《応病与薬》
笠原 泰淳 記(令和7年4月)
「おうびょうよやく−病に応じて薬を与える」とは、人それぞれの悩みやありように応じて教えを説く、という意味です。
私どもは立場上、こうした公の場で書いたり話したりして教えを紹介していますが、教えは基本的には個人個人に対して説かれるものです。
同じお念仏の教えを説く場合であっても、相手によってお伝えの仕方が異なります。
たとえば、
「お念仏の教えは、本来のお釈迦さまの教えとは違うのではないでしょうか」
という方に対しては、大乗仏教の意義からお伝えすることになるでしょう。
「お念仏さえ称えればよい、という教えは他の大乗仏教を否定することになりませんか」
という方に対しては、「他の教えももちろん尊いものですが、凡夫である私が救われるのはお念仏の道しかありません。他にもそういう方が大勢いると思います」と答えるでしょう。
「心から信ずる、ということがなかなかできません」
という方には「まずお念仏を称えてごらんなさい。そうすれば信心は次第に育つでしょう」と言います。
「何回称えれば救われますか。どういう称え方が正しいですか」
という方に対しては、「阿弥陀さまにすべてをお任せなさい。自力の心から離れて他力のお念仏をとなえるように心がけて下さい」と言うでしょう。
「信心さえあれば、お念仏は必要ありません」
という方には、「本当の信心があれば、お念仏は自然に継続されるはずです」と言うでしょう。
経典や先師の文章に精通し、そこに埋没している人
には「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし、というのが法然上人の教えです」と言うでしょう。
「自分は煩悩に囚われた凡夫なので、人さまを救うことなどできないし、するつもりもありません」
という人には、「今はそれで結構です。お念仏を続けて下さい。いつか阿弥陀さまのみ心についても考えてみて下さい。」と言うかもしれません。
「人を救うことこそが、仏の教えです」
という人には、「あなた自身の救いは大丈夫ですか」と問うことでしょう。
瞑想の道を歩んでいる人
には、「今生で覚りがひらけますか」と尋ねるかもしれません。
相手が10人いれば、10通りの説き方があるわけです。また同じ相手であっても、時によって説き方(関わり方)が変わるかもしれません。もしそれぞれの説き方を比べたとすると、そこには必ず矛盾が生じます。
法然上人も、底流には一貫したものが流れていますが、やはり場面によっておっしゃること、強調点が違うこともあります。そこをしっかり理解すれば、未熟な宗派主義に陥ることはないでしょう。
自分自身にとっての要点だけを抑えて、あとはお念仏に励んで下さい。☸