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2019.03

 
山田無文老師のことば

ウェブに以下のような文章が投稿されていました。出典不明で恐縮ですが、内容が素晴らしいので引用させて頂きます。

・・・山田無文老師「宗教の大学」・・・

 先日、「新興宗教をどう思うか?」と、尋ねられた。そこで老僧、こう答えた。
 新興宗教を別に良いとも悪いとも思わない。およそ宗教にも幼稚園から大学まであるだろうから。
 幼稚園の子供というものは、親や先生に甘えることしか知らない。もらう事しか知らない。宗教も神様や仏さまに、ああして下さい、こうして下さいと、甘える事、ねだる事しか知らない宗教は、幼稚園だと思う。
 小学生の子供になると、親や先生に半ば甘えるとともに、なかば怖い事を覚える。宗教も、神様や仏さまに半ば甘えてかかるとともに、半ば怖い事を覚え、「悪いことをすると神さまが見てらっしゃる」とか、「罰を当てなさる」とか、怖れるようになるのが小学生である。
 中学生になると、よほど成長して、親や先生に甘えたりねだったりしなくなる。感謝とか尊敬という事がわかって、素直に言いつけを聞くようになる。宗教も神様や仏さまの教えをよく聞いて、道徳的になり、世の中や他人の為に奉仕するようになると、これは宗教の中学生である。
 高等学校の生徒になると知能が更に発達して、すこぶる懐疑的になる。そして「うちの親父はだいぶ頭が古い」とか、「先生はあんなことを言うが本当だろうか」、などと考えるようになる。宗教も神はあるかないか、神と仏とどっちが尊いか、などと考えてきたらこれは高等学校である。大疑の下に大悟ありで、一度疑ってみて信じれば更に入信するし、そこで信じられなければ、あっさり信仰を捨てる事になるであろう。

山田 無文(1900—1988)
 大学になると、親も先生も、「自分に劣らぬ者、出来るならば自分より優れた人を作ろう」と教育する。学生もそのつもりで勉強する。宗教も大学になると、よほど理性的人格的になって、精神の最高峰までに向上し、人間の中に神を発見し、人間の中に仏を発見せしめようとする。各自がまた、先覚者達に勝るとも劣らぬ者となろうと努力するようになる。
 大乗仏教は宗教の中の大学だから、幼稚園や小学校より信徒の数は少ないかもしれぬが、心配することはない。生活さえ安定すればだんだん卒業して、やがてこちらへ入ってくるようになる。文化の高さには、どうしても生活の安定が必要だと思う。

 山田無文老師は臨済宗の高僧です。私も浄土門に入る以前、『十牛図』というご著書を読んで感銘を受けたことがあります。今回の引用文には終わりの方に「生活が安定すれば」という言葉がありますので、おそらく戦後の経済成長期に書かれた、あるいは語られた言葉ではないかと思います。


「無事」
長良川画廊 Web書画ミュージアムより

 私どもも、新興宗教に関するご相談を受けることがたびたびあります。場合に応じて対応しておりますが、山田老師のこの言葉はとても参考になります。基本的に宗教や宗派に優劣はなく、それに関わる姿勢が問題だと思うのですが、もし人を「幼稚園」に閉じ込めたまま自立せずとも良しとする宗教であるならば、それはいかがなものでしょうか。
 そしておそらく、大学の先もあります。「宗教の大学まで学ばせて頂いた自分」をいったん捨てて、「どのようにすれば世のため人のために役立つことができるだろうか」と白紙に還って自問し、工夫し、行動できるのが「宗教の社会人」ということになりましょう。

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