2012.06
法然上人夢譚 (2)... 三人の独白
法然上人夢譚 (3)... 六人の独白
法然上人夢譚 (4)... 四人の独白
法然上人夢譚 (6)... 四人の独白
法然上人夢譚 (7)... 三人の独白
法然上人夢譚 (8)... 三人の独白
―― 私は天台の僧侶です。
比叡山におられたころの上人を存じています。何度か言葉も交わしました。たいそう聡明な方であられました。
やがて上人が都で専修念仏を説かれていると聞き、意外でした。
私も浄土の経典に何度か目を通しておりますが、それが法華経に勝るとは考えられません。今もそう思っております。永遠の仏、釈迦牟尼仏が現にわれわれを導いて下さっているのに、わざわざ西方の彼方に別の仏を求める必要がどこにあるのでしょうか。上人がこの点をどう考えているのか、不思議でした。
あるとき、南宋から来朝した渡来僧に梵文の法華経を見せてもらいました。そこには驚くべきことが説かれていました。
「西方に、幸福の鉱脈たる清浄の極楽世界あり。かしこに阿弥陀如来、住し給う。汚れなき仏の子たちは自然に往生し蓮華の胎内に坐す。かの阿弥陀仏は獅子座に腰をおろし、ヴィシュヌの如く輝き給う。わたし(釈尊)はかの仏を讃歎し、かく祈念す、『速やかに福徳を積み、汝が如き最勝の仏にならん』と。」
法華経の中で、釈尊ご自身が阿弥陀如来を「最も勝れた仏」と讃歎し、自らの上に置いておられるのです。漢訳の経典にはこのようなことは書かれておりません。
上人はこれをご存知なのでしょうか。否、そんなはずはありません。この梵文経典の存在を知る人はこの国にせいぜい二、三人です。
私はたいそう興奮し、二晩のあいだ一睡もできませんでした。
―― 法然さまのお言葉を聴くとき、それは常に力強く、知性に満ちています。
しかし私は知っています。法然さまは心の内でいつも泣いているのです。あらゆる人のやるせない、切ない心をすべて御身ひとつに引き受けて、泣いておられる。私にはそう思えるのです。
私にとっては、法然さまの口からどのような言葉が出るかは二の次でした。心で感じておられること─こちらのほうがはるかに強く伝わってくるのです。
―― その年の正月が明けると間もなく、上人は床に伏される事が多くなりました。お年も八十歳。お弟子さま方はもちろんのこと、信者の私どももたいそう心配になりました。
ある方がこう言いました。
「法然さま。たいへん申し上げにくいのですが…。」
「うむ。何なりと言うがよい。」
「法然さまに万一のことがあった場合、私どもはどうすれば良いのでしょうか。廟堂を建てて、そこを専修念仏の中心地とすべきでしょうか。」
「いいや。それには及ばない。そのようなことをすれば、かえってこの教えは広まらないであろう。わたしを祀り上げる人たちが出てくるかもしれないが、それではこの教えを一所に封じ込めることになる。人々は廟堂に参詣し、それで満足して帰って行くだろう。
私が望むのは、人々がふだんの生活のなかで念仏すること、それによって阿弥陀仏の光明に触れてもらうことなのだ。」
法然さまの御眼は、遠くの方をみつめられました。
「そうだ。どこであろうと、人々が生活の中で念仏を称えるところ─そこがわたしのゆかりの場所だ。たとえ名もなく貧しき人の家であっても、そこがわたしの心やどる場所になるであろう。」
―― 法然さまは、ともに念仏を称えて極楽へ往こう、とおっしゃいます。
極楽だかどこだかは分かりませんが、命尽きた後も法然さまのお側にいたいと思います。◆