はじめに
まず、心よりお悔やみ申し上げます。多くの方に引導をお授けした経験から、また自分自身が家族を見送った経験から、身近な人を送ることがいかに大きな仕事であるかということはよくわかります。
最近身近な人を亡くされた方に、私からお伝えできることがあれば、と思い、このページを作りました。
● YouTubeにこのテーマの法話をアップしました。
『キサー・ゴータミーの物語をめぐって〜愛する人を亡くすということ〜』
●「コラム」のページに、配偶者を亡くされた方と方丈笠原との往復書簡が掲載されています。併せてお読み下さい。→コラム2009年10月「あるご相談より」
ご遺族にお伝えしたいこと
身近な人を亡くすということは、いわば、心に大けがをする、ということです
身体的なけがであれば、自分も他人もある程度認識を共有できます。「わたしはケガをしている。傷が痛い。」「あの人はケガをしている。気の毒だ。」というふうに。
しかし、心のけがは、それがどんなに深いものであっても、外から分かりにくいものです。ですから、他人の言葉に(ふだんだったら何とも思わないような言葉に)思いがけず傷つけられたりします。それが仮に厚意からの慰めの言葉であったとしても傷つくことはあるのです。
ですから、まず「自分は心に大けがをした」と自覚しておくことが大切です。
無理をしないこと
大きなケガをしているわけですから、無理は禁物です。安静第一、喪に服すということは、社会的な義務から解放されて心を休める、ということでもあります。葬儀や法事をなんとか終えなければならない…それもあるでしょう。会葬者への配慮もある程度必要かもしれません。しかし、他人に任せられることは他人に任せる、助けを借りるなどして、自分自身に無理がたまらないようにすることが第一です。
ふだんとは違う、特別な心理状態にあることを知りましょう
なんでもないとき、突然涙が出てくる。簡単なことが決断できない。ものごとの優先順位がさっぱり分からない。自分はどうかしてしまったのではないか、と思う。自分を責めてしまう。他人を責めてしまう。感情の起伏が激しくなった。将来がまっ暗で、不安と恐怖に押しつぶされそうだ。もう生きていてもしょうがない。まったくのひとりぼっちだ。眠れない、食欲がない。ぼんやりと考えごとばかりしている……
ふだんとは違う、これらの状態が起こってきます。決してあなただけに起きているわけではありません。これらは、大きな喪失を経験したときに起こる人間共通の心身の反応です。今は、そうしたことが起こってくる、特別な“時”なのです。そしてまた、このような状態は、逝かれた方への愛情が深かったというしるしでもあります。
ですから、身近な人が亡くなったとき、これらのことが起こるのはあたりまえなんだ、と知りましょう。そしてこれらの状態を自ら非難したりせずに、受け入れ、大事に見守りましょう。
人に甘えましょう
誰かにあなたの気持ちを聴いてもらうことが、助けになるかもしれません。「少しの間、自分の話を聴いて欲しい」「何にも言わなくていい、ただ聴いてくれるだけでいいから」というふうに。そのとき、必要ならば「何にも言わないで」と求めても構わないのではないでしょうか。そうすれば話を聴く側も楽ですし、へたな慰めにあなたが傷つくこともないでしょう。
あるいは、「黙って、しばらくの間一緒にいて欲しい。」または、「これこれの仕事をしなければならないのだけど、ちょっと手を貸して欲しい。」
または逆に、「自分にはあまり構わず、しばらくそっとしておいて欲しい」
人に甘えて、自分中心にさせてもらいましょう。甘えられる側も「頼りにしてもらえた」と嬉しい気持ちになってくれることもあるのです。
身近に適当な人がいなければ、カウンセリングを受ける、「いのちの電話」のような電話相談を利用する、というのもいいでしょう。もちろん、菩提寺の住職がこの役を引き受けて下さるなら、何よりです。
希望をもちましょう
大けがをした傷跡は、完全に消えることはないかもしれません。しかし、その痛みは時とともに確実に弱まります。そして悲しみが深いほど、その後のあなたの人生は豊かになる、と申し上げると、驚かれるかもしれません。
今はそこまで考えられないかもしれませんが、いつまでもこのままでいることはない、と信じましょう。いつかは必ずこの暗闇から抜け出せる、と…。
仏教では…
愛する人と別れるつらさを仏教では「愛別離苦(あい べつり く)」と呼んでいます。お母さんの姿を見失って泣き叫ぶ赤ちゃん、恋に破れた若者…すべての人がこの苦しみを経験します。中でも一番つらいのが、愛する人との死別でしょう。
仏教には死別についての教えがいくつかあります。よく知られているのがキサー・ゴータミーという女性の話です。
ある町に、キサー・ゴータミーと呼ばれる女性がいました。彼女は結婚してかわいい男の子を生んだのですが、まだ幼いときにその子が死んでしまったのです。彼女は動顛してしまい、冷たい骸(むくろ)を抱いて巷をさまよいます。「誰かこの子に薬を下さい」「この子の病を治して下さい」…ある人が見るに見かねて、彼女にお釈迦さまのところへ行くように勧めます。
お釈迦さまはこう言います。
「女よ、よく来ました。この子の病を治すには、ケシの実が必要です。町に出て、四、五粒もらって来なさい。ただし、そのケシの実は、まだ一度も死人を出したことがない家からもらって来なければなりません。」
ゴータミーは町に出て死人を出したことがない家を探しました。しかし、そのような家があるはずもなく、彼女は歩き回るうちにお釈迦さまの言葉の意味を悟ります。わが子の骸を墓地に葬った彼女に、お釈迦さまは尋ねました。
「ゴータミーよ。ケシの実は手に入りましたか。」
彼女は答えます。
「尊師よ、もうケシの実はいりません。死人を出したことがない家は一軒もありませんでした。どうか私に、道をお示し下さい。」 こうして彼女は仏弟子となりました…。
——いかがでしょうか。平静を失ったゴータミーに対して、お釈迦さまは、哲学的な答えを与えたのではありません。「諸行は無常である」「生まれたものは必ず滅する」と言葉で説いたところで、それが役に立たないことをお釈迦さまはご存知でした。ゴータミーはそれを、ケシの実を探して歩き回るうちに自ら悟ったのでした。いわばお釈迦さまは、彼女がそれを悟る状況を作ったのです。
そして、おそらく彼女を迎えた町の家々は、皆、彼女に同情したことでしょう。多くの人々からあたたかい心の支えを受けて、彼女の心がほぐれていったのだ、という解釈もできましょう。
最後にもうひとつ、「旅立つ側」からの思いを伝える美しい言葉があります。これはお釈迦さまご自身が亡くなられるとき、その場にいるお弟子たちに語られたものです。お釈迦さまのこの言葉をもってこのページの締めくくりとしたいと思います。
「(生活の心得、戒めなどを説かれた後、)弟子たちよ、わたしが死ぬからといって悲悩(ひのう)を抱いてはならない。たとえわたしが何百年生きたとしても、いずれは別れの時が来る。ずっと一緒にいるというのは、かなわないことなのだよ。かりにもっと長く生きたところで、益するところはない。なぜならわたしは、導くべきすべての人たちをすでに導いたし、まだ導いていない人たちにも、すでに悟りの種を植えたのだから。
わたしが今死んでゆくのは、悪病を取り除くようなもの―。この悪病の名は、『身体』という。生まれ、老い、病み、死んでゆく…この円環に巻き込まれている『身体』を取り除くのは、悪い賊を殺すようなもの…歓喜すべきことなのだ。
弟子たちよ、一心に修行に励みなさい。心の安定を求めなさい。世間の動きの中に安らかさを見いだすことはできない。
今、わたしは逝くであろう。これがわたしの最後の教えである。」