではなく、あなたを成長に導いてくれる「導師」といってよいでしょう。他者との一体感の中で体験する歓び——エゴを明け渡す歓びには、宗教と相通ずるものがあります。恋愛を宗教体験にまで昇華させることは可能です。
 ですから大切なのは、その関係性の中で自我を超えた広がりを体験できるか、ということだと思います。それは相手を独占したいとか、相手に自分の思い通りに振る舞って欲しい、というエゴの願いとは無関係です。心から相手の幸福を願うこと、相手の自由を尊重すること、またそのような体験をさせてくれた出会いに感謝を捧げることでもあります。
 こうした祈りであれば、仏さまは悦んで受けとめ、温かく見守って下さるでしょう。

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質問 36
仏教にはクリスマスみたいなお祝いはないんですか?
〈回答 36〉 ありますよ。4月8日、お釈迦さまの誕生を祝う「花祭り」がそれです。
 伝えられるところによれば、お釈迦さまは紀元前5世紀、中インドは釈迦族の王スッドーダナと、その妃マーヤー夫人の間に生まれました。マーヤー夫人は結婚後ながく子に恵まれませんでした。二十数年経ったある晩、白い象が右脇から胎内に入る夢を見て、懐妊されました。
 やがて臨月が近づき、当時の習慣にしたがって妃は生家に帰ろうとしました。その帰途、ルンビニー園とよばれるところで休息をとります。
 春の陽はうららかに、美しく咲きほこる花の一枝を折ろうとしたとき、妃はにわかに産気づき、男の子を生みました。こうして生まれた王子がのちのお釈迦さまです。
 このとき、竜王が天から現われ香湯をそそぎ、王子の身体を洗浴した、と伝えられます。
 「花祭り」では、この話から、いろいろな草花で飾った花御堂(はなみどう)をつくって、そのなかに安置した小さなお仏像(誕生仏)にひしゃくで甘茶を注ぐ行事が行われます。
 「花祭り」は「潅仏会(かんぶつえ)」「降誕会(ごうたんえ)」「仏生会(ぶっしょうえ)」ともよばれており、仏教寺院であれば宗派に関わらず、広く行なわれています。(当庵でもいずれ行ないたいと思っています。)
 クリスマスはレストランでカレシ/カノジョとワインでディナー、も結構ですが、花祭りはお寺で甘茶に幕の内弁当、というのはいかがでしょう?

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質問 35
わが家の宗派は浄土宗ですが、ふだん我流で「般若心経」をよんでいます。できれば、きちんとしたかたちで仏壇に手を合わせたいと思っています。浄土宗にのっとってしたほうがよいのか、「般若心経」をお上げしてもよいのか、教えていただけますでしょうか?
〈回答 35〉 「我流で」とおっしゃいますが、『般若心経』をあげておられる由、尊いことだと思います。
 せっかくお尋ね下さったので、浄土宗の作法(おつとめ)のことについて書きます。浄土宗では「なむあみだぶつ」とお念仏をおとなえすることを基本にしています。「なむ」はインドの言葉で「帰依いたします」という意味です。「あみだぶつ」は浄土宗のご本尊。仏教にはお釈迦さまはじめ、大日如来、薬師如来、多宝如来などたくさんの仏さま方がおられます。そのなかで、浄土宗では阿弥陀仏を選び、帰依いたします。
その理由は、お釈迦さまの沢山の教えの中にこういう教えがあるからです。
「ここよりはるか西方に、『極楽』と呼ばれる仏国土がある。かの国には、今現在阿弥陀仏という仏がおられる。この世の命終ってかの国に生まれようと願うものは、一心にかの仏のお名前を呼びなさい。そうすれば、たとえ重い罪を犯したものであっても、必ずかの国に生まれる(往生する)ことができる」
 厳しい修行をしたり、沢山勉強をしたり、寺院に多額の寄付をしたり、そういうことのできない方々も、仏のお名前を呼ぶ(念仏する)ことはできるわけで、そういう方々でも必ず救われる、というのが浄土宗の教えです。
 というわけで、浄土宗で一番大切なお勤めは「どうぞお導き下さい」という心でお念仏をおとなえすることなのです。それは、「私をお導き下さい」であり、「私たちをお導き下さい」でもあり、また「故人をお導き下さい」でもあります。生きていることの意味とか、死んだらどうなるのかとか、悩み苦しみも含めて全てをお任せする、ということです。
 お念仏のとなえ方については、質問・回答11質問・回答13をご参照下さい。
 一番簡単な作法(お勤め)は、ロウソクを灯し、お線香を立て(1〜3本。私はいつも1本だけ立てています)、りんを鳴らして合掌、十念をとなえます。
    「なむあみだぶ なむあみだぶ なむあみだぶ なむあみだぶ
     なむあみだぶ なむあみだぶ なむあみだぶ なむあみだぶ(息継ぎ)
     なむあみだぶつ なーむあみだぶー」
 お時間が許せば、お経を上げるのも大変結構です。浄土宗では、『浄土三部経』つまり無量寿経(むりょうじゅきょう)、観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)、阿弥陀経という三つのお経を中心に読みます。しかし般若心経を読むことも、結構なことです。
以上が、浄土宗の立場のお話です。浄土宗寺院をお訪ねになれば、おおむねこのような話が聞けると思います。

ただ、仏縁というのは不思議なものです。もしかすると、貴方様は般若心経に何かご縁があるのかもしれません。そういう感じがなさるなら、お念仏と般若心経を両方お勤めなさってはいかがでしょうか。

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質問 34
夫の実家は浄土宗で、うちにも浄土宗の仏壇を置きました。夫の亡き祖父は、お不動様を熱心に信仰しており、うちでも不動明王の絵を仏壇の上方の壁にかけてお祀りしています。阿弥陀如来の上に不動明王を祀っても構わないのでしょうか?
〈回答 34〉 ご承知のように浄土宗では阿弥陀如来を本尊とし、お念仏をおとなえすること、つまり阿弥陀如来のお名前をお呼びすることをもっとも大切にしています。お念仏の中に仏教のすべての功徳が集約されている、という教えです。ですからお祀りの中心は阿弥陀如来、ということになります。
 しかしまた、「阿弥陀如来の上に不動明王をお祀りしてはいけない」ということもありません。私の知っているあるお寺(浄土宗)では、本堂内の阿弥陀如来像の上に、薬師如来のお像が祀ってあります。このあたりは信仰の問題、あるいは家や地域の歴史の問題とも言えます。つまり、そこに古くから受け継がれてきた人々の信仰の気持ちが現在の形になって現われているものだから、杓子定規に教義を当てはめて考える必要はない、ということです。
 というと、かえって迷ってしまわれるかもしれませんね。あなたご自身はどう感じられますか? もし、お仏壇にお向かいになって、自分自身が落ち着いた静かな気持ちになれない、あるいは不動明王を上に置くことで気にかかることがある、というようなことであれば、私としては「それならばお移しになっては?」とアドバイスいたします。それはまた、浄土宗の教えにかなったことでもあります。
 逆に、気にかかることはあまりないが、浄土宗の教義と合わないのではないかと心配だ、というお気持ちでしたら、「無理はなさらずに今のままで結構です」と逆のアドバイスをすると思います。
 矛盾すると思われるかもしれませんが、こう申し上げるのは、お仏壇の前で手を合わせる時間は、忙しい日常生活の中で静かな気持ちを持つことできるとても大事な時間だからです。ですから、「手を合わせたときのご自分の感じ」... それをいちばん大切にしてお決めになることです。お仏壇の前で、短い時間であっても穏やかな気持ちになることができれば、これにまさることはありません。

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質問 33
過去帳を新しく作ろうと思います。西暦で作っても構わないでしょうか。何回忌、というのもその方が数えやすいですし、子供たちにも西暦の方が馴染みやすいと思います。
〈回答 33〉 現代ならではのご質問、ですね。確かに西暦の方が数えやすいかもしれません。一般社会でもここ数年は特に、西暦を使うケースが増えているようです。
 伝統的なやり方を大事にする、という立場からいえば過去帳は元号で記録するということになりましょうし、私ども僧侶にもその方が馴染みます。また、明治、大正、昭和... という言葉自体に、たとえその時代を生きたことがなくても、何とはなくそれぞれの時代の香りを感じるのは、私だけではないと思います。
 しかしまた、西暦ではいけない、ということもありません。むしろ、これから少しずつあなたのようなお考えの方が増えてくるでしょう。
 また、仏暦(仏歴)というのもあります。これはお釈迦さまが亡くなられたとされる年から起算するもので、例えば西暦2003年は仏暦2546年にあたります。西暦年に543年を加えれば仏暦の年になる、ということですね。西暦がキリストの生年(実際には少しズレがあるそうですが)から起算するものであることを考えれば、仏暦をつかうのもいいかもしれません。仏暦は日本ではなじみが薄いですが、タイでは一般的だそうです。

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質問 32
家の宗派は浄土宗です。私は瀬戸内寂聴さんが好きで、浄土宗よりも天台宗に親近感を持っています。自分はそれで構わないと思っているのですが、何か不都合があるでしょうか?
〈回答 32〉 構わないと思います。浄土宗も、天台宗から分かれた宗派といえますし、そもそも信仰は個人の自由です。
 不都合があり得るとすれば、葬儀や法事の場合です。葬儀や法事は「家の宗派」で行なう、というのが一般的です。もしあなたが、浄土宗寺院の檀家であれば、かりに「自分が死んだら天台宗の供養をしてもらいたい」と思っても、それは難しいでしょう。檀家と菩提寺は同じ宗派、同じ教えで結ばれていますので、葬儀や法事の場ではその宗派(あなたの場合は浄土宗)に合わせることになります。葬儀・法事も天台宗で、ということであれば、浄土宗のお寺から離れ、墓地もお返しして、新たに天台宗寺院の檀家になれば宜しい。大変なことではありますが、それは可能です。
 そこまでのことではなく、日常「私は天台宗の信徒である」とご自覚頂く分にはまったく不都合はありません。そして、せっかくのご縁ですから、どうぞ天台宗を深く学んで下さい。深く入ってゆけばゆくほど、得るものも大きいでしょう。

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質問 31
飼っていた犬が死んでしまいました。ペット霊園に納骨し、合同供養にも出席しているのですが、なかなか立ち直れません。動物でも仏教的に救われるのでしょうか?
〈回答 31〉 救われます。というのは、阿弥陀仏の救いの対象は、人間ばかりではないからです。
 お釈迦さまの教え(『無量寿経』)の中に、こうあります。
「もし動物の世界で苦しんでいても、この(阿弥陀仏の)光明を見れば、みな休息することができ、苦しみもなくなる。命が終ってから皆、解脱をこうむる」
 仏教では、動物も人間も本質的な違いはありません。たまたま動物の形を取っているだけ、たまたま人間の形を取っているだけです。動物の方が意識レベルは低いかもしれません。人間の方が高いレベルで思索し、創造的な活動をするかもしれません。しかし、その違いは量的なものです。質的なものではありません。そして、
「阿弥陀仏の光明を見れば、みな休息することができ、苦しみもなくなる。命が終ってから皆、解脱をこうむる」
 解脱(げだつ)というのは、さとりを得ることと同じです。つまり、動物や人間など、いろいろな形を取りながら生まれ変わり、死に変わって流浪の旅を続けることに終止符を打つ、ということです。それは最高の可能性であり、存在の最も美しい開花です。
 ですから、あなたの犬のことは心配いりません。お念仏を回向すれば充分です。それよりも、可愛がっていらした犬に負けないように、あなた自身の解脱——最高の可能性、あなた自身の開花を追求してください。

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質問 30
友人からある新興宗教を勧められています。私は自分に自信がありません。入信したらもっと自信がもてるようになるのかな、と思う一方、少し怖い感じもあって、迷っています...
〈回答 30〉 大切なのはプロセスだと思います。
たとえば、その友人の勧め方はどうか。あなたのことを心底心配してくれている感じなのか。それともあなたの弱みを突くような勧め方なのか。選択の一つとして紹介してくれているのか、それとも「これなら必ず救われる」「これしかあなたを救うものはない」というように、あなたを追いつめるようなやり方か。そこに不健康な「熱っぽさ」がないでしょうか。
 このように友人の勧め方を観察すれば、その方が主体的な信仰をもっているのか、それともただ言われるままにあなたを利用しようとしているのか(悪気はないにせよ)わかるでしょう。
 また、勧誘を受けたあなたの感じはどうでしょうか。その宗教にどういう希望を持ったのか、どういう怖さを感じたのか。
 教団の方針はどんなものでしょうか。
 その信仰に対してあなたがどういうスタンスをとるか、自由でしょうか。
 金銭的な義務をどの程度要求するでしょうか。
 他の人を勧誘する義務を負わせられるでしょうか。あるいは勧誘したことによって特典があるでしょうか。
 いつでも自由に脱退できるでしょうか。

 これらのことについては、充分慎重になる必要があります。さもないと、救いを求めて入信したつもりが、いつのまにか周囲の人々を傷つけたり、自分自身を追いつめることになってしまいます。
 入信したほうが良いのか、良くないのか一概には言えませんが、どうぞこれらをご参考に、慎重にお考え下さい。

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質問 29
仏教にはキリスト教の洗礼のようなものはありますか?
〈回答 29〉 宗派によっていろいろです。ここでは浄土宗の場合についてお答えしましょう。
 浄土宗には「帰敬式(ききょうしき)」という入信の儀式があります。この儀式は、あらたまった場で信者としての誓いを立て、浄土宗の基本の教えを授かるもので、たいへん意義深いものです。参加された方にも好評です。
 わたしの師僧のお寺では、檀家さんを対象に案内を出し、毎年期日を決めて帰敬式を行なっています。わたし自身も、この儀式を受けることが入門の第一歩になりました。
 定期的には行なっていない、という寺院が多いでのすが、依頼をすれば受けられます。あわせて戒名を受けることもできるでしょう。戒名は、仏教徒としての証です。  ご興味があれば、ぜひ一度菩提寺に相談してみて下さい。
(ただ、信徒になるためには必ず帰敬式を受けなければならない、というわけではありません。)

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質問 28
自営業の者です。以前は仕事の質を高め、広げていくことに力を注いでおりました。一方、最近は資金のやりくりのことばかり考えています。仕事の規模は当初に比べて大きくなったのですが、精神的に非常に貧しくなってしまった感じがして、このままでよいのか、と思っています...
〈回答 28〉 以前はおそらく仕事のアイデアが次から次へと浮かび、あれもやってみたら、これもやってみたら... と、忙しくもやり甲斐のある日々を過ごしてこられたのだと思います。
 今は「精神的に非常に貧しくなった感じがする」ということですが、どんな感じの貧しさでしょうか... ? それがもし本当に実感として感じられるならば、そこから始めた方がよいでしょう。今のままじゃいけない、何かしら別の前向きな方向へ考えを向けよう、というやり方もあります。しかし気分が沈んでいるようであれば、むしろその「貧しさ」から始めてみる——その中にとどまり、その感じを丁寧に味わう、という方が効果的です。つまり、この「貧しい感じ」を否定せずに、自分の大切な一部として、じっくりと味わってみるのです。例えば、こう考えてみましょう。この感じは、どこからやってくるのだろうか。この「貧しい感じ」に育つ前は、どんな状態だったのだろうか。「貧しい感じに育つ前の状態」に耳を傾けてみましょう。それは自分に何かを教えてくれているのではないだろうか...。
 こうして、その「貧しい感じ」にじっくりとつきあってみます。本当に丁寧につきあってあげれば(難しいことではありません)... 必ず変化がやってきます。

 仕事が爛熟期に入ったとしても、あるいは年齢的に熟年期に入ったとしても、そこに創造性を見いだすことは可能です。真の創造性は、今現在の、自らの心の奥にあります。心の内奥との対話... それこそが、あなたを豊かにしてくれるものです。そして「心の内奥」とは、美しく飾ったものではなく、「今ここにある、生々しい実感そのもの」に他なりません。

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質問 27
「他力本願」と聞くと、何か無責任なような気がするのですが...
〈回答 27〉 自分では努力せずに他人まかせ——「他力本願」という言葉ををこの意味でつかうことがよくあります。しかし、本来の意味は全くちがいます。
 仏にすべてを委ねることによって、その導き(他力)に乗ずる。もう少し詳しくいうと、「我が名を呼ぶ者は、必ずわが浄土にすくい取る」という仏の宣言(本願)を信じ、ただひたすら仏の名を呼んで、浄土に導かれて往く、というのが本来の「他力本願」です。
 これは実は簡単なことではありません。「なむあみだぶつ」と口に出すのはさして難しいことではない。しかし、すべてを委ねるとなると、簡単にはいきません。
 「委ねる」のは誰でしょうか。他ならぬ「わたし」です。「わたし」が「わたし」の責任においてすべてを委ねる、ということです。ですから、たとえその結果がどうであろうと、他人のせいにはできません。そこには自分自身に対する大いなる責任があります。そして、自分には他の道、他の救いはもう無いのだ、もうこの道しかないのだ... という地点に達しないかぎり、この「委ね」は起こりません。とことん人生を生き抜いた人、生命を燃焼し尽くした人だけが、この地点に立つことができる。
 そして、「わたし」がすべてを委ねたとき、この「わたし」、日常感覚的な「わたし」は溶けて消えてしまいます。あるのは、おおいなる「他力」のはたらきだけ...。
 ですから、仏の力——他力に乗ずるためには、責任ある「委ね」、切実なる「委ね」が出発点である、と覚えておいて下さい。

「ただひとすじに仏の本願を信じ、わが身の善悪を省みず、決定往生せんと思いて申すを他力の念仏という」
(法然上人)

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質問 26
笠原さんはお寺の出身ですか?
〈回答 26〉 違います。父はサラリーマンで、親戚にもお寺はありません。
 学生の時分から仏教には関心を持っていました。三十歳の頃、転機がありまして、「そうだ、僧侶になろう」と思いました。せっかく仏教の伝統があるこの国に生まれたのですから、ただ本で仏教を学ぶ、というのでなく、その伝統の世界に身を置いてみたい、と思ったのです。それと、「死」というものを頭で考えるばかりではなく、実際に、身近に感じながら生きていきたい、ということもありました。
 まず初めに、菩提寺のご住職に弟子入りしました。もう少し詳しく言いますと、「僧侶になりたい」とまず相談に行ったのです。最初に言われたのは、「やめておきなさい。」 そして、「仏教に興味があるのなら、学校の先生になりなさい。年齢的にはまだ教職の資格を取ることができるでしょう。」 そのとき言われたのは、若い人たちに宗教的な教育を施すことが急務である、ということでした。
 それももっともなことでしたが、私は学校の先生になるつもりはありませんでしたから、「いえ、職業として僧侶になりたい」と、頑固にねばったわけです。その結果やっとご理解を頂き、「じゃあこの寺に籍を置いて、始めてごらん。佛教大学の通信課程に入るといい」ということになり、現在に到っています。

(ご関心がおありでしたら、質問 5「どうすればお坊さんになれますか?」の回答もご覧下さい。)

H19.8.1 追記:この質問に関連して、「僧侶になりたい、あるいは僧侶になるにはどうすればよいか、とお考えの方へ」というページを新設しました。こちらもご覧下さい)

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質問 25
うちは浄土宗で、阿弥陀さまを祀った仏壇があります。家内の実家は日蓮宗。先般家内の母が亡くなり、一人っ子の家内は亡母を含む実家の先祖の位牌をもって帰ってきました。うちにある浄土宗の仏壇に祀っても構わないでしょうか?
〈回答 25〉 〈質問 23〉のお仏壇の置き方に関連するご質問ですね。
 宗派の違いについては、一般の方々よりもわれわれ僧侶の方がこだわりが強いと思います。たとえば、日蓮宗を開かれた日蓮聖人は、「念仏無間(念仏をとなえる者は無間地獄に落ちる)」といって浄土教を強く批判しました。またそれによって、念仏の信者たちから激しい迫害を受けられました。さまざまな背景のあることですが、自宗の正当性を主張するということは、他宗を批判することにつながります——いずれの宗派でも同じことです。そして、それぞれの宗派の中で仏教を学んできたわれわれ僧侶たちは、多かれ少なかれ、その宗派の枠の中から仏教全体を眺めることになります。
 さて、位牌の話です。もしあなたご自身が了解されるのであれば、奥様のご実家の位牌(日蓮宗)をお祀りされても構わないと思います。それがもっとも現実的であり、しかも奥様のお気持ちを尊重することにもなるでしょう。
 その一方、私が心配することは、例えばこういうことです。
  1. 奥様のお母さまのご法事をご自宅ですることになり、日蓮宗のご住職がみえることになった。お仏壇のご本尊、阿弥陀さまを前に、日蓮宗のお勤めをしていただくことになる。
  2. 奥様のご親戚の中に日蓮宗の強い信仰をお持ちの方がいらして、お宅にお参りにみえることになった。阿弥陀さまをお祀りしてある仏壇に、お参りしていただくことになる。
 どちらの場合も、ご住職やご親戚の了解があれば構わないことですが、なかなか微妙な問題だと思います。(ご住職やご親戚の信仰心を傷つけることもあり得ます。)
 ですから、ご一緒にお祀りされて結構なのですが、こうしたこともふまえたうえでお決めになって下さい。

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質問 24
電話相談員をしていらっしゃるということですが、どういう相談を受けているのですか?
〈回答 24〉 仏事関係のご質問に答える、ということもありますが、それ以外のさまざまな悩みや、単に話し相手をして欲しい、という場合もあります。
 自分の頭の中にすでにある知識をお話しする、というのはごく一部です。それよりも相談される方の言葉によく耳を傾ける、ということに多くの時間を費やします。
 相談される方のご事情を私がそっくり理解する、ということはできません。言葉で表現できることには限りがありますし、それを受け取る私の側にも限界がある。たとえば、「離婚を考えている」という女性から相談を受けたとします。仮に何十分話を聞いたとしても、その女性のもっているつらさや迷い、怒りなどをこちらがそっくりそのまま体験することはできない。いかに豊かな表現で悩みが語られたとしても、その女性の身に実際に何が起こったのか、今までどうやって我慢してきたのか、その方は今まで危機的状況に直面したときどういう態度で臨んできたのか、将来の人生設計をどう組み立てていけば安心なのか... こういったことに対して、何一つ確かなことは言えません。その女性よりも私の方が問題の本質をとらえている、ということはまずあり得ない。
 しかし、一所懸命話に耳を傾けることによって、何かが伝わってくるのも確かです。こちらにも怒りなどの感情がわき上がってきたり、もらい泣きをしてしまうこともある。また相談される方も、語ることによって何かがほぐれてきたり、自分の本心がはっきりすることもあります。「お話していて気がついたんですが...」ということがよくある。
 それと、先方が初めから答えを持っている、という場合も多いですね。誰かに話してみることによって、その答えにより自信を持つようになり、具体的な行動に発展することもあります。
 ですから、一種のカウンセリングといえます。そのカウンセリングの場に、私は仏教者・念仏者の態度をもって関わっている、ということだと思います。

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質問 23
仏壇を置こうと思うのですが、注意点を教えて下さい。
〈回答 23〉 「仏壇とは何か?」をまず考えてみましょう... それは、いわばお寺の本堂のミニチュアです。
 お寺には、本堂があります。ご本尊さまがおられ、その周りに色々な飾りがしつらえてあります。本堂に上がりご本尊さまと対すると、何ともいえない荘厳な感じに打たれることでしょう。
 仏壇は、ご家庭の中にあって、しかもお寺の本堂を模した空間です。(浄土宗の)お寺の本堂は極楽浄土をかたどったものであり、仏壇もまた同じ。ご本尊阿弥陀仏のお導きのもとで、ご先祖と対話ができる創造的な場です。仏壇を置こうと思われるには、何かきっかけがおありになったのかも知れませんが、極めて尊いことです。実際に仏壇を求め、形を整えてその前で手を合わせてごらんになれば、何もなくただ心で仏やご先祖を思うのとは大きく違うことを実感されるでしょう。
 よくご質問を頂く点について、一般的なことを書いてみます。詳細は菩提寺にご相談下さい。
  1. 仏壇を置く場所はどこにしたらいいか。方角はどちら向きがいいのか。
  2. 新たに仏壇を置くときは、お坊さんに来ていただいてお経を上げてもらうものなのか。
  3. 引越しをするが、仏壇を移動するときもお経を上げてもらったほうがいいのか。
  4. 古い位牌がたくさんあって、仏壇の中がいっぱいになってしまったが...。
  5.  一つの仏壇に、違う家(例えば妻の実家)のご先祖を祀ってもいいのか。
  6. 家族の誰かが亡くなったとかいうことはないのだが、仏壇を求めてもよいのか。
  • まず1。仏壇を置く場所はどこにしたらいいか。方角はどちら向きがいいのか。
     仏壇を置く場所は、もし選べるのであれば、部屋の西側(ご本尊は東向きになる)、または北側(ご本尊は南向きになる)がよいとされています。その理由は、まず西側に仏壇を置けば、西、つまり極楽浄土がある方向に向かってお参りできる。また、直射日光が仏壇に当たるのを避ける、という点からは北側がよい、というものです。「君子は南面す」——貴い人は南向きに居を構える、ということも、北側に仏壇を置く理由の一つです。
     しかし、西側や北側に適当な場所がなければ、この限りではありません。むしろ、落ち着いた気持ちでお参りできる場所がいい。たとえば、廊下などの通り道は避ける、トイレや風呂場の前を避ける、静かな場所を選ぶ、という風に常識的に考えて頂ければ結構です。お客さんや菩提寺住職がお参りされる、ということも考えにいれて決めましょう。
  • 次に2。新たに仏壇を置くときは、お坊さんに来ていただいてお経を上げてもらうものなのか。
     そうです。新たに仏壇を求められたときには「開眼法要(かいげんほうよう)」といって、新しいご本尊やお位牌に魂をお入れする儀式を行ないます。菩提寺にご相談されたらよろしいでしょう。菩提寺のない方は、同じ宗派の近所のお寺に相談して下さい。浄土宗であれば当庵でもお受けします。
  • そして3。引越しをするが、仏壇を移動するときもお経を上げてもらったほうがいいのか。
     仏壇やご本尊の移動の際は、「遷座法要(せんざほうよう)」をするのが丁寧ですが、お引越しの多いご家庭もあることですし、私は必ずしも必要ではないと思います。
  • 4。古い位牌がいっぱいになってしまった場合。
     いくつかの方法があります。
    1. ご夫婦(例えば、おじいちゃんとおばあちゃん)のお位牌を一つにまとめる。
    2. 「○○家先祖代々之霊位」の位牌をひとつ作り、古いものをそれにまとめる。古い位牌に書かれた個々の霊の戒名や命日、俗名、行年、関係などは、過去帳を作ってそこに記録しておく。
    3. 「繰り出し位牌」といって、沢山の位牌をひとつにまとめられるようになった位牌があるので、それを求める。
     仏具屋さんに足を運んで実際にご覧になってはいかがでしょうか。手に取ってみれば、すぐ「ああ、こういうものか」とお分かりになるでしょう。いずれの場合も、古い位牌から新しい位牌に魂を移す作法があります。2と同じく、お経を上げてもらって下さい。
  • 5について。一つの仏壇に、違う家の位牌を祀ってもよいのか。
     「他家の位牌を祀ってはならない」といわれますが、今は家族構成など昔とは事情が違いますので、宗派が同じであれば構わないと思います。
     宗派が違う場合は、いろいろな状況がありうるので、慎重にすすめて下さい。このことに関連した質問・回答が〈質問 25〉にありますので、ご参考になさって下さい。
  • 最後に6。特にどなたかが亡くなったということでなくても、仏壇を買ってよいのか。
     もちろん、構いません。仏壇を買う、新しくご本尊をお招きする、というのはとてもおめでたいことです。思い立たれたということは、すでに機が熟しているということ... どうぞ自信をもって計画を進めて下さい。
 以上、仏壇についてよく頂くご質問にお答えしてみました。ほかにもご質問などがあれば、どうぞお寄せ下さい。

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質問 22
自死された方の往生について、どう考えますか?
〈回答 22〉 これは、私の敬愛するある僧侶の方から頂いたご質問です。
 自ら命を縮めるということは、とても悲しく残念なことではありますが、長い長い魂の旅(輪廻転生)のなかのひとこまに過ぎません。身体的な生命はいろいろな原因で失われます。自ら決断を下す、というのもその原因の一つです。
 そのような場面に立ちあったとき、私たち僧侶はどうすればよいのでしょうか。

 第一に、自ら命を縮められた方に対しては、ひたすらお念仏をおとなえして、かの仏にその方のお導きをお任せすることだと思います。
「心をこめて念仏申すものは、ただ一人の例外もなく往生する」
との教えを信じましょう。かのお名前を呼ぶならば、そこにはいかなる妨げもありません。亡くなられた原因にかかわりなく、極楽往生はかないます。

 第二に、ご遺族に対しては、あたたかい心をもって共にある、ということが大切です。ご遺族や身近な方々は、「どうして気づいてやれなかったのか」「自分にも原因があるのではないか」と、その方の業をわが身に引き受けて、自分を責めてしまうことがあります。また、その方に対する怒りの感情を抑えきれなくなることもある。あるいはそれらの感情が中ぶらりんになって、出口のない場所に閉じこめられてしまうこともあるでしょう。もしそれらのことを少しでも理解して、しかも近くにしっかりといることができれば、ご遺族の助けになることができると思います。どう言葉をかけたらいいか、困る場合もあるかもしれません。その場合には、目一杯困りましょう。だって、誰に分かるでしょうか。「この、私が陥った状況——いったい他の誰が理解できるだろう」という心の叫びに対して、「その問いに対する答えはこれこれです」と簡単に理屈を示すことなどできるでしょうか。
 ですからあまり先走らずに、ご遺族が今いるその場所の近くに、邪魔にならぬようにただいる、ということが最良のことだと思います。そして、とにかく耳を傾けるということ、感じようとすること。それが、共にある——共に生きる、ということです。あとのことは、仏にお任せするよりほかありません。ご冥福を祈り、心をひとつにしてお念仏をおとなえすることができれば、それ以上のことはないでしょう。

 第三——今まさに苦悩の渦中にあって、死を選択することもあり得るような人に対して。それはもしかしたら、つらい死別を経験したご遺族自身であるかもしれません。そのような人に「自ら命を縮めても極楽往生はかなう」と告げることは、どういう影響をもたらすか... 十分に考えるべきことだと思います。この言葉は、極楽往生がかなうのだから命を縮めてもよい、ということではありません。それでは論理のすり替えになってしまいます。教義的なことだけを考えて、極楽往生できるとか、できないとかいう議論に陥ることは避けなければなりません。
 それよりも、なぜその選択を考えるに到ったのか、その方の心の中でどういうことが起こっているのかを語ってもらったほうがよい。その言葉、その心ににじっくり耳を傾ける中で、少し広いスペースに出られるかもしれない。手放せるものが出てくるかもしれません。
 ここでもやはり、語るより傾聴する、そして感じることが重要になってきます。
いのちの電話」のサイトも参考になります。どうぞご覧になってみて下さい。

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質問 21
伝統的な仏教が「葬式仏教」と批判的に呼ばれているのをどう思いますか?
〈回答 21〉「あなた方がしていることは『葬式仏教』であって、生きているわれわれには何の救いも与えてくれませんね。」
 もしそう言われれば、正直いってかなり複雑な感じがします。自分の力不足を非難されているようにも感じますね。
 一方で、亡くなられた方をきちっとお送りしたり、追善の法事をお勤めすることは、もちろん亡くなられた方が中心になるわけですが、それだけではない、と思います。現に生きているご遺族を大切にすることでもある、と思っています。けっして「死後のこと」だけに関わっているわけではない。死に関わるということは、生に関わるということです。私たちが身内の死を悲しんだり、自分の死を恐れたりするのは、現に生きている私たちの人生の一部分です。生きている人々の、その部分に誠意をもって関わることは、自分の務めだと思っています。

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質問 20
宗教は危険なものではありませんか?
〈回答 20〉 ある意味では危険なものです。知らずしらずのうちに極端な方向へ行ってしまう、ということは十分にあり得ます。また今は伝統教団といわれるような歴史を持った宗派であっても、過去に社会との摩擦を経験していない教団はほとんどないでしょう。
 また、(伝統教団ではあまり心配ありませんが)宗教に関わることによってあなた自身が深く傷ついたり、家族を苦しめたり、ということも十分あり得ます。
 しかし「危険だから」といって距離を置いてしまうと、人生最高の宝を取り逃がすことになります。
 「受けがたき人身を受けて、あいがたき本願にあいて、発(おこ)しがたき道心を発して、離れがたき輪廻(りんね)の里を離れて、生まれがたき浄土に往生せんこと、悦びの中の悦びなり。(法然上人)」
 そして大切なことは、「自分は素晴らしい信仰をもっている、自分は(信仰をもたない人よりも)優れている」と思わないことです。ここが危険なところです。宗教的な生活と、周囲の人々への思いやりは両立できます。人生の渦中にある人々への敬意と思いやりを心がける——そのときあなたは極端な方向へ進むことなく、宗教を通して成長し、実生活でも平和と充実感を得ることができるでしょう。

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質問 19
「信仰」というものが今ひとつよくわからないのですが...。
〈回答 19〉 何かを信じる、というのはどういうことでしょうね。
 第一に、直接目に入るもの、耳に入るもの——これらには「確かに見た」「確かに聞いた」という確信をもてるでしょう。他の人には違ったように見えたり、違ったように聞こえたりする場合もあるかもしれません。しかしそのようなときにも、「私はこのように見た」とか、「確かにこう聞いた」と言えますね。見るとか聞くとか以外にも、たとえば蚊に刺された... かゆい、ということは客観的に証明するのは難しいかもしれません。しかし、当人にとっては明らかなことです。「おなかが空いた」「悲しい」「楽しい」... このように、直接自分で体験したことについては、私たちは明らかな感じ——確信をもちます。
 第二に、私たちは、客観的に推論されたこと——妥当と思われる推論にも確信と呼んでよい感覚を抱きます。たとえば、1000+2000=3000。私たちは1000という数や2000という数を「1,2,3,4,...,1000」というふうに指を折って数えなくても、「分かっている」という感じをもっています。1000と2000を加えると3000になる。私たちは算数の教育を受けて身につけているので、なぜ?という疑いを持ちません。あるいは毎日の新聞やテレビの報道——たとえ自分が直接見聞きした実体験でなくても、私たちはそれを信じます。まさかありもしないことを報道するはずがない、と私たちは思っています。これが二番目。直接体験したことではないが、そう推論できることに私たちは確信をもちます。
 そして第三は、心から尊敬できる人が、その体験から語った言葉です。あなたは「この人は自分を遥かに超えている」と思えるような人、しかも自分にとってこの世ならぬ魅力をもった人に出会ったことがあるでしょうか。そして、そのような人が「わたしはこう経験した」「わたしはこう思う」と語ったとします。その言葉を私たちはどう受け取るでしょうか。
 たとえその人が語ったことが私たち自身の直接体験でなくても、またその内容が私たちの日常的な感覚で推論できるようなことでなくても、私たちはその人の言葉に信頼感をもちます。今の自分にはそれを直接体験する力はないが、そこには何らかの真実がある。あるいはその言葉を聞くと、何か解き放たれたような感じがする、とか、自分が受け入れられた感じがする... そうした感覚です。私たちは、その方が語った言葉を信じます。
 宗教の信仰の基礎には、そのような感覚があります。この感覚が深く掘り下げられ、確信と呼べるまでに育つには、さらにプロセスがあることでしょう。しかし出発点は、心から尊敬できる人の言うことを聞いて生じる、この素朴な感動にあります。

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質問 18
お焼香は何回すればいいのですか?
〈回答 18〉 お焼香のしかたは宗派によって違います。どうちがうか。
  1. 回数
  2. つまんだお香を軽くおし戴いてから香炉にくべるか、そうせずにそのままくべるか。
 まず回数については、浄土宗は一回〜三回、いずれでも結構です。大勢の人数で焼香するときは、心をこめて一回、でいいでしょう。
(浄土真宗本願寺派は一回、浄土真宗大谷派二回、曹洞宗二回、臨済宗一回、真言宗三回、天台宗一回〜三回、日蓮宗一回〜三回、と聞きました。いろいろですね。)
 そして浄土宗では、右手指でお香をつまみ、そのまま手を返して(手の平が上を向く)左手を添える形で、軽く額のあたりにおし戴いてから、香炉にくべます。三回焼香するのであれば、同じ所作を三回繰り返します。
 初めから流れを説明しますと、
  1. 導師に合掌、礼をする
  2. 香炉の前に進み、(合掌したまま)一礼
  3. 焼香(一回〜三回)
  4. 合掌、礼(心をこめて)
  5. 導師に合掌、一礼して席に戻る
 言葉でご説明すると難しいようですが、何度かやってみれば、すぐにお分かり頂けると思います。
 質問16の回答でもお伝えしましたが、形だけで終ってしまっては意味がありません。形に少し慣れておいて、それから心をこめて——形と一致した心でもって香煙を献ずる... それが大切です。

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質問 17
数珠(じゅず)の意味を教えて下さい。
〈回答 17〉 数珠は念珠(ねんじゅ)ともいい、お念仏の数を数えるためのものです。浄土宗では独特の二連の数珠を使います。これは二つの数珠を一つに組み合わせた形。もしあなたが浄土宗であって、これからお数珠を求められるのであれば、この二連の数珠をお勧めします。
 数珠を二連にしますと、数をたくさん数えられます。お念仏しながら片方の粒を一つずつ繰り、一周したところで、もう片方の粒を一つずらします。このようにして、「三万繰りの数珠」「六万繰りの数珠」というふうに、数をたくさん数えられるようになっているわけです。
 合掌するときは、数珠を二連とも両手親指にかけ、房を手前(手と胸の間)に垂らすようにします。合掌したり、数珠を繰っている以外のときは、二連とも左手首にかけておきます。
 浄土宗を開かれた法然上人は、「念仏せんには、必ず念珠を持たずとも、苦しかるまじく候うか。」との問いにたいし、次のように答えておられます。
 「必ず念珠を持つべきなり。世間の歌を歌い、舞いを舞うすらその拍子に従うなり。念珠をはかせにて、舌と手とを動かすなり。」
 数珠(念珠)を繰りながら、そのリズムとともにお念仏をとなえなさい、との教えです。

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質問 16
合掌にも決まったやり方があるのでしょうか?
〈回答 16〉 理想的な合掌は、「宗教的な感情が胸いっぱいに満ちあふれ、しらずしらずのうちに両手が合わさっていた」という合掌です。このような合掌は形式を超えています。単なる手の形、というのでなく、むしろその人の存在全体、身も心もすべて——その隅々までがすべて合掌している、それが手の形にも表れている——そのような合掌です。
 しかし、(大方は)そこまでいかぬ私たちには、形がとても役に立ちます。
 心の状態は身体的な姿勢と深く関わっています。例えば、心が卑屈になると身体も縮こまって小さくなる。心が晴れ晴れとしていれば、背筋が伸びて身体が大きく広がったようになる。隣に座っている人に好感を持っているときと、反感を持っているときとでは、あなたの姿勢はまったく違います。顔の表情も、身体の姿勢の一部です。あなたの心の状態は、顔の筋肉の動きにみごとに表れています。
 そして... 逆も成り立ちます。身体がある姿勢を取ると、心もそれに応じた状態になりやすくなる。合掌をすると、心にも敬虔な感じや、祈り、感謝といった感情が生じる。頭を下げると、心もそれに応じて変化する。「合掌しながら怒ることはできない」といわれます。その通りですね。
 ですから、合掌をする習慣をつける、ということは、手を合わせる心を知る、ということにつながるとても大事なことなのです。形を身につけることによって、心を豊かにすることができる、といってもいいでしょう。
 では、決まったやり方があるのか。
 浄土宗の場合、宗訂といって宗で決められたやり方があります。私たち僧侶はそれを学びます。一般の皆さん方が厳密になる必要は全くありませんが、難しくはないので、ご参考までにご紹介します。
 両手の指を、それぞれすべてまっすぐ揃えてつけます。そして両手の手のひら、指をぴったりと合わせ、胸のあたりに保ちます。手の角度は横から見て45度くらい——僧侶たちはこのように指導を受けます。試してみて下さい。

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質問 15
宗教は、生きていく力が弱い人が頼るものだと思います。どうでしょうか?
〈回答 15〉 イエス&ノーです。
 イエス——生きていく中で苦しいこと、辛いことがあり、何かに頼りたい、すがりたいと思う人が、宗教に入信することはあり得ます。そして、あなたは「自分は強く生きているから、そういう人とは違う」と思っておられるのかもしれませんね。それはそれで結構なことだと思います。ただ、あなたのように強く生きられない人がいるならば、そういう人たちにもあなたなりの優しいまなざしを向けて差し上げて下さい。
 そしてノー。新しく信仰に入るには、大いなる決断が必要です。また伝統的な教えを守ってゆくということも、強い信念がなければかないません。わたしの経験では、強い信仰を持っている人ほど、生きていくうえでの人間的な強さを持っています。
 宗教に関わっている人も、さまざまです。先入観から眺めずに、新鮮な観点を持って下さったらいいな、と思います。

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質問 14
同じ仏教なのに、なぜたくさんの宗派があるのですか。素人にはとても分かりにくいのですが。
〈回答 14〉 僧侶にとっても難しいことです。
 あなたはたとえば血液型とか、星占い(動物占い、というのもありましたね)、ユングの性格分類、エニアグラムなど、興味を持たれたことがありますか。いろいろな見方があるようですが、人にはさまざまのタイプがある、ということだけは確かなようです。さまざまなタイプがあるということは、さまざまなタイプの「とらわれ」がある、ということでもあります。
 仏教は、「応病与薬(おうびょうよやく)」——病に応じて薬を与える——の教えといわれます。お釈迦さまは、人々の状態、理解力などに応じて、さまざまな教えを残されました。その中で、「ああ、この教えは自分に合っている」「この教えによって自分は救われた」というものが、人によって違ってくるのは、自然なこと... 多くの宗派が生まれた一因は、こうした素朴なところにあります。また、昔は今のように通信網が発達していませんでしたから、地域や文化によって微妙な違いが生まれたということもありましょう。
 これからもう少し分かりやすく「宗派」を説明していくのは、われわれ僧侶の務めだと思っています。

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質問 13
浄土宗の木魚の叩き方は独特だと聞きましたが、どんな叩き方をするんですか?
〈回答 13〉 そう、おっしゃるとおり独特です。合間打ち、裏拍子といわれる独特の叩き方をします。
 たとえば念仏一会(「ナムアミダブ」を繰り返して称える)のときは、

       ▼     ▼     ▼     ▼     ▼     ▼
    「ナ ー ム ア ー ミ ダ ー ブ ナ ー ム ア ー ミ ダ ー ブ」

という具合に、音と音の間、長音のところで木魚を叩きます。慣れるまでは少し練習を要します。音楽好きな人には、「スカとかレゲエのようなリズムだよ」といった方が分かりやすいかもしれません。

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質問 12
塔婆(とうば)にはどういう意味があるのですか?
〈回答 12〉 お釈迦さまが亡くなられた後、弟子たちはその遺骨を分骨しました。そして仏塔を建てて遺骨を納め、礼拝の対象にします。この塔(ストゥーパ)は、やがて三重、五重などの形になっていきます。日本では「ストゥーパ」が「卒塔婆(そとうば)」と呼ばれ、五重の塔や五輪塔の墓標、板塔婆が作られるようになりました。「塔婆」「卒塔婆」といえば、今はこの板塔婆を指すことが多く、故人の追善供養のために建てられます。ご法事のときに建てる卒塔婆のルーツは、お釈迦さまの遺骨を供養した故事にさかのぼるというわけです。
板塔婆には、刻みが入っていて、下から地・水・火・風・空(万物を構成する五大要素)を表わします。

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質問 11
念仏の称(とな)え方を教えて下さい。
〈回答 11〉 主な称え方は二通りです。
 まず、「十念」といって、十回のお念仏を称える方法です。
 初めに、「ナムアミダブ」と八回称えます。
「ナムアミダブ ナムアミダブ ナムアミダブ ナムアミダブ
ナムアミダブ ナムアミダブ ナムアミダブ ナムアミダブ」
 ここで息継ぎをして、一回だけ「ナムアミダブツ」と、「ツ」を加えます。
 十回目は「ナームアミダブー」と、ゆっくりめに称えて終ります。初めの八回で息が続かないときは、四回、四回と区切って息継ぎをします。
 これが十念です。

 次に念仏一会(ねんぶついちえ)といって、数をたくさん重ねて称える方法です。
 「ナームアーミダーブナームアーミダーブナームアーミダーブナームアーミダーブ... ...」
と、木魚に合わせて(木魚があれば、ですが)リズミカルに称えます。ではどのくらい称えるか——全体の数を決めたり、時間を決めておいたほうがやりやすいでしょう。たとえば朝三百回、夕に二百回。あるいは朝夕五分間ずつでも結構なことです。十分間ずつならなお結構。日々の継続が大事です。
 そしてお念仏は、真実の心で称えよ、深く信ずる心で称えよ、そして強く極楽往生を願う心で称えよ、と教えられています。
 十念、念仏一会ともに、すぐに慣れて簡単にできます。簡単にでき、しかもそこには「万徳所帰」といって、すべての徳が含まれています。思い立ったが吉日、朝夕の十念からでもいいですから、早速はじめてみましょう。

★近いうちに実際のお念仏の音声をお聞かせできるように準備中です。ご期待下さい!

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質問 10
浄土宗の教えを簡単に教えて下さい。
〈回答 10〉 宗祖法然上人(1133〜1212年)の教えに従い、
  • 阿弥陀仏(あみだぶつ)の仏国土である極楽浄土へ往生することを願います。
 そのために、
  • 阿弥陀仏に帰依し、そのお導きの力を信じます。
  • 往生のための行(ぎょう)として、お念仏(ナムアミダブツ)を称(とな)えます。
 阿弥陀仏は、「わたしの名を称える(念仏する)ものは、みな必ず極楽浄土へ救いとる」と誓って仏になられた方です。一部の出家者だけでなく、誰でも、いつでも、どこでもできるお念仏——この簡単な行を通して極楽に往生する以外、すべての人が救われる道はない、ということで、この教えが開かれました(1175年)。
『浄土宗 檀信徒しおり』にはこうあります。
「阿弥陀仏の平等のお慈悲を信じ、『南無阿弥陀仏』とみ名を称えて、人格を高め、社会のためにつくし、明るい安らかな毎日を送り、お浄土に生まれることを願う信仰です。」

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質問 9
法事というのは、やらなくてはいけないものですか?
(附:お布施の金額はいくら?)
〈回答 9〉 えー... どうでしょうか。こういうご質問をいただくについては、何らかの背景があるのではないかと思うのですが...。
 仏教的にいえば、ご法事をお勤めいただくことは何よりの功徳であり、ご先祖への孝行でもあります。
 また、皆さんの立場にたっても、
  • 日常味わえない宗教的な場に身を置くことができ、清められた感じがする
  • ご法事の場の中で、ご先祖を偲ぶことができる
  • 何か、善いことができたなあ、という感じがする
  • 久しぶりに親戚の人たちと、故人の想い出を分かち合ったり、近況を報告し合ったりして、 親しく語らう場を持つことができる
等々、大きなプラスがあると思います。
 一方、ご法事をためらう理由としては、
  • 親戚をおもてなししたり、お寺への気遣いが負担である
  • お布施など、経済的に負担
  • 顔を合わせたくない親戚がいる
  • ご法事を行なうについて、家族間、兄弟姉妹間の意見調整が大変
などが考えられます。
 これらについて、あまり立ち入ったことは申し上げられませんが、ご法事は数年に一度の機会、残された者の務めとして是非ともお勤めいただきたいと思います。
 「お布施はいくらすればよいですか」というご質問もよく受けます。お布施は、何かサービスへの対価ということではありませんので、相場というものはありません。また「いくらしたから堂々と胸を張れる」とか「いくらしかできないから肩身が狭い」というものでもありません。お宅お宅によって、経済的ご事情も違いますし、仏教やお寺への思いも違うと思います。ご負担になりすぎない範囲でお考えいただければ結構でしょう。
 ただ、中にはお寺の方から金額を言われる場合もありますので、もしご心配なら「○○円くらいで考えておりますが宜しいでしょうか」などと、ざっくばらんにお寺に尋ねてご覧になるのもよいでしょう。

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質問 8
お盆の日程は、正確にはいつからいつまでですか?
〈回答 8〉 東京の場合、
  1. 7月13日〜15日の三日間
  2. 7月13日〜16日の四日間
というケースが多いでしょう。東京以外では、8月の13日〜15日乃至16日という地域がほとんど。東京でも8月(「月遅れ」)のお盆、というところもあります。13日〜15日とは、迎え火を13日の夕方に焚き、送り火を15日に焚くということです。
 また、8月11日〜16日という地域や、旧暦7月15日の頃行なう地域、農閑期にずらして行なう地域もあります。東京以外で7月盆を行なうところもあるそうです。
 このように、お盆の期間には、第一に地域差があるということ、第二に(東京のように全国から人が集まっている場所では特に)家によっても差があります。ですからどれが正解、ということではありません。
 経典を見ますと、期日について書かれているのは「7月15日に供養せよ」ということだけ。日本では、それに3日間とか4日間とか、幅をもって行なっているわけです。
 この件について、ご意見、情報があればお寄せ下さい。

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質問 7
お坊さんは、肉を食べてはいけないとか、食事の制限があるのですか?
〈回答 7〉 ふだんはありません。各自の判断によっています。もちろん、菜食を守っている方もいます。
 私の場合は、奇妙に思われるかもしれませんが、僧階を取って教師(お坊さん)になってからの方が会食の機会が増え、肉やお酒を口にするようになりました。

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質問 6
修行は大変ですか?
〈回答 6〉 浄土宗は、修行を積み、自分を高めていきましょう、という宗派ではありません。そうではなく、仏さまのお名前を呼び、そのお導きの力におすがりしましょう、という信仰の宗派です。ですから、長時間座禅を組んだり、冷水をかぶったり、滝に打たれたり、火の上を歩いたり、というような修行は行ないません。肉体的に大変なのは、礼拝(五体投地)を繰り返すことや、講義や法要中、長時間の正座に堪えること、そのくらいだと思います。
 肉体的に大変、というよりも、信仰を深めていく、おのれの信仰を問うてゆくことのほうが大変かもしれません。

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質問 5
どうすればお坊さんになれますか?
〈回答 5〉 浄土宗の場合でお答えします。浄土宗では、僧侶には三者(宗徒・助教師・教師)があります。ふつう、「お坊さん」と呼ばれている人はこの中の「教師」です。
 ではどうすれば「教師」になれるのか。決められた段階があります。
  1. 師僧(しそう)を決める。(浄土宗教師の資格があれば誰でも師僧になれます。)
  2. 得度(とくど)する。
  3. 度牒(どちょう——得度した証明書)を受け、僧籍登録する。
  4. 教師養成機関で所定の科目を修得し、教師検定に合格する。
      ※教師養成機関にはいくつかの種類があります。
  5. 伝宗伝戒道場(毎年十二月、三週間行われる)に入る。
  6. 宗務庁に僧階叙任の申請を行ない、僧階を受ける。
というわけで、初めての方には何のことやらお分かりにならないかもしれません。まず、身近な僧侶の方に相談してごらんになることです。「何のために浄土宗教師になりたいのか」「教師になったあと、どうしたいのか」というようなことについて、お考えをはっきりさせておくことが必要です。

H19.8.1 追記:この質問に関連して、「僧侶になりたい、あるいは僧侶になるにはどうすればよいか、とお考えの方へ」というページを新設しました。こちらもご覧下さい)

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質問 4
最近、娘を亡くしました。娘の親友が「お供えして欲しい」と、娘が好きだったバラの花束を持ってお参りに来て下さいました。仏さまにバラの花をお供えしてはいけない、という話を聞いたことがあるのですが、どうすればよいでしょうか?
〈回答 4〉 昔から仏さまには「毒のある花」「いやな臭いのある花」「トゲのある花」は供えてはならないことになっています(ただし、樒(しきみ)は毒をもっていますが極楽に咲く青蓮華の代わりとして例外的に供えられます)。
 バラにはトゲがあるので、供花としては(原則としては)適当ではありません。
 もし、これから供花をお求めになる、というのであればバラは避けたほうがよいでしょう。しかし、すでにお持ちになった、というのであれば、そのお友達の気持ちを生かしてあげることも大切です。柔軟に考えられても宜しいのではないでしょうか。

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質問 3
キリスト教やイスラム教には生活規範のようなものがはっきり説かれているようですが、仏教にはないのでしょうか?
〈回答 3〉 あります。たくさんの教えがありますが、簡潔に言うと、「心を静かに保ち、正しい生活をしなさい」ということです。
「『心を静かに』は何となく分かるけど、『正しい生活』って何? 正しいってどういうこと?」
 正しい生活とは、「根本的な悩み苦しみから、自分を解き放ってゆくような生きかた」であり、正しくない生活とはその反対、つまり「自分の悩み苦しみを深めてしまうような生きかた」です。
 例えば不殺生——生きものを殺してはいけない、傷つけてはいけない、という教えがあります。これは、単なる道徳的な教えではなく、生きものや他人を傷つけると、それが自分の心を傷つけ、束縛を強めることにつながる——だから止めなさい、ということなのです。
 外から見たところ同じ行為であっても、その行為をした人の動機や目的、やりかた、他者への配慮があったかどうか、などによって、あるときは正しかったり、またあるときは正しくなかったりしますよね? 微妙なところです。
 一方、正しい生きかたを追求するあまり、神経質になりすぎたり、「自分は正しい。他の人は間違っている」ということになってしまうのも困りものでしょう。
 浄土宗の法然上人の教えはどうかというと、
「われわれ凡人には、正しい生活をおくることも、心の安定を保つことも、智慧を得ることも難しい。だから、念仏中心の生活をしましょう。自分の力で解脱に至るのではなく、仏に導いていただきましょう。」
 永年にわたる厳しい自己反省の中から、このような教えを説かれています。
 ですからわたしたち浄土宗信者の生活規範とは、ナムアミダブツとお称(とな)えする——お念仏を中心とする生活をおくることです。えっ、それも難しい? できるところから少しずつやってみてはいかがでしょうか?

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質問 2
浄土宗の本山はどこですか?
〈回答 2〉 浄土宗の本山は沢山あります。
 まず総本山が一つ。知恩院(京都市東山区)です。
 そして大本山が七つ。
  1. 増上寺(東京都港区)
  2. 金戒光明寺(京都市左京区)
  3. 知恩寺(百万遍—京都市左京区)
  4. 清浄華院(京都市上京区)
  5. 善導寺(久留米市善導寺町)
  6. 光明寺(鎌倉市材木座)
  7. 善光寺大本願(長野市元善町)
です。
 このほかにも、本山、特別寺院といった寺院があります。
 ちょっとややこしいかもしれませんね。実質的には、西の知恩院と東の増上寺が中心となっています。

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質問 1
浄土宗と浄土真宗はどう違うんですか?
〈回答 1〉 浄土宗の開祖は法然上人(1133年—1212年)です。法然上人にはたくさんのお弟子がおられました。その中の、聖光房弁長(しょうこうぼうべんちょう)の流れが現在の浄土宗です。対して浄土真宗は、同じく法然上人のお弟子の内、親鸞聖人の流れ。教団としては別々に展開してきました。
 浄土宗と浄土真宗では、教義やお勤め、供養に対する考え方など、微妙に違います。しかし親鸞聖人は、師である法然上人の教えを忠実に継承しているという自覚をお持ちでした。従って別の宗派を興す意図はお持ちでなかったと思います。
 阿弥陀仏の救済力(本願力)を信じてお念仏——ナムアミダブツをお称えする、という基本は同じです。

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