2019.02
私どもの側から申しますと、僧侶の第一の役割は「寺をまもる」ということであります。
出家の本義から言えば、「行雲流水のごとく一所に止まらず、破れ衣を纏って乞食遊行する」のが僧侶のひとつのあり方かも知れません。そのような道を歩まれている僧侶もいるでしょうが、大乗仏教−慈悲の実践という文脈で考えますと、これは現代のわが国には必ずしも適っていないように思われます。日本では海外の仏教国と異なり、人々が僧侶を敬い慕うという感覚は(残念ながら)薄れています。出家の高僧に布施をして功徳を積ませて頂く、という場面は極めて稀ではないでしょうか。(その代わり、宗教法人は社会制度として保護されています。)一方、古来より「法灯を継承する」「法灯を守る」という言葉があります。歴史ある一ヶ寺を守り、そこを拠点として持続的に地域社会に貢献することが僧侶としては現実的、かつ有効な活動でありましょう。
一般の方々から見ますと、亡きご身内のために法要儀式を勤めてもらうこと、これが僧侶に求める第一の役割です。この需要に丁寧に応えてゆくことは、僧侶にしかできません。今日では仏教離れ、お寺離れということがよく言われます。そのような傾向は現にありますし、またその理由や背景もあることでしょうが、一般的に見ると、ご身内の方が亡くなられた時に僧侶の読経なしで済ませる、ということにはやはりご不安があるのではないかと思われます。寺院との信頼関係があれば、あるいは信頼できる僧侶とのご縁があれば、それに越したことはありません。満足のゆく法要を勤めて頂けることと思います。
「寺を守る」そして、「檀信徒や一般の方々のために、亡くなられた方のご供養をお勤めする」。
そして私が思うところ、現代の僧侶の担うべき役割がさらに三つあります。
第一は、「終活支援」です。お墓を建てる、移転する、またはお墓を閉じる。お仏壇を新しく整える、古いお位牌を整理する、古いお仏壇を閉じる。人口の移動や少子高齢化の進行とともに、このようなケースが急増しています。どういう場合に、どういう対応が良いのか、どういう提案をすれば相談者が心休まるのか。
たとえば「子や孫に負担をかけたくないのでお墓を閉じたい」というご相談を受けることが再三あります。そのような時、「お墓は、守らなくてはならないお荷物のようなものではありませんよ。逆に、お子さんやお孫さんをしっかりと守ってくださる場所なのですよ」とお話をします。「…なるほど、確かにそうですね」とご理解を頂いて保留になることもあります。また場合によっては、相談者の当初の意向通りお墓を閉じる方向に進む場合もあります。いずれにしても、個々のケースにおいてよりよい選択肢をご一緒に考える。石材店や仏具店の方も相談に乗ってくれるでしょうが、僧侶にしか応えられない内容も多いと思います。
第二は、私が「統合支援」と呼ぶものです。
エリク・H・エリクソン(1902-1994)という心理学者は、次のような発達理論を唱えました。これは、人間の一般的な発達段階を8つに分けて、それぞれの時期の課題を描き出したものです。
例えば、乳児期に示される課題は、「世界に対して基本的な信頼感をもてるかどうか」です。無力な赤ちゃんにとって、母親など周囲の人の愛情と世話を十分に受けられ、周囲の世界に対して信頼感をもてるかどうかが、その後の人生に大きな影響を与えます。
幼児期、遊戯期、学童期、青年期にはまたそれぞれの課題が提示され、成人期、壮年期を経てやがて人は老年期を迎えます。ここでの課題は「自己統合」であるとされます。「自分の人生はこれで良かったのだろうか。」この問いに対して「はい」と言えるかどうか。
私は発達心理学の専門家ではありませんし、また若い頃にこの「発達段階説」を知ったときは(小此木啓吾先生が『モラトリアム人間の時代』という著書でこのエリクソンの説を広く紹介されました)、「ずいぶん窮屈な人生観だな」と思ったものです。しかし、僧侶としてご高齢の方々と接する機会が多い中で、この「自己統合」という概念が思い浮かぶようになりました。
ご相談を受けたいくつかのケースの中で、相談者の晩年の人生の統合、つまり人生を振り返って「いろいろなことがあったが、まあまあ良い人生だった」「自分としては精一杯生きた」と思える。これは、お一人お一人の個人の内面に関わることあり、他人が立ち入るべき領域ではないのですが、場合によっては僧侶が話の聞き役となって、この作業を支援することができるように思われます。特に、ご身内を亡くされたことがずっと心に残っていたり、あるいはかつて世話になった方々への恩返しができていないことが心にひっかかっていたり、このようなことは誰にもあるものです。僧侶が相談相手となって、こうした引っ掛かりをやわらく受容できる方向に支援し、場合によっては儀式を行なうことを通じて自己統合のプロセスをいくらか促すことができる。
そのようなケースをいくつか経験しました。これを「統合支援」と呼んで宜しいかと思います。
そして第三は、「真の終活支援」です。
「終活」というと、身辺の荷物を整理したり、前述したようにお墓やお仏壇のことを整えたり、また介護や葬儀、遺産相続などに関するご本人の希望をあとの人が困らないように文書化しておいたり、ということが話題になります。これらも大切かもしれませんが、私から見ると「ご本人にとっては」大したことではありません。
必ずやってくる自分の死を、ご本人が精神的にどう迎えるのか。その時にご本人の心に、あるいは魂に何が起こるのか。このことが一番重要であって、その他のことは小さなことのように思われます。
浄土宗では、死と、そしてその後に歩む道筋について、はっきりと教えが説かれております。ご自分の死と向き合い、「自分は仏の光の世界に救われてゆく」と知って頂く、それを支援するのが私どものできる真の終活支援です。
僧侶の力が問われるところでありますが、また同時に、僧侶しかできない支援でもあります。
寺を守り、法要儀式をしっかりとお勤めする。さらに考えたい「僧侶としての三つの役割」。
皆さんはどのような感想をお持ちになったでしょうか。☸