《亡き方と共に》
笠原 泰淳 記(令和6年10月)
私が仏門に入ってからかれこれ30年以上経ちます。これまで多くの縁ある方々をお見送りし、それぞれのご家族と共に追善のご供養をつとめて参りました。またこの間、私自身も師僧や親をはじめ、多くの近しい人、お世話になった方々を見送る経験を重ねました。
最近気づいたことですが、若い時分はともかくとして、年を取るにつれて私たちは亡くなられた方々と共に過ごす時間が増えてくるのではないでしょうか。
自分のことを愛称で呼んでくれていた人
自分のことを本気で心配してくれた人
自分の将来のことを期待の目で見てくれていた人
厳しい顔で自分を叱ってくれた人…
こうした方々の多くは、すでにあちら側の世界に旅立ってゆきました。また、少し上の兄姉世代の人たちや同世代の遊び仲間も少しずつ減ってゆきます。
子供時代の夢を見て今は亡き方に会うこともあれば、起きているときに今現在の悩み事を亡き方に相談することもあります。そこで明快な答えが返ってくるわけではありませんが、それでも一人だけで悩みごとを抱え込まなくて済むのです。
また私はお寺の過去帳や実家の過去帳とは別に、私個人の「マイ過去帳」を作っておりまして、そこにお世話になった方々や亡くなった友人の戒名や命日、年齢を記録しています。過去帳をお持ちの方はお分かりでしょうが、1ページ目は「一日」次は「二日」、「三日」…とつづいておりまして、一ヶ月で一巡するようにできています。
たとえば今日が10月1日だとします。「一日」のページを開きますと、1月1日や2月1日など、◯月1日に亡くなった方の戒名などが書いてある。それを読み上げてお念仏します。こうして一ヶ月経つと、記載してあるすべての方々を自然に想い出して手を合わせることができるわけです。
深い縁を頂いた方を思い浮かべながら手を合わせる、ということは、自分の人生の大切な部分を振り返るということでもあります。それがまた、今日一日を豊かに生きるよすがになると思っています。
「マイ過去帳」はともかくとして、亡き方と共に生きる、この時間を是非とも大切にして頂きたいと思います。☸