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2024.06

 
ふだん考えていること
笠原 泰淳 記(令和6年6月)

 伝統仏教の寺院や僧侶は、地域コミュニティーの信仰の中心にある(いる)と同時に、コミュニティーの中の葬送を担ってきました。
 死は誰にとっても避け難いものです。そうと分かってはいるものの、ふだんの日常生活からはなるべく遠ざけておきたい…それは一般の人々にとってごくあたりまえの感覚でありましょう。その多くの人々のアンビバレントな(いわば宙ぶらりんの、また矛盾する)感覚の受け皿の役割を、地域の寺院や僧侶が担ってきたといえます。
 つまり寺院や僧侶の存在が、人々の死に対する矛盾する感覚を、「仏教」という大きな世界を通して受け止める、また家族と死別する悲嘆や人生の有限性に直面する苦しみをやわらげる、という意味をもってきたのです。実際のところ日本人の宗教性は、すでにこの世から旅立った人々に供養を捧げること通じて、「大いなる世界」とつながってきました。(その「大いなる世界」は、必ずしも明確なものではないかもしれませんが。)その宗教感覚を支える、また儀礼を通じてオーソライズして差し上げるのが寺院や僧侶の大切な役割だといえましょう。
 ですから、寺院が存在することには大きな意味があるのです。その住職が学問や修行に優れていようとそうでなかろうと、あるいは世襲であろうとなかろうと、また宗派さえも問わず、寺院の存在とそれを維持してゆくこと自体に大きな意義と(寺院の側の)責任があるといえましょう。

 かつては、このことが寺院と檀信徒の双方の立場から暗黙のうちに共有されてきました。しかし、社会の急激な変化とともに人々の信仰心にも変化が生じ、また海外の仏教事情が日本にも伝えられるようになり、(主として)私たち僧侶の側が自問するようになります。

  • 葬送を専門とすることは、釈尊の説かれた本来の仏教ではないのではなかろうか?
  • 僧侶はコミュニティーの葬送儀礼や先祖供養だけではなく、社会貢献活動を行うべきなのではないか?
  • 自分たちは時代の流れから取り残されているのではないだろうか。
 こうした中で、かつてはなかったような様々な思索や活動が僧侶の側から少しずつ生まれてきているのが今日の状況だと思われます。

 私自身は、特別な地域社会への奉仕活動は行なっておりませんが、それでもこのようなネット上の発信を含め、少しでも今日の皆さまのお役に立てるように努めております。
 ふだん、とりわけ重視しているのがお経の解説です。ご葬儀や法事をおつとめする際に、読経の合間にお経の解説をはさみ、参列している方々と理解や気持ちを共有しながら儀式を進めてゆく方法をとっております。僧侶が前の方で読経していて、ご参列の皆さんは後ろの方でただそれを30分間聞いているだけ、という形を脱したかったのです。

「浄土宗のおつとめは、はじめに『香偈(こうげ)』という、お香を焚きながら読むお経から始まります。お香のかおりで私たちの身体と心を清らかに鎮め、これから仏さまのご供養をおつとめいたします、というような意味のお経です。」
  (—読経—)
「続いて『三宝礼(さんぼうらい)』です。仏教で大切にしている三つの宝物がございまして…」
  (—読経—)

 といった具合です。
 別に講義の場ではありませんので、詳しい説明をすることはありませんしその時間もありません。読経全体のムードをこわさないように気をつけながら、少ない言葉で説明を入れています。おつとめには仏教の大切なエッセンスがちりばめられていますので、その中の幾分でも皆さんにお伝えできれば、と思っています。

 ご参列の皆さんに、先に述べた「大いなる世界」とのつながりを感じて頂けたら、そして亡き方のために「良いご供養をすることができた」と思って頂ければ、これほどありがたいことはありません。🙏

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