2023.02
海外の方からご質問を頂きました。
「臨死体験についての文献を見ますと、社会的文化的な条件付けに関係なく、死に近づいた人々の体験に驚くべき類似性があることに気づくでしょう。これらの経験は、バルド・トゥ・ドル(『チベットの死者の書』)の教えなどに見られるような、中有 (バルド) に関する仏教の教えとほとんど共通するところがありません。臨死体験者の大部分は、例えば亡くなった親戚や家族との再会を報告しています。
これはお念仏の教えとどのように両立するのでしょうか? 先に亡くなった彼らが阿弥陀仏の名前を一度も口にしたことがなかったとして、(念仏者である)私が死んだ後、彼らと再会することができるのでしょうか。
一方で、臨死体験の記録の中には阿弥陀仏の存在を説明するのに最適な、愛や智慧、そして慈悲に満ちた『意識をもつ光明』についての記述を見いだすことができます。
これは本当に私を困惑させます。」
以下が私の答えです。
良いご質問です。私も臨死体験についての文献を読んだときに、あなたと同じことを考えました。これらの驚くべき体験記録は、肉体の死後も私たちの意識が続き、死者との再会や、智慧と慈悲に満ちた光明を見たり、平和な心を経験する場合があることを予感させます。
しかしよく考えてみると、いくつかの点に注意する必要があることに気づきます。
- 臨死体験は、死後の体験とイコールではない。しかも、報告されているのは一部であって、すべての臨死体験者が死者との再会や光明を経験できるとは限らない
- 臨死体験の中にも、光明ではなく恐ろしい体験をした報告例がある
- 臨死体験で光明や平和を体験したからといって、そのまま輪廻からの解脱ができるとは限らない。臨死体験で垣間見るのは六道説でいえば天界にあたる世界であって、輪廻転生の円環の内側の体験に過ぎないかもしれない
臨死体験は、死後の意識の継続を予感させる貴重な報告であり、たいへん興味深いものです。そこには浄土教の真実性を示す側面があります。しかしながら以上のように、臨死体験をただちに浄土往生の経験と結びつけて考えるべきでもないと思います。
したがって、たとえ生前にお念仏を称えなくても臨死体験のような経験ができるかもしれないという推測はできるものの、それはあくまで推測に過ぎません。一時的な経験に過ぎないかもしれないし、それがそのまま覚りにつながるという保証もありません。
死に臨んで確実に阿弥陀仏の浄土に生まれ彼の地で覚りを得るためには、本願に基づくお念仏の実践が欠かせない—わたしはそう思います。
古来の念仏者や浄土往生された方々も、これに同意して下さることでしょう。
南無阿弥陀仏🙏