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2017.09

 
法然上人の浄土の教え

 法然上人(1133-1212)は、平安時代の末期から鎌倉時代にかけて活躍された方で、浄土宗の宗祖・元祖として仰がれる高僧です。ご遷化=亡くなられる二日前に筆をとって認められたのが今回ご紹介する『一枚起請文(いちまい きしょうもん)』です。
 この『一枚起請文』には、浄土宗の教えがすべて集約されています。私なりに言葉を加えながら現代風に訳してみましょう。(原文はダウンロードページの「日常勤行」のお経本でご覧になれます。)

『一枚起請文』

 あなた方も知っているように、仏教はインドから中国、日本へと伝わってきた。この間、多くの優れた仏教者が現れ、さまざまな修行や瞑想法を指導してきた。
 浄土の教えにおいては、視覚化の瞑想が説かれてきた。つまり、経典に説かれる極楽浄土の光景や、極楽浄土の仏である阿弥陀仏の姿を心にありありと思い浮かべる瞑想法だ。

 だが、わたしが説いてきた念仏=「仏を念ずる」とは、そのような瞑想の道ではない。

 あるいはまた、哲学の道—すなわち経典や論書を学び、「念仏」について詳しく考究したうえで、その実践として念仏を称えよという道—を教えてきたのでもない。

 では今から浄土の教えの要点を述べよう。

 釈尊は非常に多くの教えを説かれた。その数は八万四千といわれている。
 だが釈尊の覚りが幾種類もあったわけではない。それは一如であり、不二である。ではなぜそのように多くの教えが説かれたのかというと、それはわたしたちの病、迷い、囚われ、苦しみがまことに多岐にわたるからだ。それぞれの悩み苦しみに応じた薬を釈尊は用意されたのだ。この多様な煩悩の内容については、釈尊の時代も今の時代も大して違いはない。だがわたしたちの目が曇っているために、どのような場合に、どの教えを、どのように受け取り実践すればよいのかが分からないのだ。
 浄土の教えは、釈尊が説かれた多くの教えの中のひとつに過ぎない。だがこの教えの優れている点は、あらゆる人の人生をカバーできるというところだ。取り返しのつかないことをしてしまった人、人生で誤った選択をしたと思っている人、どうして自分だけがこのような目に合わなけれならないのかと思っている人、怒りの心を抑えられない人、自分にはこの状況をどうにもできないという無力感のうちにある人…こうした、寂静の心とはおよそかけ離れたところにいる人々をも導いてくれるのがこの教えなのだ。
 幸いなことにわたしはそれを知り、実践し、そしてあなたがたに説いてきた。

「極楽浄土」というのは、諸仏が語り継いできた夢の世界だ。そこには覚りをひらくことができるような環境がすっかり整っている。わたしたちのこの現実世界では、覚りをひらく可能性はほとんどない。ごくまれにそういうことが起こるが、一部のわずかな人に限られる。だが極楽世界では覚りを妨げる要因がないので、人はごく自然に覚りの開花へと成長できるのだ。
 今、「諸仏の夢の世界」と言ったが、これをわたしたちの夢の世界と混同してはならない。諸仏は完全に覚醒しているので、彼らにとっての夢はわたしたちにとっての現実よりもさらに現実的なのだ。ゆえに、わたしたちは極楽浄土を夢の世界ではなく「現実にある世界」と考える必要がある。
 これが第一の要点だ。

 浄土の教えが目指すところは「往生極楽」だ。すなわちこの身体の命が尽きる時に極楽世界へと転生し、かの世界で覚りの道に入れということだ。この身体の命が尽きる時こそが大いなるチャンスなのだ。そのためにはただ、
声に出して「なむあみだぶつ」と称えなさい。
 念仏によって速やかに極楽往生できる-この信頼の心をもって称えなさい。それだけで十分だ。そうすれば阿弥陀仏の力によって必ず極楽世界に導いていただける。わたしが生涯をかけて説いてきたことのすべては、この一事に帰着する。念仏を称えるほかには瞑想も不要、哲学も不要である。細かい儀式も、学問も、厳しい戒律や坐禅やその他の修行も一切不要である。なぜなら阿弥陀仏の力は、これら一切を超えてわたしたちを導いてくれるからだ。

「三心四修(さんじん ししゅ)」といって、念仏を称える際の心がまえや修行のありようが経典や論書に詳しく説かれている。これらについてあなたがたに説明したこともある。だがこれらもすべて、「なむあみだぶつと称えて必ずや極楽世界に導いていただこう」と思えばそこに含まれるのだ。
 ゆえに、信頼の心をもって「なむあみだぶつ」と称えよ-これが第二の要点だ。

 わたしの心の中に、仮にこのような思いがあったとしよう。
「念仏だけでよいというのは初心の者に向けた教えであって、実はさらに奥深い秘密の教えがあるのだ。」
 もしそのような思いがわたしにあるとするならば、このわたし自身が釈尊や阿弥陀仏のみ心に背き、その救いから外れてしまうであろう。
「念仏だけでよい」ということが教えのすべてであり、表も裏もないのだと知りなさい。

「仏教にはさまざまな教えがあるが、私は念仏の道を歩もう。」
「念仏とともに、心安らかに生きてゆこう。」
 このように志す人は、次のように考えなさい。たとえあなたが仏教を広く深く学んでいたとしても、「たった一つの経文といえども、真実のところは自分には理解できていない」と心得るのだ。
 自分は仏教をよく理解している、という思いを捨てなさい。学問があろうがなかろうが、集中力に優れていようがいまいが、釈尊や阿弥陀仏の目から見れば同じことだ。我執から抜け出せず迷いのただ中にいることにかわりはない。
「私は知っている」という思いを捨てなさい。そして、ただひたすら念仏を称えなさい。

 このように思う人もいるだろう。
「念仏だけでよいという教えは、仏教では常識とされている学問や修行をすべて否定することにつながるのではないか。」
 このように考えてわたしたちを非難する人もいるだろう。事実わたしの生涯においても、幾たびか法難を受けてきた。これからもそのようなことがあるだろう。
 だが、わたしの考えも主張も変わらない。今の時代にわたしたちを正しく導いてくれるのはこの道のほかにはないからだ。

 浄土宗の信仰と修行の要(かなめ)は、すべてここに尽くされている。わたしには、このほかの考えは一切ない。わが亡きあとに間違った教えが広まることのないように、思うところを書き記した。

建暦二年(1212年)一月二十三日
沙門源空(法然上人)◆

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