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2019.11

 
海外の方々からの質問
笠原 泰淳 記(令和元年11月)

これまでもご紹介していますが、浄土の教えについて海外からお問い合わせやご相談をたくさん頂戴しています。今回もいくつかご紹介しましょう。

♦ ご質問 ♦

「お時間を取らせてすみません。
私は長い間、密教(訳注)[チベット仏教?]と関わりを持ってきましたが、たまたま浄土の教えと出会いました。私の最初の反応は、『これは出来すぎた話だ』というものでした。信仰についてSenseiが書かれた文章も読みました。
お念仏をもっと称えることで私の信仰心は深まるのでしょうか。今現在、私は信仰とは100万マイルも離れたところにいます。
もう一つ質問です。インターネット上で見る多くのテキストには、『まず信心を得なさい。それが浄土に往ける条件です。そのためには(一生では済まずに)二生か三生はかかるでしょう』と書かれています。このことについてどう思われますか。」

♦ お答え ♦

浄土教に関心を寄せて下さり、ありがたく思います。

——お念仏をもっと称えることで私の信仰心は深まるのでしょうか。——

はい、そう思います。浄土の道においては、お念仏の実践が私たちの信仰を深め、また信仰と学習が私たちのお念仏を励ましてくれます。
信仰の心(ハート)は、学習(頭)と実践(身体・声)と繋がっているのです。

——インターネット上で見る多くのテキストには、『まず信心を得なさい。それが浄土に往ける条件です。そのためには(一生では済まずに)二生か三生はかかるでしょう』と書かれています。——

同じ浄土の教えであっても、宗派によって若干の違いがあります。
浄土宗においては、お念仏の実践と阿弥陀さまの本願への信仰が浄土往生の条件です。しかし、信者の方が「信心」をすでに得たのか、それともまだ得ていないのか、ということは問題にしません。なぜなら極楽浄土は誰もが往ける世界であり、万民に開かれたところだからです。
阿弥陀さまの慈悲の心は常に全開です。ただそれを信頼してお念仏を称えて下さい。今は「信心」について心配しなくても大丈夫です。なぜなら「信心」という概念があなたを混乱させているからです。それは阿弥陀さまの望むところではありません。
難しく考えないで、ただお念仏を称えて下さい。それで良いのです。今生の終わりに往生がかなうことでしょう。
100万マイルが少しでも縮まりますように。

次はロシアの友人からの質問です。

♦ ご質問 ♦

「お念仏は真言の一種でしょうか。
称えるときにはその音に集中すべきでしょうか、それともその意味に集中すべきでしょうか」

♦ お答え ♦

お念仏を長時間称えていると、真言を唱えるのと同じように瞑想的な状態に入ってゆきます。しかし、お念仏と真言ではその背景がまったく違いますので、そこをよく理解する必要があります。
真言には、仏菩薩のお護りを頂き現世の望みを叶えようという現世利益的な側面があります。また密教の修行としては、口に真言を唱え、手に印を結び、心に本尊を思い描くことによって、この身このままで仏になれる、という「三密加持」の教えがあります。
これに対し、浄土宗のお念仏は現世利益のためのものではありません。結果的にご利益を頂くこともありますが、お念仏の目的はこの世の命が終わるときに西方浄土へ往生することです。また、お念仏を通じて仏さまと一体になる、という思想もありません。
阿弥陀さまのお言葉、「わたしの名を呼びなさい。なむあみだぶつと称えなさい。そうすればわたしの力であなたを必ず西方浄土にすくい取ろう」というお約束を頼りとして称えるのがお念仏です。自分の精神集中の努力によってではなく、阿弥陀さまのお力によりお導き頂くわけです。
このように、お念仏は真言とは明らかに異なるものなのです。

——称えるときにはその音に集中すべきでしょうか、それとも意味に集中すべきでしょうか。——

お念仏を称えておりますと、「なむあみだぶ」という自分の声やその意味も自然に意識の中に入って参ります。しかし、集中するべき対象は、目的地である「西方浄土」、目的地にお導き下さる「阿弥陀さま」そして阿弥陀さまのお約束である「本願」、この三者である、と申し上げたいと思います。
これが、善導大師と法然上人の説かれたお念仏です。

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