2017.02
浄土宗でいう「凡夫の自覚」とは、道を歩む上で「自分の今の位置が分かっていますか」という問いかけです。
坐禅などの修行を積んでも、なかなか怒りの感情をコントロールできるようにならない。あるいは「あれが欲しい」という欲望につかまると、いてもたってもいられなくなる。また仏教の教えを学んでもさっぱり意味が分からない。これでは覚りの境地はおろか、三歩進んで二歩下がる…それならまだ良い方で、二歩進んだと思ったら三歩下がっている。これが(愛すべき!)われらが現実の人生です。
しかしいったん自分の愚かさ、自分へのこだわりに気づくと、「何だ。自分ではりめぐらした蜘蛛の巣に、自分で捕まっているだけではないか」「みんなが私のことを批判していると思っていたが、よく見るとみんな自分のことで精一杯じゃないか。誰も私のことなんか気にしてないじゃないか」このような理解が生まれます。そうすると余裕が生まれます。自分自身の感じ方・考え方・習慣を冷静に振り返ることができます。そこで改めて、
「自分はなんと平凡、無力、無能であろうか」
と知るのです。
「覚りに一歩だけ近づく、あるいは二歩だけ近づくということがいかに困難か」
「自分がいかに思い込みに縛られていて、そこから出られないでいるか」
と気づくのです。
そこから、他力を仰ぐ浄土門が開けてきます。
しかし一方、「愚かさに気づきなさい」と言われても、
「いやいや自分にも優れたところがある。」
「そこまで自己否定しなくても良いのではないか。」
「精神集中-瞑想修行の道をもっと前に進みたい。」
もしあなたがこう思われるならば、それはそれでたいへん結構です。
自力で覚りをめざす道を進んでみて下さい。納得のゆく道を色々試してみることも必要です。そしていつの日かそこに限界を感じたら、浄土の教えを思い出して下さい。
実のところ、浄土門は自己否定の道ではなく、自己受容の道です。「仏に受容される」ことによって自己受容に導かれる道なのです。
もし智慧をもちて生死を離るべくば、源空いかでかかの聖道門を捨ててこの浄土門に趣くべきや。聖道門の教えは智慧をきわめて生死を離れ、浄土門の修行は愚痴にかえりて極楽に生まるとしるべし。 (法然上人)
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| (もし自分の能力を頼りに修行を積みこの世で覚りをひらくことができるならば、どうしてわたしが自力修行の道を捨てて浄土門に帰依するだろうか。聖道門とは自力で智慧を極めた結果覚りに至る道、浄土門は「愚かな自分」に立ち返って極楽浄土に導いて頂くための修行だと理解しなさい。)◆ |