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2005.03

 
いわゆる「自殺」について

実を申しますと、このことばの響きには強い抵抗を覚えます。が、報道などではごく一般的に使われておりますので、あえてカッコ付きで載せました。
Q & Aで関連するご質問をいただくこともあり、非常に大切なテーマなので、このコラムで取り上げることにします。

このテーマについて、仏教ではどう考えるのでしょうか。
もし…身体の命を絶つことによって苦しみから解放されるのであれば、お釈迦さまはきっとそれを勧めたはずです。なぜなら、お釈迦さまは「苦しみからの解放」を第一の目標にされたからです。
しかしお釈迦さまは、そのような方法は勧めませんでした。
お釈迦さまが勧められたのは、苦しみの原因を理解せよ、「苦しみ=自分のすべて」ではないと理解せよ、そしてそのためには、簡素で清らかな生活を実践し、自分の内面について広い視野のもてる生き方をせよ、ということでした。

もう少し考えてみましょう。
私たちはふだん、「自分」という存在を前提として生きています。この「自分」が自分自身の身体を観察しています。「自分の顔」「自分の体型」「自分の眼、耳、手、足」という風に。そしてこの身体が環境、社会の中に生きており、快・不快や幸・不幸という感覚は、身体を通して自分のところに届いてくる(と私たちは思っています)。ですから、不幸や苦しみが激しくなってくると、「この身体という通路を壊してしまえば、不幸や苦しみは自分のところに届かなくなる」と考えるわけです。

ところが仏教によれば、これは真実ではありません。
仏教では、自分に幸や不幸を感じさせる対象(つらい出来事、など)には関心を向けません。そうではなく、「自分」という前提の方に関心を向けます。この前提は本当に確かなものなのだろうか?…と。
そして、この「自分」という前提を切り崩してしまうことによって、苦しみが乗り越えられる…これがお釈迦さまの教えられた苦の克服です。身体の破壊によってではなく、「自分」を捨てることによって…「自分」という意識が生来のものではなく、借り集めの幻想であると見抜くことによって、「自分」への執着から離れ、苦を乗り越えるわけです。

私も、苦しみからのがれるために「身体の命を絶つ」という手段は取っていただきたくありません。
万一そのような危機にある方は、当庵へのメール相談でも結構、念仏、写経、坐禅や巡礼もよし、いのちの電話、また医師やカウンセラーなどの専門家の力を借りるのも結構、自助グループなどに参加してみるのもよし…とにかく一人だけで抱え込まないようにお願いいたします。
こうしたことを試みることで、直ちに「無我」「空」を悟る、というのは難しいかもしれません。しかし、まずは今のあなたが一息つけるような空間を作るようにしてみて下さい。それが第一歩です。

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