2021.12
私たちが信仰する「仏教」とはどういう教えでしょうか? 改めて考えてみたいと思います。
仏教は現在、まさに世界宗教の名にふさわしく、世界の様々な地域で様々な民族によって信奉されています。ところが一見すると同じ仏教でも、信仰や実践の内容が大きく異なっているように見えることがあります。また歴史上にも、時には相反するかのような様々な思想が同じ“仏教”の名のもとに花開いてきました。
そうした中においても、全てに共通している事は、私たちが如何に生きていくべきかについて答えを出そうとしている、それが仏教であるという点です。仏教は生きていく上で避け難い苦難に直面した私たちに、その苦難を乗り越え、不安な気持ちを解消し、より安楽に過ごせるように導こうとしている教えであり、さらにこの人生を全うした末に必ずやって来る死という現実を見つめ、心安らかにその時を迎えるように誘っているとも言えるでしょう。
あるいはこのように考える人もいるかも知れません。“いつやってくるか分からない死について、今ここで悩んでも仕方がない。人生を謳歌し、今楽しめる事を精一杯楽しめばそれで十分ではないか。”
しかしながら誰しもが心の底では死への不安に怯え、身近な人の不幸に心を痛める経験をするものです。物事が一時たりとも同じ姿を保てず、私たちの希望や願いとは裏腹に移ろってゆく諸行無常の世の中です。いつどのような形で死が訪れるのか、これについては誰も答えを出せず、また大切な人を亡くす経験が私たちの人生にはつきまといます。楽しいことや喜ばしいこと、誇らしいこと、普段、私たちが生きていく上での原動力となってくれるこれらの安楽があるからこそ、それらが失われゆく辛さも伴うものです。
“死はある日突然訪れるものではない。そうではなくて私たちは皆、日々刻々死んでいるのだ。”——あるチベット僧の言葉が今でも私の胸に強い印象を残しています。死というのはまるで晴天の霹靂(へきれき)のごとく、ある日突然やって来る事件ではなくて、誰もが一瞬一瞬、少しずつであるが死んでいるのだ。そのように考えれば、死は決して恐ろしいものではなく、かえって馴染み深い日々の生活の延長にあるものであり、だからこそ“死”から目をそむけずその瞬間が持つ意味について考えられるのである。私はこの言葉をこのように理解しています。
ところで死は、誰もが必ず経験しなければならないのと同時に、実はまだ誰も経験したことのないものです。だからこそ私たちはそれを必要以上に恐れ、あるいは目をそむけて直視しようとしないのではないでしょうか?
大乗仏教が篤く信奉されている国々では、人が亡くなった後の49日間を中陰と定めて心を込めて祈って来ました。“どうか先立ったあの方が、早く迷いや恐れから解放され、より安楽なる世界へと迎えられますように”、と。
最初期の仏教の面影を色濃く伝える阿含経典の中では、お釈迦様は死についてこのように仰っています。
“迷いや混乱する心ではなく、全てをそのまま受け入れる澄み渡った心で、死を迎えるのが最も望ましい”
また古来私たちの国では、まさに最後の時を迎えようとしている人のもとに、皆が馳せ参じ、仏さまとの契を結ばせて、死にゆく人の心の安寧と往生を心から願いました。
このようにまだ見ぬ死の向こう側へと移行する臨終の瞬間は、実はとても意味深く大切な時間なのです。
最後に私たちの浄土の御教えを今一度紐解いてみましょう。
ある経典は言います。私たちの生きる時代は、迷える衆生を正しく導いてくれる仏が不在の世界であると。それでは心にわき起こる煩悩や、生への執着の念を捨てきれない私たちは、一体何をよすがに歩んでいけばよいのでしょう。
“ここより西方十万億の仏土を超えた彼方には、阿弥陀という仏がおり現に今も説法されている。真の心をもってその仏国土への往生を願い、十遍のお念仏を申すならば、必ず迎えとってくださるだろう。これは他ならぬ仏の誓いなのであるから...”
ここには、死への恐怖を乗り越えて安楽なる世界へと私たちを導かんとしておられる仏の大慈悲が開示されています。
生きている間は決して越えることがなかった生と死の境を超え、新たな生命へとつながっていくこの人生でたった一度の大切な瞬間に、往生を確信する心で安らかに仏の来迎を待ち望むことができるよう、これからも日々平生のお念仏にご精進していきたいと改めて思う次第であります。
合 掌☸