コラム目次へ

コラム倉庫

2021.05

 
疑問に答える
笠原 泰淳 記(令和3年5月)

 浄土宗の教えは極めてシンプルです。すなわち
「阿弥陀仏や極楽浄土は現に存在する。私たちは日々『なむあみだぶつ』とお念仏を称えることによって、命終わる時に極楽浄土に新しい命をいただくことができる。」
というものです。

 このサイトにもさまざまな話を書かせて頂いておりますが、詮ずるところ、以上のようになります。
 さて、多くの方が抱かれるであろう疑問は次のようなものでしょう。
 第一に、「それは真実だろうか。」
 第二に、「仏教(あるいは宗教)は、死後の救いよりもむしろ、現に生きている人々の救いを説くべきではないだろうか。」

 第一の疑問、この教えは真実だろうか、という問いに対する私の答えは以下のようなものです。
 自分自身の直接体験として、それが真実かどうかをはっきり知るには、やはり死ぬ時を待たなければなりません。それまでは、真実だと「思う」あるいは「信じる」という域を出ないでしょう。
 しかし、浄土経典や法然上人(浄土宗の宗祖)の教えを実際にひもといてみますと、それがまったくの偽りとは思えないのです。原文でそれらの教えを繰り返し読みますと、たしかに真実の響きが聞こえてきます。それはおそらく、それらの言葉が私たちの馴染んでいる日常の意識からではなく、深い内省、瞑想体験から出てきたものだからでありましょう。実際に生死の境を飛び越えるほどの深い場所から出てきた教えかもしれません。その辺りのことは明確には分かりませんが、大切なことは、この教えが真実であるという前提に立って日々生きてゆくことだといえましょう。やがて必ず訪れる死−それは決して暗く、苦痛に満ちた恐ろしいものではなく、大いなる光の中に包まれる時、阿弥陀仏・菩薩さまや先に往かれた方々のお導きを頂ける歓喜の時である。そこをしっかりと押さえて、その歓喜に満ちた時に向けて、(いわば逆算して)日々のひとときひとときを大切に生きてゆく。その生き方こそが重要だと思われます。教えが実際に真実であるかどうかは、臨終の「その時」が示してくれることでしょう。ちなみに私自身は「その時」、経典に書かれていること、あるいはそれに限りなく近いことが起こると思っております。

 第二の疑問は、「仏教(あるいは宗教)は、死後の救いよりもむしろ、現に生きている人々の救いを説くべきではないだろうか」というものです。
 浄土宗の僧侶仲間の中にも、「(お金・健康・幸運などの)現世利益を説いてゆかなければ、宗門の将来は暗い」という方がおられます。たいへん残念なことです。なぜなら、念仏往生の教えによって次のような十分なご利益が頂けるからです。

 まず第一に、死の恐怖から解放されるか、あるいはそれが少し軽くなります。実際のところ、死の恐怖がもたらす憂いや不安は、気づく気づかないに関わらず私たちの心のかなりの部分を占めています。「自分や家族が病気になったらどうしよう」「収入や貯金がなくなってご飯が食べられなくなったらどうしよう」「私はまだ本当の人生を生きていないのではないだろうか」…私たちの行動や考えの多くは、これらの不安をベースとしているといえるのではないでしょうか。そのおおもとは、死への恐怖です。先ほど申しましたように、念仏者にとって、身体の命が尽きるときは「死」ではなく光の世界への「誕生」の瞬間です。それは決して、底しれぬ暗い穴に落ちてゆくようなものではありません。これを多少なりとも理解してお念仏の生活を送る人にとっては、死の恐怖はだいぶ軽くなるのではないでしょうか。

 次に、死別の悲しみ−それはこの世で経験する最も辛いことの一つですが、このつらさが軽くなります。なぜなら極楽浄土では亡き方との再会がかなうからです。そのようにお経(『阿弥陀経』)には説かれています。法然上人は、次のように言われます。
「浄土の再会、甚だ近きにあり。今の別れはしばらくの悲しみ、春の夜の夢のごとし。」
 今生での別れが「夢のよう」であり、浄土での再会こそが真実である、というのです。

 第三のご利益です。今日では世界中に、覚りを求めて坐禅や瞑想修行を行なっている人々がおられます。とても尊いことですが、そこには「果たしてこの世で覚りを開けるのだろうか」という不安がつきまとうのが常でありましょう。もし今生で覚りが開けなければ、来生ではまた一からやり直さなければならないかも知れません。もうここまで来れば後戻りすることはない、という境地もあると言われていますが(不退転)、自分が今どのあたりまで進んでいるのか、実際に判定することは難しいでしょう。
 念仏者にとって、覚りを開くのはかの浄土に生まれた後のことです。お念仏によってまず極楽浄土に導いて頂き、その後かの世界で覚りに向けて歩み始めます。しかも、かの世界には苦しみというものがありません。つらい修行が待っているわけではなく、自然に覚りの境地にいたることができます。この世で覚りをひらくことは最初から諦めておりますので、今生で覚りを開けるか開けないかという憂いはまったくありません。

 第四に念仏者は、この人生が「迷いの生活」の最後のものだと分かっていますので、真の意味で人生を楽しむことができます。迷うのもまた良し、ジタバタするのも良し、喜怒哀楽も良し。迷いの心でそれらを経験するのもこれが最後です。人さまに迷惑をかけないように気をつけながら、できれば人さまのために尽くしながら、あるいは人さまの助けを頂きながら、この人生を十分に味わおうではありませんか。

 第五に、たとえ三毒(貪欲・怒り・愚かさ)に囚われることがあっても、私たちは念仏往生によってそれらから必ず解放されることを知っています。欲や怒りに永久に囚われる、ということはないのです。三毒を警戒する必要はありますが、自力でそれらを滅し尽くすことは考えなくても良いのです。

 最後に、私たちは他人さまの罪を最終的に許すことができます。なぜなら阿弥陀さまが彼らを許し抱擁しておられるのを知っているからです。たとえ私たちがある人を「絶対に許せない」と思ったとしても大丈夫。許さなくても良いのです。私たちの代わりに阿弥陀さまが彼らを許すでしょう。「人さまを許せない自分」を許せるとは、何とありがたいことでありましょう。

 以上、縷々述べて参りました。確かにお金や健康の話が直接出てきた訳ではありませんが、「念仏往生」という簡単な教え、一見信じがたいような教えが、実はとても大きなスケールをもっていることを感じて頂けたでしょうか。
 どうぞご一緒にお念仏の生活を送りましょう。  南無阿弥陀仏。

ご寄付のページへ