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2024.04

 
「私は知っている」?
笠原 泰淳 記(令和6年4月)

 宗教者や学者の方が一般の人々に語りかけるときは、たいてい次のような構図になります。
「私は知っている。あなた方は知らない。だから私がお教えしましょう。」
 仏教の場合でもほとんど例外はありません。私自身もこのようなウェブサイトを通じて浄土宗について発信する以上、この構図の中に含まれていることでしょう。「それは当たり前のことではないか」と思われるかもしれませんが、私はそうは思わないのです。
 ——なぜなら仏教は「無我」を説くからです。
「私は知っている。あなた方は知らない。」
 という態度で話される方の話を聞いてみると、そこに強い自我を感じることが多いのです。ことに仏教の理想は「覚り」ですから、「私は知っている。あなた方は知らない」ということは、「私は覚っている。最高の理想を達成している。だがあなたは覚っていない。私があなたを導いて、覚りに至る道筋を教えてあげよう」と言っていることを意味します。
 しかし本当に覚っているのであれば、それはその方の外見にも現れていることでしょう。ここで思い出されるのが、仏陀の最初期のお弟子の話です。

「ある朝、仏陀の若い弟子、アッサジというものが、ラージャガハの街に入って、托鉢をしていた。その態度がたいへん立派だったので、ひとりの修行者が、つよく心を動かされた。
『もし、この世の中に、ほんとうの聖者というものがあるのならば、この人はその弟子のひとりにちがいないだろう。ひとつ、師匠は誰だか、聞いてみよう。』
 だが、托鉢の作法というものがあって、托鉢しているあいだは、話をしてはならないことになっている。そこで、かの修行者は、彼が托鉢をおわるまで、静かにそのあとについて行った。
 やがて、彼が托鉢を終って、帰途につこうとすると、かの修行者は、彼を呼びとめて、会釈して、問うて言った。
『あなたは、たいへん態度がご立派で、顔色もかがやいている。あなたは、いったい、誰を師とする方か。何ぴとの教えをいただいているのか』…」
(『仏教百話』増谷文雄より)

 托鉢するお弟子でさえも、一見して分かるような輝きを放っておられた。この修行者はそこに強く惹きつけられました。「この人の師は、さらに素晴らしい聖者であられることだろう。」
 こうしてこの修行者は仏陀のもとに至り、その弟子となります。この修行者こそ、のちに仏陀第一の弟子といわれたサーリプッタ(舎利弗)でした。

 ここで申し述べたいことは、「私は知っている」という態度で話される方が、たとえ皆さんよりも仏教についての知識が多少あったとしても、慎重になって頂きたい、ということです。「一切は空である」「自他不二、煩悩即菩提、生死即涅槃こそ尊い境地である」…このように説かれたとしても、それが「私は知っている」vs「あなたは知らない」という構図の中で説かれるのであれば、そこで伝わるのは単なる辞書的な知識に過ぎません。感じられるのは語り手の尊大なエゴだけでしょう。
 本当に覚りを開かれた方であれば、「私は知っている。あなた方は知らない。だから私がお教えしましょう」という構図にはならないと思うのです。

 浄土宗を開かれた法然上人は、
「私のような無智の身は、ひとえにこの(お念仏によって必ず浄土往生がかなうという)教えを頼りとして常に念仏を称え続け、間違いない往生のために備えるのです」
 と言われます。いわばご自身を最低の場所に置き、「このような私でも浄土往生が叶うのであるから、あなたたちもこのお念仏で救って頂きなさい」というふうに教えられたのです。お分かりでしょうか。「私は知っている−あなた方は知らない」という前提に立った説き方とは正反対です。

 現代に生きる私たちは、法然上人が苦労の末に辿り着かれた「お念仏で救われる」という結論をある意味ですでに知ってしまっています。ですからそれを私がここで繰り返したところで、皆さんはあまり驚かれないかもしれません。しかしこの法然上人の説き方は、宗教としては誠に驚くべきことであって、大乗仏教の至高の開花であると申しても過言ではありません。
 ぜひともこの教えを、生き生きとした形で後の世に伝えてゆきたいものです。
 南無阿弥陀仏。🙏

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