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2013.02

 
調和ということ

この国は調和―大いなる和を大切にしてきた、といわれます。
自然との調和、そして他者との調和。私たち日本人はさまざまな次元で「調和すること」を重んじてきました。
雅楽のゆったりとした調べ…そこには切り込んでくるような激しいリズムはありません。他者の音色を聴きながらそっと自分の音を重ねてゆき、調和するように、人々と、音と、空間と和するように力強く奏でてゆく。空気を読む、という言葉がありますが、私たちはこれまで雅楽を演奏するがごとく、空気を読みながら生きてきたのではないでしょうか。

この「調和」の世界は美しく、緻密でかつ技に長け、また安心感を抱かせてくれる場所です。しかしともすると淀んでしまったり、全体主義的な価値観を押しつけたり、あるいは調和を乱す者や反骨精神を嫌って排除しようとします。どうにも調和が保てなくなると、時おり内部や外部からショックを受けることによって、新しく脱皮し直す必要がある。あるいはそうせざるを得ない。これもまた、歴史が繰り返し語るところでしょう。

さまざまな調和の中でも死との調和、あるいは死者との調和はとりわけ重要です。死は突然、私たちの日常を分断していきます。しかも死は、私たち自身の内部にも潜んでいます。やがてはわが身にも起こること。そこから逃れることはできない。そう頭では分かってはいるが、しかしなんとも調和しがたい相手―それが死です。

日本人が仏教を受け入れ、それを身近なものとしてきたことの背景には、この「死との調和」を願う国民性があるのではないでしょうか。「祟りを鎮める」「霊を慰める」という言葉を使うと、若い方々にはピンと来ないかもしれません。が、「死との調和」という観点で考えると分かりやすいでしょう。
ふだんの生活では「死」から離れていても、ときには「死」に近づき、それと調和する必要がある。そのために仏教の儀式ほど有効なものはない。私たちはそう考えてきました。
私たちは儀式を大切にし、儀式を執り行うことによって一時的に死の世界に触れ、それと調和し、安心を得ることができるのです。

身近な人の死に際しては不安、恐れ、孤独、諦め、悲嘆あるいは怒りなどの思いが起こります。また言葉にならぬさまざまな感覚。それらを、コミュニティー(法要に出席している家族や親戚縁者)と読経という背景の中で自己の中に静かに統合してゆく―それが仏教儀礼を行なう意味なのではないか。葬儀や法事を勤めながら最近、そう思うようになりました。
こう考えると、「宗派にはこだわらないがお経を上げて欲しい」という方々がいるのも理解できます。その方々にとっては、どの宗派のお経であっても、厳かな読経であれば「調和」が成り立つのですから。

実は、法然上人の教えからすると、儀式は必ずしも重要ではありません。日々の生活の中でお念仏を称えること―それが尤も大切とされます。しかしここで述べたように、日本の「調和を重んずる文化」というコンテキストでは、コミュニティーにおける仏教儀礼の重要性が理解できます。私たちにとって「死」とは、個人の範疇を超えたものであり、個人だけの力では直に向き合えないもの、コミュニティーと儀式を通じてのみ向き合い、調和し得るものだったのです。

しかし、ご承知のように今は変化が生じています。地縁血縁のコミュニティーはくずれ、仏教儀礼を敬遠する人もいます。

これから私たちは、どうやって死と向き合うのでしょうか。

実はそこにこそ、新たな仏教の横顔が覗き見えるのです。
儀式を通じた死との調和―それは今でも仏教の大きな役割です。それとともに、個の魂が死と直に向き合う、その場面にこれからの仏教は関わってゆくことになるでしょう。

法然上人の教えが、本来の姿をもって生きてくるのもそこです。
この私を死から救ってくれる(死を超えた仏の世界に調和させてくれる)のはお念仏、南無阿弥陀仏。
儀式からさらに一歩踏み込んでみると、分かりやすく懐の深い導きがそこにあります。

是非ともお伝えしたい法門です。◆

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