2018.04
前回に引き続き、皆さまから頂いたご質問に、私自身の解釈も交えながらお答えいたします。
今回のご質問は下記の7件です。
- 浄土宗に関して自分のやり方・考え方・方向性に自信がないときは。
- 念仏は一日何回称えればよいのですか。
- 瞑想など、他の修行を行なってはいけませんか。
- 正式な浄土宗僧侶になるためにはどうすれば良いでしょうか。
- 僧侶になるのは無理としても、この教えを他の人に伝えたいのですが。
- 病気平癒、受験合格、仕事の発展などを祈ってはいけませんか。
- キリスト教の神と、阿弥陀仏の違いはどういうところですか。
問:浄土宗に関して自分のやり方・考え方・方向性に自信がないときは。
答:
法然上人のご法語を学んでいただければ、たいていのことは教えて下さいます。今後当サイトでもこれらをご紹介して参ります。または直接私に質問・相談して下さい。メールでも大丈夫です。
問:念仏は一日何回称えればよいのですか。
答:
法然上人は、「ただ一回の念仏でも往生できると信じて、一生のあいだ念仏を称え続けなさい」と言われています。また「数が少ないから往生できない、と思ってはならない」と言われる一方で、「数は多いほど良い」とも言われています。
本来は一日何回、と決めるのが一番良いのですが、現代の多忙な生活の中で回数を定めると、人によっては達成志向、自力志向の念仏になってしまいます。「今日はできた」「できない」に囚われて心が窮屈になり、緊張するかもしれません。むしろ心が広がるような念仏、喜びに満ちた念仏、阿弥陀仏にすべてを委ねられるような念仏が称えられるように、各自のやり方を工夫するのが良いでしょう。
問:瞑想など、他の修行を行なってはいけませんか。
答:
いったんお念仏の道に入られたのであれば、心がしっかりと定まるまでは他の修行に心を向けるべきではありません。二兎を追う者は一兎をも得ず、です。しかしひとたびお念仏に心が定まれば、お念仏を助けるものとして(心身のリラックスや洞察をより深めるために)瞑想などを行っても構いません。浄土宗の高僧の中には、藤吉慈海師のように「禅浄双修(坐禅と念仏を共に修める)」を説かれた方もいます。
問:正式な浄土宗僧侶になるためにはどうすれば良いでしょうか。
答:
当サイトでも案内していますが、師僧になってくれる方を見つけて、弟子入りするところから始めます。浄土宗寺院の数は限られており、また日本の伝統仏教の他の宗派と同様、ほとんどの寺院が世襲です。寺院関係者でない方が僧侶になるケースは日本国内でも多くはないのです。また現状は日本語を通じた養成システムしかありませんので、日本語ができない方はまず言語の習得が前提となります。
問:僧侶になるのは無理としても、この教えを他の人に伝えたいのですが。
答:
法然上人の教えを他の人に伝えるために、必ずしも浄土宗僧侶の資格が必要というわけではありません。あなたご自身の中で「布教したい」という志が育てば伝道も可能です。謙虚な学びの姿勢と、地道な実践の積み重ねによって、大きな力を発揮して頂くこともできると思います。しかし独りよがりにならぬよう、専門家の指導を受けながら活動するのが宜しいでしょう。
この教えを世界に広めるために、あなたの力を是非活かして下さい。
問:病気平癒、受験合格、仕事の発展などを祈ってはいけませんか。
答:
「仏さまの眼からご覧になって、正しい方向に導いて下さいますように」という祈りであれば構いません。しかし、いわゆる現世利益を求める-自分本位の願いを仏力を利用して叶えようとすることは仏教ではありません。
問:キリスト教の神と、阿弥陀仏の違いはどういうところですか。
答: 第一に、阿弥陀仏は万物の創造者ではありません。一人の人間(菩薩)が発願・修行を経て成道された覚者です。釈尊と同じです。
第二に、阿弥陀仏は唯一の救い主ではありません。無数の仏たちの中のお一人に過ぎません。極楽世界も無数の仏国土の中の一つ。ではなぜその中の阿弥陀仏・極楽世界を特別に信仰するかというと、法然上人は、
「諸仏の中で特に阿弥陀仏を選んで帰依するのは、わずか3回の念仏、5回の念仏でもすくい取って下さるからである。」
「多くの仏国土の中で、阿弥陀仏の極楽浄土への往生を願うのは、どんなに重い罪を犯した者でも念仏によってそこに往生できるからである。」
このように言われています。
しかし、極楽往生ではなく他の道を歩んで覚りに至ろうとする方々がいても、それを否定することはありません。「唯一の神」「唯一の真実」という考え方はないのです
第三に、生まれ変わり死に変わりの輪廻転生から解脱する、というのが仏教の理想です。その解脱に導いて下さるのが阿弥陀仏。私たちは覚りを得たのち、人々を救うためにこの世に戻ってくることもできます。神によって与えられたただ一度の人生が終わり、時来たれば神の裁きによって天国・地獄への行き先が決まり永遠にそこで暮らす、というキリスト教的他界観とは大分異なっています。
一仏だけに帰依し信仰によって死後の救いを頂く、という大凡のところが似ているので、キリスト教と浄土教には共通点も多いのです。しかし、上に見たような根本的な違いがあるわけです。◆