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2023.05

 
「前世の因縁」?
笠原 泰淳 記(令和5年5月)

 先日、あるグループで出た話です。
「障がいのある方々と関わる仕事をしています。仏教には『前世に悪いことをしたので、その報いで今生で障がいをもって生まれたのだ』という考え方があると聞きました。私は信じておりませんが、どうなのでしょうか。」
 以前からこういう話を時々耳にします。そのたびになんとも言えない残念な気持ちになります。
 グループではこう申しました。
「仏教には『因・縁』という教えがあります。何事も原因があって結果が生ずる、というのが仏教の考え方で、『因・縁』という場合は『因』が直接の原因、『縁』が間接的な原因や条件です。例えば病気一つとっても、遺伝的な要因もあれば環境的な要因、また生活習慣などいろいろな条件が複雑に絡み合って今の症状が出ている、ということです。また今日のこのグループも、主催者やテーマ、パネラーの方々、いろいろな方がそれぞれの理由や都合で集まってみえて、かけがえのないこの場が成り立っている。このように考えますし、またそれが事実でしょう。従って、前世の何らかの悪しき行いが今生で障がいになって現れている、というのはあまりにもものごとを単純化しすぎた乱暴な説明であって、仏の教えにはかなっていないと思います。」

 またこのご質問には、「そもそも輪廻転生という考え方はどうなのか」という疑問も含まれていると思われます。
 私自身、前世の記憶がはっきりあるわけではありませんが、自分の人生を振り返ってみますとどうもすべてが今生だけのこととして起こっているようには思えないのです。同じ親のもとで生まれ育っても兄弟姉妹で大きく性格が違ったり、さまざまな人との出会いの不思議、仏教とのご縁など、それらは今生だけのできごとではなく、過去生から夢のようなものを引きずりながら今現在を生きているような気がしています。ですから「輪廻転生」という考え方には頷くところがあるのです。
 しかしこれは、各人が自分を省みてそれぞれに「そんなこともあるのかな」と思う程度にとどめておくべきであって、人さまの人生における切実な問題について「仏教では自業自得といいます。あなたの前世はこうだったから今こうなのですよ」と説明することには大いに抵抗を感じます。
 生きるということは単純なプロセスではありません。心と身体は、時々刻々と流れる複雑かつ重層的、相互関連的なプロセスです。それをたった一言で乱暴に決めつけてしまう。しかも単純な説明であるが故に、逆に説得力や影響力ををもつ—これは結果的に、大いに人を傷つけることになるのではないでしょうか。

 どうして私たちは、このような単純な説明を受け入れてしまうのでしょうか。

 私たちは誰しも、不思議に思う状況やまた受け入れ難い状況と出会うと、まずは「これはどういうことなんだ」と目を見張ります。しばらく時間が経つと私たちは、自分が納得する理由、スッキリする説明を求めはじめます。「〇〇先生はこう言っていた」「仏教ではこう考えるらしい」「科学的にはこうらしいよ」…。そして自分が納得できる説明を見つけると、今度は機会を見つけて他人にそれを話します—というより押しつけます。それを聞いた方がもし「なるほどそうか」とスッキリ納得すればそれはそれで良いのかも知れませんが、逆にモヤモヤしてしまうこともあるわけです。

 仏教はおよそ2500年前から大乗仏教が起こった2000年前(及びその少し後の時代まで)に説かれた教えがもとになっています。お釈迦さまのお言葉とされる教え自体は残っているものの、それがどういう状況の中にいる誰々に対して、どういう設定の中で説かれたのかということは十分に記録されていません。ですから、それらを引用して教えを伝える後代の仏教者(私どもを含めて)の責任がきわめて重大になります。その伝え方には聞き手を思いやる慈悲の心が感じられるか、また聞き手に洞察をもたらすような智慧が感じられるか。あるいはそれとは逆に、教えの伝え方に自己満足や聞き手に対する優越感、あるいは支配欲が反映されていないか。そこのところは十分に注意する必要があります。

 宗教に対して不信感を抱く人が増えているという話も耳にします。もしかすると宗教や教え自体に問題があるというよりも、その伝え方に問題があるのではないだろうか—冒頭の例のようなお話を聞くと、そのように思われるのです。☸

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