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2017.05

 
宗教体験、そしてそれを語ること

 以前京都の佛教大学で学んでいた頃、T先生という方にご指導を頂きました。仏教概論の講義だったと思います。私はT先生が『ヨーガ・スートラ』というヨーガ教典の研究もなさっているのを存じていたので、講義のあとで個人的に質問しにいきました。
「先生。仏教でいう『涅槃(ニルヴァーナ)』とヒンドゥー教でいう『解脱(モクシャ)』は、教えはともかくとして、実体験としては同じものでしょうか。それとも違うのでしょうか。」
 先生は「う〜ん」としばらく下を向いておられました。少しドキドキしながら待っていたところ、先生は顔を上げてこう仰ったのです。
「同じだと思います。」

 少し説明をさせて頂きましょう。仏教は、古代インドにおけるヴェーダの教え-「自我の本質は宇宙の本質と同一である。これを知ることが最高の覚りである」という教説を否定しました。お釈迦さまは、「そもそも自我の本質というものはありません」と主張されたのです。根本の教理が違うわけです。ですから「仏教の覚りもヒンドゥー教の覚りも同じ」というのは、仏教者としては中々言いにくいことなのです。私も若かったので、先生が答えにくいことを承知で質問をしてしまいました。(済みません!)それ以来、T先生への尊敬の念を深めたのは言うまでもありません。
 究極の宗教体験という意味では、宗教・宗派の差はないのではないか。私は今もそのように思っております。

 さて、これは前置きです。
 このところ、「ワンネス」「ワンネス体験」という言葉を耳にします。わたしの受け取りでは、これは「涅槃」「解脱」「覚り」に通ずる実体験です。こうした体験をする方が増えている(あるいはネット社会になって、少数だった体験者がつながれるようになってきた)ようなのです。彼らによれば、それはまさしく言葉を超えた至高体験であり、あえて表現するならば次のような言葉が使われます。
「宇宙エネルギーとつながっている」
「すべては一つである」
「今ここにすべてがある」
「神と一体である」
「すべてに意味がある」
「純粋意識」
「無条件の愛」
「あるがままで完璧である」
「光と一体である」
「内側からやってくる理解」
「真実の自分」
「目覚め」
「時間の停止」
「世俗社会への違和感」
などなど。

 海外にも体験者は多く、「ノン・デュアリズム(非二元論、不二一元論)」といわれています。それは二でもない、三でも四でもない、大いなる「一」として体験される、という意味です。
 ちなみに二元論というと、二つ=両極の概念を立てます。たとえば、
 {自分と世界}{善と悪}{聖と俗}{精神と肉体}{男性と女性}{快と不快}{健康と病気}{幸福と不幸}{個人と社会}{善玉と悪玉}{敵と味方}
 というふうに、テーマによって両極の概念を立てて全体を理解しようとする立場です。わたしたちはふだん、周りの世界を認識、理解するときに自然にこの二元論に立っていることが多いものです。
 ところが「ワンネス体験」「ノン・デュアリズム」においては、この日常の感覚が丸ごと超越されます。「幸福と不幸の二元性を超えた真の幸福を体験する」というような表現になります。
 仏教にも「ワンネス」「ノン・デュアリズム」に関連する言葉がたくさんあります。
「真如」「一如」「法性」「自他不二」「諸法空相」「諸法無我」「一無位の真人」「重々無尽縁起」「天上天下唯我独尊」「仏心とは大慈悲これなり」「万法に証せらるる」「身心脱落」「煩悩即菩提」「凡聖不二」「娑婆即寂光土」「色即是空」「一念三千」「三界唯一心」…枚挙にいとまがありません。
 もしひとたび「ワンネス」「ノン・デュアリズム」を体験できたなら、一見難解に見えるこれらの仏教教理もすらすらと理解できることでしょう。

 であれば、ワンネス=覚りの体験者が増えることは素晴らしいこと、望ましいことであるはずです。
 がしかし、ここに大きな問題があるのです。
「ワンネス」「ノン・デュアリズム」体験自体は素晴らしいものですが、その体験を不特定多数の人に語ることによって、体験者と未体験者、覚った人とまだ覚っていない人、という別の二元性が生まれることになるのです。一元性の体験が新たな二元性を生むという矛盾。ワンネスを体験した方は、その圧倒的な至福感覚の中にいるか、あるいは時間が経ってもそれを明瞭に覚えています。そして未体験者の中には「ワンネス」「ノン・デュアリズム」に憧れる人が当然のことながら出てきます。体験者の中の一部の人々は、善意から彼らを導こうとします。が、しばしばその場は、体験者と未体験者がそれぞれの夢をふくらませる「夢想の世界」になってしまいます。いわゆる「カルト宗教」との親近性も生まれてきます。

 もう一つの大きな問題はこうです。
「すべてはありのままでよい」
 これは体験としては自己受容、他者受容の極致です。たいへんすばらしいものですが、一方で現実社会の中で苦闘している人々にとっては受け入れ難いものです。なぜなら、社会的な不公正・差別・搾取・暴力・苦しみも「ありのままでよい」と、それらに目をつぶり容認することにつながりかねないからです。目の前にある社会矛盾に取り組むよりも、「ありのままでよい。人類の目覚めが進めば、いつかそれらの問題も解決することでしょう」というふうに遠くの方を眺めてしまう。
 他のさまざまなワンネス表現も、受け取りようによってはこうなります。

「全ての生命の本質は平等である。」(だから、表面的な不平等にあえて反対する必要はない。)
「無条件の愛」(もしあなたが人を許せない、受け入れられないならば、それはあなたが未熟だからである)
「宇宙エネルギーとつながっている」(もしあなたが病気なら、それは「ワンネス」「ノン・デュアリズム」を体験できていないからだ)

 このように、「ワンネス」「ノン・デュアリズム」を主張することによって、体験者の世界と、現実の苦悩(未体験者)の世界との間に大いなるギャップ、緊張が生まれてしまうのです。

 ここでしばらく浄土教の話をさせて下さい。私の理解では、法然上人(浄土宗)は決して一元論を説きません。あくまでも二元論に留まります。聖なる世界はあちら側(極楽浄土)。われわれがいるのはこちら側の迷いの世界。あちら側とこちら側がはっきりと区別されます。肉体の命が燃え尽きる時に、念仏の功徳をもってあちら側=極楽浄土に導いていただく。現世で覚りが起こり得ることを否定はしませんが、圧倒的多数の人には覚り-「ワンネス」「ノン・デュアリズム」の体験は起こらない。大半の人がそれを体験できるのは、あちら側=極楽浄土に旅立ったあとのことです。
 つまり、
「二元論を超えた不二一元論的世界(=覚りの世界、「ワンネス」「ノン・デュアリズム」の世界)は確かにある。一部の人は現世でそれを体験することができるかもしれない。だが大半の人にその体験は起こらない。それを踏まえた上で、現実世界で覚りを体験しようとすることはいったん棚上げにして、臨終の時に極楽世界へ導いて頂きましょう、そののちに極楽世界で覚りをひらかせて頂きましょう。」
 これが法然上人の立場といえます。不二一元論(ノン・デュアリズム)を踏まえた上での現実的な二元論です。私はこれを超二元論(スーパー・デュアリズム)と呼んでいます。すなわち、私たちの日常感覚的(二元論的)世界と、それを超えた不二一元論的な覚りの世界を両方とも視野に入れた上で、私たち大多数の凡人が進むべき道を示してくれている-それがスーパー・デュアリズムです。
「二元論を超えて不二一元論へ。不二一元論を超えて超二元論へ。」
 このような言い方もできましょう。

「あるがままですべては完璧である。」
 おそらくその通りなのでしょう。しかしそれは覚りの目から眺めた世界です。われわれ迷いの中にある人間にとって、世界は決してそのようには映りません。理想と現実の間で引き裂かれているのが我々の生活感覚です。そのなかでジタバタと苦闘する人こそ真の大乗仏教者=菩薩だと思うのです。「自未得度先度他(自らは未だ救いを得ずして、先に他者を救いに至らしめる)」-最終的な救いの場があると認めつつも、厳しい現実から目をそらざずにそれに立ち向かう。現実に翻弄されながらも理想を求めて奮闘する。人々と苦悩を共にし、人々の救いを第一に考えながら歩んでゆく。雨ニモマケズ。風ニモマケズ。それこそが我々大乗仏教者の歩むべき道ではないでしょうか。

 今回申し上げたかったことをまとめますと、
・宗教体験は、宗教・宗派を問わず誰にでも起こり得るものです。
・但し、現実にはごく少数の人にしか起こりません。またその体験を語ることは諸刃の剣になります。
・かりに宗教体験の尊さを認めたとしても、多くの人にとってはそれをカッコ書きの中に入れておいた方がよろしい。(あるいはその体験が起こるのは自分の肉体の命が終わる時=未来形にしておく方がよろしい。)
・宗教体験すなわち最終的な救いの場があると知りつつも、現実社会の中で人さまのため社会のために尽くして参りましょう。
 ということになります。

 最後に申し上げますが、私は決して「ワンネス」「ノン・デュアリズム」を軽視しているわけではありません。幸いにもそれを体験された方々、またそれに関心をもっている方々に、地に足のついた社会貢献に取り組んで頂きたいと願っています。皆さんのエネルギー、皆さんの慈悲の心が、苦しんでいる人々を救う大きな力になることでしょう。◆

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