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2022.06

 
幸せって何?
笠原 泰淳 記(令和4年6月)

「幸せ」という言葉の語源をご存知でしょうか。それは「し(仕)、合わせ」つまり「する、行動する」ことをともに「合わせる」というところから来ています。
 わたしたちの心がときめいて明るくなるのはどんな時でしょう。例えばある古い友人のことをぼんやり考えていたとします。街中で偶然その人と出会ったとしましょう。あなたは驚き、喜び、きっとその人に声をかけるでしょう。「久しぶり!どうしてた?今、ちょうどあなたのことを考えていたんだよ。」
 偶然そこに居合わせた—幸せを感じる瞬間ではないでしょうか。
 また、その人は学生時代の友人でしょうか。かつての仕事仲間、あるいは趣味の友達でしょうか。友情や恋愛感情も、あるとき何か—勉強や仕事、趣味などを共に行なっていたからこそ生まれて来たのではないでしょうか。
 ときどき、「友達がなかなかできません。どうやったら友達を作ることができますか」というようなご相談を受けます。私は友情というのは「あなたと私。さあ、今日から友達になりましょう」というようなものではないと思います。一対一で正面から向き合うというよりも、同じ方向を向いて何か(勉強、仕事や趣味)を共に行なうなかで、一緒にいて嬉しい気持ち—友情が生まれてくるのではないでしょうか。

[紫陽花のお供え]

 さて、あるとき電話でこのようなご質問を頂きました。
「仏教のお経には何が書いてあるのですか。」
 唐突に尋ねられたので、私は絶句してしまいました。
「ええと…お経にはいろいろな種類がありまして、それぞれ大事なことが書いてあって…ひとことでは言えません。ご自分でどれか読んでご覧になって、『ここのところはどういう意味?』と質問して頂ければお答えします。私に分かることでしたら…」
 このように正直に申しました。が、何かひっかかるところがありました。お経には何が書いてあるのか—ひと言で言えないものだろうか。一週間くらい経ったとき、ふと思い当たりました。
「そうだ。お経に書かれているのは幸せになる方法、本当の意味で幸せになる方法だ。仏教にはさまざまな教えがあるが、いずれも本当の幸せに至る方法が説かれている。」
 お釈迦さまがご存命の時代、仏弟子たちにとって幸せとは何だったでしょうか。お釈迦さまと共にいること。お釈迦さまのみ教えを仲間とともに聞くこと。そしてお釈迦さまのみ教えを仲間とともに実践することだったに違いありません。
 そしてお釈迦さまが言葉を尽くして説かれたのが、他でもない最高の幸せに至る道—生老病死を超えた真の幸せに至る道でした。
「すべてのものは生滅し変化している」、「『我』は存在しない」、「一切は空である」、「永遠の仏がいる」、「心がすべてを生み出す」、瞑想修行の手法、他者への奉仕—。これらの尊い教えは詮ずるところ、最高の幸せ(覚り、涅槃)に至るための道です。やがてお釈迦さまは入滅されますが、お釈迦さまが亡くなられたあともこれらの教えは永遠の灯火となって、私たち仏教者を導いています。

 8万4千といわれる多くの教えの中で、私たちが自分の死後、歩むべき道について積極的に示して下さっているのが、阿弥陀仏の浄土の教えです。
「念仏を称えよ。それによって死後、阿弥陀仏の西方極楽浄土に往き生まれ、最高の真理を覚りなさい。」
 私たち念仏者にとって、死はすべてを奪うものではありません。それは私たちが本当の豊かさ、真の幸せを知るための貴重な機会なのです。
 令和6年は、浄土宗開宗850年にあたります。キャッチコピーは、「お念仏からはじまる幸せ」。
 共にお念仏を称え(「し、合わせ」を感じ)、時期の早い遅いはありますが共に浄土に生まれ、彼の地で共に仏道を歩みましょう。そしてやがては、お釈迦さまがご覧になった覚りの世界を共に眺めることができるでしょう。

「浄土の再会、甚だ近きにあり。今の別れはしばらくの悲しみ、春の夜の夢のごとし。」
舎利弗よ、衆生(極楽のありさまについて聞く者)は、まさに願をおこしてかの国に生まれんと願うべし。
所以はいかに。
かくの如きもろもろの上善人とともに一処に会うこと得ればなり。ただし舎利弗よ、(念仏以外の)少なる善根・福徳の因縁をもってかの国に生るることを得べからず。(阿弥陀経)

 その「し、合わせ」のすべて、真の幸せに向かう第一歩は、今日のお念仏から始まるのです。
 さあご一緒に称えましょう。
 なむあみだぶつ🙏

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