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2019.05

 
ある思い出
笠原 泰淳 記(令和元年5月)

 元号が変わりました。
 平成の時代を振り返るにはまだ時期が早いかもしれませんが、自分自身の平成時代の一コマについて書きたいと思います。平成5年、昭和から平成の時代になって4年あまり経った頃のことです。

 私は、35歳になったその年に浄土宗の僧階を頂き、さて次はどのような方向に進もうかと一旦立ち止まった時期でした。生活自体はアルバイトで支えていたので、その時の選択肢は、仏教の勉強を続けて大学院の修士課程(相当)に進むか、あるいは別の学び(カウンセリングを学びたいという希望をもっていました)に進もうか、ということでした。今から考えると随分呑気な感じがしますが、当時はバブル経済の崩壊期ではあったものの、先のことはあまり心配しなくても何とかなるだろう、という楽観がまだ自分の中にありました。もう少しの間、好きなことを勉強していても大丈夫と思っていたのです。
 結局、仏教の勉強はお休みにしてカウンセリングを学ぶ方向に進みました。とはいえ専門職のカウンセラーを目指すつもりはなかったので、大学ではなく、民間の相談機関で行なっている研修制度に参加してトレーニングを受けることにしました。いく通りかの訓練を受けた中で、特に強く印象に残っていることがあります。

 それは数日間の宿泊研修で、10人ほどのグループに分かれて行なわれました。専門の訓練を受けたリーダー(ファシリテイター)が1人、参加者はリーダーを含めて輪になって坐ります。1時間くらいを一単位として、休憩をはさみながら何度もセッションを行ないます。進行について事前に何の説明もないまま、グループがスタートしました。全員そのまま、ただ坐っているだけでした。何をどうしたらいいのか分かりません。リーダーは鋭い眼差しで各メンバーを観察していますが、発言することはほとんどなく、参加者の自由に委ねているようでした。
 ずっと沈黙が続くのもなかなか居心地の悪いもので、耐えきれなくなった参加者が少しずつ発言を始めます。すると、他の方も反応し始めるのですが、やがて、「あなたの発言はどこから来ているのか」という方向に流れて行きました。不用意な発言をすると、他の参加者に鋭く追求されるわけです。では黙っていれば安全かというと、「なぜ黙っているのか」といつ言われるか分かりません。話題の方向もあっちに行ったりこっちに行ったりです。メンバー間で感情の大きな動きがあったり、自分のふだんのコミュニケーションパターンに突然気づかされたり、「仮面」が剥がされ、自分の生の姿を見せつけられて愕然としたり−なかなか厳しい研修でありました。
 参加者の一人に、30歳くらい女性がいました。メンバーの中では比較的多くの発言をしていました。私が仰天したのは、この方のグループへの関わり方です。「先ほどのあなたの発言を聞いて、今、私の中にはこういうことが起こっています。」「今はこういう感じになっています。」—このようなことを瞬時に話すのです。まるで曲芸を見ているか、秒単位でスポーツの実況中継を聞いているかのようでした。私はどちらかというとぼんやりしている質(たち)なので、この方の、自分の内面に対する感覚の鋭さと、その表現力に舌を巻きました。彼女の発言が、明らかにグループ全体の覚醒度を高めていました。
 この研修の目的は、「他人さまの悩みに対応するために、自分自身の感受性を磨く」ということだと思いますが、自分の内面を意識化するとは実際にはこういうことなのか、と驚いたものでした。

 宗教とは全く関係のない研修ですが、これをあえて仏教の立場からみてみます。すると、この研修が仏教修行の眼目である「自分の内外で刻々と起こっていることへの気づきを深める」ことに直結していることが分かります。しかも、ただ一人で坐って瞑想修行を行なうよりも、決められた枠の中で他の方々とワークをするほうが数倍、数十倍の効果が上がるように思われます。何せ、自分の仮面が無理やり剥がされるわけですから。しかもその訓練の目的は、「よりよく他人さまのお役に立つために」ということですから、少し大げさに言うと、今日でいうところのマインドフルネスの修行と、大乗仏教の菩薩精神が一つになった場所だといえましょう。
 僧侶として日頃ご相談に乗っていると、相談者の様子を観察することはもちろんですが、相談者に接している自分自身の内面の動きを自覚していないことには、なかなか効果が上がりません。まさに上記のような研修体験が必要なのです。ご相談の中には、相談者ご本人にしか分からない部分=私たちにできるのはそれを察することだけ、という部分と、そしてお互いに共鳴し合う(例えばもらい泣きとか笑い合うとかいう)部分などがあります。安易な「分かったつもり」も禁物ですが、また、冷静な立場を離れて相談者の気持ちに共感して揺れ合う部分も出てきます。そしてそれを自覚していることが大事なのです。

 さらにもう一つ。実は仏教においても、他宗教と同じように女性差別や身分差別が問題になることがあります。仏教経典自体が、古い時代のインド社会を背景に成り立っているので、そこに差別意識が紛れ込んでいることがあるわけです。しかし「気づき」の点から眺めれば、男性も女性も同じ。未熟な人は未熟であるし、優れた人は優れています。年齢や性別による違いは全くないことを、私は一連の研修で身をもって体験することができました。それからは、経典の中にある差別的な記述は無意味なものとして読み飛ばすようになりました。(だからといって、自分の中に差別意識があらわれることは全くないとは言えません。気をつけたいところです。)
 こうした「気づき」の深さは、基準さえ整えれば視力と同じように数値で測定できるかもしれません。カメラやディスプレイの解像度と同じようなものではないかと思われるのです。

 もう少しだけ話を広げてみましょう。社会の中では「男性」「年長者」「高学歴の人」「社会的立場のある人」「健常者」が強い力を持っているように見えますが、かりに「気づき力」を測定できるとしたら、年齢・性別などの要因が「気づき」とは全く無関係であることが分かるでしょう。気づきを深めれば、差別もなくなり、嘘も仮面も飾りものも剥がれ落ちて行きます。本当は、社会を考える上でもこの「気づき」がとても大切なのです。
 こうした研修での場面は口外しないことが原則でありますが、これからの仏教を考える上で極めて重要だと思いますので、あえてご紹介させて頂きました。

(蛇足ながら、自己開示を伴う研修は、参加者が傷つくことがあったり、あるいは研修の目的によってはリスクを伴なうこともありますので注意が必要であることを申し添えておきます。)

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